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作者: 犬物語
「我思う、故に我あり」 心理学的に見るこの言葉の意味
常日頃から難しい顔をして考えまくる哲学者

今回は現代哲学の祖とも呼ばれるあのお方を心理学風味でご紹介
 タイトルにあるセリフは、おそらくほとんどの人が見覚えあるものだと思います。この言葉を発したのは『ルネ・デカルト』。1596年に生まれ、17世紀に活躍したフランス生まれの哲学者であり数学者です。彼の功績は図りしれず、現代の哲学の礎を築いた偉人であり、数学者としても現代の座標の基礎である『デカルト座標』を生み出しました。彼の合理的な考え方や論理的な体系で物事を解明しようとする姿勢は現代科学にすら影響を与えたと言われています

 デカルトの話題を取り扱うってことは『哲学』の話だな? と予想するかもしれませんが、今回も紹介するのは『心理学』です。心理学は大昔から研究がなされていたわけではなく、それまではもっぱら『哲学者』などが取り上げていた曖昧で神秘的な世界でした。なので『学問』という言葉に表されるかは定かではありません。まあ哲者っていうくらいだし博士号ももらえるのでれっきとした学問だと思います

 心理学、という学問が誕生したのはかの有名な『ジークムント・フロイト』とか『カール・グスタフ・ユング』とか『ヴィルヘルム・ブント』とかが活躍した19世紀からです。まあ、彼らも本業は心理学じゃないっていうか、彼らの精神分析的研究が礎となって「こころとはなにか?」を研究するようになった流れです。心理学の歴史に関しては今後紹介していければいいなと思いますが、今回は17世紀の、まだ科学的や実験的でなく空想混じりに『心=魂』として見られていた時代の話です

 こころとはなにか?

 古い時代から多くの偉人たちが考えてきた問題です。これは現代を生きるわたしたちも空想に耽るテーマで、ファンタジー作品や純文学など幅広いノベル作品でも取り上げられていますね

 ここで紹介することは、そういった創作のお供としても役に立ちます。ぜひご愛読いただければ幸い





:デカルトの哲学:

 哲学者は『哲学 = Philosophy = 考えることを愛し、ある種の"真理"を目指して合理的、理性的に追求する行為』という手段を用いて心を理解しようとしていました

 心とはなにか? なぜ人間はものを考え、光を見ることができ、目の前で起きた事を認識し状況に対応できるのか? ほかの動物たちとの違いはなにか? ――そういったことを考え、哲学者たちは『魂』という概念を生み出しました。古代ギリシャ時代、ソクラテスやプラトンなどの時代です

 わたしたちがもつ"魂"は美醜や善悪の判断、知識と道徳が備わっているとしたのです。対してほかの動物たちの魂にはそのような概念を備えていません。デカルトは彼らの考えを引き継ぎ『動物には美しいとか、善いなどの概念をもたない』と考えました。だからこそ、わたしたちが「美しい景色だなぁ」と山々を眺めている最中、足元のわんわんは地面をくんくん嗅いで「なんでここで止まるの? さんぽおわり?」的な顔をするのですね(我が家の黒ラブを眺めつつ

 デカルトは「心(意識)は精神的なものであり、物や身体のような物理的なものではない」という考えを持っていました。物体のない精神的な存在が、わたしたちの身体をどうにかして動かしているのです

 この「心と身体は別」とする考え方を『心身二元論しんしんにげんろん』と呼びます。テストに出るかも知れないから覚えてといたほうがいいよ? ――で、こんな考え方があると「物理的な概念じゃないなら、心がどこか遠い場所にいっちゃっても身体を動かせるよね?」的な考え方ができます。身体はあくまで心が動かすブツであり、心という精神的な存在は単独でも存在し続けられる。命を落とすことが永遠の別れになり得ない、と考えることもできそうですね

 人などには生まれ持った『魂』があり、それらはもともと善悪などの概念を持ち合わせており、身体という物理的なモノがなくても存在し続けられる――デカルトの哲学をざっくりまとめるとこんな感じになります。これらの知識をもって、ちょっちデカルトさんが「我思う、ゆえに我あり」という名言を遺した逸話をご紹介しましょう





:デカルトが見た夢:

 デカルトは『自分が目覚める夢』を見て、目覚めたときにその夢を思い出し、ある疑問をもちました。

「……起きている時と夢を見ている時。これをどのように区別できるだろう?」

 現在でも研究が続いてる"夢"ですが、これは最新の脳科学において、睡眠中に脳が覚醒中にさらされた刺激の整理、分別を行っていると予測されています。当時のデカルトにはそんな知識あるはずもないですから、この夢については深く考えに考えました。だからこそこの名言が生まれたわけですが。

 自分がいま知覚している現実はほんとうに現実なのだろうか? 今この時も実は夢なのではないだろうか? ――彼は本当に必死に考えたようです。その結果として『それまでの人生が夢だったという可能性を捨てきれない!』という結論に達しました

 当然の流れとして、彼は今感じている自分自身の感覚すべてを疑いはじめます。見るもの、味わったもの、聞いたもの、触れたものそれらのすべては理解し難い感覚処理の産物でしかなく、実際に経験したものかどうかを疑わざるを得なかったのです

