14
「おそい、おそい、おそーい!」
家に帰ると玄関に出迎えた美波が、開口一番不満を漏らした。
「遅いって、まだ三時じゃねえかよ」
橘美穂とは結局、一時間以上も話をしていた。さっきまで美波の同級生と会っていたと話したら、彼女はさぞやビックリするだろう。
「あー、海斗くんって釣った魚には餌をあげないタイプなんだー、やだやだ。これだから男ってやあねぇ」
まったく、どこでそんな言葉を覚えたのか。頬を膨らまして立腹する彼女を、しかし微笑ましく思っていると寝室に引っ込んでしまった。本当に怒らせてしまったかと猛省していると、十分程で美波は出てきた。いつも着ているオーバーオールではなく白と紫の浴衣姿だった。
「じゃーん、今日は花火大会ですから浴衣でーす」
その場でクルクルと回る彼女をみて、この世の中にはこんな天使のような女の子を暴行する人間がいるのかと、心底うんざりした。美波以外の人間など無価値、全て死んでも構わないと本気で思った。
「さらにー、海斗くんのもありまーす」
紙袋から男性用の紺の浴衣を取り出すと、俺の目の前に来て体にあてがった。「ピッタリだね」と言って見上げられると、たまらなく愛おしくなり、そのまま美波を抱きしめた。美波は意表をつかれて驚いたのか「ふっ」と短く息を吐いたが、拒絶する事も無かった。
「怖くないか?」
きっと暴行された事は死んでもトラウマになっているに違いない。彼女がいつもオーバーオールを着ているのは、無理やり脱がせるのが困難な服装を無意識に選んでいるのではないだろうか。
「うん、平気」
五分程そのままの体勢でいた、体を離してしまうと赤くなった目元の説明をしなくてはならない。美波の正体に気がついた事を告白するべきか、今はまだ判断できなかった。もし、もしも美波が俺と同じ気持ちでいてくれたなら、きっと知られたくない事実のはずだ。
「さっ、じゃあ行くか。花火大会」
頃合いを見計らって体を離した。
「あれ?」
美波が不思議そうな視線を向けてくる。
「どうした」
「チューしないの?」
ズッコケそうになったが、何とか俺は平静を装う。
「今のは完全にチューする流れだったでしょー」
手をバタバタさせながら講義する美波をみて、オーバーオールの件は考えすぎだったかも知れないと改めた。
「いや、まだチューは早いだろ。順序ってもんがあるんだから」
「結婚しようって言ったくせに、もう」
確かに。しかし、実を言えばキスなんて生まれてこの方した事がない俺は、どうすれば良いかのか分からなかった。先程のタイミングがそうだったのか。心の中で後悔するがもう遅い。もう一度、両手を広げて美波を抱きしめようとしたが、すでに彼女は玄関に向かってパタパタと歩いていた。よほど花火大会を楽しみにしていると見えるが、俺には空中で炸裂する爆弾を見て、何が面白いのか理解に苦しんだ。
神宮外苑の花火大会は、ヤクルトスワローズの本拠地である神宮球場で毎年行われている。どうせならプロ野球を観ながら生ビールでも飲む方が俺は良かったが、出店の焼きそばやりんご飴を大量に購入し、至福の表情を浮かべる美波を見ていたら、それだけで俺も幸せな気持ちになる。
「そんなに食えるのかよ?」
「余裕!」
花火が始まるまで時間はたっぷりあるにも関わらず、会場周辺は人でごった返していた。皆一様に浴衣や甚兵衛を着ている。出掛けにサングラスを掛けた俺は美波に叱られた。そんなコーディネートが許されるのは、タモさんと井上陽水だけだ、と。鈴木雅之はダメなのかと聞き返したが、雅之は浴衣なんて着ないと断言された。それもそうかと納得してしまう自分に驚いた。どんな話題でも相手を徹底的に論破しないと気が済まない、かつての俺はもういない。
「ちょっとお花を摘みに行って参りますわ」
「は?」
美波は「ほほほほ」と、右手の甲を左頬に当てながら雑踏の中に消えていった。時々意味の分からない事を言う奴だ。しかし、何の事か気になる俺はスマートフォンを取り出して、検索の画面を呼び出した。
「あれ? 海斗じゃん」
雑音の中から自分の名を呼ぶ声が聞こえて顔を上げると、日焼けした肌にショートカットよりも更に短い黒髪の女が、アイスキャンディーを片手に立っていた。ティーシャツに破れたジーンズ、サンダル履き。近所にタバコを買いにきた兄ちゃんのような風体だ。
「げ!」
高梨志乃、小中学校の同級生。コイツがいるって事は。俺はその場で後退りした。
「なーにが、げっ! だよ、久しぶりなのに相変わらず失礼な男だな」
「何で、お前が?」
