残酷な描写あり
ありがとう
施薬院に着いた。燃やされていない。でも、ところどころ壊されていて、特に門が破壊されていた。
おそらく、無理に押し入ったのだろう。
中に入ると、患者たちが泣いていたり、悔しがっていたり、そして全員僕を哀れむ目で見ていた。
道三殿と玄朔が居た。二人とも僕の顔を見て、はっとする。それまで顔を伏せていたのに。
まるで、何かを悼むように、顔を伏せていたのに。
「志乃は、晴太郎は、どこに居る?」
僕は二人に訊ねた。玄朔が唾を飲み込みながら「晴太郎は、無事です」とだけ言った。
晴太郎は……?
「奥の部屋で寝ています……」
「志乃はどこに居る?」
「それは……」
僕は玄朔の着物を掴んで無理矢理立たせた。乱暴な行ないだけど、玄朔は文句一つ言わない。
「どこに居るんだ?」
「…………」
答えなかったので、玄朔の頬を思いっきり殴る。
倒れこんだ彼は、それでも何も言わなかった。
「志乃は、どこに居るんだ?」
玄朔を再び立たせて問うと「右奥の寝室に寝かせていますよ」と道三殿が言う。
哀れむ目つきで僕を見つめていた。
「そうか。じゃあ二人ともついて来てくれ。診てやってほしい」
玄朔を乱暴に放して、僕は真っ先に志乃が寝ているところに行く。
志乃は身篭っているんだ。
僧兵に襲われて、きっと怖い思いをしたんだろう。
母子ともに大丈夫だと良いけど。
寝室を開けた。
志乃は布団に寝かされていた。
真っ青な顔で、死に装束だった。
◆◇◆◇
「嘘でしょ……」
後ろで半兵衛さんの声がする。
振り返ると秀長殿たちが居た。
正勝も長政も居た。
全員、分かっていた。
僕も、分かっていた。
「ねえ。曲直瀬道三でしょ、あなた。知っているわよ。医聖って呼ばれている名医でしょ」
「半兵衛、よさないか」
半兵衛さんが道三殿に詰め寄った。
それを正勝が止める。
「ねえ治してよ。すぐに、いますぐに!」
「……無理です。いくらわしでも、死人は――」
「ふざけないでよ! 良いから治しなさいよ!」
半兵衛さんが道三殿の首元を掴む。
「やめろって言ってんだろ! 半兵衛!」
正勝が、半兵衛さんを、道三殿から引き剥がした。
「死人を治すなんて、できっこねえ!」
死人、死人か……
「雲之介ちゃんから、志乃ちゃんを奪わないであげて! お願いだから、生き返らせてあげてよ! 後生だから……」
泣き崩れる半兵衛さんを長政が支える。
秀長殿も泣いていた。手で顔を覆って、泣いていた。
「しばらく、志乃と二人きりにしてくれ」
自分でも恐ろしいほど、かすれた声だった。
全員、何かを言おうとして、何も言わずに、黙って下がった。
襖を閉めて、志乃を見る。
どこか、覚悟しているような顔。
だけど、少しだけ苦しみも混じっている。
『あなたは――悪くない』
いつか、初めて人を殺したとき、慰めてくれた言葉。
何故だろう。志乃が遠くに感じる。
そっと頬を撫でる。冷たくなっている。
『当たり前よ! 心から、あなたを愛しているわ!』
そう言ってくれた志乃。
僕が愛した、妻。
それが遠くに遠くに感じる。
「志乃。いつだったか、言ってくれたね。太平の世になったら、百姓になって、静かに暮らそうって」
志乃は答えない。
「悪くないと思ってしまったんだ。穏やかに、何も思い煩うこともなく、暮らせたらどれだけ幸せだろうか」
志乃は答えない。
「初めて言うけどさ。志乃の髪、好きだったんだ」
志乃の髪をかき上げる。
志乃は答えない。
「どうして、こうなっちゃったんだろうね……」
志乃は答えない。
志乃は答えない。
志乃は――答えない。
ようやく、僕は、志乃が死んだことを、認められた。
◆◇◆◇
襖を開けると、みんなが正座をして待っていた。
「兄弟、それは……」
「……ああ、志乃の髪だ」
僕は不自然にならない程度に、髪を切った。
「志乃の遺髪、持っていようと思って」
「あ、ああ……そうだな……」
何か言いたげな正勝だったけど、何も言わなかった。
「それで、晴太郎はどこに居る? 無事だって言っていたけど」
「……怪我はありません。でも、心に大きな傷を受けました」
玄朔が医師として言う。
「大きな傷?」
「……志乃さんが殺されたところを、見てしまったらしいです」
繊細な晴太郎らしいな。
「……分かった。詳しい話が聞きたい。二人はその場に居たのか?」
道三殿と玄朔に訊ねると「いえ、居ませんでした」と不在だったと告げられた。
