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作者: 橋本洋一
残酷な描写あり
怪我の功名
 はっきり言って、僕は身体を動かすことが苦手だ。
 というより能力が低いと言うべきだろう。大昔、前田さまに適性がないと言われたこともある。
 それでも僕は熊の一撃をまともには喰らわなかった。人間、死が迫るとこれほどまでに俊敏な動きができるのだと、自分でも感心するほどだった。

 しかしながら、日頃の運動不足のつけが回ってしまったのだろう。ギリギリ避けることができなかったのだ。
 熊の爪が、僕の顔を――抉った。
 激痛が右頬だけではなく、顔全体に広がる。焼きごてを当てられたみたいに熱く、それでいて、氷柱に刺されたように冷たかった。

「――雲之介さん!」

 雪之丞が喚いた。初めて聞く焦った声。それしか認識できなかった――

「雲之介さん、しっかりしてください!」

 意識が朦朧としている。見ると子飼いたちが僕を覗き込んでいる。
 子供らしく泣いていた。市松なんかは鼻水を垂らしている。

「……熊は?」
「大丈夫! 雪之丞が倒した! だからしっかりしてくれ!」

 虎之助が僕の手を握りながら言う。
 桂松と佐吉が居ない……?

「桂松は? 佐吉は?」
「二人は助けを呼びに行った!」
「ああ、良かった……」

 安心して気が抜けると、激痛が走った。

「痛いな……」
「ええと。どうしたらいいんですか!?」
「万福丸! おろおろするな!」

 虎之助が甲高い声で叱った。余程動揺しているのだろう。
 僕は「虎之助……」と呼びかける。

「な、なんだ? 何かしたほうが――」
「君たちが無事で、良かった」

 子飼いたちは驚いたように各々顔を見合わせた。

「怪我を負った子は、いないのなら、それでいい……」
「な、なんでだよう……」

 大泣きしている市松が僕に問いかけた。

「俺たちが悪いじゃないか。雲之介さんの言うこと、聞かないで、こんなことに――」
「それでも、生きている」

 笑おうとしたけど、痛くてできなかった。

「それに、僕が頼りないから、講義を聞かなかったんだろう?」
「――っ!」
「だったら、こうなったのも、僕の責任だ」

 握られてないほうの手で、市松の頭に触れる。

「ごめんな。怖い思いをさせて」
「なんでだよう……謝るのは、俺たちの――」

 市松の言葉を最後まで聞く前に、僕の意識は無くなった――

 
◆◇◆◇

 
「とうさまー。おきてえ」
「だめだよかすみ。とうさまは、ねているんだから」

 かすみと晴太郎の声で、僕は目覚めた。
 おそらく僕の屋敷だ。見知った天井だったから分かる。
 お昼過ぎなんだろう。辺りはすっかり明るい。

「晴太郎……かすみ……志乃を呼んでくれ」
「あ、とうさまおきた!」

 かすみが嬉しそうに僕を見た。
 起き上がって自分の顔に包帯が巻かれていることに気づく。

「とうさま! げんきになった!?」
「いや……なってないから、かすみ、僕の上に乗らないでくれ」

 はしゃぐかすみの頭を撫でながら「志乃を呼んでくれ」と晴太郎に言う。

「うん。わかった。かあさま、とうさまがおきたー」

 晴太郎がそれほど大きくない声で呼んだのにも関わらず、騒がしくこちらに近づく音がする。

「雲之介さん! ああ、良かった! ようやく起きたんだな!」

 雪之丞が息を切らしながら僕の傍らに近づき、膝を立てた。
 その後、虎之助と市松、佐吉も部屋に中に入ってきた。

「雲之介さん! もう大丈夫なのか!?」
「顔色は……包帯で分かりませんね……」
「良かった……本当に良かった……」

 子飼いたちは僕の心配をしていたらしい。全員、目の下に隈ができていた。
 遅れて桂松と万福丸が志乃を連れてやってきた。
 よく分からないけど、志乃は怒っていた。

「……雲之介。いったい何回私を心配させるわけ?」
「……ごめんなさい」

 素直に謝ると「もういいわよ」と素っ気無く言った。

「子飼いたちから事情を聞いたわ。意識を失う前のこともね」
「……うん」
「なんでこの子たちを怒らないのよ? そこも怒っているんだからね」

 僕は「そういえば怒ってなかったなあ」と呟く。

「その前に、どういう経緯で熊退治をしようとなったんだ?」
