残酷な描写あり
R-15
魂に刻まれしその名は
例の会場の熱気はひどいものだった。その最中をリノアは登壇した。
ルジュヴィオークションの会場はひどい熱気に包まれていた。
そもそもが真っ昼間から行われる領主公認の競売会だ。それに加えて会場に集まった、色や種族も様々な亜人の富裕層たちが異様な盛り上がりを見せている。
それもそのはず。
歓楽街で衆目に晒された女は、今は失われた人間――ファルの姿をしていたのだ。その価値は計り知れず――誰もが我先にと手に入れようと目をぎらぎらとさせている。
「みなさま、大変お待たせいたしました。此度の目玉も目玉、大目玉の登場です! その姿は遥か昔に我らが侵略し尽くしたファルであります。それだけで価値がありましょう彼女は、見目麗しく、強く、そして何者にも染まらぬ可憐な純白を身に纏いこの場に登場いたしますっ!」
声高な叫びとともに、強い光が舞台へと照りつける。精霊を集めてマナをふんだんに使った精霊光炉の光が、何本も同じ場所に集まっていた。
「うわ、眩しいな。こんなところに行くのか?」
薄墨色の肌の女は舞台裏からその光景を見つめ、ぼやきながらため息をついた。さすがにあれだけのことを言われると出て行くのにも抵抗があるというものだ。
「そもそも本当に来るのか?」
彼女はここに来るまでに記憶の糸を手繰り寄せ、ぼんやりとした記憶ながらも男の声を思い出していた。
『必ずお前さんを盗み出してみせる』
名前はアールセンといったか。軽薄そうな男だったことは覚えていたから、信頼を置くには足りないなあと臙脂色の瞳がじっとりと滲む。
「仕方ない。ここまで来たら行くしかないか」
野生的な髪を揺らし、女は足を踏み出した。
この会場で行われていることを、その意味を女はまだ詳しく知らない。だからこそ、進むことができた。
もしも名前を持つ存在であったなら、意地でもここから前には進まないだろう。しかし名前を失った彼女は、もう進むしかないことを本能で理解していたのだ。
「さあみなさま、ご覧ください! 始めに手を挙げるのは誰だぁっ?」
「うるさいな……」
降り注ぐ光の雨に目が眩み、女は咄嗟に腕を持ち上げた。それと同時に、つんざかんばかりの歓声が耳に届いた。身の毛がよだつほどのそれを全身に受けながら、女はゆっくりと目を開ける。
「……ぁ」
女の視界の端から端までを何かが蠢いていた。それは口々に聞き取れない声を発し、ねっとりと絡みつくような視線をよこし、そのどれもが、歪みに満ちているように、女の目には映った。
滲むように揺れ続ける動の塊である世界に臙脂色の目を見開き、瞳が震えている。耳は音の濁流に呑み込まれ、もはや機能しなくなっていた。口の中が渇き、粘ついてくるのさえも、彼女の意識からは遠い。
「……わたしは」
女のか細く呟いた声は、いとも容易くかき消される。
次に繋ぐそれを彼女は持たなかった。
それを叫ぶことができたのならば、この状況の全てをひっくり返せるかもしれないとさえ、女は感じた。
女は自らの薄い唇を噛み締めて、鮮血をこぼす。
「わたしは――誰だ?」
「それは我が決めてやろう、ファルの女」
声とともに舞台に降り立つ、黒い影。
閃く漆黒の翼は光をも呑み込み、黒色の肌は闇そのもののように深い。ぬめりと艶めく銀色の双眸だけが、やけに目立つ。
「我の名はアルティム。ここの領主であり、秩序であり混沌。喜べ、我を見惚れさせるなど、そうはおらぬ」
「名前……わたしの、名前は」
女はアルティムの言葉など聞こえていないかのようにうわごとを吐き出し続けている。その瞳は混沌の奧を見据え、何かをずっと探し続けていた。
