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作者: こむらまこと
第34話 海難0527〈七〉
 RORO船「あかとき丸」の船体下部に位置する、広大な船倉せんそう。貨物が積載されたトラックやトレーラーが所狭しと並べられたその一角で、西洋の怪異・スキュラに対抗すべく、海洋怪異対策室の若手3人は着々と儀式の準備を進めていた。
「ええっ?」
 自らの左手首に包帯を巻きながら、あきらが驚いた声を上げた。
「式神じゃなくて、護法童子ごほうどうじを創るんですか?」
「創るんやのうて、授かるんや。この海鳥やトビウオ、その他諸々の素材を捧げて新たなる生命として統合してもらい、それを授からんことを3人で祈ろう考えとる」
 楓が、筆を走らせていた手を止めた。
 たった今出来上がったばかりの御札を、明に向けて掲げてみせる。
「この、毘沙門天びしゃもんてんの護法童子としてな」
 毘沙門天は、福徳と戦闘の神である。古くは戦国武将にも、戦勝神として崇められてきた歴史を持つ。
 そして、護法童子とは一般に、神仏の眷属として使役される神霊たちを意味する。
「つまり、式神よりも強くなるということですか」
「せやな。神仏の護法童子とすることで、その力の片鱗を帯びて強うなる言われとる。ただ、今回の場合それはオマケや」
 楓は淡々とした声で説明しながら、清潔なシーツと小机、空き箱などを利用して作った即席の祭壇に毘沙門天の御札を安置する。
「魂を持った式神は確かに強力やけど、自由意志を持つ分、扱いも難しくなるんや。その点、神仏の眷属たる護法童子とすれば、存在自体がより安定するし、自分勝手な振る舞いもそうそうはできへんようになるというわけやな」
「そんな仰々しいもん創っちまって、本当に大丈夫なのかよ」
 懐中電灯とペットボトルで作った即席のランタンを掲げた梗子が、疑わしげに楓の顔を見つめている。採光が一切無く、電気も止まっているこの船倉内では、このランタンの明かりが一番の頼りである。
「あくまで、俺らの補助として使うだけなんだろ。そこまで強くする必要ねえんじゃねえの?」
「あのスキュラの底が見えん以上、やり過ぎるくらいが丁度ええ」
 楓が、強い口調で言い切った。ランタンのぼやけた光に浮かぶその顔からは、心無しか頑なさのようなものが感じられる。
(楓のやつ、なんかムキになってねえか?)
 梗子は、楓の感情に僅かな乱れが生じていることを敏感に察知しつつも、結局はそれを指摘しないことにした。
「……それで、必要なものはこれだけか?」
 梗子は、即席の祭壇に視線を落とした。
 最上部に安置された毘沙門天の御札に、その御札の両側に立てた御幣。それらの下段には、明が集めた「素材」たちが並べられている。
 まず中央に配置されたのは、船首の甲板で拾い上げられたあの海鳥。衰弱のためかその場から一切動こうとせず、ただ静かに運命にその身を委ねているように見える。次に、海鳥を囲む形で並べられたトビウオの死体が4つ。楓曰く、海鳥とのバランスを考えると4つがちょうど良いということだった。
 それから、海鳥やトビウオたちの前方に、明の血液が盛られた小皿が1つ。3人の中で最も血液量が多いと思われる明が、楓の要求に快く応じた上で、ごく少量を素材として提供した形である。
 そして小皿の隣には、黒褐色の毛髪がひとつまみ。薄く青い光を反射するそれは、言うまでもなく梗子の髪から切り取られたものだった。
「これだけあれば十分なんやけど、駄目押しとして、うちの持ち物もひとつ追加しとくわ」
 楓は詰襟を緩めると、制服の下に隠れていた紐製のペンダントを取り出した。
 それを見た梗子が、顔色を変える。
「おい、それ」
「ええんや。そもそも、ここぞという時のために身につけとくもんなんやし」
 それは、水晶製の勾玉だった。荒削りな造形ながらも透明度が高く美しいそれを、楓は躊躇いなく小刀を使って紐から外してしまう。
「これは素材やのうて、核にするのがええな」
 楓が目を向けたのは、祭壇の手前に配置された小さなダンボール箱。祭壇と同様にシーツが被せられたその中央には、人型に切られた懐紙のみがポツンと置かれている。