「私だって、たまには花火を観て心を癒しても良いだろ。それとも何か? 花火大会には浴衣の似合う可憐な少女しか参加が許されないのか」
めぐみの親友である高梨志乃が俺は苦手だった。決して社交的とは言えない、それどころか周りを拒絶するオーラを放つこの俺に、ズケズケと意見してくる変人。もちろんそれは、幼馴染であるめぐみの親友である事が影響しているのだろうが、それにしても歯に絹着せぬ物言いと、人を見透かしたような態度は中学生だった俺を辟易させた。
「めぐもいるよ、トイレ行ってる」
俺がいつ、めぐみがいるか聞いたのだ。高梨志乃はニタニタと薄ら笑いを浮かべて俺に報告した。
「あんた一人? な、わけないか。まさかこれ?」
小指を立てて俺の眼前に突き出す。今日日、中年親父でもしないようなハンドサインだ。俺は黙り、頷きもしなかった。
「あんた達も面倒な関係よねぇ。さっさと付き合っちゃえば良いのにさ、まあ、遠回りしたから見える景色もあるのかもね、どーせめぐより良い女なんて……」
高梨志乃は言い終える直前で口をパクパクして、目を見開いた。視線が俺の隣に移り、幽霊でも見つけたように驚いている。
「海斗くん。トイレが行列に。美波だめかも、ここまでかも、後生かも……」
美波が青い顔をしながら俺の袖を引いていた。何やら今際の際のようなセリフを吐いているが、トイレに行きたいだけのようだ。
「仕方ないだろ、これだけ人がいたら並ぶしかない」
我ながらにべも無い言葉を返すと、美波は「もうあかん」となぜか関西弁で応じた。
「ちょっと大丈夫かお嬢ちゃん? トイレなら仮設トイレより店のやつシレッと借りちゃった方が早いから、ついて来な」
言うや否や、高梨志乃は美波の腕を引いて歩き出した。「かたじけない」と美波が礼を言っている。何やら妙な事になってきたと俺は天を仰いだ。そして入れ替わるようにめぐみがやって来て破顔した。
「え、海斗? なんでなんで?」
俺が聞きたい。
「高梨ならトイレに行ったぞ」
「え、志乃に会ったの?」
質問の多い奴だ。
「ああ」
めぐみは淡いピンクの浴衣を着て、薄茶色の髪をアップにしていた。一際目立つ外見なので、やたらと若い男がチラ見していく。本人は慣れたものでまるで気にしていないが、カップルの男は連れの女に引っ叩かれたり、つねられたりしていた。
「海斗は一人で来たの?」
そんな訳あるか。と、心の中でツッコミながら「いや」と首を振る。すると分かりやすく表情が曇った。久しぶりのやり取りに、懐かしさよりも戸惑いの方が勝る。
「そっか……。彼女?」
頷いたら泣き出してしまうのではないか。しかし、嘘をつくわけにもいかない。小さな頃から一途に俺を好きだと言い続けてきためぐみを、俺だって傷付けたくはない。だからこそ連絡先もデタラメを教えたのに、まさかこんな場所で会ってしまうとは。
「そうだよね、彼女くらい……いるよね」
俺が答える前にめぐみは結論を出して、肩を小刻みに震わせた。こうなってしまうとあの女しか頼れない。助け舟が来るのを待つこと十分、高梨志乃が美波を連れて戻ってきた。
「めぐ、ごめんねー。待った?」
お祭り気分の花火大会会場にあって、俺の周辺は通夜の席よろしく負の空気が立ち込めていた。ここだけ重力が五倍くらい重い気がする。
「大丈夫だよ、あれ? その子は……」
「ウッス! 自分は志乃さんの舎弟っす! 星野美波いいます!」
おいおい、出した代わりに変なもの食わせてないだろうな。訝しむ俺とは対照的に、めぐみは目を見開いて美波を直視していた。
「美波……ちゃん? 本当に?」
「うっす」
「あ、ごめんなさい。こんにちは、天野めぐみです」
「ふえー。すごい美人っすな」
「ありがとう、でも美波ちゃんの方が可愛いよ、あ、もしかして海斗の……彼女さん?」
「ウッス、先日からお付き合いさせてもろてます」
「そっか……」
「美少女が二人も揃うと壮観ね」
それは適切な表現じゃないだろうと、高梨志乃に向かって念じたが、話題を素早く変えるあたりは流石だ。めぐみとの付き合いは俺よりも長い保育園から。伊達じゃない。
「ねえ、せっかくなら四人で観ない?」
せっかくのナイスプレーをチャラにするような発言をする高梨志乃を睨み付けたが、誰も俺の事は気にしていない。
「いっすな! 大勢で見た方が楽しいっすな」
あと、何なんだよそのキャラは。ソフト部専用の敬語なのか? だとしたら即刻改めるように田淵に進言しに行くぞ。
「だめだ、だめだ! 俺たちはあらかじめ指定席のチケットをだな」
美波が用意していたんだから。と、言おうとしたら。たまたま通りかかったカップルに美波はそのチケットを「アゲルっす」と言い手渡した。大学生らしきカップルは大いに喜んでいたが、俺は空いた口が塞がらなかった。
