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作者: 無気力なすび
残酷な描写あり
明けない夜はないよ
 どうも初めまして、無気力なすびです。
 一話完結型の作品にするつもりなので、どこから読んでも大丈夫ですよ。
 「キャアアアア
 子供部屋から響いた娘の絶叫。
 慌てて廊下の階段を駆け上がる。
 嫌な予感を共にして。

「大丈夫か!」
 勢い良く扉を開け、中の惨状を確認。
 ああ、そんな……日に日に酷くなっている。

「パヴァー!」
 子供部屋最奥の壁際。
 仰向になり、苦しそうに泣き叫ぶ娘の姿。
 酷すぎる……まだ七歳だと言うのに、娘の胸には獣に引っ掻かれたような傷跡が。

環奈かんな!!」
 慌てて部屋に飛び込んで抱きかかえ、傷口を確認。
 出血が酷い。急いで救急車を呼び病院へ。

 ……結果、娘の環奈は八針も縫う大怪我だった。
 療養と安全のため、俺は入院手続きをその日に行うことに。

「パパ、帰っちゃうの?」
「ごめんな環奈。パパはずっと病院にはいられないんだ。でも必ず毎日会いに来るから、病院の先生の言うことちゃんと聞くんだぞ」
 約束だぞ、と病室で指切りをした後に見せた我が子の顔を、恐らく一生忘れることはないだろう。

 俺だって鈍感では無い。環奈と同じ環境に居る今、その表情が何を意味しているかは十分に理解ができる。

──パパ、死なないで
 環奈の眼は雄弁に、そう訴えていた。
 娘に、そう願わせてしまった。

「大丈夫。また明日来るから、な?」
「うん……」
 不甲斐無い自分が嫌になる。
 妻が自らの命と引き換えに産んでくれた宝を、恐怖と言う名の傷から護ってやることすら出来ないんだから。

病院を出ると、土砂降りの雨が地面を叩いていた。
 タクシーを呼ぼうにも、スマホは充電不足で反応無し。
 仕方無い、もう濡れて帰ろう。
 今の気分にはピッタリだ。

 思えば妻の葬儀の日。その時が全ての始まりだったんだろう。
 妻の関係者や親族が、愛する妻のために列を成して焼香を上げて行ってくれていた。

 その時の俺は、参列者達が口々に哀悼の意を示す中、こんなにも沢山の人が妻の死を悼んでくれた事が嬉しく、同時に二度と誰も妻に会えない事実が哀しくて、ほとんど言葉を発せられていなかった。
 そんな時だ、妻の古い友人を名乗る女性が俺の前に来たのは。

 その手にはウェディングドレスを着せた古いアンティーク人形が握られていて、幼い頃に妻から貰ったのだと言う。
 俺が涙いっぱいに頷いて聞いていると、最後に妻の古い友人は鼻をつまらせながら言った。

『本当に奥様とは切っても切り離せないくらいの絆が持てて、今でも亡くなったのが信じられません。
 ですが私達大人は時が経てば受け入れますが、娘さんは大きくなる度に母親のいない日常に喪失感を感じ始めるでしょう。
 なのでこの人形をあなた達ご一家にお返ししたいと思うのです。
 これは私達の楽しい思い出が詰まった人形です。なのでこれをお母さんの代わりに、娘さんが幼い時期の間だけでも側に置いてあげて下さい』