「名前など我が決めてやろう。この場でお前が我の所有物であることを証明してみせようじゃないか。それに我ならば、相応しい名を与えられる」
陶酔するアルティムは、女の様子など見てはいない。会場の全てに誇示するように声を張り上げ、両腕を広げている。
会場はすでに静まり返っていた。誰もが口を挟めず、むしろどこか哀れみを含む瞳で、舞台上の二人へと視線を送り続けている。そこには好奇心など微塵もないかのようだった。
「その顔をよく見せるがいい。虚に沈むその顔に、実を与えてやるのだ、とく見せよ」
女の肌色すらも薄く見える濃い闇が女の頬へと伸び、顔をもたげた。
臙脂色の瞳が、銀の瞳にまとわりつく山吹色に焦点を合わせる。
「ぁ……お前、は」
視覚情報が女の脳を刺激する。それは花が咲くように広がっていき、記憶回路へと流れ込んだ。紐解かれていくのは、彼女の母親の記憶だ。
「お前の名前は――」
『これは世界との唯一の繋がりだから、絶対に忘れるんじゃないぞ。お前の名前は――』
記憶の中で彼女の母親が照れくさそうに微笑んだ。その瞳は力強い銀色で、そこには全てを見通す深さがあった。そしてどこまでも、楽しむような色が。
母親の唇の動きをなぞるように、女の唇が重なる。アルティムの唇もまた――同じ動作を辿った。
『――リノア』
リノアの発した言葉が会場の全てに波及していく。それに呼応した太く逞しいそれが、アルティムを殴りつけリノアから引き剥がす。
「うお、なんだそれは……そんな莫迦な。まさか」
アルティムの目にはそれがはっきりと見えていた。
それとは、白銀の煌めきの中に青を融かしたような色合いの、力強くうねる尻尾のことである。
リノアの臀部の上方から生えた――骨盤と同じ幅はあるであろう扁平の長い尾が、アルティムの側面を捉えたのだ。
その光景は、リノアの目にもしかと捉えられていた。
「これは、いったい……?」
「ふふ、ふははははっ! ヴァルティエ、貴様とんでもないものを隠していたようだなっ! くくく、これは面白い! 是が非でもリノア――お前を殺さなくてはならなくなったっ」
リノアの困惑をよそにアルティムは高笑いし、楽しげな表情の奥底に憎悪を宿した。銀の瞳は獣のように細くなり、アルティムの本来の顔を作り出す。
「何を言って――」
「知らないまま死ぬほうがいいぞ。我が直々に手を下す、それが意味となるのだ、お前がリノアという名前である限りっ!」
「意味がわからない」
わけのわからないリノアにも、アルティムが自分へと向ける剥き出しの敵意だけは間違えようがなかった。身構えるとともに、新たな自分の一部へと意思を伝達するが――どうにも伝わらない。
「なにこれ。どうやって動かしたらいいんだ?」
「見掛け倒しか、だがこちらにとっては都合がいい」
アルティムが踏み出し飛び込もうとしたが、突如発生した竜巻に阻まれる。冷静に後退り、顔を顰めた。そのまま力任せに腕を振り抜き、竜巻を切り裂く。
「おっと危ねえ。邪魔するぜ旦那。リノアは俺の大切な相棒でね、簡単に殺されちゃあ困るんだ」
切り裂かれた竜巻の中には大剣と、それを盾にしたアールセンがいた。
リノアの記憶とは違う――カジュアルなシャツとパンツスタイルに、巨大な鍔のある帽子をかぶっている。
「よぉリノア、予告通り盗みに来たぜ?」
「え…………じゃあお前が、風影?」
「ご明察。宝石を見つけたお前さんにご褒美ってわけだ。というか、領主相手じゃアレ意味ないしな」
アールセンが茶目っ気混じりにウインクを投げ、手で自らの背後を示す。その先でアルティムが鼻で笑った。