二万円もした指定席のチケットを他人に譲り、俺たちはスタジアムから離れた公園で観覧する事になった。公園と言っても、この日ばかりは所狭しと屋台が出店し、ブルーシートを広げた花火客が公園の九割を占領している。打ち上げ一時間前に到着した俺たちに、腰を落ち着けるスペースなど残っているはずも無く途方に暮れていると、一際広大なスペースを陣取り、生ビールのサーバーまで持ち込んでいる強者の集団の一人に声をかけられた。
「お嬢ちゃんたち場所取りしてないなら、おいで」
めぐみ達が声を掛けられた。ルックスだけならば雑誌から飛び出してきたような三人だ。それも三者三様、タイプの違う美形。そりゃあ、お声も掛かろうものだ。
「いいんですかぁ〜」
高梨志乃が甘ったるい声を出して、しなを作る。
「どうもありがとうございます」
それに続くめぐみ。
「ありあーっす! 失礼しゃーっす!」
……。
「おっと、男はダメだ! なんてな」
鼻の頭を赤くした親父が俺に言った。別にダメならダメで構わない。俺はこの手の集団が最も嫌いだ。祭りなどの行事に命をかけ、これ見よがしに周囲にアピールする。わざわざビールサーバーやコンロを用意して、外でする必要のない料理を作る。周りに羨ましいと思われていると勘違いして悦に浸っている馬鹿。本音はみんな暇人としか思っていない事に、おそらく彼らは永遠に気が付かないのだろう。哀れなり。
「ほら、飲んだ飲んだ」
俺たちが未成年だと知ってか知らずか、親父たちはビールを勧めてきた。これに関してはありがたい。乾いた喉に流し込んだ。
「お、兄さん。良い飲みっぷりだな」
キンキンに冷えてやがる。俺は漫画の名シーンを心の中で独りごちた。さすが、これだけに人生を賭けているだけある。
「こっちの美人さんも気持ちが良いねぇ」
ふと見ると、めぐみがジョッキを一気に煽っていて、その横では高梨志乃が日本酒を手酌していた。
「おう、美波もやれ」
「オッス!」
「おい、お前、酒なんて飲めるの――」
コップに継がれた日本酒を美波は全て飲み干した。まあコイツは生きていれば二十四歳だから法律的には問題ない。
「志乃さん、うまいっすな、これ!」
トイレを案内されただけで、完璧な主従関係が出来上がっていた。そして三人は親父たちも呆れるほどの酒豪だった。花火大会そっちのけで酒を煽ってガールズトーク? に花を咲かせている。やがて話の矛先が、静かに花火大会を観ていた俺に向けられた。
「ほら、コイツ、イケメンじゃん」
誰がコイツだ――。
「小学生の頃から女子に人気あったわけよ。私はまったくタイプじゃなかったけどさ。バレンタインとかもチョコだらけ、みたいな?」
まあな――。
「さすが、海斗くんっすな」
「でも、中学生になっても、だーれとも付き合えない」
ほっとけ――。
「どうしてっすな?」
「こいつキャッチャーだったんだけどさ、知ってるか? キャッチャー、野球の」
誰が誰に聞いてんだ――。
「知ってるっす! 自分もソフトボールでキャッチャーやってたっすな」
「おお、そうか。話がはええや。でさ、コイツ野球漫画に影響受けて、小六あたりから急に太り出したんだよ。ほら、野球漫画のキャッチャーと言えばデブだろ?」
デブだろ――。
「王道っすな」
「努力の甲斐あって、中学上がる頃には丸々と太ったキャッチャーが爆誕したわけだ。阿鼻叫喚だったね、海斗のファンは」
忘れもしねえよ、なぜかゴミ投げられたよ――。
「太った海斗くんも、きっと素敵っすな」
「お、お前、めぐと同じ事を言ってらあ。でもな、世論はそうならない訳だ。今までモテモテで、チヤホヤされていた佐藤少年は、嘲笑の対象になりクラスで揶揄われた。まあ、もともとコイツはあまり他人と馴れ合わないタイプだから、対して気にもしてなかったんだよ」
してたよ――。
「さすがっすな」
「でもな、中三辺りから急激に背が伸びて痩せちまった。細身の体を無理やり太らせてたからな。まあ、元に戻った訳だ」
戻したんだよ――。
「イケメン、カムバックっすな」
「そしたら、女どもが騒ぐ騒ぐ。同小の奴らなんて知ってた筈なのにな。あっという間にファンクラブまで出来て大変な騒ぎよ」
まあ、そうだったな――。
「ヒーロー誕生っすな」
「と、こ、ろ、が! ところがだ。佐藤少年は気に入らなかったんだなぁ。見た目だけで評価をコロコロ変える奴らにうんざりした」
そりゃそーだろ。ツバ吐き掛けてきたやつが、告白してくるんだぞ。人間不信になるわ!