「クソッ!」
 過去を思い返しながら歩く雨の帰り道、電柱に拳を叩き付ける。
 今にして思えば、あの女を疑っておくべきだったのだから

 異変は、環奈が片言で喋れるようになった辺りから起きた。
 当時環奈は人形をデイジーちゃんと名付け、俺が遊んでやれない時はその人形を遊び相手にしていた。

 何故デイジーちゃんと呼び始めたのか訊いたことはあるものの、要領を得ない回答ばかりで結局今でも分からず終いなのだが。

『パパ〜』
 最初の異変は環奈の一言からだった。
 よちよちと歩きながら人形を抱え、パソコンに向かう俺に娘が笑って言ったのだ。

『んー、どしたのかなー?』
『バイバーイ』
 そう言いながら俺にデイジー人形を向け、左右に降る。

『環奈ちゃんお出かけするのかな〜?』
 俺は家の中の何処かへ隠れ、隠れ鬼でもするつもりなのかと思っていたがどうも違う。

『ヒヒヒっ、バイバーイ』
 環奈はその場を動かなかった。
 ただ俺に向かってデイジー人形を振り続けていた。

『環奈ちゃん。パパは今お仕事するから、あっちでデイジーちゃんと遊んでてね』
 そう言っても環奈は暫く同じ行為を繰り返すばかり。
 だが俺が放っておいていると飽きたのか、気が付いた時にはリビングに転がっていたボールで遊び始めていた。

 それからの環奈は何も無い空間に向かって話しかけたり、俺のいない所でさも人形が動き出したかのように語る事が多くなった。
 俺は不安に思い、暇を見つけて小児科医の先生の元へと環奈を連れて行く。

 診断の結果、その年頃の幼児が想像上の友達を創り出すのは普通の事だそうで、現実の友達が出来れば徐々に区別が付いていき、年を経ると共に収まるのだそう。
 その説明を聞いて俺は納得しかけていた。
 直ぐに考えを改める事になるとも知らず。

 その日家に帰ると、留守の間環奈を見ていてくれていた母が重い顔で迎えた。
 母が言うには、最近人形が自分を見ている回数が多くなってきているとのこと。

 気のせいだと諭しても浮かない顔のままなので、ならばと環奈が一人で遊んでいる子供部屋に二人で向かう。

『カンナねぇ、いちごたべりゅの〜』
『イチゴハアオイ』
『んー! おいちーぃ』
『クチノナカデチガミチル』
 俺は母と顔を見合わせた。
 ドア越しから聞こえるのは、いつもの娘の楽しそうな声だ。
 だがそれに混じって微かにだが、環奈とは別の声が聞こえる。

『誰だ!』
 ドアを素早く開けて中を見ると、そこには環奈がデイジー人形相手におままごとをしているいつも通りの光景。
 だが母は俺の隣で小さく悲鳴を上げていた。
 デイジー人形は正面の環奈では無く、首だけこちらに向けていたからだ。

『パパ……?』
 俺の声に驚いて泣き出しそうな娘。
 俺は落ち着かせるため咄嗟に出任せを口にしていた。

『あ、ああごめんな。ほら、パパ今帰ってきたから、後で一緒におやつにしようか』
『ヤッター!』
 とは言え有言は実行しなければ示しがつかない。後程母と俺と娘の三人でおやつを食べたが、その場にはあの人形も居た。

 それから母が家に来る事は無くなった。
 半年の間は母の態度に抗議したり諭したりしたものの、日に日に顔色を悪くする母が心配になり、それからは月に一度連絡をするに留めていた。

 そして三年後。小学校に入って環奈にも友達が出来、それに応じてデイジー人形は相手にされなくなっていた。

 小児科の先生の言う通りだったなと感慨にふけりつつ家で仕事をしていると、子供部屋から泣き叫ぶ声。
 慌てて駆けつけてみると、あの人形を前に娘が嗚咽を漏らしていた。

『どうした、大丈夫か?』
『デイジーちゃんが意地悪言うの』
 わけが分からないので一先ず環奈を子供部屋から出し、好物のミルクココアを淹れて落ち着かせる。

『で、何があったのか言ってごらん』
 優しく問い掛けると、娘はコクリと頷いて話し始めてくれた。

 どうやらその日学校からの帰り道で、友達が出来てからデイジー人形と久しく遊んでいなかった事を思い出したらしい。
 娘は急いで家に帰ると、ぬいぐるみの山に埋もれていたデイジー人形を引っ張り出して謝ったそうだ。

