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作者: こむらまこと
第10話 妖コンサートin横浜大さん橋〈五〉
 真夜中の大さん橋の送迎デッキで、まりかは欄干に寄りかかって横浜港の夜景を眺めている。「おじさん」も引き揚げ、辺りは既に幽世から現世うつしよへと戻っていたが、どうにもこのまま帰る気にはなれず、この場所でぼんやりと物思いにふけっている。
 まりかは、先ほどの自分とカナの演奏を思い返した。
 熱に浮かされたような高揚感と、かつて無いほどの曲への没入感。演奏中に何か異常事態が起きていたらしいことは、それとなく感じていた。しかし、あの高飛車なセイレーンまでもが退散したとなると、一体全体、自分たちは何を引き起こしたのだろうかと、空恐ろしくなってしまう。
 まりかはブンブンと首を振って、背筋を伝う寒気を振り払った。
 (ひとまず、このことについて考えるのは止めよう)
 考えを進めれば、必然的にカナの正体を追求することとなる。しかし、あの煮ても焼いても食えそうにない人魚に質問をぶつけたところで、煙に巻かれるのがオチだ。
 答えが出ないと分かっていることを、あれこれ考えても仕方がない。
 そこでまりかは、自身の胸に疼くモヤモヤした感情をどう処理すべきかについて考えることとする。
(私の作った曲に、あんな歌詞をつけるなんて)
 幻想的にライトアップされたベイブリッジの輪郭を視線でなぞりながら、カナが高らかに歌い上げたことばの数々を思い返す。
「……」
 ふと、横方向に気配を感じた。
 顔を向けると、デッキで寝そべっていたはずのカナが、小さな身体をだらりと欄干に預けて、同じく夜景を眺めていた。
 緩くウェーブのかかった白い髪が、潮風にそよいでカナの頬を優しく撫でている。先ほどの演奏について、彼女なりに思うところがあるのだろう。思いのほか真剣な表情で、蒼く光るベイブリッジを見つめている。
 まりかは、そのまま視線をベイブリッジに戻した。そして、目を閉じてゆっくりと自分自身を振り返ってみる。
 初めてなのに大成功だった、カナとの演奏。
 カナの歌の内容。
 昼間、フルートの手入れ中に言われた曲についての感想。
 伊豆大島での約束。
 そして、自分の過去。
 伊豆大島でカナと出会った時から抱いていた、 くらい想い。
 一体、自分は何者なのか。
(ああ、そうか)
 まりかは、そっと目を開いた。
(自分の悩みを、この押しかけ人魚に勝手に投影して、都合良く厄介者扱いしていただけだったんだ)
 とすれば、こんなわだかまりは、さっさと解消しておくに限る。
 そう決心した途端に、まりかの口からあっけないほどに、するりと重大な事実が押し出されていた。 
「私ね、赤ちゃんポストに捨てられてたの」
「……」
 カナが横目でまりかを見る。「赤ちゃんポスト」なる言葉は初めて耳にするものの、それがどういう物なのかは、大体見当がついた。
 カナは何も言わずに、まりかの話の続きを待つ。
 再び、沈黙が訪れた。時間差で、まりかの顔面がカッと熱くなる。
(どうして、何の考えもなしに話し始めちゃったのかしら)
 まりかは、散り散りになった思考や感情をどうにかまとめると、自身の出生について、たどたどしくカナに語り始めた。
風の乙女シルフィードのお母さんとはもちろん、人間のお父さんとも血の繋がりが無い、養子だってこと自体はね、物心ついた時からちゃんと教えてもらってたのよ」
 話しながら、腕を前に伸ばして手を広げてみる。
 まりかの手の形は、父と母、どちらのものとも似ていない。
「でも、私を引き取るまでの経緯とか、そういう細かい事情を教えてもらったのは、16歳の誕生日をしばらく過ぎた頃だったの。今思い返すと、お父さんもお母さんも、私のためにものすごく考えてくれたんだなってことが、とてもよく分かるわ」
 そう言って、まりかは切ない笑みを浮かべる。
