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作者: 桐谷 碧
 朝六時に起きてラジオ体操に参加し、終わったら人形町の街をブラブラと散歩する。適当に朝食をとって家に戻ると、美波は宿題に取り掛かり、俺はデスクで仕事をした。時折、解らない箇所があると質問をしにきたが、考えてみたら中卒の俺が高二の問題を解けるはずも無く、インターネットを駆使して何とか答えを埋めていった。
 お昼は美波が簡単な物を作ってくれた。それまで昼食時は湯を沸かす程度しか活躍の場が与えられなかったキッチンは、今では毎日フル稼働している。炒飯や親子丼、冷やし中華に素麺、毎日違うメニューがダイニングテーブルに並ぶ。あまり他人が作った料理を口にした事はないが、かなり料理上手と言っても差し支えない気がした。
 昼食を食べ終えると、食器を洗い、掃除や洗濯を始める。特段広くもない家を毎日ピカピカに磨いてくれた。下着を洗われる事に抵抗すると「なーに照れてるのよ」とからかってくる。あんまり拒否すると逆に意識していると思われそうで、全面的にお願いする事にした。
 午前中に仕事が終わってしまうので、午後は暇を持て余した。本を読んだり、昼寝をしたりして時間を潰す。美波は本棚にある小説を片っ端から読んでいたかと思うと、持参したswitchでゲームに興じている。そして、時折りどこか出かけて行ったが、その場所は聞かなかった。
 夕方になると二人で買い物に出かける、夕飯の材料を買いに行く為だ。初めは美波が一人で行っていたが、今では一緒に行くようになった、実際に足を運ばないと献立が決まらないからだ。と言っても大抵は鉄板焼きで肉や野菜を焼いたり、お好み焼きをしたりと、野球観戦しながら楽しめるメニューが続いた。そして野球が終わると、やっと彼女は家へと帰る。
「また明日ねー」
 美波がいなくなり一人になった瞬間に、部屋は呼吸を忘れたかの様に静かになる。こんなに広い部屋だっただろうか、空間認識能力まで狂わされてきた。家族三人で仲良く暮らしていた頃をなぜか思い出す。父親はプロ野球の中継を観ながら晩酌をし、母親はツマミを作りながら職場の愚痴を延々と話す。父は相槌を打ちながらも目線はテレビに釘付けだ。俺は父の横で二人のやり取りを観察するのが好きだった。何でもない日常に憧れて、いつかは俺も子供を授かり、こんな家庭を築くのだろうと疑いもしなかった。
 冷蔵庫を開けて久しぶりに缶ビールを取り出した。美波がいるとうるさいから控えているが、父親の事を思い出すと無性に飲みたくなる。ソファに座りながらプルタブを開け一気に喉に流し込むと、苦い液体が胃に収まっていきカッと熱くなった。人の命なんて呆気ないものだ。誰だって明日生きている保証なんてありはしない。ふと、アレクサに表示されている日付を確認した、八月三日、水曜日。
 
 あたし、死ぬんだ。九月一日に――。
 
 あの話題を敢えて避けるように注意している訳じゃなかった。基本的に俺たちの会話は「野球」「小説」「献立」に集約されているからだ。
 本気なのだろうか?
