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作者: 月緋ノア
残酷な描写あり R-15
名前をください
名前を取り戻したリノアを見つめていたのは——
 ――
 名前のない女にももちろん、その声は届いていた。耳を通して脳を揺さぶり、心音を昂らせる響き。琥珀色の瞳が震え、目尻を湿らせるほどの。
 リノアを初めて見た瞬間から燻っていたその想いがなんなのか、彼女にはまだわからない。しかし、朧げながらもその輪郭を掴み始めていた。
 名前のない女の目には、リノアが名前を失っていた時でさえ黒い太陽に見えていた。何者にも染まらぬ漆黒のくせに強烈な輝きを見せるそれが、眩しくて仕方がなかったのだ。
 そして今、領主を前にしてさらに増したそれを目にし、女は焦がれる。

「どうして私は――」

 ああではないのだろう、と女は思ってしまった。思ってしまったのだ。
 彼女は頭の中で何かが弾けるような音を聞いた。そこから溢れ出したのは、自らを縛り付けていた使命感や血の本能などという鎖を融解させるほどの熱だった。

「ああこれが……これが私なのですね」

 生まれてからずっと刷り込まれてきた種族の使命と、自らの商品としての使い方。他者の本質を見極め、欲するものを理解する力の扱い方。
 それでもついぞ与えられることのなかった名前。その理由が、やっと彼女にも理解できたのだ。
 ぺたんと尻餅をついて、彼女は俯く。

「これを自覚させないために、私は道具として――種族としてのルジュヴィとして育てられたのですね。これはとても、苦しくて、悲しい……」

 とうとうと滴る涙が、床を濡らした。

「それでも、私は……」
 
 ゆっくりと彼女が顔を上げた先で、リノアと視線が交わった。声を出そうと女が口を開けた途端、身体が浮き上がるほどの激しい揺れが彼女を襲う。
 胸の内から本能的な恐怖が迫り上がってきて、女は動けない。震える身体で、震える瞳でリノアを見つめることしかできなかった。
 リノアが自分の方向へと駆け出すのを、女の両目が捉える。焦りを露わにした表情が目に焼き付くも、黒い輝きが微塵も失われていないのがわかった。

「急ごう。一緒に行くんだ、お前も」

 迷いなく手を差し伸べるリノアを、眩しそうに見つめる名前のない女。その手を震えながらも握り返そうとして、しかしふるふると首を振る。
 そんな彼女の手を、リノアが強引に掴んだ。

「そんな顔で強がったって説得力ない。そんな顔をするお前だから、わたしはお前が欲しいんだ」

 リノアの真剣な声音とまっすぐな眼差し。それを直視できなかった女は、目を逸らす。いじらしくリノアの胸元を見つめ、女は声を絞り出した。

「名前」
「うん?」
「約束……しました。
「……そうしたら、わたしと来てくれるんだな」

 女が頷く。
 地響きも、降り注ぐ埃も止むことはない。それどころか、近づいていた。一刻も早く離れるべきなのは二人とも理解している。
 しかし、互いにこれが必要なことだとわかっていたのだ。だから二人とも、見つめ合ったまま一歩も動かない。――ふらつきながら、土埃を被りながらも。
 程なくしてリノアが意を決したように口を開いた。その唇がなぞる言葉を、女はじっと見つめる。

「……。わたしがおま――あなたに贈る名前だ。首に刻む必要は、ない」
「? どうしてですか?」
「それは、あなたがわたしの隣に立つ道連れだから。わたしがあなたを見て見つけた――あなたの礎を言葉にしただけだから」
「よく、わかりません」

 そう言葉にしながらも、ミアベルの口元は綻んでいた。心の中で己の名前を繰り返しながら、馴染ませている。彼女は自分の心に、ミアベルという名前がかっちりと噛み合う感覚を覚えていた。

「それでもいいから、一緒に行こう。とにかくここから離れないと。――アールセン!」
「はいはい、ようやくお呼びかリノア。早くしないと、建物が崩れてくるぞ」

 まるで最初からそこにいたかのように、アールセンがわずかな空気の流れとともに姿を表した。その光景にミアベルは驚きを隠せなかったものの、そういえば先ほどもそうだったと無理やり自分を納得させる。

「わかってる。アールセンはミアベルを頼む」
「それはいいが、お前さんはどうするんだ? 速度は落ちるが二人とも運べないわけじゃないぞ?」
「それでもミアベル一人なら確実だろう? わたしのことなら大丈夫だ、一人でも脱出できる」

 断言したリノアに、アールセンはそれ以上食い下がらなかった。ミアベルを抱き抱えると、風を感じる方向に向かって足を向ける。
 一方ミアベルは浮かない表情だった。また自分がリノアの足枷となってしまっていると、自責の念に駆られている。

「そんな顔しなくていいんだ、ミアベル。わたしもすぐに追いつく。わたしの強さも、脚の速さも知ってるはずだろう?」

 ミアベルが頷くよりも早く、アールセンが風に身を任せた。ふうわりとした浮遊感とともに二人が加速し、外へと向かう。
 その時、先刻とは比較にならないほどの衝撃がオークション会場に波及した。
 
