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作者: 桐谷 碧
12
目が覚めると、頭がズキズキと痛くて完全に二日酔い状態だった。どうやら、いつの間にソファで眠ってしまったようだが、なぜかお腹にタオルケットが掛かっていた。それにキッチンの方からいい香りが漂ってくる。味噌汁だろうか、俺は軋む体に鞭を打って無理やり上半身を起こした。
「お目覚めですかー?」
「うおわぁああー!」
 背後から突然声をかけられて思わず叫んだ。美波だという事はすぐに認識したが、一体いつ、どうやって部屋に入ってきたのだろう。幽霊だから壁をすり抜けて来たとでも言うのか。俺はゆっくりと振り向き仰ぎ見ると、エプロン姿の美波がオタマ片手に立っていた。
「なによ、人を化物みたいに失礼ねえ」
 数秒思考を巡らせて、合鍵を渡していたのだと思い出した。何にせよ今日も美波に無事会えた事に取り敢えず俺は胸を撫で下ろした。
「昨日は、随分と飲んでらっしゃったみたいで」
 美波は冷蔵庫からペットボトルのミネラルウォーターを取り出すと、グラスに注いでテーブルに置いてくれた。
「いや、取引先の人に連れ回されちゃってさ」
 中年サラリーマンのような言い訳をして、グラスの水を一気に飲み干した。二日酔いの体に行き渡る。
「朝ごはんは食べる?」
 正直、二日酔いで何も口にしたくはなかったが、せっかく用意してくれたのならば頂こう。頷いてからダイニングテーブルに腰掛けた。美波は手慣れた様子で目玉焼きとベーコンをフライパンで焼くと、ヒジキと味噌汁、炊きたてのご飯がアッという間に食卓に並んだ。今更ながらその手際の良さに感心する。
「いただきまーす」
 俺の前に座ると、美波は顔の前で手を合わせて朝ごはんを食べ始めた。俺は箸と茶碗を持ったまま固まり、美波の顔を凝視するが、幽霊かどうか判別する事はできなかった。
 
 星野は高校二年の、二学期が始まる日に自殺したんだそうです――。

 田淵の言葉が脳裏をよぎる。目の前で朝食を食べている美しい少女は九年前に自殺していた。それがなぜか今、俺の目の前で味噌汁を啜りながら恍惚の表情を浮かべている。更にその見た目とはギャップのある豪快な食べ方は高校球児を連想させた。

