残酷な描写あり
R-15
金色の頁:存在否定
主人公の一人、異端の女王の物語が幕を開けます。
眼帯の奥にある右目の疼きとともに、セナは空を見上げた。彼女の半分の視界が捉えたのは、平時と変わらない翡翠色の空と、照りつける橙色の太陽だけである。文句のない快晴だ。
セナが首を傾げると、眼帯を隠すように伸びた亜麻色の前髪が風に靡いた。
「姉さまも感じられましたか」
「も、ってことは、ジュディも感じたってことね」
「ええ、肌がひりつく感じと、視界にも少々ブレが生じました」
セナの隣で騎士のように佇む深紅の髪を持つ可憐な女性——ジュディスが金色の両目を細め、セナと同じ方向を睨みつけた。その視線の先で何かを捉えたのか、次は目を見開く。
耳をすませたセナも、聞き慣れない音を捉えた。
「——音がする。だいぶ遠くからみたい。それこそ、空の上のような」
何かが落下してくるような音。落雷とはまた違う、もっと静かで鋭い音だとセナは考えをめぐらせる。しかし同時に、彼女は生まれてこの方聞いたことのない音に、心臓が高鳴るのを感じていた。
その様子を見てジュディスは嘆息する。
「姉さまは変わっていますね。私たちの肉体が同時に反応したのならば、嫌な予感しかしないですのに」
「そう言わないでよ。ここしばらく城に缶詰でまともに外にすら出られていないんだから」
「それは姉さまがいろんなことに首を突っ込みたがるからでしょう。いくら天使の耳を持つからといって市井の噂にいちいち反応することはないのです」
「見過ごせないの。聞こえちゃうんだから仕方ないでしょう?」
セナがぷくっと頬を膨らませ、それを見た妹はやれやれとため息をついた。危機感のかけらもない、いつものやりとりである。嫌な予感をひしひしと感じながらも、二人ともが実にリラックスをしていた。
一人は狩人として、一人は戦士として。
「エインヘルさまもお気づきでしょうか?」
「たぶんね。でも、狙いはお母さんじゃないと思う。それならもっともっと前に来ていたはずだから」
「そうですね。だとするとやはり狙いは」
白い翼を模した眼帯の奥で、じくじくと痛みが強くなっていくのをセナは自覚していた。
そう、彼女の脳はすでに理解を得ていた。直感やそういう類のものではない納得が彼女の中で形成され、それが彼女の落ち着きを生んでいる。相変わらず高鳴る心臓の音以外は、至極落ち着き払っていた。
「来た——」
雷光よりも眩き光が二人の直上から降った。しかしそれを冷静に飛び退いてかわし、光の主を挟み込む形でセナとジュディスが身構えた。
「さすがは血を引くものか。奇襲など意味はなさんと見える」
「不躾な訪問ですね。それに、隠すつもりもなかったのでしょう、天使さま?」
「我らの目にはなんでもお見通しか。よもやそこまで扱えるとは侮れん。とはいえ、元より誓約によって私は奇襲では裁定を為せぬ身。よってこれはただの試しだ」
天使と呼ばれた男はセナへと振り返りながら、ジュディスの言葉に応えている。
短く切り揃えられた亜麻色のショートカットに、人形のように整った男性とも女性ともつかぬ顔、その双眸は金色に煌めいている。翼のようなコートがはためき、剥き出しの胸部には天秤のような模様が刻まれていた。
「私は裁定の天秤——ルジャという。異端者を束ねる王よ、アンスールがお前を処断する。融和を打ち破りしお前は我らの脅威になりうると判断したのだ。……よって、ここで始末する」
「随分遅い決定だことで。それならとっくにされていてもおかしくはないでしょう? なぜ今なのか教えてもらえないかしら?」
セナは眼帯をさすりながら、左目でルジャを視界に捉え続けている。しかし内心では唇をかみしめていた。
今のセナは女王らしさのためと着飾ったドレス姿なのである。しかも裾は膝より下にあり、とてもじゃないが動きやすい服装ではない。先ほどの動きはそれをすれば良かっただけだが、万が一戦闘になるのであればこれは枷になるかもしれないのだ。
「薄々感じているのだろう? 自らが背負うものの存在を」
「それは……」
セナにはルジャの言葉の意味がすぐにでも理解できていた。彼の言葉どおりの意味がそこには存在している。
——同族になってからでは遅い。
「あたしがまだ人間のうちにってことか」
「然り——っ」
ルジャがこちらを向いたまま、天秤を模った杖でジュディスの槍による刺突を制した。
甲高い音と小さな舌打ちの音が、セナの耳に届く。
「除け者にされるのは癪です。それに、姉さまと見つめ合って話すことも我慢なりません」
「私の裁定にお前は含まれていない。余計な邪魔をすることはない」