「複雑っすな」
「まあ、ガキなんだよ。そっからは誰とも口を聞かなくなっちまった。拗ねてやんの」
言い方――。
「お二人ともっすな?」
「バッカ、ウチらは海斗を見た目なんかで判断してねえ、つーか海斗の見た目なんてどうでも良いからな、それをコイツも分かってたんだろ」
言い方――。
「さすがっすな」
「もっとも、めぐは太ってる方が可愛くて好き、なんて言ってたけどな」
ごめん――。
「ちょっと志乃!」
「もしかして、めぐぱいせんは?」
パイセン?
「いいの、こんな素敵な彼女がいるって知れて安心した。美波ちゃんすっごい可愛いし、良い子」
「めぐパイセン……」
帰っていいか?
俺は尿意を催して席を立った。公園には仮設トイレが増設されているがどれも行列を成していて、辟易しながらも列の最後尾に並んだ。
「聞いたか? 小林の話」
「うぉっ!」
耳元で呟かれて吐息がかかる。振り返ると高梨志乃の顔がすぐ目の前にあった。
「ちけーよ!」
「気にするな、で、どうなんだ?」
小林、小林、最近どこかで耳にしたような。
「あ、自殺したやつか?」
「そうだ」
遠い記憶の彼方にいる、同級生の顔までは思い出せない。
「確か、虐めた奴の名前をメモしてたんだっけか?」
「名前だけじゃない、やられたら日付から、何をされたかまで、克明に記されていたみたいだ」
「ふーん」
「ふーんて、随分楽観的だが海斗は誰にこの話を聞いたんだ?」
「めぐみだよ」
高梨志乃は顔を歪めながら舌打ちした。俺はその意味を図りかねて首を傾げる。
「あいつ、本当にお前に遠慮があるな」
「どーいう意味だよ?」
「そのブラックリストには同中、つまり岸谷軍団の名前が主に並んでいたらしいが、その中に海斗、お前の名もあったらしい」
「はぁ?」
「海斗が小林を虐めていたとは俄かに信じられんが、何しろ詳細に書かれた記録だ、信憑性は高いとみて警察も動いている、岸谷たちはすでに事情聴取されたようだがお前の所には……。まだのようだな」
尿意が引っ込み肩が震えた。俺が虐めだと?
学校内でありもしないヒエラルキーを勝手に作ってはグループ分けをする勘違い野郎たち。一軍、二軍、三軍。上位グループは下位を馬鹿にし、見下し。ストレス発散の捌け口にする。陰口、暴力、恐喝。子供ながらに犯罪まがいの行為で弱者を追込み、時には不登校に、更には自殺に追い込む。自己主張が強く強欲な人間ほど上位に組み込まれるので偏差値の低い不良でも平気で一軍になれる。誰にも咎められずに好き放題やってきたこの馬鹿どもは大人になっても自制が利かずに、ちょっとした事でキレて思い通りにならないと暴れる。犯罪にもすぐ手を染める社会のゴミだ。俺の両親を殺した野村も、美波を自殺に追い込んだ浅間もこのタイプの人間に違いないだろう。
――そいつらと俺が同じ?
