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作者: 桐谷 碧
5
『ピロリン、ピロリン、ピロリン』
「……」
『ピロリン、ピロリン、ピロリン』
 早朝からインターホンを鳴らしてくる人物が誰だかは分かっている。対応しなければならないが、普段起きる時刻よりも四時間以上は早い。ベッドから重い体を何とか引きずり出して液晶ディスプレイを確認すると、彼女は今日も白いオーバーオールの中にモカブラウンのティーシャツを着ていた。バックパックを肩から掛けていて、確認できないがおそらく足元はスニーカーだろう。
「はい」
 辛うじてそれだけ答えた。何とか諦めて帰ってくれないだろうか、眠い思考で考える事ができるのはその程度だった。
「ほら、もう始まっちゃうよー」
 まるで一週間、心待ちにしていたドラマが始まるような言い草に俺は苦笑いするしかない。
「五分待って」
 相手の言葉を待たずにインターホンでの会話を終えた。顔を洗い歯を磨いて、コンタクトレンズを装着する。ジャージに着替えて鏡の前に立つと、頭にとんでもない寝癖が付いている。やむを得ずキャップを被り玄関の扉を開けた。この間五分。何があろうと相手を待たせるのは嫌いだった、アドバンテージを取られてしまう。エレベーターを降りるとエントランスのソファに彼女が座っていた。オートロックを解錠していないのにどうやって侵入したのだろうか。
「あ、海斗くんおはよう、管理人さんが入れてくれた」
 まったく、このマンションのセキュリティはどうなっているんだ、今度管理会社に連絡して管理人を交代するように提言してみよう。
 
『海斗くんは朝早く起きしないからイライラしちゃうんだよ』
 
 野球観戦の帰り道、悪びれもせずに彼女は公言した。それだと夜勤で働く奴は、もれなく不機嫌な人間になってしまう。そもそも別にイライラしていないが、いちいちツッコミを入れていたらキリがないので止めておいた。
「おはよう」
 短く挨拶を交わしてマンションを出ると、すでに夏の日差しがアスファルトに燦々と照り付けていた。エアコンが二十四時間付けっぱなしの部屋にいる身としては心底辟易する。俺はなるべく日陰を選んで端っこを歩いた。
「海斗くん、こっちこっち」
 彼女に案内された場所は、歩いて五分ほどの場所にある小学校だった。人形町に住み始めて一年になるが、こんな所に小学校がある事は知らなかった。それもその筈で『日本橋第三小学校』と、小さな表札のような案内がある以外は、外観からは小学校とは判断が出来ない。少なくとも自分が通っていた小学校とはかけ離れていた。まず校門がない、学校と言えば大小は違えど観音開き、もしくは引き戸タイプの校門が想像されるが、この小学校は一般的なサイズの鉄の扉があるだけだ。よって遅刻して締め出された時に、よじ登って強引に登校する事は不可能だろう。
『ラジオ体操会場』
 扉の横にパウチされた案内がガムテープで貼られている。暑さにやられたのか、テープは粘着力を失い今にも落ちてしまいそうだった。
「もしかしてお前の母校?」
 何の気無しに訪ねた、この辺りに住んでいるなら十分に考えられる。
「ぜんぜん違うし、お前じゃなくて美波」
「あ、はい」
 彼女は開いた扉を抜けて中に入っていった。渋々後を付いていくとすぐにアーバンコートの校庭、校庭と言っても縦横それぞれ三十メートル程度しかない。運動会はどうするのだろうか、これでは斜めに走っても五十メートル確保することは不可能だろう。まあこんな都会にある学校では仕方ないのかも知れない。
 校庭にはすでに十五人位の人間が待機していた、勝手なイメージで夏休みのラジオ体操なのだから子供がメインかと思っていたが、小中学生と思われる人物は一人もいなかった。殆どが高齢の老人達で、俺たちは平均年齢を大幅に下げる事に一役買っただろう。慣れたように各々の配置につくと、ラジオからお馴染みのテーマ曲が流れてくる。随分昔の事だったので忘れてしまっていたが、前のお爺さんを真似して何とかついていった。彼女は隣で楽しそうに体を動かしている。
 しかし彼女と会うのも今日で三日目だが、毎日同じ服を着ている。白のオーバーオールの中に袖の短いモカブラウンのティーシャツで、華奢な二の腕が見えている。普通、彼女ぐらいの年齢ならば、オシャレに気を使って毎日服装を変えてきそうなものだが。もしかしてジョブスを見習って意思決定からくる疲れを軽減するために、毎日同じ服を敢えて着ているのだろうか。ともかくラジオ体操を第三まで終えると早々に解散となった、思ったよりも体が軽くなった事に驚いたが、明日から毎朝続けるとなると憂鬱だった。そもそも、どうして俺がこんな事に付き合わねばならんのだ。
 さっさと帰ってもう一眠りしようと、自宅に向かって歩き出す。彼女は同じ歩調で後ろを付いてきた、嫌な予感がする。横目でチラチラと後方を確認するが、ピッタリと俺の後ろをマークしていた。
 果たして彼女はマンションの入口前まで付いてきた。オートロックのキーをかざす前に質問する。
「あの?」
「なーに?」
「どこまで付いてくるの」
「どこって、これから海斗くんの家で宿題やるんだよ。夏休みのし、く、だ、い」
 彼女があなた何を言っているの? あたりまえじゃないの。と言った口調で答えるので一瞬自分が間違えているのかと錯覚した。しかし。
 
