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作者: こむらまこと
第70話 中ノ瀬航路あやかしロックフェス!〈ニ〉
 海洋怪異対策室の5人が話し合いの卓を囲んだ時には、既に日が傾き始めていた。
 事務室の隅にある作業机の最奥に室長の九鬼龍蔵が着席し、その右側に村上かけると榊原楓が、左側には菊池明と伊良部梗子が着席している。
 ちなみに、予算担当の一之瀬春は事務処理のため、渡辺隼人は休暇のために不在となっている。そして、明の式神であり今や立派な海異対の一員でもある水晶は、新たに発生した怪異・〈メルルファ〉との意思疎通を図るため、引き続き東京湾の上空を飛び回っているはずだった。
「身体が歌声だけで出来た、声だけの存在ねえ」
 村上が、急遽書店で購入してきた深緑色の本をめくりながら、ずり下がっていた眼鏡を指でかけ直す。
「要するに、空気中を伝搬する縦波、即ち音波が〈メルルファ〉の身体ということになるのでしょうか」
「だが、あくまでも霊力の少ない人間には感知できない怪異であることを考えると、そう単純なものでもないのだろう」
 九鬼は村上から本を受け取ると、ただでさえ厳つい顔を更に険しくしながら、カドゥケウスが描かれた深緑色の表紙に視線を落とした。
「『夢幻の国』、か。一体どういう了見で、外国の児童書の登場人物を日本の海に出現させようと考えたのだろうな」
 「夢幻の国」、正式には「グスタフと夢幻の国の物語」は、とある外国人作家よって執筆された児童向けファンタジー小説である。本が大好きな10歳の少年・グスタフが、ひょんなことから本の中の世界・マジックリッツに飛び込み大冒険を繰り広げることになるというのが大まかなストーリーとなるが、このうち、今回問題となっているメルルファが登場するのは一場面だけである。
 第五章「朽ちた神殿」にてメルルファは、廃墟と化した神殿に迷い込んできたグスタフに対し、自分は原初の巨人・アムティアの声から生まれた歌と予言の女神・メルルファであり、身体が声だけで出来ていると歌いながら語る。そこでグスタフは、自らも歌を作ることによってメルルファと心を通わそうとするのだが。
「……物語の中では、メルルファは人知れず消えゆくという自らの運命を嘆いているとあるな。菊池、〈メルルファ〉自身に関しては、完全に再現されていたのだな?」
「はい」
 明は九鬼から話を引き取ると、〈メルルファ〉の実地調査の結果について九鬼と村上に詳しく話し始めた。
 東京マーチスから海異対の事務室に戻った明と水晶は、先輩である梗子や楓と共に灯台見回り船「ゆめひかり」に乗り込んで、〈メルルファ〉が出現したとされる東京湾の中央へと向かった。その結果、〈メルルファ〉が未だ魂を持たない現象としての怪異であることや、第二海堡の北側に伸びる中ノ瀬なかのせ航路を中心として飛び回っている事などを確認したというわけである。
「――物語の中でグスタフが発したことばをそのまま使って話しかけると、物語の中のメルルファの詞がそっくりそのまま返ってきました。でも、俺達が考えた言葉に対しては、例えそれが歌や韻を踏んだ詩の形であっても明確な反応は得られなかったです」
「変な例えですけど、あの〈メルルファ〉はコンピュータのように自動的に反応しとるだけやと思います」
 明の説明を補足する形で、楓が自身の見解を述べる。
「それでも、『声』は敏感に察知しとるみたいで、うちや菊池君はもちろん、〈異形〉の梗子や式神の水晶が話しかけた時も、とりあえず近づいてきてはくれましたわ」
「つまり、無線交信する船員の声に引き寄せられているというわけか。船員にも、〈メルルファ〉の声をじかに聴いた者がいるかもしれないね」
 村上が、眉間に寄った皺を指で揉んだ。その目元には、ここのところずっと疲労の色が濃く表れているが、本人は何故かその事実を認めようとはしないでいる。
「遠くに行っちまったと思ったら、急に耳元に来て歌うからビックリするんだよな」
 その時のことを思い出したのか、梗子が耳を触りながら顔を顰めた。
