残酷な描写あり
R-15
第六四話 秦王、苦渋の決断を下す
丞相として楼緩は蘇秦と会合する。しかし蘇秦は楼緩を信用できないといい、穣候魏冄と話をさせるよう要求する。
同年 咸陽
楼緩は友好の使者として秦王へ拝謁しに来た蘇秦を迎え、斉討伐の為の策を練ろうと、会合を開いた。しかし、会議は躍るが話は進まなかった。
蘇秦は、魏冄を信用していた。その為、楼緩がいかに合理的な策を提示しても、蘇秦が承諾することはなかったのである。
「楼緩殿に見識があるのは充分伝わった。しかし私は、あなたを信用できない。私が提示する対斉合従軍は、私が各国へ提供する情報を、各国が信じて初めて成立します。情報と信憑性は切っても切れぬもので、あなたがもし今後秦軍を動かすといったとしても、その約束が守られるのか、私には見定められませぬ」
「蘇秦殿、どうか教えてください。私の一体どこに、不信感を覚えておいでか。私は秦の為、その不信感を拭いたい」
「楼緩殿、あなたは数年前に丞相の位を降りてから、此度丞相に返り咲くまで、ずっと影を潜めておられた。都合が悪くなれば逃げるようなあなたに、不信感を覚えているのです。私は燕の出身で、燕は斉の属国となりました。燕人が味わった虐殺の苦しみを倍返しする為、私は犬馬の労も厭わず、正体を隠し表舞台で戦ってきたのです」
「つまり……自分と違い、行動もせずに身を潜めて機を伺っていただけだから、私は信用に値しないと……」
「左様。ただでさえ秦は、騙し討ちで楚より漢中を奪い、巴蜀を征服した虎狼の国。合従軍としても秦の強大な力を欲しており、秦も斉を討つ為、合従軍に参加したい。情報を共有し軍を動かそうとしている今、あなたも魏冄殿のようにその言動に責任を持っていただけるのでしょうか。さて楼緩殿、拭えますかな、あなたへのこの不信感を」
楼緩は黙った。そして、穣候魏冄は自分と違い常に勢いがあったと感じた。他の王子の反乱を恐れず、秦王を擁立した。そして秦王の恨みを買って罷免されることを恐れず、白起を登用し伊闕で大勝した。穣候魏冄は常に邁進し、結果的に秦を強くしたのだ。
「私はこの大計が明るみに出れば、斉王に命を奪われます。命を懸けているのです。穣候魏冄殿としか、私は話せませぬ」
楼緩は、秦王の宮殿を訪ね、蘇秦の件を話した。秦王は、逡巡した。
「斉は、なにがなんでも潰さねばならぬ敵国だ。合従軍を組織したのも、更闕での連合を組織したのも、斉だ。中原に伝わる連合を組織する際の儀式を執り行い、牛の耳を切って、その血を周王や韓魏の将軍に配ったのも斉の孟嘗君だというではないか。周王の権威さえも凌ぎつつある存在は……侮ってはならぬ。この大国を討つ為には、余はどんな苦労も厭わぬぞ楼緩よ」
「秦王様、謹んで尋ねます。斉と穣候。秦王が、より憎しみを抱いているのは、どちらにございますか」
秦王の目は虚ろだった。焦点が定まらぬその目の間の眉間には、深いシワが刻まれていた。
「余は秦王だ。王として、臣下よりもてきこくの斉を憎んでいるに決まっている」
楼緩は続けた。
「ではご決断ください。私を罷免し、穣候を咸陽へ呼び戻すのです」
「誰か、ここへ参れ!」
現れた側仕えに、秦王は「我が命を伝えよ」といった。しかし沈黙し、言葉が続かなかった。
その目は泳いでいた。深いため息をつき、秦王はいった。
「穣の魏冄に、咸陽へ帰還するよう、命を伝えよ」
「はい、ただちに」
