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作者: 桐谷 碧
「宿題もう終わっちゃった」
 ラジオ体操の帰り道に見つけた、朝六時から営業している立ち食い蕎麦屋で朝食を摂っていると、揚げたてのかき揚げを齧りながら美波が呟いた。
「ああ、そりゃそうだよな」
 夏休みに入ってすでに二十日、毎日宿題をしていれば終わるのは自明の理だ。むしろ遅いかもしれない。かくゆう自分も、最近は真面目に毎日仕事をしているので、急ぎの仕事はまったく無かった。
「ふひ、いひはい」
「え?」
 食べながら喋ると舌噛むぞ、と思っただけで口には出さない。気取るような蕎麦屋じゃないが、味は美味い。
「海に行きたい! 今から行こうよ」
 そう言うと蕎麦のつゆまで全て飲み干して、丼をカウンターの上に置いた。
「おじさん、ご馳走様。今日も美味しかったよ」
「まいどありー」
 やたらと食べるのが速い女だ。俺は残りの蕎麦をかき込むと、同じように丼をカウンターの上に置いて美波の後を追った。
「ここから、一番近い海ってどこかな?」
 蕎麦屋を出ると、美波が問いかけてきた。
「お台場じゃないか」
「うーん、なんか違うなぁ。やっぱ夏の海と言えばー」
 そう言いながら俺を見つめてくる。答えを合わせろと言うことらしい。
「江ノ島!!」
 二人の声が重なった。どうやら一致したようで安心する。一致したと言うよりは、それくらいしかパッと出てこない。小さな頃、夏休みに両親と行く海はいつも湘南の江ノ島だった。
「そうと決まればレッツゴー!」
 美波は意気揚々と歩き出した。まだ、俺は行くなんて一言も言っていないが、断る選択肢はおそらくない。彼女が行くと言ったらそれはもう決定事項で、俺に拒否権などは無いのだ。なぜかは分からない、そんな主従関係は、思えば初めからだった気がする。それなのに嫌な気はしない。俺はMだったのか。新しい自分の発見に戸惑うばかりだ。
「おい、まてよ美波。何で行く気だよ?」
 家とは反対方向の駅に向かう美波に問いかけると、不思議そうな顔をコチラに向けた。
「え? 何って電車でしょ」
「車で行こうよ」
「車って……。海斗くん免許持ってるの?」
 美波は怪訝そうな表情で聞いてきた。もちろん、車の免許は持っている。四月に誕生日を迎えてすぐに合宿で取得してきた。あの男を轢き殺すためだ。アイツには両親と同じ、いや、それ以上の苦しみを与えて殺そうと決めている。それに、二人きりで真面目な話をする空間として悪くないかも知れない。日常生活で自殺の話を切り出すのは思いのほか困難で、タイムリミットまで残り二十一日にも関わらず、俺は何の情報も解決策も見い出せていなかった。
「取り立てのホカホカ」
「ほんと? 大丈夫、なの?」
「ああ、安全運転するから心配するな」
「いや、そうじゃ無くて……」
「任せとけって」
 自殺するくせに自動車事故で死ぬのはどうやら嫌なようだ。俺たちは一度家に帰り準備を整えると、人形町のレンタカーでSUVを借りた。カーナビに湘南江ノ島までの道のりを表示させて車を発信させる。記念すべき公道デビューだ。初めての運転でステアリングを握る手に緊張が走るが三十分もしないうちに慣れてきた。スマートフォンと車内スピーカーをブルートゥースで接続してサザンオールスターズを流すと、一気に夏のテンションになった。
「あ、サザンだー」
「へー、その年でサザンを知ってるとはな」
「ママが大好きなの、車で良く聞いてた」
 美波の母親か。おそらくは俺の両親と同世代なのだろう。俺もサザンは父から習った。
 順調に車を走らせ、カーナビを見ると到着まで残り五十分となっている。運転に夢中で肝心の任務を忘れていた。しかし、これから海に行くと言うのに、わざわざテンションが下がるような話題を出すのもどうなのだろうか。さして熟考する事もなく、その話は帰り道にしようと決めた。