『未成年の乱れた性。犯人は二十六歳と偽り、夏休み中の女子高生を連日部屋に連れ込み、猥褻な行為に及んだとされ――』
 
 一瞬でヤフーニュースのトピックスに上がる自分を想像して頭痛がした。
「駄目に決まってるだろ」
 すぐに正常な思考を取り戻した。この三日間なんとなく彼女に押し切られて付き合ってしまったが家は駄目だ。そもそも他人を家に上げるのが大嫌いで、今までに誰一人として家に上げたことはなど一度もない。
「あらー、ラジオ体操終わったの?」
 管理人のババアがエントランスから出てきて話しかけてくる。毎度まいどタイミングの悪い所で登場する奴だ、さっさと去ねと心の中で願った。  
「これから、お兄ちゃんに宿題みてもらうの」
「あらー、本当に仲のいい兄弟ねえ」
 ババアが内側から開けてしまったオートロックを、彼女は自然に通過した。頭をフル回転させてこの窮地を脱せる作戦を考えるが思いつかない。エレベーターが到着して彼女は乗り込む。
「ほらほら、早く」
 星野美波がエレベーターの中から手招きしている。突っ立っている俺を、管理人のババアが不審そうに見上げていた。仕方がない、俺は諦めてエレベーターに乗り込んだ。
 