「小賢しい盗人風情がよくもまぁ顔を出せたものだな。こそこそしていれば手を下さずとも良かったものを」
「いやいや、これでもあんたの同胞にお願いされた身でね。そう易々と投げ出すわけにもいかんのよ。だからあんたの前にも顔を出したってわけ」
「逃げ切れると思っているのか?」
「さあな。それでも俺は怪盗だから、盗み去ってみせるぜ?」
アルティムは言葉通りの余裕を見せているが、隙がない。不用意に動けばすぐにでも捕まってしまいそうな威圧感を放ち続けている。
対するアールセンもまた、軽い調子で大剣を引き抜くとリノアへと投げた。
「ほらよ、届け物だ。初めて使うにはこれ以上ない機会だろう? 思う存分やればいいんだからな」
リノアは受け取った大剣をまじまじと眺めた。へんてこな見た目ながら吸い付くように手に馴染む感覚と、どことない懐かしさを覚える。
「……はいはい。確かに遠慮はいらなそうだ。ありがとう、アールセン」
「ん? おう。……調子狂うな」
軽率に背中を見せたアールセンをアルティムが腕で薙ぎ払う。しかしアールセンは風のようにたち消え、アルティムの側面へと移動し、得物のステッキを繰り出す。それをいなしつつ突き出した手はまたもアールセンを捉えることはない。
「逃げるのだけは上手じゃないか」
「旦那、それは褒め言葉だぜ? 俺はかち合うのは専門外だからよ」
飄々とアルティムの猛攻をかわしつつ、アールセンがリノアへと一瞬視線を投げた。
「こんのっ!」
間髪入れずリノアが大剣を振り抜くも、それは虚空を切り裂くだけだった。視線がアルティムの行方を追うがそれより早く、リノアの尻尾が何者かを捉え、妙な手応えを認識させる。
「当たったのか……?」
「厄介な尻尾だな。守るのだけは得意らしい」
アルティムが薄笑いを浮かべた。しかし何かに気がついたように視線をついと上げる。
「む……? なるほど、今までにない動きだ。こんなところまで来るとはな。原因は……考えるまでもないか」
そして、リノアへと顔を向けため息をついた。
「たとえヴァルティエが小細工をしようと、お前はこうして縛られている」
「なんのことだ?」
「そんなことは自分の目で確かめるのだな。何も知らないのならば、教える義理もない。それでもその名前の示すところまで辿り着くのなら――」
アルティムはくつくつと嗤う。
「見ていてやろう。なにより面白そうだからな。できればその先まで見せてみろ。我らはいつだって退屈しているからなあ」
舞台の黒に溶けるようにアルティムが姿を消すのを見届けて、リノアはへたり込んだ。長い息を吐き、肩をすくめる。
「……外って、わけわかんないことばっかりだ」
リノアの声が静かなオークション会場に響き渡った。
会場にいた誰も彼もが、状況を呑み込めず黙り込むばかりだったらしい。ぽつりぽつりと上がる声が、熱が冷めたように解散の気配を醸し出している。
「まあそう拗ねるなよ」
「拗ねてない」
「華麗に盗むとはいかなかったが、結果的にはお前さんを連れていけそうだ」
「そう。……あ、もう一人いるんだった」
リノアは座り込んだまま首と目を動かして、自分が出てきた舞台への入り口へと振り返った。
そこにはリノアと同じく力なく座り込んだプラチナブロンドの女がいた。どことなく顔色が悪く、血の気が引いているようだった。
「あの子も一緒に……アールセン?」
「風向きが、変わった? これは大地の? いやそれ以上の? これは……」
アールセンは取り乱していた。軽妙な気配も、掴みどころのなさもどこかへ置き去りにしたように。
それを見つめるリノアの尻尾が、ぴくりと跳ねた。
「ぁ――この感覚」
「巨大な穢れが来るぞ、リノア。あの子を連れてここから今すぐ離れなければ」