 しかしデイジー人形の怒りは凄まじく、娘に数々の心無い罵倒を浴びせた上に、娘の友達を聞くに耐えない言葉で罵ったと言う。

 喋りながら思い出してしまったのか、環奈はまたワンワンと泣き出したので、その時の俺は初めて人形に怒りを覚えていた。
 子供の戯言にしては、あまりにも真に迫り過ぎていたからだ。

 その夜俺は、母にどうすべきかを相談した。すると母は明日にでも我が家に向かうと言う。
 大丈夫なのかと尋ねてみると、母には心強い味方が出来たのだそう。

 次の日、その心強い味方とやらが母と共にやって来た。
 それはこの辺りでは一番大きな寺の住職で、お祓いもやっていると言う噂の人物だったのだが。

『申し訳ないですが、私には対処のしようがありません。腕が確かな霊媒師を紹介しますので、その方に人形は引き取ってもらって下さい』
 玄関の前に来るなり住職は慌てて住所を書いた紙を母に手渡すと、一目散に逃げ帰ってしまったのだ。

 その態度には俺も母も憤慨したが、受けてもらえないものは仕方が無い。
 幸いその霊媒師は隣町に住んでいたので、怖いけど孫娘と息子のためだと言って母が代わりに持って行ってくれた。

 その時は俺も仕事が残っていたし、環奈も学校に行っていた時間帯だったため正直助かったと思ってしまった。
 それが、母との最後になるとも知らずに。

 その日の午後、警察から電話が入った。
 母がホームから飛び込んだらしい。
 即死だった。目撃情報によると人形をきちんとホームに座らせた後に線路内に飛び込み、急行車両に跳ね飛ばされたようだ。

 翌日、警察署で当時母が身に着けていた遺留品と共にあの人形も返された。
 人形の受け取りは拒否したかったが、そうも行かないからと半ば強引に渡されたのを憶えている。

『この度はお悔やみを申し上げます。私、天水堂てんすいどう三船みふねと申します』
 例の霊媒師は母の葬儀の時に現れた。
 スーツ姿の女で俺に会うなり名刺を出して来たので、一瞬商社の人かと思ってしまったのを覚えている。

 人形は置いて来ていたので葬儀の後家に来てもらう事になり、翌日火葬を終えたその足で家に来てもらった。

『これまでよく無事で済んでいましたね。貴方と娘さんに実害が出ていないのが不思議な位ですよ』
 子供部屋で人形を手に取るなり、霊媒師は感心するかの様に呟く。

『この人形は、どうやって入手を?』
『妻の葬儀の時、その友人から貰ったんです』
『なるほど……』
『一体この人形は何なんです? 自分はまだ信じきれていないのですが、それは呪いの人形だったりするのですか?』
 霊媒師は数秒間人形を睨み付けて、それから口を開く。

『そうですね、コレは間違いなく呪具の類です。恐らく術師は亡くなられた奥様のご友人でしょう』
 その報告を聞いて、俺は頭に血が登るのを感じた。
 やっぱりか。抱いていた疑念が確信に変わり怒りのままに動こうとした時、霊媒師が俺を引き留める。

『恐らく無駄ですよ。このタイプの呪いは先に人形を渡し、後から命を断つ事によって呪いを発動させるタイプの物です』
『どう言う事だ』
『先日のお母様の葬儀に、そのご友人は現れなかったのではないですか? 私の推論通りならそのご友人は奥様の葬儀に訪れた後、自らの手でこの世を去っています』
『……っ、クソ』
 やり場の無い憤りをどうしたら良いのか分からなくなって、俺は座り込んでしまった。

『ならどうすれば良い』
 荒々しい口調が抑えられない俺を咎めること無く、霊媒師は目を細める。

『そのために私が来たのですよ。中々厄介な代物ですが、私が引き取りましょう。明日からは平和な日々が始まりますよ』
『感謝する』
 除霊の代金は安くは無かったが、妻と貯めていた老後の費用を切り崩す事で何とか支払えた。
 ようやく娘と平穏な暮らしが送れる。
 そう思えば安いものだったから。

