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作者: 月緋ノア
残酷な描写あり R-15
銀色の頁:隠者と顔無し
エジダイハによって投げられた先で、リノアは風と出会った。
 行け――リノアはそう言われた気がした。放り投げられる直前、銀色のエジダイハが己の方を向いて口を動かしたように見えたのである。
 瞬きののちにリノアは浮遊感と、風を切り裂く感覚を全身で感じた。
 そう、それは彼女にとって初めての夜空を舞っている感触だった。
 満天の星空に浮かぶ二つのアンウル、その光はまるで真っ暗な闇を叩き割って涙がこぼれ落ちているようだった。
 リノアの背に翼はない。それでも空に向けて放り投げられた彼女は、まだ上昇している。やがてそれは落下に変わるだろうが、飛んでいる感覚なんていうものを彼女は得ていた。

「綺麗だ、この世界は。わたしは、あんな四角い空しか知らなかったのね……なんて残酷で、なんて優しい」

 リノアはほんの少しだけ苦い顔をした。胸の奥から滲み出す感情をゆっくりと咀嚼したがその味がわからない。漠然とした何かが広がっていくばかりで、リノア自身が追いついていないのだ。しかし、それが広がっていくにつれて溢れ出す別の何かの存在も感じていた。
 胸の高鳴りと、脳の興奮。
 その意味がわからないまま、リノアは自らの重さを身をもって感じることとなった。
 落下が始まったのである。

「ああ……遠ざかる。手が届きそうなくらいの空が、どんどん遠く……なる」

 つぶやいた声を置き去りにしながら、リノアは落ちる。双眸はまだ星空を捉え、手は光へと伸ばされたまま、落ちていく。

「放り投げたってことは、あんたにはいらないってことだよな? なんつって」

 風がリノアの下から噴き上げる。彼女を取り巻き、渦巻きながら人に似た形を作り上げていくと、何もない空間から朧げな存在が表出した。

「ようやく見つけたぜ、風に聞く忘れ形見。まさかと思っていたが、噂は本当だったらしい」
「誰……?」
「おっとすまない。顔は見せられないもんでね」

 リノアの耳に男の声は聞こえているが、姿は見えていない。光を浴びているにも関わらず男の姿は判然とせず、どこか靄がかかったように色彩すらも明瞭でない。しかし男はリノアを空の真ん中で姫のように抱き抱えており、落ちることもなく、ただただそこで静止していた。

「さてひとまず、地上に降りるか。風に乗った気分でいるといい」

 ふうわりとした声音がリノアの耳に吹き抜けると、男の言葉通りふわふわと風に乗ったように彼女の身体が揺れながら降下して行く。
 やがてヴァルティエの城から少し離れた城下町の一角にある建物の屋根に降り立った。
 周囲を警戒しながら男はふうと長い息を吐く。そしてリノアを下ろし、男の輪郭が静かになった空を見上げた。

「アルーシェは去ったか。潔く賢明なことで。だが願わくばもう少し粘って欲しかったなあ。夜じゃなければ俺たちにもとっくに追っ手が向けられているだろうからね」
「お前は一体……?」
「ああ、名乗るのが遅くなったな。俺は怪盗――風影って呼ばれてる。お前さんの名前はなんというのかな?」
「わたしは……リノア。その、怪盗って?」

 リノアが首を傾げるのを見て、怪盗風影は堪えきれず吹き出した。

「くくっ……珍しいな。この領土にいながら怪盗を知らないとは。まあ、アジトはこっちじゃないし仕方ないか」
「答える気があるの?」
「すまない。つい、な。そうだなあ……簡単に言えば、怪盗ってのは人でも物でも、なんでも奪い去っていく悪者のことさ」
「悪者? わたしを助けてくれたのに?」