「今、明里が帰ってきました。彼女なら知っています」
「そう。じゃあ聞こうか」
玄朔がそう言ったので、僕は居間に向かう。
「雲之介……」
長政が僕と話したいようだった。足を止める。
「なんだい? 長政」
「あまり、無理をするなよ」
僕は「無理しているって自覚しているよ」と言って――笑った。
無理矢理に、笑った。
「でもね。そうしないと死にたくなるんだ」
◆◇◆◇
明里はまるで処刑される直前の罪人のように青ざめていた。
僕はそんな彼女の前に座る。
「何があったのか。教えてくれるかな」
明里は泣きながら、涙を零しながら、語り出す。
「そ、僧兵が、押し入って――」
「それで?」
「志乃さんが、皆を守って、前に立って……」
「それで?」
「――殺されました」
いまいち要領を得なかったけど。
志乃がみんなのために死んだことは分かった。
「そうか……志乃は、みんなのために、死んだのか」
みんなのせいで、とは言えなかった。
「そのとき、志乃さんの水晶を僧兵は奪いました」
「ああ、そういえば、なかったね」
「しばらくの間、志乃さんは息がありました」
「志乃の最期の言葉、分かるかな?」
明里は身体を震わせて、長い時間をかけて、言ってくれた。
「志乃さんは、『ありがとう、雲之介』と……」
僕は目を閉じて、志乃を思い出す。
浮かぶのは、笑顔だった。
太陽のように明るい笑顔だった。
「落ち着いたら、また話してくれ」
泣き崩れた明里にそう言い残して、僕は立ち上がる。
この場に居たくなかったから、僕は施薬院を出た。
「おい、どこに行くんだ!」
正勝が僕の肩を掴む。
いつの間にか、仲間に囲まれていた。
「ここに居たくない……」
「気持ちは分かるけどよ。晴太郎は……」
「連れて来てくれ。今日は二条城で寝る」
正勝の肩を握る力が強くなる。
「……分かった。長政殿、晴太郎を」
秀長殿の言葉で、長政が晴太郎を背負ってきてくれた。
苦悶の表情で魘されている。
「ありがとう。みんな」
それしか言えなかった。
「一晩寝たら、長浜に帰っていいかな」
「…………」
「かすみに、言わないと」
ああ、そうだった。
志乃に言わないと。
僕も愛しているよ。
さようなら、志乃。
今まで、ありがとう。
おそらく、無理に押し入ったのだろう。
中に入ると、患者たちが泣いていたり、悔しがっていたり、そして全員僕を哀れむ目で見ていた。
道三殿と玄朔が居た。二人とも僕の顔を見て、はっとする。それまで顔を伏せていたのに。
まるで、何かを悼むように、顔を伏せていたのに。
「志乃は、晴太郎は、どこに居る?」
僕は二人に訊ねた。玄朔が唾を飲み込みながら「晴太郎は、無事です」とだけ言った。
晴太郎は……?
「奥の部屋で寝ています……」
「志乃はどこに居る?」
「それは……」
僕は玄朔の着物を掴んで無理矢理立たせた。乱暴な行ないだけど、玄朔は文句一つ言わない。
「どこに居るんだ?」
「…………」
答えなかったので、玄朔の頬を思いっきり殴る。
倒れこんだ彼は、それでも何も言わなかった。
「志乃は、どこに居るんだ?」
玄朔を再び立たせて問うと「右奥の寝室に寝かせていますよ」と道三殿が言う。
哀れむ目つきで僕を見つめていた。
「そうか。じゃあ二人ともついて来てくれ。診てやってほしい」
玄朔を乱暴に放して、僕は真っ先に志乃が寝ているところに行く。
志乃は身篭っているんだ。
僧兵に襲われて、きっと怖い思いをしたんだろう。
母子ともに大丈夫だと良いけど。
寝室を開けた。
志乃は布団に寝かされていた。
真っ青な顔で、死に装束だった。
◆◇◆◇
「嘘でしょ……」
後ろで半兵衛さんの声がする。
振り返ると秀長殿たちが居た。
正勝も長政も居た。
全員、分かっていた。
僕も、分かっていた。
「ねえ。曲直瀬道三でしょ、あなた。知っているわよ。医聖って呼ばれている名医でしょ」
「半兵衛、よさないか」
半兵衛さんが道三殿に詰め寄った。
それを正勝が止める。
「ねえ治してよ。すぐに、いますぐに!」
「……無理です。いくらわしでも、死人は――」
「ふざけないでよ! 良いから治しなさいよ!」
半兵衛さんが道三殿の首元を掴む。
「やめろって言ってんだろ! 半兵衛!」
正勝が、半兵衛さんを、道三殿から引き剥がした。
「死人を治すなんて、できっこねえ!」
死人、死人か……