 その人型の上に、水晶の勾玉がそっと乗せられる。
「さあ、これで準備完了や。早速取りかかるで」
 楓が、何かを振り切ったようなさっぱりとした顔で2人を促した。
「は、はい」
 微妙な空気の変化に戸惑いを感じつつも、明は素直に打ち合わせ通りの配置につく。梗子も、複雑そうな表情を浮かべながらも、何も言わずに同じく所定の位置についた。
「さっきも話した通り、ふたりは難しいことは考えんと、祈りを込めてひたすら霊力や妖力を注ぐことに集中してや」
「おう」
「了解です」
 祭壇を囲む形で等間隔に並んだ3人は、それぞれの方法で集中力を高めていく。
 明は、座禅時の要領で大きく深呼吸をしてから、半眼になって下腹部の辺りで法界定印ほっかいじょういんを結んだ。対する梗子は、完全に目を閉じて、両手を祭壇に向けてかざすのみである。
 そして楓は、両手を組んで人差し指を立てる独鈷どっこ印を胸の前で結ぶと、背筋を伸ばして半眼となった。
 毘沙門天の姿を観想し、導入として開経文かいきょうもんを唱えて雑念を削ぎ落としながら、より集中力を高めていく。
「『――願わくば 如来真実にょらいしんじつの義を解せん』」
 祭壇を中心とした小さな空間に、少しずつ清浄な霊気が漂い始める。
 楓は大きく息を吸い込むと、静寂に沈んだ薄暗い船倉内に、朗々とした声を響かせた。
「『かくごとく我聞く
 一時ほとけ 王舎大城おうしゃだいじょう
 竹林精舎ちくりんそうじゃにましまして――』」
 毘沙門天の功徳を称える長い経文きょうもんを、透き通った声で高らかに詠唱していく。
「『――ほとけ此呪このしゅを説きおわり
 大地震動して 毘沙門天王出来いできたって――』」
 詠唱が半ばまで進んだ頃、祭壇に変化が起きた。
 海鳥やトビウオ、血液、髪が、七色に輝く眩い光に包まれたかと思うと、無数の光の粒となって霧散する。
 霧散した光の粒が、上空に舞い上がってゆっくりと渦を巻き始める。
 キラキラと光る星屑のような粒子たちが、銀河のように尾を引きながら、徐々に回転速度を上げていく。
「『――福徳を得んと欲する者は
 丑寅に向かって名号みょうごう
 一百八遍いっぴゃくはっぺん――』」
 楓と明から霊気が、梗子からは妖気が、その全身からもやのように立ち上り、光の粒子たちにスルスルと絡め取られていく。
「『――千二百五十人 ともに皆大歓喜し
 信受し 奉行しき』」
 長い詠唱を終えたとき、祭壇の真上には、直視することが叶わない程の強烈な輝きを放つ光の球が出現していた。
 楓は独鈷印を解くと、合掌して並べた親指を中指の間に入れ、両方の人差し指を中指の背につけた。対象に魂を入れるための、開眼かいげんの印である。
「非力なる我らを哀れみ、破邪はじゃの力を授けたまえ」
 祈りの言葉に呼応するように、光の球が明滅を開始する。
 楓が、カッと目を見開いた。
 目まぐるしくその色を変化させる光球を睨みつけると、腹の底から声を張り上げる。
「『オン・ベイシラマンダヤ・ソワカ』!」
 ゴオオオオオ……
 祭壇を中心に、荒れ狂う風が巻き起った。
 横殴りの風に煽られて、3人の髪や制服が激しくはためく。
 光球がコマのようにキュルキュルと回転しながら、急速にその形を変化させていく。
 キュオオオン……
 光球が、人のような形をとった。そして光の尾を引いて3人の頭上を2、3度飛び回ると、そのまま水晶製の勾玉へと落下していく。
 勾玉に、光の矢が突き刺さった。
 光が、猛烈な勢いで勾玉の中に吸い込まれていく。
 人型の懐紙が、その衝撃でバサバサと激しくめくれ上がる。
 勾玉から、燦然とした輝きが放たれる。
 そして。
 トラックとトレーラーが並ぶ船倉内に、薄闇と静寂が戻った。
(終わったみたいだな)
 半眼を保っていた明は、儀式の終了を気配で察すると、おそるおそる瞼を持ち上げてみる。
「――!」
 ひとりの少女が、祭壇の手前で静かに佇んでいた。
(これが式神……じゃなくて、護法童子か)