 だが俺の期待は裏切られた。
 翌朝、俺は娘を起こそうと子供部屋に入ると言葉を失った。

 朝日を浴びてスヤスヤと寝息を立てる環奈の隣で、あの人形が座っていた。
 娘の顔を覗き込むように腰を折り曲げて座っていたんだ。

うあああ
 俺の悲鳴に目を開けた娘は、同じく悲鳴を上げて俺の元に逃げて来る。
 何故だ。どうしてだ。
 俺は貰った名刺を頼りに霊媒師に連絡を取った。

 鳴り続けるコール音。いつまで待っても出てくる様子は無い。
 一旦切ってから再度かけ直すと、十二コール目で若い男性の声が出た。

『どうなってる、人形が返って来てるんだが』
『大変申し訳ありません。実は……』
 彼の話を聴いて、俺は驚愕を禁じ得なかった。
 どうやら今朝方、霊媒師が遺体となって発見されたと言う。

 霊媒師の三船は一人だけ弟子を持っていた。
 その弟子は三船の身の回りの世話をしつつ、日々修行に励んでいたのだそう。

 そして昨日、いつもならその弟子は霊媒師の仕事に同行するのだが、今回は人形の件に関わる事を固く禁じられたらしい。

 それから今日の早朝のこと。
 毎朝の日課である水浴みの儀に現れない三船の様子を見に行った所、彼女が仏壇の前で冷たくなっていたのを見付けたそうだ。

 お祓い時の装束を着たまま仏壇の前で倒れていた霊媒師には、両手足が無くなっていたとのこと。

『申し訳ありませんが、僕達の手には負えませんでした。お代は全てお返ししますので、他を当たって下さい』
 そう言って通話は切れてしまい、俺は携帯を持っていた手を力無く下げた。

 もう誰にも頼れない。
 環奈を護れるのは俺しかいない。
 決意を胸に、俺はデイジー人形を掴み上げる。古ぼけて亀裂の入ったその顔はまるで俺達を嘲笑っているようで、怒りが込み上げて来た。

『環奈。悪いお人形さんはパパが捨ててくるから、家で大人しく待っててな』
『……うん』
 その日は丁度燃えるゴミの日だった。
 俺は怯える娘に優しく声をかけてから、他のゴミと一緒にポリ袋に入れて外に出る。

 小雨が降る中ゴミ捨て場に向かうと、丁度ゴミ収集車が来ていて、俺は滑り込みで回収してもらえた。
 バキバキ、メリメリと人形が入った袋が様々なゴミを砕いて圧縮される様子を見届けてから、俺は帰路につく。

 その日の丑三つ時。
 寝室の外から聞こえる騒がしい音で俺は目が覚めた。
 ドタドタと駆け回る複数の足音と、時折混じる子供の笑い声。

『誰だ!』
 ドアを開けると何もいない。
 シンと静まり返ったリビングには、ただただ夜闇が包んでいる。

 そして翌朝、今度は環奈の悲鳴で目を覚ました。
 階段を駆け上がりって子供部屋に向かうと、部屋の隅で泣きじゃくる娘とその様子を見つめているデイジー人形が。

 それから毎日、何度も何度も、様々な方法で俺は人形を棄てた。
 ある時は灰になるまで焼き尽くしてから遠くの山中に。
 ある時は粉々に砕いて更に遠くの海に。
 だがどれだけ手を尽くしてもあの人形は元の状態で娘の部屋に戻って来やがった。

 それに伴い、我が家では毎日のように奇妙な現象が多発し、俺も娘も精神をすり減らしていった。

 そして今日、初めて娘に実害が及んだ。
 頼れる親族も、無茶な願いを言える友人も俺にはもういない。
 入院と言う形で環奈は避難させたものの、他にどうすれば良いのか……。