 よくわからないといった様子で疑問符を浮かべるリノアに、呆れたようにため息をつく風影。しかしどこか、その言葉は弾む。

「助けたのとは違うさ。あの領主――ヴァルティエからお前さんを盗んでやるのさ、俺は」
「ほう、それは困る。あたいの領土、しかもあたいのお膝元であたいの一番の宝を盗まれちゃあね」
「おわっと」

 リノアの身体が風に乗って舞い上がり、襲撃者の一撃を難なく避ける。そのままひょいと風影の腕にもう一度抱えられ、隣の建物へと風影と共に飛び移る。

「さすがに身軽じゃないか。それでこそ高名な、この世界二人目の怪盗ってやつだねえ」
「一人目には風になったって敵いやしないよ」
「ああそうとも。あの女はあたいの知る限り、同種族の中でも明らかに異常だった」
「だろう?」

 風影に抱えられるリノアは、ずっと話についていけていない。それどころか、緊迫感のない二人に対しての疑問が先行する。

「どうして、そんなに悠長に会話ができるの?」
「そりゃあ、ヴァルティエに敵意を感じないからさ。さっきのだってその領主サマにとっちゃあ遊びの範疇さ。暴風には程遠い、隙間風みたいなものだよ」
「なぜ?」

 風影の答えにまたもリノアは困惑し、疑問符を次々に浮かべる。彼女には今の状況が全く理解できておらず、どうしていいかわからない。だから、動くこともできずに風に抱かれてそわそわと浮いている。

「それはリノア、あたいはお前の選択に委ねようと思ってるからに他ならない」
「選択?」
「あらら、あたいが育てたのに察しが悪いな。先行きが不安になるじゃないか。なあ風影」
「俺に訊くなよ。ちっ……あんた、本当に噂通りじゃないか。よほどのが楽しいらしい」

 顔が見えないのに苦笑いをしているのがわかる。それくらいに風影の声は戸惑いを含んでいた。それを見てヴァルティエはくつくつと笑い、リノアは相変わらず呆然としている。
 遠くでは、エジダイハを撃退したことを喜ぶ兵士たちの喧騒が飛び交っており、彼ら三人のことなど誰も気に留めていない。
 ヴァルティエが生を謳歌する故である。

「リノア。お前にはここで二つの選択肢があるんだよ」

 ヴァルティエが天高く聳える二つのアンウルに視線を移す。

「あたいの元へすんなりと戻ってくるか、その無礼で顔も見せない盗人と共に行くかだ。あたいを選ぶならば、そいつを叩き潰してお前を連れ戻すし、そいつを選ぶならば――」

 大袈裟に言葉を区切るヴァルティエに、リノアは生唾を飲み込む。

「あたいにその覚悟を見せてみるんだね」
「はは、さすがは名高いヴァルティエ様だ。この状況から俺が逃げきれないことをよく分かっていらっしゃる」

 風影が優しくリノアを屋根に下ろし、一歩下がる。

「だが優しいんだな。あんたの腕なら問答無用で俺を制圧できたはずだ」
「ここは重要な分岐点なのだよ、怪盗くん」

 ふふんと鼻歌混じりに笑うヴァルティエ。やがてその顔が立ち尽くすばかりのリノアに向けられた。

「どうだリノア、世界にその足で立った気分は」

 どこか他人行儀とした、それでいて今まで通りのようなヴァルティエの声。それに応え、リノアは心の動くままに自分の目に見える世界を見渡した。
 夜でも光を失わない空と街。
 硝煙のにおいと耳障りなほどの喧騒を、風が運んできて。
 ざらついた味と、手を伸ばしてもどこにも手が届かない感覚に、リノアの胸が踊る。

「広い。わたしはどこまでこの世界が続くのか、何があるのか見てみたい、と思う。だから――あの四角い空しか見えない場所には戻りたく、ない」
「ふふん。よし、決まりだね。それでこそ紛れもない生者というもの。……そうと決まれば、少しだけ身体を動かそう。あたいにその渇望を、心とやらの動きを見せてくれ」