側仕えが立ち去ったあと、秦王は苦悩に顔をしかませながら、酒を呷った。
楼緩は友好の使者として秦王へ拝謁しに来た蘇秦を迎え、斉討伐の為の策を練ろうと、会合を開いた。しかし、会議は躍るが話は進まなかった。
蘇秦は、魏冄を信用していた。その為、楼緩がいかに合理的な策を提示しても、蘇秦が承諾することはなかったのである。
「楼緩殿に見識があるのは充分伝わった。しかし私は、あなたを信用できない。私が提示する対斉合従軍は、私が各国へ提供する情報を、各国が信じて初めて成立します。情報と信憑性は切っても切れぬもので、あなたがもし今後秦軍を動かすといったとしても、その約束が守られるのか、私には見定められませぬ」
「蘇秦殿、どうか教えてください。私の一体どこに、不信感を覚えておいでか。私は秦の為、その不信感を拭いたい」
「楼緩殿、あなたは数年前に丞相の位を降りてから、此度丞相に返り咲くまで、ずっと影を潜めておられた。都合が悪くなれば逃げるようなあなたに、不信感を覚えているのです。私は燕の出身で、燕は斉の属国となりました。燕人が味わった虐殺の苦しみを倍返しする為、私は犬馬の労も厭わず、正体を隠し表舞台で戦ってきたのです」
「つまり……自分と違い、行動もせずに身を潜めて機を伺っていただけだから、私は信用に値しないと……」
「左様。ただでさえ秦は、騙し討ちで楚より漢中を奪い、巴蜀を征服した虎狼の国。合従軍としても秦の強大な力を欲しており、秦も斉を討つ為、合従軍に参加したい。情報を共有し軍を動かそうとしている今、あなたも魏冄殿のようにその言動に責任を持っていただけるのでしょうか。さて楼緩殿、拭えますかな、あなたへのこの不信感を」
楼緩は黙った。そして、穣候魏冄は自分と違い常に勢いがあったと感じた。他の王子の反乱を恐れず、秦王を擁立した。そして秦王の恨みを買って罷免されることを恐れず、白起を登用し伊闕で大勝した。穣候魏冄は常に邁進し、結果的に秦を強くしたのだ。
「私はこの大計が明るみに出れば、斉王に命を奪われます。命を懸けているのです。穣候魏冄殿としか、私は話せませぬ」
楼緩は、秦王の宮殿を訪ね、蘇秦の件を話した。秦王は、逡巡した。
「斉は、なにがなんでも潰さねばならぬ敵国だ。合従軍を組織したのも、更闕での連合を組織したのも、斉だ。中原に伝わる連合を組織する際の儀式を執り行い、牛の耳を切って、その血を周王や韓魏の将軍に配ったのも斉の孟嘗君だというではないか。周王の権威さえも凌ぎつつある存在は……侮ってはならぬ。この大国を討つ為には、余はどんな苦労も厭わぬぞ楼緩よ」
「秦王様、謹んで尋ねます。斉と穣候。秦王が、より憎しみを抱いているのは、どちらにございますか」
秦王の目は虚ろだった。焦点が定まらぬその目の間の眉間には、深いシワが刻まれていた。
「余は秦王だ。王として、臣下よりもてきこくの斉を憎んでいるに決まっている」
楼緩は続けた。
「ではご決断ください。私を罷免し、穣候を咸陽へ呼び戻すのです」
「誰か、ここへ参れ!」
現れた側仕えに、秦王は「我が命を伝えよ」といった。しかし沈黙し、言葉が続かなかった。
その目は泳いでいた。深いため息をつき、秦王はいった。
「穣の魏冄に、咸陽へ帰還するよう、命を伝えよ」
「はい、ただちに」
側仕えが立ち去ったあと、秦王は苦悩に顔をしかませながら、酒を呷った。
蘇秦(生年不詳〜没:前284年)……戦国時代の縦横家。諸国を遊説し、対秦合従軍や対斉合従軍を成立させた。