「姉さまへの熱烈なアプローチと私へのそっけない態度、吐き気がします」
ジュディスが槍を繰り出していき、それを難なくルジャがいなしていく。それは実に淡々としていて、それだけのことをされていながらも彼が振り返ることはない。
その金色の双眸がセナを捕らえて離さない。
やがてルジャが天秤を一振りすると、ジュディスが後方へと吹き飛んだ。
「さて、これより横槍は受け付けぬ。同胞たちよ、我が裁定の見届けを」
裁定の天使が天秤を地面に突き立てた。軽く、されども厳かな音が周囲に波紋のように広がっていく。
音がセナの耳を掠めていくと同時に、彼女はついと視線を上げた。
セナの耳には、無数の音が心地の良い音楽のように響き渡っている。
それは雨のように降り注ぎ、幾許もしないうちに翼のはためく音へと変化した。
「はは、あたし一人のために随分と豪勢なパーティーだこと」
セナのつぶやく声は誰の耳にも届かない。
無数の天使の群れが、空中庭園にひしめくように降り立ったのである。彼らは一言も発することはなく、表情もなく静かに、ただ静かに距離をとってセナを取り囲んでいた。不気味なほどに感情のない視線がセナへと突き立てられていく。
「安心せよ。これはただの見届けである。手出しをすることはない。それが私の裁定の原則であり、絶対であるからだ」
「じゃあ、提案してもいいかしら?」
「……いいだろう。我らの原則の押し付けは公平ではない。お前の提案を一つだけ、受け入れよう」
セナの瞳の奥の色が変わる。
先ほどまでの冷静さとは打って変わり、狩る側の表情を宿す。
「あたしが一対一できみに勝てたら、この場から手を引いてくれるかしら?」
「面白いことを言う。私の裁定は絶対であるというのに。しかし、いいだろう。その提案を私は受け入れ、付け加えよう」
こんこんと杖が地面を叩き、音が響き渡る。一度目とは微かに違う音色が含まれていることを、セナの耳が感じ取るのにさほど集中力はいらなかった。その内容を脳が理解するのにも、思考すら必要がない。
「姉さま!」
「大丈夫だよ、ジュディス。心配いらない」
天使の群れに飲み込まれたジュディスがそれをかき分けて姿を現したが、しかしセナの元へ向かうことは叶わなかった。天使たちが開けた距離の内側には別の空間が広がっており、何者をも通さぬ壁が、そこには存在している。
ジュディスの視線の先で、セナが眼帯の紐をするりと解いていく。
「ダメです姉さま、それは」
「はは、さすがにこれなしじゃ、手も足も出ないでしょう」
ジュディスの声はセナの耳に届いているが、セナの声はジュディスには届いていない。そのわずかな唇の動きを、ジュディスが追っているに過ぎない。しかしジュディスには、彼女の最愛の唇の動きが手に取るようにわかり、だからこそ歯軋りをした。
セナの眼帯の下——金色の輝きを持つ右目が姿を表す。彼女の左目は綺麗な碧眼であり——それこそが、ただそれだけのことが彼女を異端にしたことを、ジュディスは知っている。
「そうだ、それこそ、忌むべき異端の右目」
「……」
ルジャの放った言葉に、セナの纏う気配が変わった。彼女にとってその言葉こそが最も忌むべき言葉であり、かつての彼女を苦しめ続けたものなのだと、ルジャは知らない。彼らにとってすれば、それは言葉通りの意味を持つのみだ。
「最近めっきり聞かなくなった言葉を聞かせてくれてありがとう。おかげであたしが何者か、思い出せたよ」
セナは浅葱色のドレスワンピースの裾から覗く脚でとんとんと足踏みをした。そしてパンプスを脱ぎ捨てると、ルジャを正面に見据える。
「待っていてくれるなんて律儀なのね」
「それが私のルールだからだ。それ以外の理由はない」
「なら、始めましょうか」
セナはぎゅっぎゅっと手を握り直しながら、正面の天使を獲物だと認識し直した。獲物にしてははるかに格上だということを彼女はとうに理解しているが、今この場においてそんなことは彼女にとってなんの意味もなさない。
生き残らなければならないのだ。そのためならば、努めて冷静にかつ大胆に。
セナは狩人とは名ばかりの、正面切って戦う戦士としての側面が強かった。それは女王になる以前、彼女が狩人であった時から何も変わってはいない。今でこそ相棒はいないが、その状況に慣れるだけの時間が彼女にはあった。
「これより断罪を始める」
ルジャが翼を広げ、天秤の杖を振りかざすと、稲妻の形をした剣が空間にいくつも現れた。
「裁きといえば雷なんてありきたりなことね」
セナが呟きをこぼしながら、金色の右目で浮遊する剣の群れを視認する。その正確な位置から射角までの予測が彼女の脳内で構築されていく。それは瞬きの間に行われ、彼女の次の行動を決めたのだった。