 ヴァルティエがぱちんと指を鳴らすと、彼女の足元から波紋が広がった。それはリノアを通り越し、風影を通り越して少ししてから、止まる。
 喧騒が消え失せ、風の流れが停滞した。

「シェイフェルってのも万能だな。まるで奇術師だ」
「お前に褒められても嬉しくないなあ。怪盗の方がよほど奇術師だろうに」
「これはいつもの、フィールド?」

 ヴァルティエが頷く。
 外界から切り離され、相互不干渉となった空間のことを彼女ら二人はフィールドと呼ぶ。幼い頃からリノアはそこでヴァルティエに体術を、生き残り方を教わっていた。
 未だかつて、リノアがヴァルティエに勝てた試しはない。今でさえ、赤子の手をひねるように負けてしまうほどだ。

「さて、やろうか。いつも通りでいい」
「わかった」
「風の流るるままに任せるとするかね。ここでは風の流れも感じないのが不安を煽るが」

 建物の屋根は広くない。リノアの元々いた部屋よりは遥かに広いが、お世辞にも動き回るには適していない。正面からの衝突しか道はないだろう。
 先に動いたのはヴァルティエ。しなやかで艶のある黒色の右腕を振りかぶりつつ、瞬く間に距離を詰める。彼女は武器などもたずその身一つでリノアに迫る。

「そのか弱い人の身の可能性を見せてみろ」
「くっ」

 リノアは一歩下がり紙一重でヴァルティエの一撃をかわす。そのままその腕を掴み、背負い投げた。しかし途中ですり抜けられ、見事に着地された。そのまま振り返りざまにヴァルティエが脚を繰り出し、リノアはそれを左腕に右手を添えつつ受けた。
 薄墨色の腕がみしみしと音を立てるも、リノアはそれをかろうじて凌ぎ切る。

「ぐっ、重い」
「いい判断力だが」

 ヴァルティエが左足で地面を踏み締め、力を込めて身体を捻る。すると、いとも容易くリノアの身体が吹き飛ばされた。
 リノアの身体は屋根の上を勢いよく転がる。彼女の身体がとった無意識の行動のおかげで、彼女の腕、身体ともにダメージは少ない。しかし勢いは殺せないまま転がっていき、屋根の端の段差に背中を強打した。

「あうっ……」
「ふぅん? やはり実戦での頭の回転は瞠るものがある。さっきまでの莫迦な顔がまるで嘘みたいだ」
「なるほどな、力の加わる瞬間に脚を浮かせたのか。しかしどうやってだ? そんなに反応が良かったようには見えないが」

 風影の目には、リノアが自分の意思で飛び上がったようには到底見えなかった。彼の目にはごくごく自然な形で脚が浮いたように映ったのである。それだけではない。彼は空気の震えに微かな違和感を覚えた。
 リノアが立ち上がるのを横目に捉えると、その姿を凝視する。

「見た目はあいつとよく似ている。種族的にはほぼ同じだろう。だが、風の噂ではあいつはすでに――」
「ふふん、あまり無粋なことをするなよ? お前の在り方そのものをあたいは評価してるんだからさ。失望させないでおくれよ」
「そりゃどうも」
「何の話、してるんだ。わたしはまだ、戦える」

 力強く声を出すリノアはしかし、足元がふらついていた。背中への打撃と回転が効いており、視界がぐらつき息も荒い。

「そうでなくては、この先の細道は歩けんだろうさ」

 ヴァルティエは嬉しそうに表情を和らげた後、次は楽しそうに口角を上げた。ころころと表情を変えながらも、その目はどこか慈しみに満ちている。

「勝つのは無理でも、出て行く意地くらいは見せてやる」
「ああそうだ、それでいい」

 ヴァルティエの視線の先で、リノアは体勢の立て直しを終えていた。
 息を整えるリノアと、それを見守るヴァルティエ。
 リノアは目つきを鋭くし、姿勢を低く駆け出した。
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