「私はね、カナ。16歳になったら生みの親のことを教えてもらえるんだって、ずっと信じて疑わなかったのよ。生みのお母さんやお父さんは、今どこで何をしているのかなとか、できるなら会って、話して、一緒にご飯を食べたいなとか、そんなことをよく考えてたなあ」
 まりかの瞳に、ふっと陰が差した。
「まさか、何も分からないだなんて、思ってもみなかった。どうして、生みの親が分かるだなんてこと、ああまで信じ込めたのかしらね。おめでたいにも程があるわ」
 そう吐き捨てるように言ってから、子供時代の自分自身を嘲笑うような感情がまだ残っていたことに驚く。
 そしてカナは、そんなまりかを笑うでもなく、かといって同情を示すでもなく、ただただじっと耳を澄ましている。
「まあ、そういうわけで、当時の私は結構、というか、相当ショックを受けちゃって。月並みな表現だけど、足元が覚束無いというか、とにかく精神的に不安定な感じになってたなあ」
 そう、今となっては懐かしい思い出とばかりに、あっけらかんと語ってみせる。
「でも、その後色々あって、どうにかこうにか立ち直ることができたの。そのきっかけのひとつが、あの曲よ」
「ふむ、そういうことじゃったか」
 一拍置いて、得心したというようにカナが頷いた。
「お前さんの憤りや悲しみ、孤独感。そして、そこからの起死回生の物語を、あの曲で表現したというわけじゃな」
「そういうこと」
 まりかは、寂しげにクスリと笑った。10代の少女の、単純で青臭い感情が詰まった曲を読み解くことなど、この老獪な人魚にとっては児戯にも等しいのだろう。
 そんなまりかを、カナが怪訝そうに見つめる。
「まあ、曲の成り立ちについては分かったわい。しかし、そもそも何故にそのような話をしようという気になったんじゃ」
「そ、それは、その」
 まりかは言葉を詰まらせ、しばらく逡巡した後、躊躇いがちに説明した。
「あの曲は要するに、ちっぽけな人間の個人的な感情を叫んだだけのものでしょ。そこに、あんな壮大な歌詞を付けるだなんて。不釣り合いにも程があると思って」
 雄大な大自然の営みに比べれば、ひとりの人間の存在など塵芥も同然ではないか。あまりのアンバランスさに、まりかは羞恥すら感じる。
 しかし、まりかの回答に、カナはますます訝しんだ。
「そうか? わしは、不釣り合いなどとは思わんぞ。本当に不釣り合いならば、即興で歌詞を作るなど、わざわざするはずがなかろう」
「え? そ、そう。それなら、いいけど」
 具体的にどこがどう釣り合っているのかを聞いてみようかと一瞬だけ考え、やはり止めることにする。この人魚に過去の自分の作品を分析させるなど、どう考えても赤面するだけでは済まなくなる。
「ちなみに、曲の題名はなんというのじゃ」
「へっ?」
 カナの質問に、まりかの身体がピキっと固まる。
「題名じゃよ。呼び名が無いと不便であろう」
「そ、それもそうね」
 しばしの沈黙。
 そして、まりかが小声でそれを告げた。
「『運命の覇者』」
「……」
 答えたのに、何故かカナは何も言わない。
 まりかは慌てて説明を付け加える。
「あ、あのときはまだ10代だったし。あの時期特有の勢いというか、『波に乗るみたいにこの運命を乗りこなしてみせるぞ!』っていうよく分からない威勢の良さを発揮しちゃって、その」
 まりかの声が途中で途切れた。
 カナが、ポカンとした表情でまりかを見ている。
 しまったと思ったが、時すでに遅し。次の瞬間、カナがニタリと笑った。
「ほーん、そうかそうか。なるほどのう」
 カナが、愉快そうに何度も何度も頷く。
「若さゆえの勢いに乗った言動を、成長した後に振り返って羞恥に悶えるという習性が人間にはあるのか。いやあ、これは良いことを聞いたわい」
「そ、それ以上は言わないでっ!」
 たまらず、赤面したまりかが叫んだ。そして、頭を抱えて顔を伏せる。
(完全に、墓穴を掘った)
 どうやら自分は、この人魚の前では調子が狂ってしまうらしい。そして、きっとこの先も、こうして振り回され続けるのだろう。
