残酷な描写あり
前触れ
「ちちうえー、くすぐったいですぅ」
「おー、よしよし。石松丸は元気だなあ」
膝の上で我が子を可愛がっている秀吉。子ども好きの親馬鹿になるとは思っていたけど、まさかここまでとは……
石松丸は秀吉にあまり似ていない。猿顔ではないし。きっと亡くなった南殿似なんだろう。活発で優しそうでもある。将来の羽柴家の当主として立派になってほしいが。
「もうすぐ何才になるんだ?」
「四つになる。そうだな、石松丸?」
「そうですぅ。ちちうえー」
「おうおう。可愛いなあ。愛おしいなあ」
うーん、微笑ましい光景だけど、そろそろ本題に入ってほしい。
越前国から帰ってきたと思ったら、親子の触れ合いを見せ付けられているこの状況はつらかった。
はるにもうすぐ子が産まれそうなのに……
「秀吉。子ども自慢が目的なのか?」
「ああそうだ。いや、違った。つい本音を言ってしまった」
本音なのか……
「実はおぬしに、石松丸の教育を頼みたいのだ」
「はあ? 自分の息子だろう?」
「わしも忙しいのだ。それに養育ではなく教育をしてもらいたい」
「僕だって忙しいよ。それに何を教えればいいんだ?」
秀吉は「おぬしは治世では能臣になりそうだからな」と笑う。
「国の治安維持のための方策や金銭や経済の感覚を一通り教えてやってくれ。いわゆる内政官のいろはを叩き込んでほしいのだ」
「武将としての心構えとか、そんなんじゃないのか?」
「この子が大きくなる頃には、織田家は天下を手中に収めているだろう。そうなれば必要なのは言うまでもない」
秀吉の理屈は分かるけど……
「気が早いんじゃないか? 石松丸はまだ四つだろう?」
「分かっておる。そうだな……三年後か四年後に教えてやってくれ。今言ったのは、先約というものだ」
「先約か……それならいいよ。ただし、武芸と兵法も学んでもらう。それは他の者に頼んでくれ」
秀吉は「分かっておる」と石松丸にとびっきりの笑顔を見せた。
「良かったのう。稀代の能吏がおぬしの教師だぞ? これほどの贅沢はない!」
「よくわからないけど、うれしいですぅ」
「あっはっは! そうか嬉しいか!」
おいおい。よく分からないって言ってるじゃないか……
「なあ。仕事の話がしたいんだけどいいかな?」
「うん? ……石松丸、かかさまのところに行ってなさい」
真剣に聞いてくれるらしく、石松丸を侍女に預ける秀吉。
流石に公私を分ける甲斐性はあるらしい。
侍女たちが出て行き、そして二人きりとなる。
「それで、なんだ?」
「琵琶湖で水運業をするって計画を上様が立てられたじゃないか。あれ、絶対失敗すると思う」
「ああ、あれか。良い政策ではないか」
僕は「琵琶湖を通じて各都市を結んで経済を発展させるのは傍目には良い策だ」と前置きする。
「だけど時間がかかっても陸運のほうが効率がいい」
「船のほうが多くのものを運べるではないか」
「水運は天候に左右される。嵐の中、絶対に届けなければいけないという状況になったら不味いだろう?」
秀吉は「……盲点だったな」と苦い顔をした。
「それなら僕がやらせている安土と長浜の間の街道整備のほうを重んじてくれ」
「水運の計画を聞く前から行なっているあれか。おぬし、元から水運は失敗すると思っていたのか?」
「まさか。初めて聞いたときは良いと思ったよ。でも琵琶湖の水運業者に話したら、さっきの天候問題が浮上したんだ」
「現場の者の意見は聞かんと駄目だな……」
秀吉は「分かった。上様に話しておこう」と言う。
「説得させるための文書を考えておけ」
「ここに用意してあるよ」
懐から書状を取り出すと「賢しいな、おぬし」と秀吉は苦笑する。
「これから安土に向かうんだろう? 僕って先々のことを考えているんだ」
