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作者: 月緋ノア
残酷な描写あり R-15
銀色の頁:渇望の一閃
リノアは活路を見出すために、ヴァルティエへと駆ける。
 力強い踏み込みと共にリノアがヴァルティエの懐へ入りこみ、拳を振り上げる。それをヴァルティエは容易くいなすが、リノアは止まらない。さらなる踏み込みと共に拳を突き出し、姿勢移動と共に蹴りを繰り出す。
 アンウルの光に照らし出された薄墨色と黒色のしなやかなぶつかり合い。一挙手一投足が舞のように美しくも、殺し合いの如く激しかった。
 リノアは全力だが、ヴァルティエは明らかに手を抜いている。
 何かを待つように受け流しといなしを繰り返し、リノアが受けやすい攻撃を繰り返す。だが、ヴァルティエは少しずつ、本当に少しずつ速度と威力を上げていった。

「まるで手解きだな。だがこのままでは」

 リノアが一方的に負けるだろう、と風影は冷静に分析していた。彼女らが巻き起こす暑苦しくも芳醇な嵐に酔いしれながらも、そんな気配を敏感に肌で感じ取っている。ヴァルティエの意図がわからないまま、その渦に引き込まれるようにして風影は成り行きを見守る。

「お前の意地とやらはこんなものか?」
「まだまだ、わたしは」
「つまらない強がりばかり、見苦しいねえ」

 防戦一方となりつつあったリノアの腹部にヴァルティエの無慈悲な掌底が刺さり、身体が大きくぐらついた。そこにすかさず飛び上がったヴァルティエの蹴りが追い打ちをかける。しかしそれはリノアの交差した腕を狙ったことで、あえて致命傷を避けていた。
 リノアは後ろに大きくのけ反りながら、後退りながらもその一撃を耐えきってみせる。だが、体勢を立て直すや否や、掌底をもらった腹部を手で庇うように頽れた。

「弱い弱い。まだまだそれでは足りないな。世界はお前の思うほど甘くない。悪いが連れ戻させてもらうぞ、リノア?」
「嫌だ、わたしは世界の果てを、見るんだ」
「そんな夢だけで生きていられるほどお前の背負うものは甘くないんだ」
「ぁ……」

 リノアの眼前にヴァルティエの手が迫る。恐怖に陰るリノアの表情はしかし、強い意志を持ってそれを睨みつけた。

「わたしの」

 停滞した空間に、一陣の風が起こる。
 いち早くそれに気がついたのは風影だった。空気が重く濁りながらも吹き上がるのを目にしたのだ。その暴風の目をを探すうちに、風影はリノアの姿に何かが重なるのを捉えた。それは一瞬だけ――見間違いと言われればそれまでの、違和感にも近いものだった。

「わたしの――への渇望は、もう止められはしない」

 両目を見開き、自らに言い聞かせるように言葉を発して、リノアはヴァルティエの手を弾き返すことだけを考えた。両腕も、両足もすでに間に合わない。しかし、それを行えるだけの何かがあることをリノアは頭の片隅で知覚した。
 神経が迸る。それが己の自覚する器を突き破り外へと逃げていくのをリノアは感じた。何もない空間へと伸びていった自らの神経が認識したそれが、腕よりも、足よりも早くに反射行動を起こす。
 リノアの目前で、ヴァルティエの手が勢いよく弾かれた。下から上へと、薙ぎ払われるように。
 ヴァルティエはびりびりと痺れる手を見つめ、満足げに頷く。そして指を一つ弾いてフィールドを解除した。
 ひんやりとした夜風が、リノアの頬を撫でる。

「よしよし、これで終わり」
「え?」
「やれたじゃないかリノア。うりうり、随分ともったいぶるじゃないかい」

 敵意を完全に消したヴァルティエはリノアを抱き寄せ、頭をこねくり回すように撫でる。困惑するリノアは、ヴァルティエの豊満な乳房へと押し込められており身動きが取れない。

「やっぱりあたいの可愛いリノアは最高だ」
「ちょっと、ヴァルティエ……どうして」
「どうして? これがあたいが親としてお前さんに触れられる最後の機会かもしれないからさ。最後くらいは褒めて、可愛がって送り出したいじゃないか。たとえそこが、千尋の谷かもしれなくても」

 なおも頭を撫でられ続けたリノアは視界の揺れを感じていた。しかし何かの合図のように強く、強く抱きしめられると、ヴァルティエによる褒美は唐突に終わった。
 ヴァルティエの細指が、リノアの頬に滑り込む。

「その感覚を忘れるんじゃないよ? もしもの時、お前さんを助けてくれるはずさ。そしていつか、自分のものにするんだよ」
「ヴァルティエ……?」

 物悲しい顔をするヴァルティエを、リノアはこの時初めて目にしたように思う。
 リノアの頬からひんやりとした感触がなくなると、身体にひっついていた温もりも離れていった。

「さて、こいつのことは任せたよ風影。さっさと盗んでいっちまいな」
「それは盗むとは言わないだろう」
「ぐだぐだ抜かすなら、その正体を暴いて逆さ吊りにしてやろうか?」
「分かった。謹んで盗ませていただく」

 風影がリノアの懐へと滑り込み、軽々と持ち上げた。彼がリノアに覚えた違和感はすでになく、見た目通りの肉体の感触だけを風が感じ取る。そのことに首を傾げるも、重く受け止めることはなく風影は踵を返した。
 街の明かりが煌々としており、二人の視界を埋め尽くしている。