 ですから、自分がなんらかの魔力に支配され現実世界を誤って認識させられている可能性さえあり得る――彼の考え、みなさんはどのような感想を覚えましたか? 確かにと思った? バカバカしいと思った? 少なくとも、デカルト自身は本気でこの考えに行き着き戦々恐々としたようです。しかし、ここでデカルトはある事実に気づきます。すなわち――



「あれ? でも自分の存在を疑ってるはたしかに事実としてここに在るなぁ……これって『自分がここにいる』ってことじゃね?」



 哲学にはすべてについて疑うべしという『方法的懐疑』というものがあります。まあ、デカルト自身が生み出した概念なのですが、つまりはほんの1パーセント、微粒子レベルでも否定できる可能性があるのであれば、その説は否定できるというわりと量子力学を敵に回す考え方なのですが、それらすべてを否定していく『意識・意志』が確実であるならば、そのように意識している自分だけは自分の存在を疑いようがないじゃないか? ということです

 もっとざっくばらんに言ってしまうと『自分自身を疑っているのなら、少なくとも自分を疑っているという"心"がここに存在している証明になる』ってことです。心が存在しなければ、そもそも自分自身を否定することもできませんからね

 だからこその『我思う故に我あり』なんですね。ちなみに原文はラテン語で[ Cogito ergo sum = わたしは思う、だから"わたし"はいる ]

 Cogitoは『自己意識』的なニュアンスにもなります。自分が思い、考えている。よって[ ergo ]、わたしは[ sum ]存在するんだよという文章ですね。彼の哲学をもとにすればとても理にかなっていると思います

 まあ、なんらかの魔力やら魔物が自分を疑わせにかかっているという反論もあるでしょうが、それは哲学的に『そもそも存在しない魔物に自分の思考に疑いを抱かせられるわけがない』と一蹴されるようです。考えるという行為ができるなら、そこにはたしかに"心"があります

 自分を認識する"心"がある。それだけはその存在は真実です。ですから、肉体がどのような状態になっていようとも心まで否定することはできない。だからこそ心は魂と直結するのかもしれません

 あ、ちなみに『我思う故に我あり』の言葉は第三者の翻訳でなされたものであり、デカルト自身はもうちょい別の表現を使ったとあります。ただし、デカルトが校閲をしたらしい著作ではしっかりと日本語訳で『我思う故に我あり』だったのでまあ大した差異はないでしょう。このへんのトリビアを追求したいって方はウィキペディアを調べてみるか彼の著書を紐解いてみるしかありませんね。





:人の認知はどこにあるのか?:

 デカルトは心身二元論を説きましたが、現代科学によって『心とは脳のアレコレ』ということがわかってきていますね。感覚器官は心理学でも扱いますが、ここはもう『脳科学』の領域でしょう

 各感覚器官は当然ながら神経を通して脳に信号が伝達されます。感覚を司る神経が電気信号を脳へ送り、だいたいは『視床下部』というところで中継され各々が担当する部位へと運ばれていきます。視覚だったら後頭の『大脳視覚野』に到達し、必要な情報処理を終えたら結果を運動野だったり側頭へ伝えたりします

 それらの連携を通じて例えば『目の前にやってきたボールを掴む』という動作ができますので、つまり脳の神経伝達スピードよりボールが速ければ動く前に顔面にズドンという結果になるわけですね。ドンマイ。

 心理学的な学びでいうと、この感覚には『限界』があります。例えば聴力では20 ~ 20000ヘルツまでの音を感じることができます。20以下ですと刺激が弱すぎて感じることができず、大きすぎるとそれは『超音波』という形に変化し人間には聞き取れない波長となります。理由は定かではありませんが、まあ人間がこの時代まで生き残るにはこのくらいの可聴範囲がちょうど良かったんでしょうね。

 あと有名な感覚の心理学として『ウェーバー = フェヒナーの法則』というのがあります。刺激と感覚の関係が比例関係にあるといった内容ですが、ひとまず例を示してみましょうか。

 まず手にダンベルでも持ってみましょうか。重いですよね? え、重くない? じゃあもうひとつダンベルを持ってください。そしたら「重い」くらいには感じるのではないでしょうか? これをどんどん繰り返すとそのうちアナタの手が耐えきれなくなり、最終的にズドンとダンベルを落としてしまうでしょう。

 しかし、最後の瞬間に近づけば近づくほど『感じる重さ』に差がなくなってきます。0キロから1キロ、2キロ、3キロと少しずつ重りを載せていく場合は(ああ、また1キロ増えたな)と感じられるでしょうが、30キロから31キロになると(ああ、30キロから31キロになったな)とは感じません。もしかしたら、重りを足したと言わず隠れて重量を増やしても気づかないことさえありえます。そのように、人間には『感じ方』というのがあるのです。



 心理学は近年になり始まった学問ではありますが、それまでにたくさんの土台や情報は揃っていました。だからこそ現代の心理学では学術的に検証を重ねてしっかりとした理論を構築しようとしています。まだまだ開拓しがいのある分野であり、これからの進路を決めかねている中高生にはぜひおすすめしたい分野ですね。

 アナタはダンベル何キロもてますか? ちょっと限界の重さを教えてちょっと持ってみてください。で、目を閉じてください。わたしが隠れて少しずつ重量を足していきますから。

 え、なんでって? ――自分の限界を突破するには良い手段だと思いませんか?
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