「歌声はすげえ綺麗なんだけど、聴いてるとこっちまで悲しくなってくるというか、子供が泣いてるみたいにも聴こえるんだよ。まあ、これも本の通りっつう事になるんだろうけど」
「とにかく、現状では〈メルルファ〉との意思疎通は困難ということになるね」
 村上が、腕を組んでパイプ椅子の背もたれに背中を預けた。
「結界を張って捕らえようにも、そもそも〈メルルファ〉の大きさが分からない。声の『大きさ』なんてのも、おかしな言い方だけど」
「声に反応するっつうなら、ひたすら陀羅尼だらにとかお経とか聴かせてみたらどうだ?」 
「試す価値はある思うけど、飽きられてその場を去られるかもしれへんな」
「結局は、それがネックなんだよね。目に見える身体がなくて、1か所に留めておく手段が無いというのが」
「これは難儀ですわ……」
 当初の想定を上回る事態の困難さに、一同は難しい表情で考え込む。すると、九鬼が深緑色の本を閉じて机に置き、別の話題を振ってきた。
「菊池。海河童の件についても、皆に説明してくれ」
「そうですね、まだちゃんと話してませんでした」
 明は懐からあるものを取り出すと、机の中央に並べた。
 それを見た梗子が、訳がわからないという顔をする。
「これは、玩具おもちゃの無線機か? それに、合同庁舎の写真も。なんでまた、海河童がこんなものを?」
「ええ、それが……」
 東京マーチスを辞して横浜防災基地に戻る途中、明は水晶の術によって捕縛されていた海河童の元に立ち寄った。明の冷静かつ穏やかな事情聴取に対し、海河童は恐怖におののきながら洗いざらい喋った上で、証拠品を自ら進んで差し出してきたのだ。
「あの海河童は、元々は観音崎の辺りに住んでいたそうです。4日ほど前に眼鏡をかけた中肉中背の男が接触してきて、この無線機と写真をくれたと言っていました」
 海河童曰く、『自分の正体を隠したまま女の人とお喋りできる楽しい遊びがある』との触れ込みの元、無線機を手渡されたとのことである。半信半疑ながらもどうせ暇だからと使ってみたところ、これが意外と面白く、海河童は大いにハマってしまった。
 すると、次に男は合同庁舎の写真を示し、声の主たちがこの建物のどこかに居ると海河童に教えたという。
「それじゃあ、最初から西野さんを目的にしていたわけではなく、彼女の身重の体がたまたま目立ってしまったというわけか」
「そういう事みたいです。さっき管制室を出る前に、護符を貼って簡単な結界を作っておきました。また改めて強力なものを貼り直そうと思います」
 明の説明が終わると、一同の視線が無線機と写真に集まった。
「既に、ただの玩具に戻っているみたいだね」
 村上が、猫耳が付いた子供向けの無線機を取り上げてコツコツと指で叩いてみる。
「海河童から受け取って、すぐに確認したの?」
「それが、受け取る前に海河童に操作させてみたのですが、その時点で国際VHFの聴取は不可能になっていました」
「なるほどね……」
 村上は小さく唸ると、無線機を九鬼に手渡して写真を手に取った。
「1週間前か」
 写真の右下に刻字された日付を見て、普段は穏やかな表情が厳しいものになる。
「ネット上にあるフリー写真をプリントしたというわけでもなさそうだ」
「あの、ひとつ確認なんですけど」
 楓が、九鬼から受け取った無線機をまじまじと眺めながら質問する。
「国際VHFは、黙って聴くだけなら誰でも可能いうのは本当ですか」
「うん。こんな玩具じゃない、ちゃんとした無線機を買って、電波が良いところに行けばだけどね」
「ということは……」
 楓がゆっくりと、自身の推測を口にする。
「菊池君と海河童のやり取りも、聴かれとったんやないかという気がするんですわ」
「……だろうな」
 九鬼が、低い声で同意した。
 その場に沈黙が降り、足元から這い寄るような薄気味悪さが、この数週間の気まずい空気と相まって5人の間に重苦しく漂う。
 海河童の悪戯が解決した直後に〈メルルファ〉が怪異として出現したことは、恐らく偶然ではない。しかし、喉から出かかったその考えを、誰も口にしようとはしなかった。