「ああそうだ、忘れていた」
「まだ何かあるのか」
「そう言うなよ、せっかちな男は好かれないぞ?」
「ふん、俺には好かれたいと思う女なぞいない」

 そうかい、とヴァルティエは薄く笑い指を鳴らした。
 軽快な音と共に、空間が歪む。

「リノア、お前に餞別だ。きっと気に入る」

 ヴァルティエがそこから引っ張り出したのは――リノアの身の丈はあるだろう大剣だった。
 片側に拵えられた白銀の刃は斬るよりも叩き潰すが似合い、もう片側に設えられた刃は鋭利であり、切り裂く目的だろうが短く使いづらそうである。二つの持ち手が存在しているが剣身は綺麗に癒着しており、簡単には外れそうにない。
 大きな素材から切り出されたと思われる大きな刃と、とってつけられたような小さな刃。一つの意志によって創造されたとはとても思えないアンバランスさが、そこにはある。

「変な見た目」

 というのがリノアの一見した感想だった。

「けれど、もらっておく。――ありがとう」
「ああ、存分に使え」

 抱き抱えられたままのリノアはそれを握ってすらいないが、どことなくしっくりくるような気がしていた。だから、どれだけヘンテコな見た目であろうと持って行くことを選んだ。

「ならそいつも俺が運んでいってやるよ」

 その言葉通りに風が不恰好な大剣に纏わりつき、ゆらゆらと浮かせた。重みがなくなったかのようにリノアのそばへと寄ってきて、空中で安定する。

「それじゃあな、領主サマ」
「ああ、リノアを泣かせたら承知しないぞ」

 風影は鼻を鳴らすと駆け出した。
 ふうわりと吹き抜けるように、浮かび上がるが如く軽い足取りで、次々に街の上を走り抜けていく。リノアを抱えているとは思えないほどの速度だ。

「とりあえず街を出るまではこの感じで行くから我慢してくれ。酔うなよ?」
「わかった」
「どうしたよ」
「なんでもない」

 リノアは風に乗ってくる街の喧騒が遠くなるのを感じていた。首を捻って街を見下ろすと、少しずつ明かりが消えていくのが目に映る。下の明かりが消えていくにつれ、頭上の明かりが眩しく感じられるのを、リノアは不思議な心持ちで眺めていた。

「しおらしくなっちまって。さっきまでの強い目が嘘みたいだぞ、嬢ちゃん」

 リノアからの返事はない。
 肩透かしを食らった気分になって、風影は黙り込んだ。ただただ無言で風とともに走ることだけに注力する。
 しばらくそのまま、二人とも一言も発することなく夜空を駆けていると、リノアが不意に口を開いた。

「初めて見る、景色なんだ」
「……ああ」
「ヴァルティエの街ってこんなに広くて明るかったんだ。知らなかったな」
「そうか」

 感傷に浸る時間も人間には必要なのだと、風影は聞いたことがある。だから上手く返せなくとも、相槌を打つことだけはした。こういう顔をした女にどう対応していいか、風影には知識も経験もない。

「ねえ、世界ってこんな感じなのかな?」
「いいや。こんな街だけじゃない。何もない荒野だってあるし、一面水で覆われた場所も、緑色の世界だってある」
「物知りなんだ」
「ああ。俺はどこにだって行ったことがあるからな」

 誰かを盗んだとて、こんな会話になることなどなかったのだ。彼が盗んだ原石と呼ばれるものたちは、従属という枷から解き放たれた喜びでいっぱいで、感傷的になる存在などほとんどいなかったのだから。

「後悔してるのか?」
「ううん、驚いただけ。わたしの知ってる世界とは全然違うから」
「それなら、ここから先はもっと驚くことになるだろうさ」

 そっか、とリノアは疲れたように頭を振る。一息ついたことで身体中が悲鳴を上げていることにようやく気がついたのだ。それと同時に襲いくる、休息を誘う呼び声に抗う術を彼女は持たない。

「眠っていろ。風の旋律がいい子守唄になる」
「子供扱い、するな。わたしは」

 どれだけの時間をあの場所で過ごしていたのかを思い出そうとして、リノアの意識は遠ざかった。思考が泥濘としてきて、ぬめりと広がり判然としなくなっていく。
 やがて穏やかな寝息を立て始めたリノアの顔を、風影は見つめた。

「そんなはずはないんだが。……っといけない、俺まで感傷に浸るなんて余程感化されているらしい。――なあ、そうだろう?」

 その先の言葉を、風影は口にしなかった。
 街は程なくして静けさを取り戻し、まどろみへと誘われていくようだった。

「さて、少し遠いがアジトに戻るか。そろそろあれの時期だしな。なんにせよ嬢ちゃんが眠っているのが幸いだ。今回は怪盗らしいところを何も見せられなかったし、少しは格好つけとくか」

 誰に対して? そんなものは決まっている。
 自分自身だ。
 一際高い尖塔の先端に難なく着地した風影は、彼らの月を見上げた。
 風影を取り巻く風が鳴りを潜めていく。
 ここで初めて、怪盗の姿が露わになった。

「あんたが信頼に足るなら、この姿だっていつか見せてやるさ」

 光に照らされ、煌めく空色のショートカット。ライムグリーンの透き通る瞳は微笑を醸し、薄い唇が人形のように整えられた顔によく映えている。
 飾りっ気のない薄緑のブラウスはアンウルの光により白く見え、濃緑のパンツは闇から浮かび上がったように存在感がある。彼が自然と好んで着こなすカジュアルなスタイルだが、目を引くのは右手の側で浮遊する白銀のステッキと、一際大きなツバを持つ白のシルクハット。帽子には彼の髪の色と同じ色のラインがあしらわれている。

「風の導きと、大怪盗の恩寵の在らんことを」

 ステッキがクルクルと風影の周囲を回るとともに、彼の姿は風に溶けていく。
 尖塔から飛び降りた彼は、風に掻き消されて影すらも残さなかった。
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