「そういうところは好ましいぞ。だからこそ、安心して任せられる」
秀吉は立ち上がって僕の横を通り、外の景色を眺めた。
「話は変わるが、明智殿の話は聞いたか?」
「元気になったとしか聞いてないが。そのことか?」
「妻が亡くなったそうだ」
思わず息を飲む。
以前会ったあの人が――
「天命とはいえ、悲しいことよ。わしも側室とはいえ、南殿を亡くしているからな」
「僕だって、気持ちは分かるさ」
「だろうな。そういえばはる殿はどうだ? もうすぐ子どもが産まれるのか?」
僕は肩を竦めて「呼び出されなければずっと傍に居たよ」と笑った。
「おぬしとしては女子のほうが都合が良かろう」
「男子でも嬉しいことは変わりないよ」
「ふん。相変わらず優しいな。ところで名前は決めたのか?」
「前と同じで僕が女の子、はるが男の子の名を決めるよ」
こうして話していると、ふと昔を思い出す。
まだ秀吉が藤吉郎で僕がただの雲之介だった頃を。
「雲之介。おぬしはよく、わしについて来てくれたな」
改まって秀吉は言う。まるで心を見透かされたと錯覚してしまいそうだった。
「な、なんだよいきなり……秀吉がついて来いって言ったからだろう?」
思わず照れてしまった僕。秀吉は「内々の話になるが」と僕のほうを振り返る。
「中国攻めを任されるかもしれぬ」
「えっ? それは――凄いな! おめでとう!」
「まだ喜ぶな。任されるかもしれぬと言っただろう」
秀吉は「黒田官兵衛という男を覚えているか?」と問う。
「ああ。覚えているよ」
「播磨国への出兵を手引きしたのはあいつだ。しかし畿内のごたごたで一年遅れるかもしれん」
「まだ本願寺と雑賀衆と丹波国が従っていないからな」
「雲之介。おぬしも播磨国に来るか?」
その問いに「当たり前だろう」と即答した。
「命じてくれれば行くよ」
「おそらく危険だぞ? 四方が敵だらけで気が休まるときはないだろう」
「だったら尚更秀吉だけ行かせられないよ」
僕は胸を張って言う。
「治安維持は僕の得意とするところだ。決して役立たずなんて言わせないさ」
「……雲之介」
「長浜城に居れば安全かもしれないけどさ。でも水臭いこと言うなよ」
秀吉は軽く笑って「おぬしは本当に……」と言う。最後は聞こえなかった。
「ま、本当に中国攻めを任されるか分からないけどね」
「それもそうだな。地理的に荒木殿のほうが近いしな」
僕と秀吉は笑い合った。
本当に昔を思い出すようだった。
◆◇◆◇
「殿。お帰りなさいませ」
屋敷に帰ると島が居た。それどころか僕の家臣が全員居た。
「どうした? 何かあったのか?」
「……松永から書状が来ました。二人で話したいと」
無表情で書状を手渡す島。
僕は一通り読んで「使者は帰ったのか?」と訊ねる。
「近くの宿舎で休んでもらっている……行くのか?」
「ああ。ちょうど都合が合うからね」
島は渋い顔で「何を企んでいるのか分かりませんぞ」と忠告してくれた。
雪隆もなつめも大久保も頼廉も、行かないほうが良いという顔をした。
「特に何かされるとは思えないしね」
「雲之介さん。幻術をかけられそうになったじゃないか」
「ああ、そうだったね……」
でもここで断ったらなんだか負ける気がする。
それになんだか胸騒ぎがしてきた。
「島。今でも松永を恨んでいるか?」
「……当たり前だ」
島は怖い顔をしている。人を何人か斬ったような表情。
「だけど僕はそれほど悪い印象を持ってはいない。悪人だと思うけどね」
「殿。しかし――」
「分かっている。忠告ありがとう」
僕はなつめに言う。
「なつめ、はるのことを頼む。なるべく早く帰るから」
「……気をつけてね」
さて。松永久秀の誘いの意図はなんだろうか?