 怪異や妖たちよりも霊的次元に近い存在とされる、風の精霊に似た雰囲気を持つその少女に、明は瞬きも忘れて見入ってしまう。
 焦げ茶色のメッシュが入った短い白髪に、青みがかった銀色の肌。腰と顔の横には、トビウオのヒレが左右一対ずつ。腕の代わりに焦げ茶色の大きな翼を持ち、膝から下はピンク色の海鳥の脚となっている。
「……」
 少女が、ゆっくりとその美しいまなこを開いた。
 黒々としたつぶらな瞳が、明の姿を映し出す。
「あ……」
 明はとっさに声をかけようとして、しかし何を言えばいいのか分からず、声が宙に溶けていく。
 少女が、ふわりと浮き上がった。
 大きく翼を広げて、明の正面、間合いよりも少し遠いくらいの位置にゆっくりと着地する。
 少女の外見年齢は、およそ7、8歳。その華奢な身体には、紺色のホルターネックのような薄い衣服を身につけている。服の隙間からチラチラと見え隠れする胴体は、所々が白い羽毛で覆われているらしい。
 少女は、片膝を折って翼の先端を地面に触れさせると、頭を下げて平伏の姿勢を取った。
「皆々様方――」
 少女の口から、竜胆の花を想わせる、可憐でありながらも芯の強さを感じさせる凛とした声が滑り出てきた。
「ただ座して死を待つのみであったこの下賎なる身に、強大な力と新たなる形を授けていただいたこと。どれほどの感謝を重ねたところで、到底足りるものではございません」
 顔を上げると、強い決意を秘めた眼差しで、じっと明の顔を見つめる。
「この生命は、我があるじのもの。我が主の意思は、我が意思。我が主の願いは、我が願い。何なりとご命令を!」
「っ!?」
 少女が口にしたのは、従者が主君に対して固く忠誠を誓う言葉だった。式神はもちろんのこと、怪異や妖たちを従えたような経験が全く無い明は、この状況に大きな戸惑いを感じてしまう。
 助言を求めて楓の方を振り返ると、万事任せるとばかりに頷き返されるのみである。
 少女に視線を戻した明は、そのあどけない顔に浮かぶ真摯な表情を眺めながら、自分があるじとして振る舞うことについて考えてみる。
(確かに、護法童子に指令を出すなんて貴重な経験だよな。ここは後学のためにも、思い切ってこの子の主人の役をやってみるか)
 明は腹を括ると、姿勢を正し、なるべく威厳が感じられるように表情を引き締めた。
たけき毘沙門天の護法童子たる、海鳥と魚の少女に命ずる」
 普段より低い声でゆっくりと話してみたものの、やはりしっくりこないと感じてしまう。結局、明はすぐに普段通りの喋り方に戻すことにした。
「西洋の怪異・スキュラに対抗するために、力を貸してほしい。といっても、生まれたてで何が何だか分からないだろうし、まずは今までの経緯を説明するよ。その後で、スキュラを倒すための作戦会議をしようと思うんだけど……えっと、最初に何から話すのが良いかな」
 当初の威厳はどこへやら、明は困り顔で少女に笑いかけた。普段全く接する機会の無い年頃の少女を相手に指示や命令を出すというのは、職場の後輩に対するそれとはまるで勝手が違ってしまう。
「あ、あの」
 少女が、おずおずと明に話しかけてきた。
 そのまま沈黙が続いたので、明は話の続きを促してやる。
「恐れながら、申し上げます」
 少女が、ハキハキとした声で明に訴えかける。
「悪鬼羅刹を滅ぼすことこそが、我が役割と心得ております。それゆえ、ここは万事、このわたくしめにお任せいただきたく存じます」
「う、うん?」
 唐突な申し出に、明は一瞬だけ考え込んでしまう。
「……つまり、君が独りでスキュラに立ち向かうってこと? いや、ちょっと待って!」
 その意味するところを理解した明は、慌てて少女を押し留めようとした。
「そんなの無謀過ぎる! ただでさえあのスキュラは強過ぎるし、しかも凶暴ときている。ここは4人で連携して」
「それには及びません」
 凛とした声が、明の言葉を遮った。
 その瞳には、てこでも動かない固い決意が浮かんでいる。
「皆々様方のお手を煩わせるまでもございません。そのスキュラとやらを、完全に滅ぼしてご覧に入れましょう」
 言うや否や、明の答えを待たずにその場からサッと飛び立つと、目にも留まらぬ速さで船倉の天井を通り抜けて去ってしまった。