「雲之介ちゃんから、志乃ちゃんを奪わないであげて! お願いだから、生き返らせてあげてよ! 後生だから……」
泣き崩れる半兵衛さんを長政が支える。
秀長殿も泣いていた。手で顔を覆って、泣いていた。
「しばらく、志乃と二人きりにしてくれ」
自分でも恐ろしいほど、かすれた声だった。
全員、何かを言おうとして、何も言わずに、黙って下がった。
襖を閉めて、志乃を見る。
どこか、覚悟しているような顔。
だけど、少しだけ苦しみも混じっている。
『あなたは――悪くない』
いつか、初めて人を殺したとき、慰めてくれた言葉。
何故だろう。志乃が遠くに感じる。
そっと頬を撫でる。冷たくなっている。
『当たり前よ! 心から、あなたを愛しているわ!』
そう言ってくれた志乃。
僕が愛した、妻。
それが遠くに遠くに感じる。
「志乃。いつだったか、言ってくれたね。太平の世になったら、百姓になって、静かに暮らそうって」
志乃は答えない。
「悪くないと思ってしまったんだ。穏やかに、何も思い煩うこともなく、暮らせたらどれだけ幸せだろうか」
志乃は答えない。
「初めて言うけどさ。志乃の髪、好きだったんだ」
志乃の髪をかき上げる。
志乃は答えない。
「どうして、こうなっちゃったんだろうね……」
志乃は答えない。
志乃は答えない。
志乃は――答えない。
ようやく、僕は、志乃が死んだことを、認められた。
◆◇◆◇
襖を開けると、みんなが正座をして待っていた。
「兄弟、それは……」
「……ああ、志乃の髪だ」
僕は不自然にならない程度に、髪を切った。
「志乃の遺髪、持っていようと思って」
「あ、ああ……そうだな……」
何か言いたげな正勝だったけど、何も言わなかった。
「それで、晴太郎はどこに居る? 無事だって言っていたけど」
「……怪我はありません。でも、心に大きな傷を受けました」
玄朔が医師として言う。
「大きな傷?」
「……志乃さんが殺されたところを、見てしまったらしいです」
繊細な晴太郎らしいな。
「……分かった。詳しい話が聞きたい。二人はその場に居たのか?」
道三殿と玄朔に訊ねると「いえ、居ませんでした」と不在だったと告げられた。
「今、明里が帰ってきました。彼女なら知っています」
「そう。じゃあ聞こうか」
玄朔がそう言ったので、僕は居間に向かう。
「雲之介……」
長政が僕と話したいようだった。足を止める。
「なんだい? 長政」
「あまり、無理をするなよ」
僕は「無理しているって自覚しているよ」と言って――笑った。
無理矢理に、笑った。
「でもね。そうしないと死にたくなるんだ」
◆◇◆◇
明里はまるで処刑される直前の罪人のように青ざめていた。
僕はそんな彼女の前に座る。
「何があったのか。教えてくれるかな」
明里は泣きながら、涙を零しながら、語り出す。
「そ、僧兵が、押し入って――」
「それで?」
「志乃さんが、皆を守って、前に立って……」
「それで?」
「――殺されました」
いまいち要領を得なかったけど。
志乃がみんなのために死んだことは分かった。
「そうか……志乃は、みんなのために、死んだのか」
みんなのせいで、とは言えなかった。
「そのとき、志乃さんの水晶を僧兵は奪いました」
「ああ、そういえば、なかったね」
「しばらくの間、志乃さんは息がありました」
「志乃の最期の言葉、分かるかな?」
明里は身体を震わせて、長い時間をかけて、言ってくれた。
「志乃さんは、『ありがとう、雲之介』と……」
僕は目を閉じて、志乃を思い出す。
浮かぶのは、笑顔だった。
太陽のように明るい笑顔だった。
「落ち着いたら、また話してくれ」
泣き崩れた明里にそう言い残して、僕は立ち上がる。
この場に居たくなかったから、僕は施薬院を出た。
「おい、どこに行くんだ!」
正勝が僕の肩を掴む。
いつの間にか、仲間に囲まれていた。
「ここに居たくない……」
「気持ちは分かるけどよ。晴太郎は……」
「連れて来てくれ。今日は二条城で寝る」
正勝の肩を握る力が強くなる。
「……分かった。長政殿、晴太郎を」
秀長殿の言葉で、長政が晴太郎を背負ってきてくれた。
苦悶の表情で魘されている。
「ありがとう。みんな」
それしか言えなかった。
「一晩寝たら、長浜に帰っていいかな」
「…………」
「かすみに、言わないと」
ああ、そうだった。
志乃に言わないと。
僕も愛しているよ。
さようなら、志乃。
今まで、ありがとう。