「愚かなことを」
ルジャは冷笑的な笑みを浮かべながら、杖をセナへと向けた。
セナが首を傾げると、眼帯を隠すように伸びた亜麻色の前髪が風に靡いた。
「姉さまも感じられましたか」
「も、ってことは、ジュディも感じたってことね」
「ええ、肌がひりつく感じと、視界にも少々ブレが生じました」
セナの隣で騎士のように佇む深紅の髪を持つ可憐な女性——ジュディスが金色の両目を細め、セナと同じ方向を睨みつけた。その視線の先で何かを捉えたのか、次は目を見開く。
耳をすませたセナも、聞き慣れない音を捉えた。
「——音がする。だいぶ遠くからみたい。それこそ、空の上のような」
何かが落下してくるような音。落雷とはまた違う、もっと静かで鋭い音だとセナは考えをめぐらせる。しかし同時に、彼女は生まれてこの方聞いたことのない音に、心臓が高鳴るのを感じていた。
その様子を見てジュディスは嘆息する。
「姉さまは変わっていますね。私たちの肉体が同時に反応したのならば、嫌な予感しかしないですのに」
「そう言わないでよ。ここしばらく城に缶詰でまともに外にすら出られていないんだから」
「それは姉さまがいろんなことに首を突っ込みたがるからでしょう。いくら天使の耳を持つからといって市井の噂にいちいち反応することはないのです」
「見過ごせないの。聞こえちゃうんだから仕方ないでしょう?」
セナがぷくっと頬を膨らませ、それを見た妹はやれやれとため息をついた。危機感のかけらもない、いつものやりとりである。嫌な予感をひしひしと感じながらも、二人ともが実にリラックスをしていた。
一人は狩人として、一人は戦士として。
「エインヘルさまもお気づきでしょうか?」
「たぶんね。でも、狙いはお母さんじゃないと思う。それならもっともっと前に来ていたはずだから」
「そうですね。だとするとやはり狙いは」
白い翼を模した眼帯の奥で、じくじくと痛みが強くなっていくのをセナは自覚していた。
そう、彼女の脳はすでに理解を得ていた。直感やそういう類のものではない納得が彼女の中で形成され、それが彼女の落ち着きを生んでいる。相変わらず高鳴る心臓の音以外は、至極落ち着き払っていた。
「来た——」
雷光よりも眩き光が二人の直上から降った。しかしそれを冷静に飛び退いてかわし、光の主を挟み込む形でセナとジュディスが身構えた。
「さすがは血を引くものか。奇襲など意味はなさんと見える」
「不躾な訪問ですね。それに、隠すつもりもなかったのでしょう、天使さま?」
「我らの目にはなんでもお見通しか。よもやそこまで扱えるとは侮れん。とはいえ、元より誓約によって私は奇襲では裁定を為せぬ身。よってこれはただの試しだ」
天使と呼ばれた男はセナへと振り返りながら、ジュディスの言葉に応えている。
短く切り揃えられた亜麻色のショートカットに、人形のように整った男性とも女性ともつかぬ顔、その双眸は金色に煌めいている。翼のようなコートがはためき、剥き出しの胸部には天秤のような模様が刻まれていた。
「私は裁定の天秤——ルジャという。異端者を束ねる王よ、アンスールがお前を処断する。融和を打ち破りしお前は我らの脅威になりうると判断したのだ。……よって、ここで始末する」
「随分遅い決定だことで。それならとっくにされていてもおかしくはないでしょう? なぜ今なのか教えてもらえないかしら?」
セナは眼帯をさすりながら、左目でルジャを視界に捉え続けている。しかし内心では唇をかみしめていた。
今のセナは女王らしさのためと着飾ったドレス姿なのである。しかも裾は膝より下にあり、とてもじゃないが動きやすい服装ではない。先ほどの動きはそれをすれば良かっただけだが、万が一戦闘になるのであればこれは枷になるかもしれないのだ。
「薄々感じているのだろう? 自らが背負うものの存在を」
「それは……」
セナにはルジャの言葉の意味がすぐにでも理解できていた。彼の言葉どおりの意味がそこには存在している。
——同族になってからでは遅い。
「あたしがまだ人間のうちにってことか」
「然り——っ」
ルジャがこちらを向いたまま、天秤を模った杖でジュディスの槍による刺突を制した。
甲高い音と小さな舌打ちの音が、セナの耳に届く。
「除け者にされるのは癪です。それに、姉さまと見つめ合って話すことも我慢なりません」
「私の裁定にお前は含まれていない。余計な邪魔をすることはない」
「姉さまへの熱烈なアプローチと私へのそっけない態度、吐き気がします」