全身の血液が逆流し頭がカッと熱くなった。呼吸が荒くなり目の前が霞む。
「海斗、空いたぞ。トイレ」
高梨志乃に肩を叩かれて我にかえる。
「ん、ああ」
「気にするなよ、どーせ逆恨みか何かだろ」
背中で受け止めた声に俺は右手を軽く上げて答え、簡易トイレの扉を開けた。高梨志乃の言う通りだ。小林なんて男はめぐみに言われるまで忘れていたし、中学校の頃の俺はどちらかと言えば虐められる側だった筈だ。何かの間違いに決まっている。
そうだ、バカバカしい。俺が両親や美波の仇と同じ人種の訳がない。安心すると、滝のように放出される尿と共に胸に渦巻いていた嫌悪感も一緒に流れていった。
その後、三人はしっかり連絡先を交換した。まったく花火を観ていなかったが、結果的には美波は楽しそうだったし、めぐみとはケジメが付いた。高梨志乃はどーでも良いが、いくら酔っても事故の話に触れないのは、アイツなりの優しさなのだろう。そして、たまには古い友人たちと一緒に過ごすのも悪くない。そんな風に思える夜だった。
家に帰ると玄関に出迎えた美波が、開口一番不満を漏らした。
「遅いって、まだ三時じゃねえかよ」
橘美穂とは結局、一時間以上も話をしていた。さっきまで美波の同級生と会っていたと話したら、彼女はさぞやビックリするだろう。
「あー、海斗くんって釣った魚には餌をあげないタイプなんだー、やだやだ。これだから男ってやあねぇ」
まったく、どこでそんな言葉を覚えたのか。頬を膨らまして立腹する彼女を、しかし微笑ましく思っていると寝室に引っ込んでしまった。本当に怒らせてしまったかと猛省していると、十分程で美波は出てきた。いつも着ているオーバーオールではなく白と紫の浴衣姿だった。
「じゃーん、今日は花火大会ですから浴衣でーす」
その場でクルクルと回る彼女をみて、この世の中にはこんな天使のような女の子を暴行する人間がいるのかと、心底うんざりした。美波以外の人間など無価値、全て死んでも構わないと本気で思った。
「さらにー、海斗くんのもありまーす」
紙袋から男性用の紺の浴衣を取り出すと、俺の目の前に来て体にあてがった。「ピッタリだね」と言って見上げられると、たまらなく愛おしくなり、そのまま美波を抱きしめた。美波は意表をつかれて驚いたのか「ふっ」と短く息を吐いたが、拒絶する事も無かった。
「怖くないか?」
きっと暴行された事は死んでもトラウマになっているに違いない。彼女がいつもオーバーオールを着ているのは、無理やり脱がせるのが困難な服装を無意識に選んでいるのではないだろうか。
「うん、平気」
五分程そのままの体勢でいた、体を離してしまうと赤くなった目元の説明をしなくてはならない。美波の正体に気がついた事を告白するべきか、今はまだ判断できなかった。もし、もしも美波が俺と同じ気持ちでいてくれたなら、きっと知られたくない事実のはずだ。
「さっ、じゃあ行くか。花火大会」
頃合いを見計らって体を離した。
「あれ?」
美波が不思議そうな視線を向けてくる。
「どうした」
「チューしないの?」
ズッコケそうになったが、何とか俺は平静を装う。
「今のは完全にチューする流れだったでしょー」
手をバタバタさせながら講義する美波をみて、オーバーオールの件は考えすぎだったかも知れないと改めた。
「いや、まだチューは早いだろ。順序ってもんがあるんだから」
「結婚しようって言ったくせに、もう」
確かに。しかし、実を言えばキスなんて生まれてこの方した事がない俺は、どうすれば良いかのか分からなかった。先程のタイミングがそうだったのか。心の中で後悔するがもう遅い。もう一度、両手を広げて美波を抱きしめようとしたが、すでに彼女は玄関に向かってパタパタと歩いていた。よほど花火大会を楽しみにしていると見えるが、俺には空中で炸裂する爆弾を見て、何が面白いのか理解に苦しんだ。
神宮外苑の花火大会は、ヤクルトスワローズの本拠地である神宮球場で毎年行われている。どうせならプロ野球を観ながら生ビールでも飲む方が俺は良かったが、出店の焼きそばやりんご飴を大量に購入し、至福の表情を浮かべる美波を見ていたら、それだけで俺も幸せな気持ちになる。
「そんなに食えるのかよ?」
「余裕!」
花火が始まるまで時間はたっぷりあるにも関わらず、会場周辺は人でごった返していた。皆一様に浴衣や甚兵衛を着ている。出掛けにサングラスを掛けた俺は美波に叱られた。そんなコーディネートが許されるのは、タモさんと井上陽水だけだ、と。鈴木雅之はダメなのかと聞き返したが、雅之は浴衣なんて着ないと断言された。それもそうかと納得してしまう自分に驚いた。どんな話題でも相手を徹底的に論破しないと気が済まない、かつての俺はもういない。
「ちょっとお花を摘みに行って参りますわ」
「は?」
美波は「ほほほほ」と、右手の甲を左頬に当てながら雑踏の中に消えていった。時々意味の分からない事を言う奴だ。しかし、何の事か気になる俺はスマートフォンを取り出して、検索の画面を呼び出した。