家臣として引き抜くわけではないだろう。
もしも羽柴家と織田家に仇名すのなら――
その場で斬ることも辞さない。
「おー、よしよし。石松丸は元気だなあ」
膝の上で我が子を可愛がっている秀吉。子ども好きの親馬鹿になるとは思っていたけど、まさかここまでとは……
石松丸は秀吉にあまり似ていない。猿顔ではないし。きっと亡くなった南殿似なんだろう。活発で優しそうでもある。将来の羽柴家の当主として立派になってほしいが。
「もうすぐ何才になるんだ?」
「四つになる。そうだな、石松丸?」
「そうですぅ。ちちうえー」
「おうおう。可愛いなあ。愛おしいなあ」
うーん、微笑ましい光景だけど、そろそろ本題に入ってほしい。
越前国から帰ってきたと思ったら、親子の触れ合いを見せ付けられているこの状況はつらかった。
はるにもうすぐ子が産まれそうなのに……
「秀吉。子ども自慢が目的なのか?」
「ああそうだ。いや、違った。つい本音を言ってしまった」
本音なのか……
「実はおぬしに、石松丸の教育を頼みたいのだ」
「はあ? 自分の息子だろう?」
「わしも忙しいのだ。それに養育ではなく教育をしてもらいたい」
「僕だって忙しいよ。それに何を教えればいいんだ?」
秀吉は「おぬしは治世では能臣になりそうだからな」と笑う。
「国の治安維持のための方策や金銭や経済の感覚を一通り教えてやってくれ。いわゆる内政官のいろはを叩き込んでほしいのだ」
「武将としての心構えとか、そんなんじゃないのか?」
「この子が大きくなる頃には、織田家は天下を手中に収めているだろう。そうなれば必要なのは言うまでもない」
秀吉の理屈は分かるけど……
「気が早いんじゃないか? 石松丸はまだ四つだろう?」
「分かっておる。そうだな……三年後か四年後に教えてやってくれ。今言ったのは、先約というものだ」
「先約か……それならいいよ。ただし、武芸と兵法も学んでもらう。それは他の者に頼んでくれ」
秀吉は「分かっておる」と石松丸にとびっきりの笑顔を見せた。
「良かったのう。稀代の能吏がおぬしの教師だぞ? これほどの贅沢はない!」
「よくわからないけど、うれしいですぅ」
「あっはっは! そうか嬉しいか!」
おいおい。よく分からないって言ってるじゃないか……
「なあ。仕事の話がしたいんだけどいいかな?」
「うん? ……石松丸、かかさまのところに行ってなさい」
真剣に聞いてくれるらしく、石松丸を侍女に預ける秀吉。
流石に公私を分ける甲斐性はあるらしい。
侍女たちが出て行き、そして二人きりとなる。
「それで、なんだ?」
「琵琶湖で水運業をするって計画を上様が立てられたじゃないか。あれ、絶対失敗すると思う」
「ああ、あれか。良い政策ではないか」
僕は「琵琶湖を通じて各都市を結んで経済を発展させるのは傍目には良い策だ」と前置きする。
「だけど時間がかかっても陸運のほうが効率がいい」
「船のほうが多くのものを運べるではないか」
「水運は天候に左右される。嵐の中、絶対に届けなければいけないという状況になったら不味いだろう?」
秀吉は「……盲点だったな」と苦い顔をした。
「それなら僕がやらせている安土と長浜の間の街道整備のほうを重んじてくれ」
「水運の計画を聞く前から行なっているあれか。おぬし、元から水運は失敗すると思っていたのか?」
「まさか。初めて聞いたときは良いと思ったよ。でも琵琶湖の水運業者に話したら、さっきの天候問題が浮上したんだ」
「現場の者の意見は聞かんと駄目だな……」
秀吉は「分かった。上様に話しておこう」と言う。
「説得させるための文書を考えておけ」
「ここに用意してあるよ」
懐から書状を取り出すと「賢しいな、おぬし」と秀吉は苦笑する。
「これから安土に向かうんだろう? 僕って先々のことを考えているんだ」