「え、そんな」
 呆然と天井を見上げる明。口を挟まずにやり取りを見守ってきた梗子と楓も、呆気に取られた顔で天井を見つめている。
 最初に我に返ったのは楓だった。
「早う、追いかけるで!」
 その声に弾かれるようにして、梗子がランタンを手に取って叫びながら走り出す。
「こっちだ!」
 楓と、そして明も慌てて梗子の後を追い始める。
 ランタンの明かりを頼りに暗い船倉を抜け、入り組んだ通路と階段を通過し、水密扉の固いハンドルを回して船の外へと飛び出す。
 息を切らして暴露甲板ばくろこうはんへと辿り着いた3人は、信じられない光景を目の当たりにした。
「ギャアアアアアッ!」
不動金縛ふどうかなしばり法!?」
 光るロープ――羂索けんさくにより雁字搦めに捕縛されたスキュラを見て、明が驚愕する。
「まさか、あの子が」
「とても信じられへん」
 楓が、小さく首を振った。
「あれは、生まれたての式神や護法童子に使えるような技やあらへんはずや。何かの間違いとしか」
「おい! あそこ!」
 梗子が、沖合を指さした。
 はるか沖合では、あの海坊主が相変わらずの爛々とした巨大な目で、こちらを薄気味悪く眺めている。しかし、梗子が指さしたのは海坊主ではない。
「あんな所で、一体何を」
 明は手すり越しに、海鳥と魚の少女が、幽世かくりよくらい天地の狭間で縦横無尽に飛び回る様子を、漠然とした不安が胸に湧くのを感じながらじっと見つめる。明の横に並んだ梗子と、そして楓も、少女がこれから何をしでかすつもりなのか、固唾を呑んで見届けようとしている。
 天高く舞い上がっていた少女が、翼を大きく広げたまま急降下を開始した。
 海面すれすれで身体を大きく傾けると、片翼で海面を薙ぐようにして一直線に水飛沫しぶきを起こし、「あかとき丸」の手前で急上昇する。
 跳ね上げられた水飛沫は、海面に戻ることなく少女の後を追う形で宙を漂い始めた。
「海水が……」
 翼が薙いだ海面からとめどなく水滴が立ち上り、少女の周囲を大きく取り巻く。
 少女が、苦悶の叫びを上げ続けるスキュラの上空で静止した。
 無数の水滴たちが、少女の周囲でチカチカとまたたき始める。
「『神火清明しんかせいめい、神水清明、神風清明』!」
 少女は邪気祓いのことばを高らかに唱えると、輝きを増していく水滴たちを翼に絡め取りながら、くるりくるりと舞い始めた。
「『無明むみょうを照らす 黎明の空
 迷妄めいもうなだめる 夕凪の海』!」
 少女の霊力を吸い取った無数の水滴たちが、宝石のような輝きを放ちながら上昇していく。
 鈍色の雲が立ち込めた昏い幽世の空に、宝石たちが星屑のように散りばめられる。
「『血潮ちしおに狂える 哀れな魔物を
 あまねく慈悲で 導きたまえ』!」
 少女の声に呼応するように、無数の宝石たちが何かの模様を形成していく。
「あ、あれは」
 遥か上空に出現したそれを見て、明は瞠目する。
 宝石のような輝きを放つ無数の水滴たちが形成したのは、巨大な幾何学模様だった。まるで砂絵を描くようにして創られたそれは、複雑に組み合わされた幾千もの図形と梵字で構成されている。
(あれは、マンダラ? いや、もっと似ているものがあるような……)
 明が何かに思い至る前に、ピタリと宙に静止した少女が、厳かに口を開いた。
「『――還元せよ』」
 幾何学模様の中心、スキュラのちょうど真上に、バチバチと稲妻のようなものを放つ高エネルギー体が出現する。
 少女は大きく翼を広げ、何とか拘束を解こうともがき続けるスキュラを睥睨すると、力の限りを込めて叫んだ。
「『ディープブルー・プラズマバースト』!」
 瞬間、高エネルギー体からスキュラに向かって、一筋の光線が照射された。光線はあっという間に柱くらいの太さとなり、スキュラの全身を飲み込んでいく。
「うっそだろ……」
 眼前で繰り広げられる光景に、3人は絶句した。
 明の脳裏に浮かんだのは、日曜日の朝に放送されている女児向けアニメの、荒唐無稽な戦闘シーン。
「いや、ありえねえって……」
「おい、かえで……いくらなんでも、加減間違えすぎだろ……」
