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作者: 唯響-Ion
残酷な描写あり R-15
第百七四話 王齮、上党郡を破る
 白起は自身が率いる本隊が新鄭を攻囲するあいだ、王齮率いる別働隊が上党郡を上手く攻略できているのか、不安を感じる。
 上党郡を攻撃する王齮は順調に戦局を進めるも、大多数の民を、上党から逃亡させてしまう
 前262年(夏) 新鄭

 白起は新鄭を包囲し、兵糧攻めに出た。兵を少しでも多く残していたかった為、積極的に攻撃を加えることはなかった。
 白起は、王齮が上党で上手く戦えているのか、不安であった。任命したからには、信用するべきである。しかし若輩の王齮が相対するは、趙軍であり、将軍としての初陣を飾るには少々強敵過ぎたのではないかと、憂慮していた。
「報告! 治粟都尉(ちぞくとい)の蔡尉(さいじょう)様、予定通り十万石の兵糧と共にご到着です!」
「分かった。下がれ」
 新鄭を包囲してから数ヶ月、小競り合いこそ起これども、大きく戦況が変わることはなかった。その退屈さは、白起が抱える別働隊への不安を、助長させるには十分であった。日毎不安を募らせる白起に、副将の楊摎は、「まる母親のようですね」と冗談をいった。
 白起は、気心を知れた楊摎の冗談に、少しだけ心が軽くなった。
「確かにそうであるな」
「そんなに心配なさる必要はありません。王齮は優秀です。そして轡を並べる友である王翦も、彼の下で戦っています。王翦は鄢城攻撃の際に時間稼ぎをした手練れです。副将の司馬靳将軍もまた、司馬錯大将軍の孫として、武霊城攻撃の際に大きな戦功を立てられた英雄です」
「それは承知している。なれど、妙な胸騒ぎがするのだ」
「どんな胸騒ぎでしょうか」
「上党の趙軍を撃破し、上党郡十七県を支配しても、趙との戦が起こるのではないであろうか。趙は戦国七雄の中で、唯一、無傷だといえる。彼らと一戦交える時、王齮や王翦、蒙武といった、この先の秦軍を担う若手が死傷するようなことになるのではなかろうか……」
「それは十分に有り得ることです。しかしそうなるのは、天下統一という大志を掲げる以上は必須。もしその一戦が上党の戦を皮切りに起こり、そこで王齮らが死傷することがあっても、それもまた天命です。秦王様の志に着いて来られぬならば、そんな者は、秦軍には必要ありませぬ」
「その言葉に目が覚めたわ、楊摎殿。趙との戦は、そう遠くない。幸い我らには十分な兵糧とそれを運ぶ道路、そして人員や牛馬、車がある。焦らしながらじっくりと、新鄭を陥すのだ」

 白起が新鄭を包囲し続けているあいだ、王齮は上党軍の趙軍を破った。馮亭は自害し、馮亭と共に抵抗した民は、王齮によって殺された。
 王齮は、残りの県城は恐れをなし、降伏するものだとおもっていた。しかし抵抗はやまなかった。
 虱潰しにするかの如く、王齮軍が別働隊を編成し北上していった時、上党軍の大半の民は、隙を見て南下した。そしてそのまま邯鄲へ向かう為、長平という平野の道を通った。
 無抵抗のままただ逃げるだけ民数十万を、王齮軍は、捕縛できなかった。一城たりとも降伏せず、邯鄲へ逃げ延びようとするとは、思いもよらなかった。
 長平に逃げた民は、数十日のあいだに邯鄲まで到着した。趙王は、上党の民は趙人であるとし、それを受け入れた。
 王齮軍副将の胡傷は、この出来事が、秦軍の韓攻めを停止させることになると察した。上党から数十万の難民が出たとなれば、趙王を刺激し、趙国内でも反秦感情が高まると、察したのである。
「王齮将軍、上党の民が邯鄲へ逃げたが、彼らは無抵抗な趙国の民であり、危害を加えることはできなかった。複雑な事態だが……表向きは、趙人が住処を追われて逃げただけだ。つまり秦は再び趙を攻めたのだ」
「反秦の旗を掲げる韓と、精強な趙。胡傷将軍……秦にはそのような余裕はありません。常々戦を繰り返し、いつも勝利を手にする為に、全力を尽くしてきたからです」
「そうだ。王齮将軍……もはや秦は韓攻めどころではない。趙と全面衝突をすることとなるのだ……!」
蔡尉(生没年不詳)……秦の将軍。紀元前258年、将軍張唐と共に魏を攻めた。
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