「そういうところは好ましいぞ。だからこそ、安心して任せられる」
秀吉は立ち上がって僕の横を通り、外の景色を眺めた。
「話は変わるが、明智殿の話は聞いたか?」
「元気になったとしか聞いてないが。そのことか?」
「妻が亡くなったそうだ」
思わず息を飲む。
以前会ったあの人が――
「天命とはいえ、悲しいことよ。わしも側室とはいえ、南殿を亡くしているからな」
「僕だって、気持ちは分かるさ」
「だろうな。そういえばはる殿はどうだ? もうすぐ子どもが産まれるのか?」
僕は肩を竦めて「呼び出されなければずっと傍に居たよ」と笑った。
「おぬしとしては女子のほうが都合が良かろう」
「男子でも嬉しいことは変わりないよ」
「ふん。相変わらず優しいな。ところで名前は決めたのか?」
「前と同じで僕が女の子、はるが男の子の名を決めるよ」
こうして話していると、ふと昔を思い出す。
まだ秀吉が藤吉郎で僕がただの雲之介だった頃を。
「雲之介。おぬしはよく、わしについて来てくれたな」
改まって秀吉は言う。まるで心を見透かされたと錯覚してしまいそうだった。
「な、なんだよいきなり……秀吉がついて来いって言ったからだろう?」
思わず照れてしまった僕。秀吉は「内々の話になるが」と僕のほうを振り返る。
「中国攻めを任されるかもしれぬ」
「えっ? それは――凄いな! おめでとう!」
「まだ喜ぶな。任されるかもしれぬと言っただろう」
秀吉は「黒田官兵衛という男を覚えているか?」と問う。
「ああ。覚えているよ」
「播磨国への出兵を手引きしたのはあいつだ。しかし畿内のごたごたで一年遅れるかもしれん」
「まだ本願寺と雑賀衆と丹波国が従っていないからな」
「雲之介。おぬしも播磨国に来るか?」
その問いに「当たり前だろう」と即答した。
「命じてくれれば行くよ」
「おそらく危険だぞ? 四方が敵だらけで気が休まるときはないだろう」
「だったら尚更秀吉だけ行かせられないよ」
僕は胸を張って言う。
「治安維持は僕の得意とするところだ。決して役立たずなんて言わせないさ」
「……雲之介」
「長浜城に居れば安全かもしれないけどさ。でも水臭いこと言うなよ」
秀吉は軽く笑って「おぬしは本当に……」と言う。最後は聞こえなかった。
「ま、本当に中国攻めを任されるか分からないけどね」
「それもそうだな。地理的に荒木殿のほうが近いしな」
僕と秀吉は笑い合った。
本当に昔を思い出すようだった。
◆◇◆◇
「殿。お帰りなさいませ」
屋敷に帰ると島が居た。それどころか僕の家臣が全員居た。
「どうした? 何かあったのか?」
「……松永から書状が来ました。二人で話したいと」
無表情で書状を手渡す島。
僕は一通り読んで「使者は帰ったのか?」と訊ねる。
「近くの宿舎で休んでもらっている……行くのか?」
「ああ。ちょうど都合が合うからね」
島は渋い顔で「何を企んでいるのか分かりませんぞ」と忠告してくれた。
雪隆もなつめも大久保も頼廉も、行かないほうが良いという顔をした。
「特に何かされるとは思えないしね」
「雲之介さん。幻術をかけられそうになったじゃないか」
「ああ、そうだったね……」
でもここで断ったらなんだか負ける気がする。
それになんだか胸騒ぎがしてきた。
「島。今でも松永を恨んでいるか?」
「……当たり前だ」
島は怖い顔をしている。人を何人か斬ったような表情。
「だけど僕はそれほど悪い印象を持ってはいない。悪人だと思うけどね」
「殿。しかし――」
「分かっている。忠告ありがとう」
僕はなつめに言う。
「なつめ、はるのことを頼む。なるべく早く帰るから」
「……気をつけてね」
さて。松永久秀の誘いの意図はなんだろうか?
家臣として引き抜くわけではないだろう。
もしも羽柴家と織田家に仇名すのなら――
その場で斬ることも辞さない。