 家に帰って包丁を手に取る。
 子供部屋へ向かうと、家を出た時よりも悲惨な状態になっていた。
 娘の大切にしていたぬいぐるみは引き裂かれ、壁には幾つもの獣じみた引っ掻き傷。
 その部屋のど真ん中で、白いウェディングドレス姿のアンティーク人形はこちらに向かって首を傾けた状態で座っている。

馬鹿にしてんのか
 娘がいれば抑えていたであろう理性を、俺はわざと外す。
 人形の様子がこちらを嘲笑っているように思えてならない。
 俺は反射的に飛びかかって人形を床に押さえ付けた。

俺達が何にも出来ないと思って、よくもまあ散々好き勝手してくれやがって
 ハサミを人形の顔面に突き立てる。

人間様を舐めんじゃねぇぞ
 何度も。

おふくろを殺しやがって
 何度も。

環奈にまで手ぇ出して
 憎しみと。

死んだ妻を哀しむ時間まで奪って
 怒りと。

そんなに俺達が疲弊するしていくのが面白いか! 何とか言ってみろやこの野郎!!
 明確な殺意を込めながら。

 どれ位そうしていただろうか。
 気が付くと包丁の刃も人形の顔もボロボロで、衝撃を耐え切れなかった掌は内出血を起こしていた。

 息を切らしながら見下ろしていると急に何もかもが虚しくなってきて、力無く人形を拾う。

 そのまま強まる雨の中、傘もささず無心でゴミ捨て場へ向かった。
 トボトボと、それ程遠くもない距離を時間かけて歩く。

 ゴミの回収は終わっていた。
 涙で視界が滲み、空っぽのゴミ捨て場の前で膝を突く。

 もうどうしたら良いのか分からない。
 霊媒師に頼んでも、ゴミに出しても、あらゆる手を尽くして壊しても、戻って来てしまう。
 そして俺達親娘おやこを苦しめ続ける。
 もう嫌だ、疲れた。
 これからどうしたら良い。

「大丈夫かい」
 体に当たっていた雨粒の感触が消え、背後から聞こえた声。
 振り向くと、そこには一人の少女。

 白を基調とした黄緑色のナイロンパーカーに黒いベルトで締めた白のホットパンツ。
 白と黒のコントラストで彩られたその長髪は、ハーフアップに束ねられていなければ地面に毛先が着いていたのではないかの思う程に長い。

 ふと上方に視線を動かせば透明の膜。
 娘の環奈よりは一回り歳上に見えるその少女は、俺に傘を差し出して雨から守ってくれていた。

「だ、大丈夫です。でも君の方が濡れてしまうんじゃ」
「ボクに気を遣っても意味無いよ。雨を気にしない程追い詰められてるんでしょ、その人形に」
 今時の若者は初対面の人に簡単な敬語も使えないのだろうか。
 とは言え何の説明も無しにピタリと言い当てられてしまい、驚いた俺は言葉を失う。

「良かったらその人形持ってボクの店に来なよ。何とかしてあげるから」
「何とかって……失礼ですが高名な霊媒師でもどうにも出来なかったんですよ」
「そりゃやり方がマズかったのさ。時限爆弾だって正しい手順で止めなきゃ、逆にこっちが痛い目見るだろう?」
 表情の機微きびが著しく低いその少女は俺よりも年下に見えるのにも関わらず、妙な大人びた印象を受ける。
 不思議な少女ではあるものの悪意は感じない。

「本当に、何とか出来るんですね」
「君が信じるならね。それとこの傘は君が持つと良い」
「それじゃあ君が」
 断る暇を与えず、少女は俺に傘を押し付けると踵を返して雨の中を歩き始める。
 だが不思議なことに雨粒は皆少女を避けて地面に落ちるので、本人が濡れる様子は全く無い。

「行こうか」
 少し進んだ先で振り返ると、少女は振り向いて口角を少しだけ上げる。
 どうせ他に選択肢は無いんだ。
 酔狂でも何でもいいから、今だけは彼女を信じてみよう。