ジュディスが槍を繰り出していき、それを難なくルジャがいなしていく。それは実に淡々としていて、それだけのことをされていながらも彼が振り返ることはない。
その金色の双眸がセナを捕らえて離さない。
やがてルジャが天秤を一振りすると、ジュディスが後方へと吹き飛んだ。
「さて、これより横槍は受け付けぬ。同胞たちよ、我が裁定の見届けを」
裁定の天使が天秤を地面に突き立てた。軽く、されども厳かな音が周囲に波紋のように広がっていく。
音がセナの耳を掠めていくと同時に、彼女はついと視線を上げた。
セナの耳には、無数の音が心地の良い音楽のように響き渡っている。
それは雨のように降り注ぎ、幾許もしないうちに翼のはためく音へと変化した。
「はは、あたし一人のために随分と豪勢なパーティーだこと」
セナのつぶやく声は誰の耳にも届かない。
無数の天使の群れが、空中庭園にひしめくように降り立ったのである。彼らは一言も発することはなく、表情もなく静かに、ただ静かに距離をとってセナを取り囲んでいた。不気味なほどに感情のない視線がセナへと突き立てられていく。
「安心せよ。これはただの見届けである。手出しをすることはない。それが私の裁定の原則であり、絶対であるからだ」
「じゃあ、提案してもいいかしら?」
「……いいだろう。我らの原則の押し付けは公平ではない。お前の提案を一つだけ、受け入れよう」
セナの瞳の奥の色が変わる。
先ほどまでの冷静さとは打って変わり、狩る側の表情を宿す。
「あたしが一対一できみに勝てたら、この場から手を引いてくれるかしら?」
「面白いことを言う。私の裁定は絶対であるというのに。しかし、いいだろう。その提案を私は受け入れ、付け加えよう」
こんこんと杖が地面を叩き、音が響き渡る。一度目とは微かに違う音色が含まれていることを、セナの耳が感じ取るのにさほど集中力はいらなかった。その内容を脳が理解するのにも、思考すら必要がない。
「姉さま!」
「大丈夫だよ、ジュディス。心配いらない」
天使の群れに飲み込まれたジュディスがそれをかき分けて姿を現したが、しかしセナの元へ向かうことは叶わなかった。天使たちが開けた距離の内側には別の空間が広がっており、何者をも通さぬ壁が、そこには存在している。
ジュディスの視線の先で、セナが眼帯の紐をするりと解いていく。
「ダメです姉さま、それは」
「はは、さすがにこれなしじゃ、手も足も出ないでしょう」
ジュディスの声はセナの耳に届いているが、セナの声はジュディスには届いていない。そのわずかな唇の動きを、ジュディスが追っているに過ぎない。しかしジュディスには、彼女の最愛の唇の動きが手に取るようにわかり、だからこそ歯軋りをした。
セナの眼帯の下——金色の輝きを持つ右目が姿を表す。彼女の左目は綺麗な碧眼であり——それこそが、ただそれだけのことが彼女を異端にしたことを、ジュディスは知っている。
「そうだ、それこそ、忌むべき異端の右目」
「……」
ルジャの放った言葉に、セナの纏う気配が変わった。彼女にとってその言葉こそが最も忌むべき言葉であり、かつての彼女を苦しめ続けたものなのだと、ルジャは知らない。彼らにとってすれば、それは言葉通りの意味を持つのみだ。
「最近めっきり聞かなくなった言葉を聞かせてくれてありがとう。おかげであたしが何者か、思い出せたよ」
セナは浅葱色のドレスワンピースの裾から覗く脚でとんとんと足踏みをした。そしてパンプスを脱ぎ捨てると、ルジャを正面に見据える。
「待っていてくれるなんて律儀なのね」
「それが私のルールだからだ。それ以外の理由はない」
「なら、始めましょうか」
セナはぎゅっぎゅっと手を握り直しながら、正面の天使を獲物だと認識し直した。獲物にしてははるかに格上だということを彼女はとうに理解しているが、今この場においてそんなことは彼女にとってなんの意味もなさない。
生き残らなければならないのだ。そのためならば、努めて冷静にかつ大胆に。
セナは狩人とは名ばかりの、正面切って戦う戦士としての側面が強かった。それは女王になる以前、彼女が狩人であった時から何も変わってはいない。今でこそ相棒はいないが、その状況に慣れるだけの時間が彼女にはあった。
「これより断罪を始める」
ルジャが翼を広げ、天秤の杖を振りかざすと、稲妻の形をした剣が空間にいくつも現れた。
「裁きといえば雷なんてありきたりなことね」
セナが呟きをこぼしながら、金色の右目で浮遊する剣の群れを視認する。その正確な位置から射角までの予測が彼女の脳内で構築されていく。それは瞬きの間に行われ、彼女の次の行動を決めたのだった。
「愚かなことを」
ルジャは冷笑的な笑みを浮かべながら、杖をセナへと向けた。