 重い沈黙の中、九鬼が岩のような巨体をのっそりとパイプ椅子から持ち上げた。 
「そろそろ、東京マーチスと幹部を交えた緊急対策会議の時間だ。戻ったら、引き続き皆で有効な対策を考えよう」
「ついでに、管制室の結界も俺と室長で張り直しておくよ」
「すみません、よろしくお願いします」
 そういうわけで話し合いは一旦お開きとなり、事務室には楓と梗子、そして明の3人だけが残ったのだった。



 マグカップに紅茶を淹れながら、楓が何気ない風を装って明に話しかけてきた。
「そらあ、佐渡の海にサメ映画のサメが大量に出現するくらいやもんなあ。外国の児童書の登場人物が東京湾に出てきたって、なんも不思議なことはないやろ」
「ええ……」
 明は机の上で手を組んだまま、曖昧な表情で頷き返す。
「……」
「……」
「…………菊池君!」
 楓は机から立ち上がると、腰に手を当てて明の顔を覗き込んだ。
「いつになったら朝霧さんの事を室長と村上さんに話すんや。うちも、いつまでも待てへんで!」
「……すみません」
 楓のもっともな叱責に、明は観念して目を瞑った。
 朝霧まりかから、佐渡島で起きた一連の騒動の話を聞いた明は、苦慮の末に、楓と梗子のふたりだけに全ての事情を打ち明けていた。
 臼負い婆や大量発生したサメの怪異、そして姫埼灯台の封印の話を正確に伝えようとする場合、どう足掻いても朝霧まりかの異常なまでの霊力の強さや怪異への対処能力について触れないわけにはいかない。下手に誤魔化して断片的な情報を伝えたところで、すぐにボロが出ることは明白だった。
 それに何よりも、今の海異対には水晶がいる。水晶は、今でこそ明の式神となっているが、元々は戦勝神・毘沙門天の護法童子として、楓と梗子、明の3人がその力を捧げて授かった存在だった。そして、水晶にとっては明と同様に楓と梗子もまた、自らを生み出した創造主であり、言うなれば親のような存在となる。
 佐渡の海でサメの怪異を発生させた臼負い婆という妖は、海洋怪異対策室の名を口にしていたという。つまり、何かが違ったら、楓と梗子がサメとチェーンソーの苛烈な攻撃を受けていたかもしれないのだ。
 そして、明にはもうひとつ、強く懸念している事があった。
「別に、このまま黙ってたって良いんじゃねーの」
 この後すぐに打ち明けると言おうとしたところで、梗子が話に割り込んできた。
ワリィのは、菊池に不信感を抱かせた室長の方だろ」
「梗子!」
 楓が、だらしない姿勢でパイプ椅子に腰掛けている梗子をたしなめようとする。
「うちもそれは否定せえへんけど、今回は事情が事情やろ。私情を挟んでどうたら言うとる段階やないんや」
「それを言うなら、室長の方こそ何ひとつ肝心な事を話さねえじゃねえか!」
「それはやな――」
 明は、言い争いを始める先輩ふたりを眺めながら、九鬼と梗子の不和の原因となった出来事を思い返す。
 三浦の海で凄惨な最期を迎えた牛鬼の野分のわきと、それを目の当たりにした濡女の那智。完全に狂ってしまった那智の有り様に激怒した梗子は、楓の協力の元、城ヶ島に那智を移送して強力な結界を張った上で、定期的に城ヶ島に通うと宣言したのだ。
 そして、九鬼は真っ向からそれに反対した。
『伊良部。いくらお前が妖の血を引いた〈異形〉であろうと、海洋怪異対策室に所属する人間である以上、妖に対して情などかけるべきではない。これっきり、あの濡女の事は忘れろ』
 もちろん、梗子がそれに従うはずがなかった。これ以来、梗子は九鬼と口を利かなくなったばかりでなく、日課だった体術の稽古もぱたりと止めてしまったというわけである。
(俺は、室長の言い方にもかなり問題あると思うけどな)
 梗子の気質を理解していた九鬼が、あの言い方で梗子を怒らせる事を予想出来なかったはずがない。とすれば、あえてああいう言い方をしたという事になるのだろうが、明にとってそれは尚更理解に苦しむ事だった。
(最早、わざと嫌われるように仕向けているようにしか思えねえな)