 それでも、共に楽の音を奏で、そして自身の秘密をひとつ明かした今、カナの存在は、最早ただの乱入者ではなくなった。
 カナは、まりかの生活の一部になりつつある。
 そして、その事実が案外嫌ではないのだと、そっと心の片隅で、まりかは認めたのだった。



 横浜大さん橋の妖コンサートから数日後。
「やっと届いた!」
 まりかは、宅配便で届いたダンボールの中から喜び勇んで子供サイズの服を取り出すと、カナに向けてバッと広げて見せた。
「むう?」
 対するカナは、相変わらずの腰布1枚だけの姿で、胡散臭そうにその服をじろじろと眺める。
「あなたのために買った服よ。パーカーっていうの」
「ぱーかー?」
「騙されたと思って、ちょっと着てみてくれない?」
「むう」
 カナが、眉間の皺をますます深める。
「そう言われてものう。首の後ろに変な袋が付いとるし、いかにも暑そうなんじゃが」
「そこを、なんとか!」
「むむう」
「1回着てみれば、分かるはずだから!」
 ギュッとパーカーを握り締めて、熱烈な視線をカナに注ぐ。その視線の圧に耐えきれず、カナは深くため息をつくと、手を上げて降参の意を示した。 
「分かった、分かった。そうまで言うのならば、少しくらい付き合ってやるわい」
 言ってから、直前のまりかの発言に引っ掛かりを覚える。
(着てみれば分かる、だと? まるで、このわしが服を気に入るかのような言いっぷりじゃな)
 そのような事は天地がひっくりかえっても起こるはずがないのにと、まりかの涙ぐましい努力を心の中で密かに哀れむ。
 カナは、まりかからパーカーを受け取ると、先日のダウンコートの時と同じように、ぐるぐる回して全体をくまなく観察した。そして、これまた先日と同様に、自分にこの服を着せるように要求する。
「どれ、とくと体験させてもらうとするかの」
「はいはい」
 まりかは、カナの偉そうな態度を軽く受け流すと、手際良くパーカーをカナに被せて、片方ずつ丁寧に袖を通してやった。
 少し離れて、パーカーを着たカナの全身を眺めてみる。
「うん、サイズは問題ないみたいね。カナ、着心地はどう?」
「……」
 カナは、まりかの問いを無視し、うつむき加減でパーカーの袖に覆われた自分の腕を凝視している。
「カナ?」
 もしかして肌に合わなかったのだろうかと不安になり、そうっとカナの顔を覗き込む。
「ふ」
「ふ?」
 ふいに、カナの全身が震えた。
「ふ、服が」
 そして、ちぎれんばかりの勢いで首を振って顔を上げると、愕然とした表情で叫んだ。
「服がっ! 気持ち良いだとっ!?」
(ず、随分と大袈裟ね)
 まるで雷に打たれたかのようなカナの反応に、まりかは若干たじろいでしまう。
 今回、まりかがカナに与えたのは、膝上までの長さがあるワンピース型の黒いパーカーである。それだけならば何の変哲もない子供服だが、このパーカーには普通の服とは決定的に違う点があった。
 まりかは気を取り直して、服の着心地の良さに呆然自失中のカナに、この特別製パーカーについての解説をする。
「人間の中にもね、あなたみたいに肌がとても敏感で、服を着ると痛みや痒みを感じてしまう体質の人が存在するの」
 いわゆる感覚過敏などど呼ばれる症状だが、このパーカーには、その症状を最大限緩和させるための様々な工夫が施されている。
「肌に当たらないように縫い目は外側で、もちろんタグも無し。生地そのものも、肌への負担が少ない素材と加工方法が採用されているの」
 ちなみに外側に出た縫い目は、橙色のパイピングで飾られている。まりかは、カナを姿見の前に導くと、その頭にフードを被せてやった。
「これは、耳か?」
「ええ、猫の耳よ」
 カナは、姿見に写った自分と睨めっこしながら、フードに付いている三角形の布を、ひょこひょこと触って確かめる。ちなみに背中の下側の位置には、猫の尻尾のイラストが白色でプリントされている。生地の黒色と橙色のパイピング、そして白色の尻尾で三毛猫を表現しているらしい。