弾かれたように駆け出した二人を、強烈な地響きが襲った。
そもそもが真っ昼間から行われる領主公認の競売会だ。それに加えて会場に集まった、色や種族も様々な亜人の富裕層たちが異様な盛り上がりを見せている。
それもそのはず。
歓楽街で衆目に晒された女は、今は失われた人間――ファルの姿をしていたのだ。その価値は計り知れず――誰もが我先にと手に入れようと目をぎらぎらとさせている。
「みなさま、大変お待たせいたしました。此度の目玉も目玉、大目玉の登場です! その姿は遥か昔に我らが侵略し尽くしたファルであります。それだけで価値がありましょう彼女は、見目麗しく、強く、そして何者にも染まらぬ可憐な純白を身に纏いこの場に登場いたしますっ!」
声高な叫びとともに、強い光が舞台へと照りつける。精霊を集めてマナをふんだんに使った精霊光炉の光が、何本も同じ場所に集まっていた。
「うわ、眩しいな。こんなところに行くのか?」
薄墨色の肌の女は舞台裏からその光景を見つめ、ぼやきながらため息をついた。さすがにあれだけのことを言われると出て行くのにも抵抗があるというものだ。
「そもそも本当に来るのか?」
彼女はここに来るまでに記憶の糸を手繰り寄せ、ぼんやりとした記憶ながらも男の声を思い出していた。
『必ずお前さんを盗み出してみせる』
名前はアールセンといったか。軽薄そうな男だったことは覚えていたから、信頼を置くには足りないなあと臙脂色の瞳がじっとりと滲む。
「仕方ない。ここまで来たら行くしかないか」
野生的な髪を揺らし、女は足を踏み出した。
この会場で行われていることを、その意味を女はまだ詳しく知らない。だからこそ、進むことができた。
もしも名前を持つ存在であったなら、意地でもここから前には進まないだろう。しかし名前を失った彼女は、もう進むしかないことを本能で理解していたのだ。
「さあみなさま、ご覧ください! 始めに手を挙げるのは誰だぁっ?」
「うるさいな……」
降り注ぐ光の雨に目が眩み、女は咄嗟に腕を持ち上げた。それと同時に、つんざかんばかりの歓声が耳に届いた。身の毛がよだつほどのそれを全身に受けながら、女はゆっくりと目を開ける。
「……ぁ」
女の視界の端から端までを何かが蠢いていた。それは口々に聞き取れない声を発し、ねっとりと絡みつくような視線をよこし、そのどれもが、歪みに満ちているように、女の目には映った。
滲むように揺れ続ける動の塊である世界に臙脂色の目を見開き、瞳が震えている。耳は音の濁流に呑み込まれ、もはや機能しなくなっていた。口の中が渇き、粘ついてくるのさえも、彼女の意識からは遠い。
「……わたしは」
女のか細く呟いた声は、いとも容易くかき消される。
次に繋ぐそれを彼女は持たなかった。
それを叫ぶことができたのならば、この状況の全てをひっくり返せるかもしれないとさえ、女は感じた。
女は自らの薄い唇を噛み締めて、鮮血をこぼす。
「わたしは――誰だ?」
「それは我が決めてやろう、ファルの女」
声とともに舞台に降り立つ、黒い影。
閃く漆黒の翼は光をも呑み込み、黒色の肌は闇そのもののように深い。ぬめりと艶めく銀色の双眸だけが、やけに目立つ。
「我の名はアルティム。ここの領主であり、秩序であり混沌。喜べ、我を見惚れさせるなど、そうはおらぬ」
「名前……わたしの、名前は」
女はアルティムの言葉など聞こえていないかのようにうわごとを吐き出し続けている。その瞳は混沌の奧を見据え、何かをずっと探し続けていた。
「名前など我が決めてやろう。この場でお前が我の所有物であることを証明してみせようじゃないか。それに我ならば、相応しい名を与えられる」