 しかし、明はこうも考える。誰がどんな言い方をしたところで、梗子が自分の意志を曲げる事は無いのだろうと。現に、佐渡島にまで敵の魔の手が及んでいたという事実を踏まえた上で明と水晶が梗子の身を案じた後も、梗子は城ヶ島に通うのを止めようとはしないのだから。
「――この間も、県警の怪異対策課に行っとったやろ。室長は室長なりに、ちゃんと考えとるんやって」
「だから、そこで何を話してきたのかを俺らにも共有しろって話なんだよ!」
「せやから、それは」
 他に誰も事務室に居ないのを良い事に、存分に言い争いをする梗子と楓。後輩である明は、積極的に空気と化すことで平穏無事に嵐をやり過ごそうとする。
 そこへ、水晶が窓ガラスをすり抜けて事務室に飛び込んできた。
「ただいま戻りました」
「お帰り、水晶」
 明はサッと立ち上がって水晶を迎えると、その精力的な働きっぷりを目一杯ねぎらってやった。
「色んな方法でメルルファと話そうとしてみたのですが、決まりきった答えしか返ってきませんでした……」
「落ち込むことはないよ。必ず、何か良い方法があるはずだ」 
「ありがとうございます、我が主よ」
 そう言って小さく笑った水晶だったが、すぐに不安そうな顔つきになって梗子と楓の方を見る。
「あの……」
「別に何でもねえって!」
「そうや、何ともあらへん!」
 既に言い争いを止めていたふたりは、精一杯の笑顔を浮かべて水晶を安心させようとする。それでも水晶の顔から不安が消えないのを見て取った梗子は、強引にその場の空気を変えることにした。
「そういえば、打ち合わせに行けなくなったってサークルに連絡しようと思ってたんだった」
 自分のデスクの引き出しからスマホを取り出すと、フリップ入力で何かのメッセージを入力し始める。
「梗子、まだ勤務時間中やろ」
 すかさず楓が咎めるものの、梗子はどこ吹く風といった様子で入力を続ける。
「昼休み返上で対応してたんだから、仕方ねえだろ。というか、ドタキャンする方がよっぽど非常識だって」
「サークルって、社会人バンドのですか?」
「おう。次のライブでやる曲について相談しようと思ってたんだけど、まあ趣味でやってるやつだからな。今日くらい休んだって何ともねえよ」
 高速で指を動かしながら答える梗子だったが、水晶がキョトンとこちらを見ているのに気がつくと、スマホの画面に写真を表示して水晶に見せた。
「ほら、これがバンドのメンバーだよ。俺が持ってるのがエレキギターってやつだ。それでこっちが――」
 さっきまでとは打って変わって、楽しそうにバンドの話をする梗子。そんな梗子の横顔を眺めながら、物事への向き合い方が自分とは根本的に異なるのだろうということを明はつくづく実感する。
(俺が同じ立場だったら、とてもじゃないけど楽器演奏をしようだなんて気にはなれないだろうけど)
 だが、気性が激しく直情的な梗子には、家に引き込もって鬱々と過ごすよりも、怒りや悲しみといった感情を演奏に乗せて叫ぶやり方が、合っているのだろう。
 歌に、想いを――
「そうか!」
 その閃きに、明は思わず椅子から立ち上がった。
「なんや、いきなり」
「歌です! 歌うことでしか伝えられないというのなら、歌に全てを込めれば良いんですよ!」
「はあ?」
 明は、自身の考えを早口で楓たちに説明した。
 その内容に、楓が呆れと感心が入り混じったような目で明を見る。
「よくもまあ、そないなこと思いつくなあ」
「ただ、この方法はかなりの部分を伊良部さんに頼ってしまうことになってしまいますが……」
 おそるおそる梗子の反応を伺った明だったが、それは全くの杞憂に終わった。
「…………頼ってくれて大いに結構」
 梗子が、青色と黒褐色の蛇の鱗が薄っすらと覆う顔に、不敵な笑みを浮かべた。その口元には、小さく鋭い2本の牙がキラリと光っている。
 明たちが見守る中、梗子は大仰な仕草でガッツポーズをすると、高らかにその決意を表明したのだった。
「怪異や妖の影にコソコソ隠れた臆病者共の陰気臭い企みなんざ、俺らのロックで爽快にぶっ飛ばしてやろうぜ!!」
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