「あの」
 少女の隣を歩きながらも、俺は濡れない少女に傘をかざしながら声をかける。
 幾ら雨が当たらないとは言え流石に気は引けたからだ。
 少女は傘を手に取ろうとはしないものの、逢えて俺の行為に言及はしない。

「敬語はよしたまえ。君も柄じゃないだろう」
 見透かしなような眼で少女が俺を見る。
 本質を透過する様な瞳に全てを見透かされている気がして、俺は仕方無く彼女が望んでいるであろう振る舞いで接する事にした。

「じ、じゃあ一つ訊くんだが……アンタの事どう呼べば良い?」
「人に名前を尋ねる時は、自分から名乗るものだよ」
「そうだな、失礼。俺は山本博文やまもとひろふみ、君は?」
福島ふくしま・ハイネ・みずき。長いからみずきで構わないよ」
「ミドルネームがあるって事は、君はハーフか何かなのか?」
「さあね、物心ついた時はもう棄てられてたから」
「それは……すまん。嫌な事を訊いた」
 俺の謝罪にみずきは首を振る。

「気にする必要なんて無いさ。思い出の存在しない家族なんて他人と変わらないのだから」
 そんなものなのだろうかと俺が口を閉ざしていると、唐突にみずきが立ち止まった。

「着いたよ」
 そう言われて正面の建物を見たものの、俺の頭に疑問が浮かぶ。

純文堂じゅんぶんどう】と筆で書かれた古い看板を下げた、年季の入っているであろう日本家屋。
 こんな建物はこの辺りには無かった筈だ。

「中に入りなよ。商談と洒落込もうじゃないか」
 磨りガラスの引き戸を開いて俺を手招くと、みずきは玄関を上がって行く。
 怪しさを感じつつも俺は玄関の傘置きに傘を差し込み、同様に足を踏み入れた。

 内部にはズラリと棚が並べられており、その上には様々な骨董品が並んでいた。
 壺や置物、食器、絵画など国の内外問わず様々な貴重であろう品物が揃っている光景は、どこか厳かな空気感を店内に満たしている。

「こっちだよ」
 部屋の最奥。様々な書物がうず高く積まれた頑強な木製の机の向こうに座って、みずきが小さく手を振っている。
 俺がその机の前まで行くと、彼女はこちらに掌を出す。

「それじゃ、見せてもらえるかい? 君の人形を」
 俺は手にしていたデイジー人形に視線を落とし、逡巡した。

 この人形に関わった者は例外無く不幸な目に遭っている。
 ここで渡してしまえば、無関係だった目の前の不思議な少女をも巻き込んでしまうのではないかと思ったからだ。

 だがそもそもの話、深入りして来たのはみずきの方からだ。
 だから何かあれば、それは彼女の自己責任になるのではないか。

「何があっても責任は取らないからな」
 念を押して、俺は人形を差し出されていた掌に乗せる。

「何も起こらないからその心配は不要さ」
 そう言って人形を受け取ったみずきは興味深そうに持ち上げて様々な角度から眺め始めた。

「この人形はな──」
「ああいや、経緯を語る必要は無いよ。もう大体君達に何が起こっていたのか解ったから」
「……少し眺めたくらいで何が解るんだ。その人形にはデイジーって名前があるのも知ってるのか?」
「そこまでは知らないよ。でもこの人形がどんな物かはよく理解できた。その性質もね」
 みずきは人形を手元に置くと、微笑を浮かべてこちらを見る。

「本題なんだけどこの……デイジー、だっけ? ボクに引き取らせてもらえないかな」
「祓う……って感じでも無さそうだが」
「そうだね、少し違う。別の用途に利用させてもらうって言えば納得ができるかな」
 その発言に、俺の頭には嫌な考えが浮かぶ。