「あれ? 海斗じゃん」
雑音の中から自分の名を呼ぶ声が聞こえて顔を上げると、日焼けした肌にショートカットよりも更に短い黒髪の女が、アイスキャンディーを片手に立っていた。ティーシャツに破れたジーンズ、サンダル履き。近所にタバコを買いにきた兄ちゃんのような風体だ。
「げ!」
高梨志乃、小中学校の同級生。コイツがいるって事は。俺はその場で後退りした。
「なーにが、げっ! だよ、久しぶりなのに相変わらず失礼な男だな」
「何で、お前が?」
「私だって、たまには花火を観て心を癒しても良いだろ。それとも何か? 花火大会には浴衣の似合う可憐な少女しか参加が許されないのか」
めぐみの親友である高梨志乃が俺は苦手だった。決して社交的とは言えない、それどころか周りを拒絶するオーラを放つこの俺に、ズケズケと意見してくる変人。もちろんそれは、幼馴染であるめぐみの親友である事が影響しているのだろうが、それにしても歯に絹着せぬ物言いと、人を見透かしたような態度は中学生だった俺を辟易させた。
「めぐもいるよ、トイレ行ってる」
俺がいつ、めぐみがいるか聞いたのだ。高梨志乃はニタニタと薄ら笑いを浮かべて俺に報告した。
「あんた一人? な、わけないか。まさかこれ?」
小指を立てて俺の眼前に突き出す。今日日、中年親父でもしないようなハンドサインだ。俺は黙り、頷きもしなかった。
「あんた達も面倒な関係よねぇ。さっさと付き合っちゃえば良いのにさ、まあ、遠回りしたから見える景色もあるのかもね、どーせめぐより良い女なんて……」
高梨志乃は言い終える直前で口をパクパクして、目を見開いた。視線が俺の隣に移り、幽霊でも見つけたように驚いている。
「海斗くん。トイレが行列に。美波だめかも、ここまでかも、後生かも……」
美波が青い顔をしながら俺の袖を引いていた。何やら今際の際のようなセリフを吐いているが、トイレに行きたいだけのようだ。
「仕方ないだろ、これだけ人がいたら並ぶしかない」
我ながらにべも無い言葉を返すと、美波は「もうあかん」となぜか関西弁で応じた。
「ちょっと大丈夫かお嬢ちゃん? トイレなら仮設トイレより店のやつシレッと借りちゃった方が早いから、ついて来な」
言うや否や、高梨志乃は美波の腕を引いて歩き出した。「かたじけない」と美波が礼を言っている。何やら妙な事になってきたと俺は天を仰いだ。そして入れ替わるようにめぐみがやって来て破顔した。
「え、海斗? なんでなんで?」
俺が聞きたい。
「高梨ならトイレに行ったぞ」
「え、志乃に会ったの?」
質問の多い奴だ。
「ああ」
めぐみは淡いピンクの浴衣を着て、薄茶色の髪をアップにしていた。一際目立つ外見なので、やたらと若い男がチラ見していく。本人は慣れたものでまるで気にしていないが、カップルの男は連れの女に引っ叩かれたり、つねられたりしていた。
「海斗は一人で来たの?」
そんな訳あるか。と、心の中でツッコミながら「いや」と首を振る。すると分かりやすく表情が曇った。久しぶりのやり取りに、懐かしさよりも戸惑いの方が勝る。
「そっか……。彼女?」
頷いたら泣き出してしまうのではないか。しかし、嘘をつくわけにもいかない。小さな頃から一途に俺を好きだと言い続けてきためぐみを、俺だって傷付けたくはない。だからこそ連絡先もデタラメを教えたのに、まさかこんな場所で会ってしまうとは。
「そうだよね、彼女くらい……いるよね」
俺が答える前にめぐみは結論を出して、肩を小刻みに震わせた。こうなってしまうとあの女しか頼れない。助け舟が来るのを待つこと十分、高梨志乃が美波を連れて戻ってきた。
「めぐ、ごめんねー。待った?」
お祭り気分の花火大会会場にあって、俺の周辺は通夜の席よろしく負の空気が立ち込めていた。ここだけ重力が五倍くらい重い気がする。
「大丈夫だよ、あれ? その子は……」
「ウッス! 自分は志乃さんの舎弟っす! 星野美波いいます!」
おいおい、出した代わりに変なもの食わせてないだろうな。訝しむ俺とは対照的に、めぐみは目を見開いて美波を直視していた。
「美波……ちゃん? 本当に?」
「うっす」
「あ、ごめんなさい。こんにちは、天野めぐみです」
「ふえー。すごい美人っすな」
「ありがとう、でも美波ちゃんの方が可愛いよ、あ、もしかして海斗の……彼女さん?」
「ウッス、先日からお付き合いさせてもろてます」
「そっか……」
「美少女が二人も揃うと壮観ね」
それは適切な表現じゃないだろうと、高梨志乃に向かって念じたが、話題を素早く変えるあたりは流石だ。めぐみとの付き合いは俺よりも長い保育園から。伊達じゃない。
「ねえ、せっかくなら四人で観ない?」
せっかくのナイスプレーをチャラにするような発言をする高梨志乃を睨み付けたが、誰も俺の事は気にしていない。
「いっすな! 大勢で見た方が楽しいっすな」