陶酔するアルティムは、女の様子など見てはいない。会場の全てに誇示するように声を張り上げ、両腕を広げている。
会場はすでに静まり返っていた。誰もが口を挟めず、むしろどこか哀れみを含む瞳で、舞台上の二人へと視線を送り続けている。そこには好奇心など微塵もないかのようだった。
「その顔をよく見せるがいい。虚に沈むその顔に、実を与えてやるのだ、とく見せよ」
女の肌色すらも薄く見える濃い闇が女の頬へと伸び、顔をもたげた。
臙脂色の瞳が、銀の瞳にまとわりつく山吹色に焦点を合わせる。
「ぁ……お前、は」
視覚情報が女の脳を刺激する。それは花が咲くように広がっていき、記憶回路へと流れ込んだ。紐解かれていくのは、彼女の母親の記憶だ。
「お前の名前は――」
『これは世界との唯一の繋がりだから、絶対に忘れるんじゃないぞ。お前の名前は――』
記憶の中で彼女の母親が照れくさそうに微笑んだ。その瞳は力強い銀色で、そこには全てを見通す深さがあった。そしてどこまでも、楽しむような色が。
母親の唇の動きをなぞるように、女の唇が重なる。アルティムの唇もまた――同じ動作を辿った。
『――リノア』
リノアの発した言葉が会場の全てに波及していく。それに呼応した太く逞しいそれが、アルティムを殴りつけリノアから引き剥がす。
「うお、なんだそれは……そんな莫迦な。まさか」
アルティムの目にはそれがはっきりと見えていた。
それとは、白銀の煌めきの中に青を融かしたような色合いの、力強くうねる尻尾のことである。
リノアの臀部の上方から生えた――骨盤と同じ幅はあるであろう扁平の長い尾が、アルティムの側面を捉えたのだ。
その光景は、リノアの目にもしかと捉えられていた。
「これは、いったい……?」
「ふふ、ふははははっ! ヴァルティエ、貴様とんでもないものを隠していたようだなっ! くくく、これは面白い! 是が非でもリノア――お前を殺さなくてはならなくなったっ」
リノアの困惑をよそにアルティムは高笑いし、楽しげな表情の奥底に憎悪を宿した。銀の瞳は獣のように細くなり、アルティムの本来の顔を作り出す。
「何を言って――」
「知らないまま死ぬほうがいいぞ。我が直々に手を下す、それが意味となるのだ、お前がリノアという名前である限りっ!」
「意味がわからない」
わけのわからないリノアにも、アルティムが自分へと向ける剥き出しの敵意だけは間違えようがなかった。身構えるとともに、新たな自分の一部へと意思を伝達するが――どうにも伝わらない。
「なにこれ。どうやって動かしたらいいんだ?」
「見掛け倒しか、だがこちらにとっては都合がいい」
アルティムが踏み出し飛び込もうとしたが、突如発生した竜巻に阻まれる。冷静に後退り、顔を顰めた。そのまま力任せに腕を振り抜き、竜巻を切り裂く。
「おっと危ねえ。邪魔するぜ旦那。リノアは俺の大切な相棒でね、簡単に殺されちゃあ困るんだ」
切り裂かれた竜巻の中には大剣と、それを盾にしたアールセンがいた。
リノアの記憶とは違う――カジュアルなシャツとパンツスタイルに、巨大な鍔のある帽子をかぶっている。
「よぉリノア、予告通り盗みに来たぜ?」
「え…………じゃあお前が、風影?」
「ご明察。宝石を見つけたお前さんにご褒美ってわけだ。というか、領主相手じゃアレ意味ないしな」
アールセンが茶目っ気混じりにウインクを投げ、手で自らの背後を示す。その先でアルティムが鼻で笑った。
「小賢しい盗人風情がよくもまぁ顔を出せたものだな。こそこそしていれば手を下さずとも良かったものを」