 これまでデイジー人形が俺達にした仕打ち、関わった人達にした仕打ち、どれを思い出してもまともな結果を生み出していない。

「まさか他の人を呪うんじゃないだろうな」
「フフ、まさか。この世に在るあらゆる物にはちゃんとした使用法が存在する。ボクはそれを見出して適切な使い方をするだけだよ」
「サッパリ理解出来ないんだが、誰かを傷つけるために使うわけじゃないんだな」
「そうだね。刃物だって人に向けるかその他の物に向けるかによって、全く意味は違って来るだろう?」
 そういうものかと考えて、俺は手放す際の最大の懸念を思い浮かべる。
 どんな方法で手放しても、必ず復活して戻って来る厄介な代物だ。
 これまでのみずきの話からは、まだその問題に対する保証が十分であるとは感じられない。

「俺が手放しても、デイジー人形は必ず戻って来た。管理は徹底してくれよ」
 念を押す俺に対し、彼女はカラカラと笑う。

「言ったろう? 何も起こらないって。君が引き取らせてさえくれれば、後はボクがどうにかしておくよ」
 どうにか出来るのかははなはだ疑問だが、もう何だっていい。
 他に方法は無いのだから。

「そこまで言うならアンタに賭けるからな」
「よし商談成立だね。手間賃は五十円でいいよ」
「安すぎないか? 引き取るなら普通は五百円位取るだろう」
「キミがそれだけ払いたいならそうしようか。こちらとしては無料でも良かったんだけど」
「厄介事を押し付けるんだ。無料や少額で引き取ってもらおうとは思わない」
 そう言って財布を取り出し、中から五千円札を取り出す。

「俺の今の手持ち分はこれだけだ。期待額として受け取ってくれ」
「律儀だね、大抵の人はボクに押し付けたら逃げ帰ってしまうのに。でもまぁそのお札はキミの願いと希望が込められた物だ。ありがたく受け取らせて貰うよ」
 一連のやり取りを終えて、帰ろうと踵を返す。
 引き戸に手を掛けた時、俺の背後から届くみずきの言葉。

「明けない夜はないよ」
「……世話になった」
 俺は小さくお辞儀をし、外へ足を踏み出す。
 いつの間にか雨は止み、雲の隙間から青空が覗いていた。

 翌日、デイジー人形は戻らなかった。
 仕事を午後に回し、環奈の病室へと足を運ぶ。

「パパ!」
 パッと花開くような娘の笑顔に俺は安堵の息を吐く。
 よかった、病室にも現れていないみたいだ。

「パパ、パパ。もう会えなくなっちゃうかと思った」
 俺がいない間不安だったのだろう。ベッドの上で涙を浮かべる娘を優しく抱き寄せる。

「大丈夫、大丈夫だ。もう恐い思いはしなくて良くなったんだから」
 環奈を安心させようと口にしたその言葉は、自分自身に向けたものでもあった気がする。
 そう、思い込みたいのかもしれない。

 だが本当に、人形は現れなくなった。
 一日、一週間、一ヶ月と過ぎていって、娘の環奈が退院した後も何事も起こらなかった。

 ようやく現実味が湧く。本当に終わったのだと。
 安堵の涙が流れた。もう、理不尽に怯えなくて良いのだと。

 俺はお礼を言いたくて、あの骨董屋を探した。
 何度もあの雨の中を歩いた道程を思い起こしながら探した。
 でも、辿り着けなかった。
 あの骨董屋に続く道が、まるで見つからないのだ。

 そうして見つからないまま年月は過ぎ、環奈も成長して、再度俺が解決困難な悩みを抱え始めた頃。
 あの骨董屋は、再び俺の前に姿を現した。

 感動を胸に、震える手で磨りガラスの引き戸を開く。
 あの時と変わらない骨董品が埋め尽くす光景。店の最奥に鎮座する、古書が積まれた頑強な台。

 その向こう側に座る、あの時と変わらない姿、あの時と変わらない容姿。
 頬杖を突き、少し乱した白黒の髪の間から怪し気な眼差しをこちらに向ける少女。

「いらっしゃいお客さん。助け物が君を呼んでいるよ」
 そう微笑んで。
 最後まで読んで下さり、ありがとうございました。
 また次回もよろしくお願いします。
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