 そんな事を考えていると、目の前を走る車の挙動がおかしい事に気が付いた。三車線ある道路を右に左に蛇行運転している。何もない所でブレーキランプが付くが、十分に車間距離を開けているので事なきを得ていた。俺はその車に関わらないよう、真ん中の車線から左の車線に移動した、やはり高速道路の車線変更は緊張する。すると、その車は追い越し車線から一気に俺の車の前まで車線変更してきて、更にはブレーキを踏んだ。車間距離が一気に詰まり、BMWのエンブレムがハッキリと見えたその瞬間、心臓が跳ね上がり心拍数が上がる。鼓動が胸の中でバクバクと警鐘を鳴らしている。
「前の車、なんか変だね」
 美波が心配そうに呟くが、俺は何も返事が出来ないでいた。あの時と同じだ。黒のBMW。両親を殺したあの男が運転していた車。蓋をしていた過去の記憶が一気にフラッシュバックする――。

 家族で温泉旅行の行きすがら、高速道路のサービスエリアで昼食を摂り一休みしていると、トイレの前でタバコを吸っているサングラスをした若い男がいた。真冬なのに白いタンクトップ一枚、ハーフパンツにサンダルという出立ちで、肩から腕にかけてびっしりと刺青が彫られている。男は気怠そうにタバコの煙を吐き出しているが、そこは喫煙所ではなかった。冬休みという事もあり小さな子供が行き来しているその場所で、ダラリと腕を垂らした男の指先には、火のついたタバコがオレンジの光を放っていた。子供たちの顔がその横を通り過ぎて行く。
 周りの大人たちは誰もその男を注意しなかった。見た目だけで周囲を威嚇し、何かあればすぐ暴力に訴えそうな知能指数が低い人間。恐れよりも嘲笑の対象である事に、生涯気が付かないであろう猿に、誰も関わりたく無かったのだろう。
「君、ここは喫煙所じゃない。タバコの火で子供が火傷したら大変だろう」
 そう言って男の前に立ちはだかったのは、やはり俺の父親だった。正義感が強く、弱者に優しい。俺の自慢の父だ。
「はあ?」
 男は父を見上げた。柔道で鍛えたガッチリした体に一八五センチの長身。男も小さくはないが、その体格差は歴然で、明らかに狼狽しているのが見て取れる。俺は内心でほくそ笑んでいた。見掛け倒しの不良がこの後、どんな捨て台詞を吐いて逃げていくのか見物だった。
「どーしたの潤?」
 信じられないくらい短いスカートにロングブーツ。寒そうな下半身とは裏腹に、上半身は厚手のダウンジャケットを着た金髪の女が、トイレから出てきて男の腕に絡みついた。
「なんか、この親父が喧嘩売ってきたんだよ」
 男は威勢をなんとか取り戻して、父を顎でしゃくった。女が父を睨め上げる。
「いや、喧嘩なんて売ってないよ、タバコは喫煙所で――」
「うるっせーんだよ! クソジジイ。テメー、なに人の体ジロジロ見てんだよ。変態エロジジイ、警察呼ぶぞ」
 父が喋り終える前に女は発狂した。ああ、そうか、馬鹿の彼女はやはり馬鹿なのだな。俺は父の傍で、目の前の二人を心底侮蔑した。死ねば良いのに、と本気で思った。
「里香、いこーぜ」
 男はその場にタバコを投げ捨てると、地面に唾を吐いて去って行った。父はやれやれと言った表情で吸い殻を拾い上げ、自分の携帯灰皿にそれを入れた。
「どうしたの? お父さん」
 母がトイレから戻って来て、穏やかな笑みを俺たちに向けた。さっきの馬鹿女とは違い、声を荒げた事など一度もない母。美しく、優しい、自慢の母親だった。
「ああ、何でもない、行こうか」
 サービスエリアを出発すると道は空いていた。父は三車線ある道路の真ん中を走っている。空は冬晴れで、カーステレオからは広瀬香美が流れていた。満腹感から俺は後部座席でうつらうつらと船を漕ぎ始めた。