あと、何なんだよそのキャラは。ソフト部専用の敬語なのか? だとしたら即刻改めるように田淵に進言しに行くぞ。
「だめだ、だめだ! 俺たちはあらかじめ指定席のチケットをだな」
美波が用意していたんだから。と、言おうとしたら。たまたま通りかかったカップルに美波はそのチケットを「アゲルっす」と言い手渡した。大学生らしきカップルは大いに喜んでいたが、俺は空いた口が塞がらなかった。
二万円もした指定席のチケットを他人に譲り、俺たちはスタジアムから離れた公園で観覧する事になった。公園と言っても、この日ばかりは所狭しと屋台が出店し、ブルーシートを広げた花火客が公園の九割を占領している。打ち上げ一時間前に到着した俺たちに、腰を落ち着けるスペースなど残っているはずも無く途方に暮れていると、一際広大なスペースを陣取り、生ビールのサーバーまで持ち込んでいる強者の集団の一人に声をかけられた。
「お嬢ちゃんたち場所取りしてないなら、おいで」
めぐみ達が声を掛けられた。ルックスだけならば雑誌から飛び出してきたような三人だ。それも三者三様、タイプの違う美形。そりゃあ、お声も掛かろうものだ。
「いいんですかぁ〜」
高梨志乃が甘ったるい声を出して、しなを作る。
「どうもありがとうございます」
それに続くめぐみ。
「ありあーっす! 失礼しゃーっす!」
……。
「おっと、男はダメだ! なんてな」
鼻の頭を赤くした親父が俺に言った。別にダメならダメで構わない。俺はこの手の集団が最も嫌いだ。祭りなどの行事に命をかけ、これ見よがしに周囲にアピールする。わざわざビールサーバーやコンロを用意して、外でする必要のない料理を作る。周りに羨ましいと思われていると勘違いして悦に浸っている馬鹿。本音はみんな暇人としか思っていない事に、おそらく彼らは永遠に気が付かないのだろう。哀れなり。
「ほら、飲んだ飲んだ」
俺たちが未成年だと知ってか知らずか、親父たちはビールを勧めてきた。これに関してはありがたい。乾いた喉に流し込んだ。
「お、兄さん。良い飲みっぷりだな」
キンキンに冷えてやがる。俺は漫画の名シーンを心の中で独りごちた。さすが、これだけに人生を賭けているだけある。
「こっちの美人さんも気持ちが良いねぇ」
ふと見ると、めぐみがジョッキを一気に煽っていて、その横では高梨志乃が日本酒を手酌していた。
「おう、美波もやれ」
「オッス!」
「おい、お前、酒なんて飲めるの――」
コップに継がれた日本酒を美波は全て飲み干した。まあコイツは生きていれば二十四歳だから法律的には問題ない。
「志乃さん、うまいっすな、これ!」
トイレを案内されただけで、完璧な主従関係が出来上がっていた。そして三人は親父たちも呆れるほどの酒豪だった。花火大会そっちのけで酒を煽ってガールズトーク? に花を咲かせている。やがて話の矛先が、静かに花火大会を観ていた俺に向けられた。
「ほら、コイツ、イケメンじゃん」
誰がコイツだ――。
「小学生の頃から女子に人気あったわけよ。私はまったくタイプじゃなかったけどさ。バレンタインとかもチョコだらけ、みたいな?」
まあな――。
「さすが、海斗くんっすな」
「でも、中学生になっても、だーれとも付き合えない」
ほっとけ――。
「どうしてっすな?」
「こいつキャッチャーだったんだけどさ、知ってるか? キャッチャー、野球の」
誰が誰に聞いてんだ――。
「知ってるっす! 自分もソフトボールでキャッチャーやってたっすな」
「おお、そうか。話がはええや。でさ、コイツ野球漫画に影響受けて、小六あたりから急に太り出したんだよ。ほら、野球漫画のキャッチャーと言えばデブだろ?」
デブだろ――。
「王道っすな」
「努力の甲斐あって、中学上がる頃には丸々と太ったキャッチャーが爆誕したわけだ。阿鼻叫喚だったね、海斗のファンは」
忘れもしねえよ、なぜかゴミ投げられたよ――。
「太った海斗くんも、きっと素敵っすな」
「お、お前、めぐと同じ事を言ってらあ。でもな、世論はそうならない訳だ。今までモテモテで、チヤホヤされていた佐藤少年は、嘲笑の対象になりクラスで揶揄われた。まあ、もともとコイツはあまり他人と馴れ合わないタイプだから、対して気にもしてなかったんだよ」
してたよ――。
「さすがっすな」
「でもな、中三辺りから急激に背が伸びて痩せちまった。細身の体を無理やり太らせてたからな。まあ、元に戻った訳だ」
戻したんだよ――。
「イケメン、カムバックっすな」
「そしたら、女どもが騒ぐ騒ぐ。同小の奴らなんて知ってた筈なのにな。あっという間にファンクラブまで出来て大変な騒ぎよ」
まあ、そうだったな――。
「ヒーロー誕生っすな」
「と、こ、ろ、が! ところがだ。佐藤少年は気に入らなかったんだなぁ。見た目だけで評価をコロコロ変える奴らにうんざりした」
そりゃそーだろ。ツバ吐き掛けてきたやつが、告白してくるんだぞ。人間不信になるわ!
