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作者: 桐谷 碧
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「赤岩第二中学校がソフト強豪校と呼ばれはじめたのは、やはり田淵顧問の力量によるところが多分にあると思いますが?」
 約束の時間キッカリに田淵はやって来た。昼間のジャージ姿からスーツに着替えている。俺は、まず軽く持ち上げておいて、相手の口を滑らかにする事にした。
「いえいえ、彼女たちが精一杯頑張っている結果ですよ、そもそも野球部と同じグラウンドを使わなければならないから、ソフト部が使用できるのはほんの僅かな時間です。人気のある野球部が優遇されて――。しかしながら――」
 少し水を向けただけで田淵は延々と話し始めた。主に比較対象にされる野球部との犬猿の仲についてだったが、話を聞いてみるとなるほど、少し気の毒な気はした。
「しかしながらそんな環境のなかでついに、全国でベスト四に入る快進撃を見せた訳ですが、その時のメンバーは覚えていますか?」
「もちろんですよ、すごい子達でした、特にエースの橘は絶対的な存在でしたね。しかし癖のあるメンバーをまとめ上げていた、キャプテンの星野の存在は欠かせないでしょうな、どんな時も諦めない姿勢と強い責任感。彼女がいるだけチームの士気がグッと上がるんですよ、更には――」
 ビンゴ、早速お目当ての名前が登場した。
「あれから九年、全国大会出場は逃していますが今年のメンバーは凄いですよ。もしかして記者さんもそれを聞きつけて来られたのではないですか」
 あれから九年――。
 彼は何を言っているのだろう。美波が中学三年で全国大会に出たのなら二年前の間違いだ。まだボケるような年齢には見えないが、なぜか心臓の鼓動が速くなるのを感じた。これ以上は踏み込んではならない、曖昧模糊な不安が全身に纏わりついてくる。
「田淵顧問、全国に行ったのはその一回だけですか?」
 俺は田淵の話を遮って質問した。
「ん? そうですよ、後にも先にもその一回です」
 田淵は顎に生えた髭を、ゆっくりとなぞりながら答えた。俺の心拍数はどんどん上昇していく。
「それは、あの、二年前の事ですか?」
「いやいや、もう九年前になるよ、あの時のメンバーもすっかり大人になって。成人した時なんか、当時の連中で集まって酒を酌み交わしてね、時間の流れが――」
 ボケた訳でも冗談を言っている訳でもなさそうだ。念のためにもう一度確認する。
「あの、先程の星野と言う人物は、星野美波さんで間違いありませんか?」
「みなみ、みなみ……、名前ですか、そう言われてみると自信がないなあ」
 俺はスマートフォンを取り出すと、一昨日、海で撮影した美波の写真を田淵に見せた。
「この女の子ですよね?」
「そうだ、そうだ、懐かしいな。すごい美人で男子生徒に人気があったんだよ。それなのに、あんなに真面目な子がまさかねえ……。分からんもんだよ」
 急に歯切れが悪くなる。混乱する頭と上がり続ける心拍数で目眩がした。美波は年齢を偽っていたのか、何の為に。それよりも田淵が濁した会話が気になった。
「何かあったんですか、彼女に」
「うーん、私もその時の集まりで初めて知ったんだけどねー、当時のメンバーが全員集まっているのにキャプテンの姿がない、星野は欠席かと聞きましたよ」
「それで?」
「ええ、星野は高校二年の、二学期が始まる日に自殺したんだそうです」


 それからの記憶が曖昧だった。どうやって帰って来たのかも覚えていない。人形町に着いても家に帰らずに、カウンターがある飲み屋に入った。もし、まだ家に美波がいたらどんな顔をしていいか分からなかったからだ。不思議と恐怖心はなかった。もし何かを恐れているのだとすれば、それは彼女を失ってしまうことだ。例え幽霊だろうと亡霊だろうと、自分のそばにずっといてくれて構わない。程度の低い人間達といるよりもずっと良かった。しかし自分が真実を知ってしまった事で、彼女がいなくなってしまうのではないか、その恐怖を考えると家にも帰れず、シラフでもいられなかった。そして、いつの間にか美波が、自分の中でとてつもなく大きな存在になっている事に気がついた。
 午前様を過ぎて酩酊状態になった所でようやく店を出た。流石にこの時間では帰っているに違いない、もっとも、どこに帰っているのかは不明だが。それでも玄関を開ける時には緊張が走った。電気は真っ暗で人がいる気配はない。電気を付けるとダイニングテーブルにメモが置いてあった。
『海斗くんへ お仕事お疲れさまです。お鍋にスープを作っておいたから夜食にどうぞ。あなたの愛する美波より♡』
 ふっ、と小さな笑みがこみ上げた。なに言ってるんだか小娘の癖に。いや待てよ、実際に生きていれば二十四歳のはずだから――。あれ、年上?
 そこまで考えて馬鹿らしくなった、十七歳だろうが二十四歳だろうが美波は美波だ、関係ない。年齢で人を好きになったり嫌いになったりする訳じゃないのに、どうして年の差があると変異な扱いを受けたり、好奇の目に晒されたりするのだろうか。結局嫉妬か。自分にできないことを他人がやろうとしたり、やっていたりすると悔しくて仕方がない、しかし認めたくないというチンケなプライドは、相手を非難することで溜飲を下げているに違いない。
 
 下等な生き物――。
 
 結局、他人に対する評価は中学生の頃から変わることはなかった。美波に出会ったことでその想いはより強固になった節さえある。
 十七歳の美波を絶望させた、この世の中を憎んだ。死んで彼女の元に行けるなら、今すぐに死んも構わない。シンクの下から包丁を取り出して、首筋に当てる。ひんやりとした刃物の冷たさが心地よかった。このまま頸動脈を切れば、美波や両親の元に俺は行けるのだろうか、分からなかった。
 右手に力が入る。両親は殺され、生まれて初めて好きになった女の子は既に死んでいた。
「なんだそりゃ……」
 俺は呪われているんじゃないか。幽霊だの呪いだのを一切信用していなかった価値観は、一瞬でひっくり返った。案外、あの世はちゃんと存在していて、病気も死もない世界で、のんびりと暮らしているのかも知れない。
 もう、どうでも良い――。
 包丁をシンクに放り投げると、乾いた音がキッチンに響き渡ってすぐに静寂を取り戻した。コンロに火をかける。最後に美波が作ってくれたスープを飲んでから死のう。いや、みんなの所に俺も行こう。
 琥珀色のコンソメスープには具が沢山入っていた。ブロッコリー、人参、玉ねぎ、セロリ。自分の苦手な食材ばかりのスープに、なぜかタコさんウインナーが混入している、健康の為、美波は俺に好き嫌いしないようにとよく説教をした。嫌いな野菜も毎日食べるようになった。鍋のままスープを一口飲む、温かい。俺は掻き込むように一気に飲み干すと、なぜか涙が溢れてきて、シンクを叩いた。

「海斗くん、生きて」
 まるで、美波がそう言っているようだった。
 
「美波……」
 会いたい――。
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