「何かしら? 前の車」
 母の不安そうな声で目を覚ますと、目の前には真っ黒のセダンが走行していた。車間距離がかなり近い。父は前方の車と距離を取るタイプなので珍しい。
「危ないな」
 父は呟いてから右の車線に移ると、スピードを上げて黒い車を追い越した。追い越す寸前に窓から左側を覗くと、サービスエリアにいた馬鹿女が助手席でタバコを咥えている。俺は一瞬で凍りついた。
「父さん、さっきの奴らだよ」
「ん?」
「さっきの、タバコの!」
「ああ、そうか」
 父は何でもないことのように頷いた。母は「なになに?」と父子の秘密を喜ぶようにはしゃいでいる。車は左にウインカーを出すと、スピードを落として真ん中の車線に戻った。すると激しいエンジン音が後方から聞こえてきて、それはあっという間に右側を通過したかと思うと、再び車の前に車間距離ギリギリで走行しだした。父がブレーキを踏んだので反動で前につんのめり、助手席のヘッドレストに顔をぶつけた。
「海斗、大丈夫?」
 母が心配そうに後ろを振り返る。
「ん、平気」
「まったく、何なのよこの車」
 憤る母とは違い父は冷静だった。もう一度、左のウインカーを出して、今度は一番左の車線に入りスピードを緩めた。すると目の前の車も同じように左車線に入ってきて、再び目の前に黒い車が接近する。
「ったく」
 流石に父も苛立ちを隠しきれずに、乱暴に右のウインカーを出すと真ん中の車線に戻る、さらに追越車線まで行くとアクセルを踏み込んで加速した、が。それよりも一瞬早く、黒い車は前方に回り込んできた。またしても急ブレーキを踏んだが、今度は予期していたので事なきを得た。前方の車はどんどん減速していく、それに合わせてうちの車もスピードが遅くなっていく。追越車線にも関わらず、左側からビュンビュンと他車に抜かれていく。そして、ついに二台の車は停車した。目の前には真っ黒な車。BMWのエンブレム。左側の運転席が開き、サングラスの男が肩を怒らせて向かってきた。
 父はハザードランプを灯して「車から出るなよ」と忠告した。男は窓の向こうで何かを叫び散らしている。目の前の母が小刻みに震えていた。運転席の父はスマートフォンを耳に当てて誰かと話しているが、おそらく警察だろう。
『バン! バン! バン! 降りて来い、コノヤロウ!』
 助手席の窓を男が拳で殴り始めた。母が恐怖で身を竦めている。俺はカッと頭に血が上った。スライドドアのロックを解除して扉を開けた。こんな見掛け倒しの馬鹿に屈する必要はない。殴り倒してさっさと先に進もう。中学三年生とはいえ、野球部で鍛え上げた俺が、こんな奴に負けるはずがないと思った。
 スライドドアが開き切る前に、男の手に光る物が見えた。それがナイフだと分かり俺はギョッとする。男は俺の左腕を掴んだ。そのまま車外に引きずり出される。思ったよりも力が強く抵抗できない。ナイフを顔の前に突き付けられると、俺は石のように固まり動けなくなった。母が叫び、スマートフォンを耳に当てていた父が気づく。慌てて運転席の扉に手を掛けるのが車外からも見えた。
 次の瞬間――。
 激しいクラクションの音に体がさらに硬直し、目線だけをそちらに向けると、巨大なトラックがすぐそこに迫っていた。顔を背け目をつむると、耳をつん裂く大音響の後に、シンと静寂が訪れた。目の前には、そこにあったはずの我が家の車も、突っ込んできたはずのトラックもなかった。ゴムの焼けたような匂いと、微かに震える俺を掴んだままの手。その先をゆっくりと睨みつける。
「舐めた真似してっから、こうなるんだよ」
 サングラスの男は歯をカチカチと鳴らしながら、それだけ呟いた――。
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