「まりかよ。わしは完敗した」
 カナは猫耳から手を離すと、腕を組んでまりかと向き合った。
「このわしの永劫ともいえる生において、服を着て心地良いと感じる日が訪れるとは、想像だにしていなかったわい」
「そ、そう。それは良かったわ」
 一体、今までどんな被服経験をしてきたのだろうかと、まりかは訝しむ。もしかしたら、単純に質の良い服を着たことが無かっただけなのかもしれない。
 ともあれ、気に入って貰えたのなら何よりである。まりかは、ホッと胸を撫で下ろす。
 そこへ、カナがいかにも残念そうな様子で首を横に振った。
「じゃがな、図々しいようではあるが、ひとつだけ言わせてもらうぞ。わしは、猫はあまり好かん」
 カナの言葉に、まりかはすかさず商品カタログを差し出す。
「それなら、他のデザインもあるわよ」
「ぬおっ!?」
 案の定、カナが勢いよく食いついた。
 カタログには、猫型以外にも様々なデザインのパーカーが掲載されていた。虎にカエル、ペンギン、犬、ウサギ、インコ、などなど。なかなか豊富なラインナップである。
「どう? あと2、3着くらいなら買ってあげられるけど」
 食い入るようにパンフレットを見つめるカナの姿に、まりかは作戦成功とほくそ笑む。
 まりかとしては、カナが猫型のパーカーに文句をつけるだろうことは想定済みだった。そこへ、選べる自由があることを提示するという、落として上げる大作戦。
 しかし、ここでカナがとんでもないことを言い出した。
「まりかよ、ここにあるもの全部買え」
「えっ」
 予想だにしなかったカナの要求に、まりかの全身が固まる。同時に、このくらい想定すべきだったと、詰めの甘さについて自分自身に叱咤する。
「ぜ、全部はちょっと。これ、結構高くって」
「まりかよ」
 往生際悪く拒否の意を示そうとするまりかを、カナがビシッと指さした。
「お主のワードローブには、多種多様な衣服が存在するではないか! しかも! あの簪の数々! わしそっちのけでお主だけが被服において贅を尽くそうなどとは、食客たるわしをあまりにも軽んじる行為であると言えるのではないか!?」
「そ、それは」
 簪のことを言われてしまうと、ぐうの音も出ない。
 とはいえ、このまま一方的にカナの要求を受け入れるのも癪なので、交換条件を提示することとする。
「そこまで言うなら、もう二度と腰布1枚の姿で外出しないと誓ってちょうだい。外出する時は、必ず服を着ること。良いわね?」
「無論じゃ」
 カナがあっさりと了承した。
「本当に?」
 まりかが疑り深く念押しする。
「本当じゃとも。支配者たるもの、約定を違えるようなことは絶対にせん」
 カナが、挑むような目をまりかに向ける。
「そういうお主こそ、たかが衣服に大枚はたく覚悟はあるのか?」
「ええ、もちろんよ!」
「うむ! これにて、交渉成立じゃな!」
 かくして、まりかとカナの間に横たわっていた最大の問題は無事に解決した。
 まりかは晴れ晴れとした気持ちで、カナに向かって右手を差し出す。
「それじゃあ、握手をしましょう」
「あくしゅ?」
 カナが首を傾げて、まりかの右手を見る。
「人間同士の挨拶のひとつよ。喜びや親愛の気持ちを通わせるという意味もあるの」
「ふうん」
 まりかの説明を不思議そうに聞くカナだったが、すぐに元通りの不敵な笑みを浮かべると、力強くまりかの手を握った。
「まりかよ。これより先、このわしをガッカリさせるようなことはあってはならぬぞ」
「ちょっと、こういうときは『よろしく』って言うのよ」
 訂正しつつも、いかにもこの人魚らしいと微笑ましく思う。
「むう、そうか。では、改めて。よろしくじゃ、まりか」
「ええ、これからよろしくね、カナ」
 まりかは、カナの金色の瞳をまっすぐに見つめると、紅葉のような小さな手をしっかりと握り返した。
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