「山に出てくる熊を退治できたら、雲之介さんの講義に出なくてもいいだろうって……詳しくは覚えてない」

 雪之丞が皆を代表して言った。他の子飼いは俯いて何も言わない。

「あなたたちねえ! 子供が熊を退治できるわけないでしょう! 雲之介をこんな目にあわせて! どう責任取るつもりなの!」

 志乃が物凄く怒っている。晴太郎とかすみが、僕に身体に寄り添った。
 子飼いたちは誰も何も言わなかった。本当に反省しているのだろう。

「一生残る傷を、雲之介は受けたのよ! どう思うのよ!」
「えっ? 一生残るのか?」
「当たり前よ! 縫ったけど、三本の傷は消えないわ!」

 それを聞いた子飼いたちは、まるで磔を言い渡されたように顔を青ざめた。

「そうか……じゃあ皆。どうすればいいと思う?」

 志乃を制して、僕は子飼いたちに訊ねた
 口を開いたのは、虎之助だった。

「……長浜城から出て行く。故郷に帰るよ」
「……そうじゃないなあ」

 次に言ったのは、佐吉だった。

「武士ではなく、別の職に就いて、一生かけて、償います」
「そうでもないなあ」

 すると市松が泣きながら言った。

「じゃ、じゃあ。切腹すればいいのか……?」

 他の子飼いは震えていたけど、誰も反対しなかった。
 僕は溜息を吐いた。

「それでもない」
「じゃあ、どうすればいいんですか!」

 桂松が追い詰められたように喚いた。

「簡単だよ。悪いことしたら謝るのが筋だろう?」

 僕の言葉に全員が唖然とした。

「それと二度と危険なことはしないと約束してほしい。いいね?」
「そ、それだけで――」
「当たり前だよ。子供を追い出すとか、一生償わせるとか。ましてや死なせるとか。そういうのは嫌なんだよ」

 自分でも甘いと思うけど、そこが落としどころだろう。

「よくぞ言った雲之介! まったく、おぬしの優しさは天井知らずだな!」

 襖を開けてやってきたのは、秀吉だった。隣には正勝も居た。

「本来なら追放とすべきところだが、雲之介に免じて寛大な処置で済まそう!」
「秀吉……いつから居たんだ?」

 呆れる僕に対して志乃が「ずっと居たわよ」と耳打ちした。

「子飼いたちと一緒の部屋に居たらしいわ。一言も口を開かずにね」
「それはきついな……」

 そして秀吉は「しかし不問にするわけにはいかんな」と笑った。
 でも目は笑っていなかった。

「正勝。雲之介の代わりに説教してやれ」
「おう。もちろんだ」

 ぎろりと子飼いたちを睨みつける正勝。全員震えている。

「兄弟は優しいからよ。あれだけで済ませたが、俺は甘くねえからな」

 うわあ。ご愁傷さまだな。

「まずはきちっと兄弟に詫び入れろ!」

 子飼いたちは「はい!」と一斉に頷いて、背筋を正して、僕に謝った。

「本当に、すみませんでした!」

 これで万事解決……とまではいかなかった。
 僕はその後、熱が出てしまい、仕事ができなくなった。
 志乃が施薬院で習った熱さましを飲み続けて、ようやく元気になったのは八日後だった。
 それと逆に嬉しいことがあった。

「雲之介さん。俺は今回の恩を忘れない」

 雪之丞が枕元で僕に誓ってくれたのだ。

「もう二度と、あなたに怪我をさせない。戦場においても、平時においても。絶対にあなたを守る」
「はは。ありがたいな」

 他の子飼いも僕に従うようになったし、怪我の功名とはこのことかもしれない。

 
◆◇◆◇

 
 熱が下がり、仕事ができるようになって、数ヶ月後。
 秀吉が僕たちを評定の間に呼び出した。

「今日呼び出したのは他でもない。実は岐阜城のお屋形様から書状が届いた」

 お屋形様から? なんだろうか。

「武田信玄が、上洛の動きを見せている」

 あの武田信玄が?

「来年の春、徳川家に攻め込むようだ」
「なんだと? おいおい、どうするんだ?」

 正勝の焦りはよく分かる。
 最強と呼ばれた、あの武田信玄の軍団に勝てるのだろうか?

「秀長、雲之介。おぬしたちに命ずる」

 このとき、秀吉は予想もできなかったことを言った。

「本願寺の味方をしている、雑賀衆をこちらに引き込め。奴らの力が必要だ」
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