 梗子が、引き攣った顔で光の柱を眺めている。
「せやなあ。3人でやる必要は、無かったかもしれへんなあ」
 楓が、のらりくらりとした返事をした。3人の中で最も余裕があるように見えるが、顔が青白いのは、何も高エネルギー体が放つ光のせいばかりでも無いらしい。
 バシュンッ。
 唐突に、光の柱が消失した。続けて、上空を覆っていた見事な幾何学模様も、お役御免とばかりに急速に薄れ、呆気なく消えてしまう。名残惜しさに、明は空を見上げたまま小さく嘆息する。
 それから、スキュラがいた場所に顔を戻した。そこには、ハンドボールくらいの大きさの魂が、ふよふよと浮かんでいる。
「あれ、どうしましょうか」
 明は、一応は楓に確認しつつ、数珠を片手にスキュラだった魂に歩み寄った。
「もう害は無いみたいやし、菊池君の好きにしたらええよ」
 手すりに寄りかかった楓が、気だるげな返事をする。
 明はその答えを背中で聞きながら、数珠を持つのとは反対の手で魂に触れようとした。
「おっと」
 魂が、明の手を逃れた。
 そのままふわふわと漂いながら、船を離れて海面を目指して去ってしまう。
「なるほど。余計なお世話ってことか」
 完全に浄化され、まっさらな状態にされてしまったらしい魂を見送りながら、明はふと、朝霧まりかの顔を思い浮かべた。
(朝霧なら、あのスキュラにどう対応したんだろうな)
 とてつもない力を秘めた彼女なら、もっと違った、それこそ平和的な帰結を導いていたかもしれない。
 スキュラだった魂が、海の底を目指して海中に没するのを眺めながら、明はしばし、感傷に浸る。
「あの海坊主、結局なんだったんだよ」
「分からへんけど、室長には報告せなあかんな」
 気がつくと、海坊主が海中に没しようとしていた。
 2つの巨大な目玉が海面下に沈んだところで、梗子がホッとした表情を見せる。
 海坊主が完全に消え去ると同時に、世界が幽世から現世うつしよへと鮮やかに塗り替えられた。数時間前まで吹き荒んでいた海風はそよ風へと変化し、灰色の雲の隙間からは空の蒼が顔を覗かせている。
「我があるじよ!」
「わっ!?」
 少女が、明の前に元気良く羽ばたいてきた。青みがかった銀色の肌と、腰と顔の横に付いた左右一対のトビウオのヒレが、現世の陽光を反射してキラキラと美しく輝いている。
 少女は、尾羽をぴょこぴょこと尻尾のように振りながら、期待に満ちた表情で明に訊ねた。
「見事にスキュラを滅ぼしてご覧に入れましたが、いかがでしたか?」
 あどけない顔に浮かぶ、純度100パーセントの眩しい笑顔。そんなものを向けられては、明としては褒めるしかない。
「え、えっと……うん、めちゃくちゃ凄かったよ」
「本当ですか!? 良かったです!」
 明の返答に少女は更に笑みを深めると、宙に浮かんだまま姿勢を正し、明に向かって深々と頭を下げた。
「これより後、我が命の尽きるまで。我が主の式神として、誠心誠意、務めさせていただくことを誓います」
「お、おう……ん?」
 改めて忠誠を誓う少女の言葉に、明はある違和感を覚える。
(式神? 護法童子じゃなくて? いや、それよりも何か重大なことを見落としている気が)
 明は、少女が出現してから現在までの少女の言動を、ひとつひとつ思い返してみる。
(……ちょっと待て。この子、ほとんど俺にしか話しかけてなくないか)
 明は、サッと梗子の方を振り向いた。すると梗子が、視線を逸らしながら数歩後退あとずさりする。
 今度は、楓の方を振り向いてみる。楓は既に、梗子よりも更に後方に退いていた。
「……確認なんだけど」
 ゆっくりと少女に向き直った明は、ゴクリと唾を飲み込むと、おそるおそるその重大な質問を口にした。
「主って、俺の事?」
 少女が、顔を上げて明を見つめた。焦げ茶色のメッシュが入った癖の無い細い髪が、青みがかった銀色の肌をそよそよと優しく撫でている。
 少女は、心の底から嬉しそうにニッコリと笑うと、元気な声で返事をした。
「――はい!」
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