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作者: 唯響-Ion
残酷な描写あり R-15
第一話 白家村の少年
 秦の国西端にある白家村は、蛮族に襲われる。起は家族を殺され、故郷を失う。
 紀元前314年(恵文王11年) 秦国西端 白家村

 起(き)は、初めて人を刺した。槍で人を刺したあと、槍伝いに人の肉がえぐれる感覚がある。刺し込むときとは違い、抜くのはそう簡単ではないようだ。勢いがつきづらいし、一心不乱でもない。なにより、目の前で苦悶の表情を浮かべて血を垂らす人間に絶句してしまい、力が抜けるのだ。
 男が倒れると、彼は槍を手放した。武器がなくなったと思うと、途端に不安に駆られ、床に落ちている誰かの槍を拾った。
 気がつけば周りにいた顔見知りの仲間たちは血を流し倒れており、彼は孤立していた。
「起(き)! こっちへ走れ!」
 亭長の桂(けい)が、起を呼んでいた。この小さな白家村の主として、彼もまた懸命に槍を振るい戦っていた。
 起は桂の許(もと)へ走りだしたが、敵は馬上から剣を構え、彼を斬り殺そうとしてきた。それに気づいた桂は弓を射て、敵を射殺した。
「板楯(ばんじゅん)の蛮族どもめ、一人残らず皆殺しにしてくれる!」
 板楯(ばんじゅん)族は馬に乗り槍や戟(げき)を振り回す異民族だ。他にもそういう異民族は多いが、彼らは神兵とも評されるほど暴力に秀でた、ならず者集団であった。
 士気が高くとも、ただの村人がそんな集団に勝てるはずはない。気がつけば桂ともども大勢の村人が殺され、起は村を逃げだしていた。家族もすでに散り散りとなっていて、村に留まる理由もなかった。
 素足で、とにかく遠くへ遠くへと進んでいく。衣は泥水で汚れていた。先日の雨が水溜まりを作っていたので、それが跳ねたのだろう。
 息が切れても、それでもなお止まることはない。ただ遠くへ遠くへと走っていった。

 やがて日が傾き、夜となっていた。どこまで走ってきたのか、ここはどこなのか分からなかった。夜は獣に襲われかねないので、留まることはできず、トボトボと歩きつづけた。
 すると前方に火が見えた。松明の火があり、彼は蛾(が)のようにその火に吸い寄せられた。
「おい少年、どこからきたのだ。その血はどうした?」
「村が、襲われました。みんな……殺されました……!」
「なんだって……西の村ということは白家村か。白家村は秦国の西の端……賊は板楯か、それとも羌(きょう)か!」
「亭長の桂さんは板楯と言ってました」
「な……なんだと……!」
 村のおじさんは腰を抜かし尻もちをついた。松明に照らされた顔は、恐れおののき青ざめているようだった。
 起はそれからの記憶がない。気がつけば日が昇っており、百名余りの秦兵が、村人とともに白家村を目指し出発しようとしていた。

 目が覚めた起に気づいた秦兵の一人が声をかけてきた。
「待っておれ少年、必ず白家村を取り戻してくれよう」
 秦兵らは西へ向かった。事の次第を村人の女性が親切に教えてくれた。
「あんたが倒れてから、私の旦那が夜通し関所まで行って兵士を呼んできてくれたのさ。あの人たちは強い。数年前に、司馬錯(しばさく)将軍と一緒に義渠(ぎきょ)国を滅ぼした強者(つわもの)たちなんだから。猿にも劣る蛮族がなによ」
 女性は自らの腰に手を添え、少し口角を上げた。えらく自慢げだったが、彼女が強者と読んだ兵士や村の男どもは帰ってこなかった。
 傷を負って戻った一人の秦兵はいい残した。「みんな殺された。ここまで来る……東へ逃げろ」。
 村人たちの顔はたちまち絶望に覆われ、膝から崩れおちるもの、あるいは逆に倒れることすらなく、棒立ちになったものなど様々いた。
 膂力(りょりょく)のある秦兵たちがかえり討ちにあった事実は、希望の光を奪うには十分すぎる闇であった。その日の内に村民たちは荷物を持ち、東へ向かっていった。

 村には火をつけた。もうこの村に帰ってくることはないのだから、せめて賊に利用されないように、できる抵抗として燃やすしかなかった。
 東へ向かう、絶望に浸る人の群れ。起は見知らぬ人に混じり、またトボトボと歩きだした。頭の中にあるのは、馬の上にまたがった大男。血祭りとなった村を見て歓喜していたその大男は、トサカのようなものがついた被り物をしていて、顔中に刺青がある醜い顔であった。
 突然、横を歩く女性に名を尋ねられ、見あげた。「起です」と名乗ると、女性は「私は元(げん)よ」と応えた。
「生まれ育った上邽(じょうけい)村は燃えてなくなった。旦那も、一人息子も、板楯に殺された」
「元さん、これから僕たちはどこへ行くのですか」
「東の雍(よう)へ行くよ。ここいらじゃ一番大きなお城さ」
「お城に入れるのですか?」
「あぁ、異民族どもに住処を追われたんだ。匿ってもらわないと困る」
 そういうと元は、起の手を握った。薄い衣の裾(すそ)で目元を拭ったから、彼女が泣いていることに、起はやっと気づいた。
「白家村の起、あんたは今日から私の息子だ。いつか板楯の連中に報復してくれ。私らの無念を、晴らしてくれ……!」
 彼女の声は震え、握られた手は少し痛みを感じ、怒りや無念さが伝わってきた。
本作は史実をベースにしておりますが、記録に残っていない部分は筆者の想像になります。

板楯族……『神兵』と評される程の高い戦闘力を誇り、後の時代に成漢を建国した。

義渠国……オルドス地方に存在した国で、幾度となく隣国の秦に牙を向いた。

司馬錯(生没年不詳)……秦国の将軍で、秦国南方に広がる巴蜀を征服し、成都城を築いた。
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