「複雑っすな」
「まあ、ガキなんだよ。そっからは誰とも口を聞かなくなっちまった。拗ねてやんの」
言い方――。
「お二人ともっすな?」
「バッカ、ウチらは海斗を見た目なんかで判断してねえ、つーか海斗の見た目なんてどうでも良いからな、それをコイツも分かってたんだろ」
言い方――。
「さすがっすな」
「もっとも、めぐは太ってる方が可愛くて好き、なんて言ってたけどな」
ごめん――。
「ちょっと志乃!」
「もしかして、めぐぱいせんは?」
パイセン?
「いいの、こんな素敵な彼女がいるって知れて安心した。美波ちゃんすっごい可愛いし、良い子」
「めぐパイセン……」
帰っていいか?
俺は尿意を催して席を立った。公園には仮設トイレが増設されているがどれも行列を成していて、辟易しながらも列の最後尾に並んだ。
「聞いたか? 小林の話」
「うぉっ!」
耳元で呟かれて吐息がかかる。振り返ると高梨志乃の顔がすぐ目の前にあった。
「ちけーよ!」
「気にするな、で、どうなんだ?」
小林、小林、最近どこかで耳にしたような。
「あ、自殺したやつか?」
「そうだ」
遠い記憶の彼方にいる、同級生の顔までは思い出せない。
「確か、虐めた奴の名前をメモしてたんだっけか?」
「名前だけじゃない、やられたら日付から、何をされたかまで、克明に記されていたみたいだ」
「ふーん」
「ふーんて、随分楽観的だが海斗は誰にこの話を聞いたんだ?」
「めぐみだよ」
高梨志乃は顔を歪めながら舌打ちした。俺はその意味を図りかねて首を傾げる。
「あいつ、本当にお前に遠慮があるな」
「どーいう意味だよ?」
「そのブラックリストには同中、つまり岸谷軍団の名前が主に並んでいたらしいが、その中に海斗、お前の名もあったらしい」
「はぁ?」
「海斗が小林を虐めていたとは俄かに信じられんが、何しろ詳細に書かれた記録だ、信憑性は高いとみて警察も動いている、岸谷たちはすでに事情聴取されたようだがお前の所には……。まだのようだな」
尿意が引っ込み肩が震えた。俺が虐めだと?
学校内でありもしないヒエラルキーを勝手に作ってはグループ分けをする勘違い野郎たち。一軍、二軍、三軍。上位グループは下位を馬鹿にし、見下し。ストレス発散の捌け口にする。陰口、暴力、恐喝。子供ながらに犯罪まがいの行為で弱者を追込み、時には不登校に、更には自殺に追い込む。自己主張が強く強欲な人間ほど上位に組み込まれるので偏差値の低い不良でも平気で一軍になれる。誰にも咎められずに好き放題やってきたこの馬鹿どもは大人になっても自制が利かずに、ちょっとした事でキレて思い通りにならないと暴れる。犯罪にもすぐ手を染める社会のゴミだ。俺の両親を殺した野村も、美波を自殺に追い込んだ浅間もこのタイプの人間に違いないだろう。
――そいつらと俺が同じ?
全身の血液が逆流し頭がカッと熱くなった。呼吸が荒くなり目の前が霞む。
「海斗、空いたぞ。トイレ」
高梨志乃に肩を叩かれて我にかえる。
「ん、ああ」
「気にするなよ、どーせ逆恨みか何かだろ」
背中で受け止めた声に俺は右手を軽く上げて答え、簡易トイレの扉を開けた。高梨志乃の言う通りだ。小林なんて男はめぐみに言われるまで忘れていたし、中学校の頃の俺はどちらかと言えば虐められる側だった筈だ。何かの間違いに決まっている。
そうだ、バカバカしい。俺が両親や美波の仇と同じ人種の訳がない。安心すると、滝のように放出される尿と共に胸に渦巻いていた嫌悪感も一緒に流れていった。
その後、三人はしっかり連絡先を交換した。まったく花火を観ていなかったが、結果的には美波は楽しそうだったし、めぐみとはケジメが付いた。高梨志乃はどーでも良いが、いくら酔っても事故の話に触れないのは、アイツなりの優しさなのだろう。そして、たまには古い友人たちと一緒に過ごすのも悪くない。そんな風に思える夜だった。