 いつも明るい美波の笑顔からは、死を連想することができなかった。しかし、このまま時の流れに身を任せても良いのだろうか。万が一にも本気ならば、全力で阻止しなければならない。ほんの二週間の付き合いだが、彼女はこの世界に必要な人間だと思う。美波に救われる人間がきっとこれから沢山いるだろう。周りの人を笑顔にし、幸せにする力が美波にはある。俺なんかとは違う。そもそも、夢と希望に満ち溢れた十七歳が自殺などあってはならないのだ。思い立った所でパソコンを開いて『自殺 人数 年間』と検索すると、驚愕の数字に目を見開いた。
『22,535人』
 確か交通事故の死亡者が年間三千人くらいだと、以前ニュースで報じられていたが、圧倒的に自殺者のほうが多い。ざっと頭で計算する。一ヶ月で千八百人、一日六十人。
「嘘だろ……」
 思わず声に出して呟いていた。一日に六十人もの人間が、日本全国、津々浦々で自殺しているというのか。冗談じゃない。明日の食事に困ることもなく、贅沢を言わなければ仕事にもありつける。蛇口を捻れば水がでて、スイッチを押せば電気がつく。何の不自由もなく生活できる日本国で、何故にこんなにも自殺者が多いのか、まったく理解が出来なかった。
 死にたい奴は勝手に死ねばいい、人に迷惑をかける人間よりは数段マシだ。それは否定でも肯定でもなく、腹が減ったら食べれば良い、といった感覚だった。しかしこの考えは『パンが無ければお菓子を食べれば良いじゃない』と言った、マリー・アントワネットの如く世間の理を全く理解していない愚かな考えだったのだろうか。
『10代 自殺 原因』でパソコンを叩いて検索すると、およそ半分が学校問題、続いて家庭問題、少し少ないが健康問題が主な原因として上げられていた。自分に照らし合わせてみる。確かに辛い経験もしてきたが、自殺をしようなんて考えは爪の先ほどもなかった。当然、周りにもそんな連中は存在しなかったし、ドラマや小説の中の出来事として認識していたきらいがある。
 しかし現実には一日に六十人もの人間が、この世に絶望、または生きていく事が億劫になり、自ら命を絶っているのだ。その中の一人が美波だとしても何ら不思議はなく、むしろ得体の知れない男に突然近づいてきて、夏休みという高校生にとっての一大イベントを、毎日一緒に過ごしていると言うのは既存の概念からすれば逸脱していて、美波が自殺をする信憑性が高くなったような気さえしてきた。
 なにか大きな悩みを抱えている?
 それが学校の問題なのか、家庭の問題なのか、皆目検討が付かなかったが、なんとしてでも本人に聞き出して解決しなければならない。おそらく彼女が自殺を思索している事を知っているのは自分だけなのだから。
 十代の自殺の理由で半数を占めている学校問題について考えてみる。勉強が追いつかない等の理由よりは、やはりイジメが殆どなのではないか、特に女子のイジメは陰湿を極める。例えば男子の場合、イケメンがイジメに合うという事例は少ないように感じる。実際に自分が学生時代にイジメの対象になっている人物は根暗で陰鬱、ぱっとしない外見の人間が殆どだった。これには頷ける部分が大いにある。不細工が二枚目を虐めていたら、傍から見てさぞや滑稽に映るだろう。本能的にそんな事をすれば自分が惨めになる事が分かっているのだ。しかしこれは女子には当てはまらない。クラスの中心になるような女は大概が中の下、まあ良くて中といった所か。エビデンスはないが実体験で感じた感覚だ。そしてイジメの対象になるのは男子とは違い、美女であることもしばしばある。その理由としては誰々の彼氏に色目を使っただの、かわいこぶっているだの、自分たちを馬鹿にしているだの、全くもって当事者の被害妄想以外のなにものでもない理由で仲間外れにしたりするのだ。
 実際の理由は明白だ、中高生くらいになれば自分の容姿がどの程度か、伸びしろはあるのか、そんな事におおよその検討が付いてくる。才能、ギフト、努力ではどうすることも出来ない壁にあたった彼女たちの怒りの矛先は、労せずして美しさを手に入れた美波のような人間に向けられる。バカバカしいが本人たちは至って真面目で、相手を陥れる為の道理をあれこれと考え出して、ついには自分たちこそが正義だと脳内変換される。
 美波が学校で小汚いニキビ顔の女生徒に、恥も外聞もなく迫害されている姿を思うと腸が煮えくり返りそうになった。怒りが沸点に達する前に、コレは自分の妄想で、美波が学校で虐められているとはまだ決まっていない事に思い至る。
 次に家庭の問題か。例えば親は小さい頃に離婚、母親が再婚した相手は最初の頃こそ優しくていい父親を演じていたが、美波が成長して美しくなってくるにつれ、彼女を性の対象として意識していく。ある日、母親が留守なのを良いことに美波の寝ている寝室に忍び込むとベットに入り悪戯をする、怖くて声も出せない美波は――。
 そこまで考えて会った事もない空想上の美波の父親に殺意を覚えた。近くにあったゴミ箱を蹴っ飛ばす寸前でなんとか耐える。あれこれと考えを巡らせても仕方がない、真相は本人に直接問いかけるしかないだろう、その為にはゆっくりと会話ができる時間が必要だ。そもそも、何で俺は赤の他人の事で、こんなに激高しているのだろう。バカバカしい。どうせ嘘に決まっている。
 久しぶりのアルコールはすぐに全身に行き渡り、俺はソファに倒れ込んだ。そして、そのまま眠りについたが悪夢を見ることは無かった。
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