 あたし死ぬんだ、九月一日に――。

 あの言葉は正確には、の間違いなのか。それとも死ぬと言うのは比喩的な表現で、現世にいられるのが九月一日までということなのだろうか。
 チラとアレクサを確認すると八月十四日と表示されている。あと二週間ちょっとで、美波は俺の元からいなくなってしまうのだろうか。想像すると名状し難い不安が体の内側から競り上がってきて、俺は吐きそうになった。どうすれば、どうすればずっと美波と一緒にいられるのだろうか。左手に持った茶碗から視線を上げると、美波は鼻歌を歌いながら納豆をかき混ぜている。
 本当に死んでるのか? コイツ。
 どこの世界に、朝からどんぶり飯を二杯もおかわりする幽霊がいるのだ。そもそも幽霊って腹が減るのか。興味がなかったのでそっち系のホラーは見た事がない。しかし、幽霊と言えば現世に未練や恨みがあるのが一般的ではないのか。俺はもう一度、視線を上げて美波を観察した。どうやら三杯目を食べるか悩んでいるようだ。しかし、オカズはあとベーコンが一枚あるだけだ。それでは茶碗一杯を食べるには些か心許ない。美波が何を考えているか手に取るように分かった俺は、自分の分の納豆を美波に差し出した。
「あんま、食欲ないから」
 美波はパァーッと霧が晴れたように笑顔になると、躊躇いもせずに立ち上がり炊飯器からご飯をよそった。
「納豆なんて、なんぼ食べてもええねん」
 すっかり食べ終えた所で謎の関西弁を使い彼女は自己弁護した。納豆はともかく米を食い過ぎだろ、と言うツッコミを待っているのかと思ったが、美波は満足そうに食器を持って立ち上がろうとした。
「なあ美波、結婚しないか?」
 なぜ急に自分がそんな事を言いだしたのか分からない。しかし、思いつきにしては悪くないアイデアだと感じた。そうだ地縛霊だ。この世に未練があれば美波はあの世に帰らずに済む。俺と結婚して幸せになれば、現世への未練から一生一緒にいられるのではないか。
 あれ? 地縛霊ってそんな感じだっけと半信半疑だったが、俺はとりあえず真剣な眼差しを美波に向けた。
「へ? どうしたの海斗くん、まだ酔ってる?」
 立ち上がろうとして上げた腰を再び椅子に戻して、心配そうな目で俺を見ている。
「いや、いたって正常だよ。美波を愛しているんだ」 
 まっすぐ彼女の目を見ていった、そう言えば女性にプロポーズ、いやプロポーズどころか告白をするのも初めての経験だ。
「え、ちょっと、愛してるって……。あたしも海斗くん嫌いじゃないけどさ、そんな急に、えー」
 陶器のように透き通った白い肌に赤みがさしている。本当に死んでいるのだろうか。俺は無造作に美波の赤くなった頬に手を伸ばして触れてみた。温かい温もりが手に伝わってくる。
「ちょ、ちょっと海斗くん、そんな大胆な」 
 手に伝わってくる温度がさらに高くなった所で我に返り、触れていた手を離した。
「あ、ごめん、でも本当の気持ちなんだ」
「海斗くんの気持ちは嬉しいけど、もう少し順序ってものがあるでしょ、いきなり結婚って……」  
「でも、美波以外を好きになる事なんてないし、十七歳なら法律的には結婚することは可能だろ?」
 本当なら二十四歳なんだし。
「他の人を好きにならないなんて、そんな、分からないじゃん……」
「わかるよ」
「そ、そ、そーなの? へー、ふーん」
 美波は明らかに動揺して、しどろもどろしていた。もしも、美波が九月一日にこの世から消えてしまうのなら、この告白を受ける事は出来ないはず。しかし、俺はシンプルに自分が振られるという選択肢が頭に入っていなかった。これは恋愛偏差値の低さゆえに出来たプロポーズなのだ。
「でもさ、まずはお付き合いからじゃないかな。それでお互いの事を良く知ってから、あのー、そのー」
 下を向いたまま美波はモジモジしている。これはオッケーと言う事なのか。まずはお付き合い、といった形を取るのが普通なのは理解できる。どうせ結婚するのだからあまり合理的とは言えないシステムだが、ここは多数派に従う事にしよう。
「そうか、だったらまずは付き合おう」
 美波は静かに頷いた。嬉しそうに微笑んだ後、スッと目を伏せて真剣な表情に戻る。そこには憎しみ、いや、怒りと悲しみが同居したような複雑な想いを想起させ、美波の周りが重力を増したように灰色になる、俺は思わず目を瞬かせた。
「どうしたの? 海斗くん……」
 いつもの色鮮やかな美波がそこに居た。少し疲れているのだろう。「いや、何でもない」と俺が手を振ると、美波はにっこりと微笑んで食器を片し始めた。
 こうして、美波と出会っておよそ一ヶ月。俺たちは正式に付き合うことになった。出会って一月で付き合うのが早いのかも、本来ならばまだ高校三年生の俺が七つも年上の女性と付き合うのが非常識なのかも俺には分からない。俺に分かっているのは、美波が大切だという自分の気持ちと、いつか俺の前から幻のように消えてしまうかも知れないという、真っ暗な不安だけだった。そして少なくともこの時は野村賢治への復讐などすっかり忘れていて、それは裁判の判決が出たあの日以来、初めての事だった。
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