「いやいや、これでもあんたの同胞にお願いされた身でね。そう易々と投げ出すわけにもいかんのよ。だからあんたの前にも顔を出したってわけ」
「逃げ切れると思っているのか?」
「さあな。それでも俺は怪盗だから、盗み去ってみせるぜ?」
アルティムは言葉通りの余裕を見せているが、隙がない。不用意に動けばすぐにでも捕まってしまいそうな威圧感を放ち続けている。
対するアールセンもまた、軽い調子で大剣を引き抜くとリノアへと投げた。
「ほらよ、届け物だ。初めて使うにはこれ以上ない機会だろう? 思う存分やればいいんだからな」
リノアは受け取った大剣をまじまじと眺めた。へんてこな見た目ながら吸い付くように手に馴染む感覚と、どことない懐かしさを覚える。
「……はいはい。確かに遠慮はいらなそうだ。ありがとう、アールセン」
「ん? おう。……調子狂うな」
軽率に背中を見せたアールセンをアルティムが腕で薙ぎ払う。しかしアールセンは風のようにたち消え、アルティムの側面へと移動し、得物のステッキを繰り出す。それをいなしつつ突き出した手はまたもアールセンを捉えることはない。
「逃げるのだけは上手じゃないか」
「旦那、それは褒め言葉だぜ? 俺はかち合うのは専門外だからよ」
飄々とアルティムの猛攻をかわしつつ、アールセンがリノアへと一瞬視線を投げた。
「こんのっ!」
間髪入れずリノアが大剣を振り抜くも、それは虚空を切り裂くだけだった。視線がアルティムの行方を追うがそれより早く、リノアの尻尾が何者かを捉え、妙な手応えを認識させる。
「当たったのか……?」
「厄介な尻尾だな。守るのだけは得意らしい」
アルティムが薄笑いを浮かべた。しかし何かに気がついたように視線をついと上げる。
「む……? なるほど、今までにない動きだ。こんなところまで来るとはな。原因は……考えるまでもないか」
そして、リノアへと顔を向けため息をついた。
「たとえヴァルティエが小細工をしようと、お前はこうして縛られている」
「なんのことだ?」
「そんなことは自分の目で確かめるのだな。何も知らないのならば、教える義理もない。それでもその名前の示すところまで辿り着くのなら――」
アルティムはくつくつと嗤う。
「見ていてやろう。なにより面白そうだからな。できればその先まで見せてみろ。我らはいつだって退屈しているからなあ」
舞台の黒に溶けるようにアルティムが姿を消すのを見届けて、リノアはへたり込んだ。長い息を吐き、肩をすくめる。
「……外って、わけわかんないことばっかりだ」
リノアの声が静かなオークション会場に響き渡った。
会場にいた誰も彼もが、状況を呑み込めず黙り込むばかりだったらしい。ぽつりぽつりと上がる声が、熱が冷めたように解散の気配を醸し出している。
「まあそう拗ねるなよ」
「拗ねてない」
「華麗に盗むとはいかなかったが、結果的にはお前さんを連れていけそうだ」
「そう。……あ、もう一人いるんだった」
リノアは座り込んだまま首と目を動かして、自分が出てきた舞台への入り口へと振り返った。
そこにはリノアと同じく力なく座り込んだプラチナブロンドの女がいた。どことなく顔色が悪く、血の気が引いているようだった。
「あの子も一緒に……アールセン?」
「風向きが、変わった? これは大地の? いやそれ以上の? これは……」
アールセンは取り乱していた。軽妙な気配も、掴みどころのなさもどこかへ置き去りにしたように。
それを見つめるリノアの尻尾が、ぴくりと跳ねた。
「ぁ――この感覚」
「巨大な穢れが来るぞ、リノア。あの子を連れてここから今すぐ離れなければ」
弾かれたように駆け出した二人を、強烈な地響きが襲った。