「綺麗にしてるねー。うわー、テレビでっか」 
 リビングに入るなり騒いでいる彼女は無視して、これからどうするかを考えることにした。何の目的か分からないが。自分に付きまとうこの女は何者なのか。皆目検討が付かないので直接本人に問いただすしかない。すこし高圧的な態度に出なければならない。大人は、一個しか違わないが。男は怖いと言うことを思い知らせないと、この先の人生で彼女が不幸に見舞われる事もあるだろう。
「星野さん、そこに座りなさい」
 学校の先生よろしく、ダイニングテーブルにある椅子を指さした。一人暮らしなので椅子が二脚の小さなテーブルだ。
「プッ、海斗くんどうしたの」
 彼女は持参したカバンをテーブルの横に置くと、指示通りに椅子に腰掛けてマスクを外した。俺も正面の椅子に座ると彼女と目が合う。そう言えば彼女のマスクを外した素顔を正面から見るのは初めてだった。基本的に外ではマスクをしていたし、昨夜、野球を観戦している時も、食事中はおそらく外していたのだろうが、野球を観ているので気が付かなかった。
 末広型の二重は外側に目が大きい、今まではこの部分だけ見えていたので実年齢よりも大人びて見えた、しかしマスクを外すと陶器のように透明感のある肌、顎が短く丸顔で鼻が低い、小さな口は唇が薄く口角が少しだけ上がっている。
 美少女――。
 その定義は人によって異なるのだろうが、おそらく彼女を見て自分と同じ感想を抱く人間は多いだろう。しかし、それ以上に遠い記憶を刺激する懐かしさが彼女にはあった。遠い昔に会ったような、ないような。そんな霧のように曖昧な記憶。しかし、幼い頃に会ったのであれば、当然彼女も幼いはずで、しかし俺の記憶の片隅で僅かに残るそれは目の前に座る彼女そのものだったような気もする。いずれにしても人間の記憶ほど不確かで都合の良く書き換えられる代物はない。大方、若い無作法な女をあっさりと一人暮らしの自宅に連れ込む、低次元な自分を正当化する為に、懐かしい記憶を刺激されたなどと脳内変換して自らの保身に走ったのだろう。政治家と何ら変わらない。
「おーい、どうしたの」
 長考している俺に両手をブンブンと振っている。一度深呼吸をしてから落ち着きを取り戻した。彼女が美少女だろうが醜女しこめだろうが関係ない。しっかりと説教をしなければ。
「星野さんは、一体何が目的で俺に近づいてきたんだ」 
 声のトーンを落として問いかける、少しでも笑顔を見せてはだめだ、怖い男を演出しなければ。
「目的って、え、目的かあ……」
 彼女は顎に手を添えて考えている。どうやら真剣に考えているようにも見えるが、自分の目的がそんなに考えなければ分からないのだろうか、いや、何の目的もなく近づいてくるとは思えない。
「今は、宿題を手伝ってもらうのが目的で、昨日は一緒に野球を観に行ってもらうのが目的かな、だめ?」
 なるほど、無難な答えではある、が。
「それは建前だろ。赤の他人、見知らぬ怪しげな男に女子高生が頼むような案件ではないと思うけどね」
 自分を怪しげな男と揶揄することに抵抗はあったが、年齢を偽り学校にも行かず、一人暮らしをする十八歳が世間的にみても普通じゃない事は自覚している。彼女は「まいったなぁ」と、頭を掻いて困った仕草をした。そして、腕を組み少し考えた素振りを見せた後にハッキリと言った。
「あたし死ぬんだ。九月一日に」 
『アタシシヌンダ』
 俺は呪文のように心のなかで呟いた。早速、脳内会議が行われる。迅速に、そして正しい答えを導き出さなければならない。女子高生と死、アンバランスなワードは幾つもの憶測を生み出した。病気か? 一見すると元気そうだが実は重い病に侵されていて、寿命が残り僅かなパターン。しかし、それだと九月一日という正確な日付が説明できない。そんな確実に死亡日が分かる病気など聞いたことがなかった。
「自殺するんだよ」
 難航する脳内会議に突然社長が入ってきて「新商品はこれに決定」今までの数時間の会議が全て無駄になる瞬間を思い描く。
「だから、最後の夏休みを有意義に過ごしたいの。野球は大好きなんだけど、周りに野球好きがいないんだよね。そこに突然、スマートフォンで野球中継を見る男が現れた。死ぬ前に神様からのギフトなの海斗くんは」 
 夏に生まれたから海を連想させる美波と名付けられた。神様からの贈り物は海斗。これは偶然なのだろうか、例え偶然でも構わない。自分に残された時間は少ないのだから考えている時間などない、と彼女は言った。
「ごめんね、海斗くんには迷惑だよね」 
「いや、でもどうして自殺なんて……」
 聞いてから後悔した。出会って三日の赤の他人に、自分が自殺する理由を説明するはずがない。
「でも、あたしご飯とか作れるし。掃除もできるからさ、少しは役に立つから少しの間だけ付き合ってください。お願いします」
 彼女は両手を顔の前で合わせた。自殺の理由は答えてくれなかったが、しかし。どうすれば良いのだろう、彼女が嘘を言っているようには見えない。しかし全てを信用するのはどうだろうか。
「付き合うって……。何すれば良いんだよ」
 まさか、恋人になってくれと言うわけでもあるまい。
「うん、朝ラジオ体操して、宿題して。夜は野球観戦。テレビで良いよ。で、たまには花火を観に行ったり、海に行ったりするの」
 それは恋人同士でする事だろうが。
「星野さんは、俺が無職だと思ってるのかな」
 サラリーマンに比べたら圧倒的に稼働時間は少ないが、一応仕事をしているのだ。
「仕事中は邪魔しないようにするから。ね、願いします」
 また、両手を顔の前で会わせて懇願している、とにかく女子高生を家に連れ込むのはまずい。しかし、どうしてだろう、彼女にお願いされると非常に断りづらい。本来なら知らない人間と野球観戦に行ったり、朝っぱらからラジオ体操に興じたり、ましてや家に上げる事など考えられないのだが。それに、自殺すると宣言した彼女の言葉がまるっきり嘘には聞こえなかった。なぜか説得力があるのだ。これで本当に自殺でもされたら――。
 もっとも全く自分には関係のない話で、恨まれる筋合いすらないが寝覚めが悪いのは確かだ。俺は熟考した結果、九月一日までは彼女に付き合うことにした。どうせその前に飽きるだろう。それに一緒にいれば自殺の理由が分かるかもしれない、分かれば止める事も可能だし、まったくの嘘かも知れない。赤の他人が自分の命をどう扱おうと勝手だが、知ってしまったからには無視する事も出来ない。それもまた、自分への言い訳に聞こえて俺は考えるのをやめた。
「分かったよ」
 なるべく人と繋がりを持たないように生きてきた。これからの自分の人生を考えた時、俺と関わり合いになる事が相手にとってプラスになる事は絶対にない。それは確かだ。
「やったー!」
 それなのに、満面の笑みを浮かべて喜んでいる彼女を見ていると、自分が普通の十八歳になったような錯覚をした。そんな訳はないのに。そう有りたいと願った事もないのに。目の前にいる女の子の前ではそう有りたいと思った。暗いトンネルの先に待ち受けている更なる闇を、彼女は照らしてくれるような気がした。
 気持ちが少し落ち着いた所でインスタントの珈琲をいれた。家の中でもマスクをしていた事に気がついて、すぐに外してゴミ箱に捨てる。珈琲に口を付けて顔を上げると彼女がコチラを凝視して、感心したように頷いていた。
「なんだよ」
「なんだか表情が柔らかくなったよ」
「気のせいだろ」
 鼻を鳴らして返事をするが、なんだか顔がニヤケそうになるのを必死に堪えた。認めたくないが、これから毎日彼女に会えるのが嬉しいのかも知れない。こんな風に誰かと話したいと、ずっと前から思っていたのかも知れない。でも、この時はまだ何も知らなかった。彼女が俺に付き纏う本当の理由も、一体どこから来たのかも。どこへ行ってしまうのかも――。
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