「うおっ……まずいな、風の流れが」
「そんな、リノアさんっ。止まってくださいアールセンさん、助けに行かないと」
「いいや。あいつは大丈夫と言った。信じるんだ。あいつには、――の加護がある」
「え……?」

 アールセンは振り返ることなく、一瞥すらくれることなく出口へと向かって風に乗って走った。今優先すべきはミアベルの安全であり、余計なことをして自ら向かい風に飛び込むことはないのだ。
 抱き抱えられたミアベルは崩落する建物を見つめながら、黒い太陽のことを思った。あの輝きが失われることがありませんようにと。

「くそ……あんなやつが来るなんて聞いてないぞ」

 落下する瓦礫の雨を風を読み、そして風を巻き起こして避けながら、アールセンは憎々しげに視線を持ち上げる。そこには穴だらけになったドームの天井と、この事件を引き起こした元凶がいた。

「あれはまさか。どうしてこんなところに」
「それはわからん。わからんが、あいつは厄介だ。早く離れないとまずい」

 アールセンの目も、肌もすでに感じ取っている。
 見えている巨大な手よりも、その大顎から滴り落ちる涎こそが、脅威であることを。もちろん天井を破壊したのはその手だ。しかしそれを容易にしたものこそ、彼女の口内で分泌される涎だ。
 それに触れてはならない。それだけはあってはならないと、風の噂で知っていたのだ。

「アールセンさん、それこそリノアさんのところに戻らないと」
「ダメだ。あそこはもう、瓦礫に囲まれちまってる。安心しろ。嬢ちゃんを外に送ったら、助けに戻るさ」
「……はい」

 ミアベルは唇を噛んだ。
 まただ、自分のせいで何もかもが遅れをとっている。リノアにしてもアールセンにしても、自分という枷がなければもっと思いのまま動けるのにと、思ってやまない。

「アールセンさん」
「お、なんだ?」

 ドームの出口は目と鼻の先だった。端までこれば落ちてくる瓦礫の量も遥かに少ない。しかも逃げ惑う観客とは違い、アールセンは少し上空を駆けているためにロスが少なく辿り着けたのだった。

「下ろしてください。ここから先は一人で、行けますから」
「なあ、ミアベルちゃん」
「はい?」

 ミアベルの言葉に耳を貸すことなく、アールセンは空色の瞳で優しく彼女を見据えた。

「重荷になっているわけじゃないんだ。俺も、あいつもお前さんが欲しくてやっている。そんな大事な宝石に、傷をつけるわけにはいかないんだ。だから、そのお願いは聞けないな」

 ウインクをミアベルに送り、アールセンはこのくらいなんでもないと笑ってみせる。
 それからは二人とも無言で、観客たちの悲鳴と慟哭の中を風のようにすり抜けていった。そして太陽の下へと辿り着き、手近な建物の上へと落ち着く。

「ふう。ここまでこればひとまず問題ないだろう」

 安堵のため息をこぼすアールセン。その顔には汗すら浮かんでおらず、疲れすらも滲んでいない。飄々とした顔で、ドームを襲撃した存在に目を向ける。

「噂よりもずっと大きいなあれは」

 それはまるで、山がそのまま動いているかのような様相だった。
 緑に赤、黄色に茶色に染まった木々が鱗を突き破って生えており、背中を彩っている。それは瞬きをする間にも巡り巡り、常に色が変化していた。
 ドームを食い破らんとする大顎は雪崩の如く雄大で、巨大な手よりもさらに大きい。
 ミアベルはその姿に恐怖よりも先に感動が浮かんだのだった。

「綺麗……」
「自然が牙を剥くと言えば聞こえはいいが、あれは意志を持つ大災禍だ。綺麗に見えるのは、その恐ろしさに感覚が麻痺したからだろう。見てみろ」

 アールセンの指差す方向へと視線を向け、ミアベルは戦慄を覚えた。
 山のような巨体が過ぎ去った後には崩れ去った建物の残骸と、潰れた住民たちの亡骸だけが横たわっている。そして命あったものからも、そうでなかったものからも色とりどりの植物が目を出していた。

「あれの通る場所にもとよりあったものは朽ち果て、新たな花々が芽吹く。死と再生の権化だ。それに意志があるんだ。そんなものに滅ぼされて仕方ないなどと割り切れるか、嬢ちゃんは」
「私は……」

 ミアベルは今も街を揺らす大災禍を見つめて、胸に手を当てた。

「割り切りたくありません」
「それでこそリノアの見つけた宝石だ。なら、ここであいつを信じて待つのもお前さんの役割だ」

 はい、と頷いて祈るように手を合わせるミアベル。それを一瞥し、アールセンはまたも憎悪の籠った空色の瞳で大顎を開ける山を見据えた。

「大地のエシフ――レイナス・アメリウム。なぜお前はこんなところまで来たんだ。お前の何が、お前を大嫌いな街にまで連れてきたんだ」

 この日、レイナス・アメリウムによってディケムの街は惨憺たる被害に見舞われた。
 彼女が自我に目覚めたその時以来、実に長い長い時が経っていた。
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