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作者: 橋本洋一
残酷な描写あり
冷たい論戦
「あら。可愛いお子さまたちですね。『雲之介』さんにそっくり」
「ええ。『私たち』の可愛い子供ですから。当然です」

 静かなる戦いは続いていた。晴太郎やかすみ、そして茶々は不思議な顔をして互いの母親の顔を見ている。

「ねえ。雲之介。茶々ちゃんも可愛いわよね」
「どうですか? 茶々可愛いですか?」

 志乃とお市さまは互いに向かい合っていて、ちょうど三角形の頂点に僕がいる。部屋には子供たちを含めて六人しか居ない。あの薄情者の長政は逃げてしまった。

「ねえ。雲之介。『私』が聞いているのだけれど」
「志乃さん。『私』も聞いていますよ?」
「あらごめんなさい。忘れていたわ」
「うふふ。その歳で忘れっぽいんですねえ」

 そして二人とも笑い声を上げる。晴太郎が怯えた様子で僕の膝に擦り寄る。ああ、我が息子よ。その年で女の恐さを知ってしまったのか。

「えーと。茶々も可愛い――」
「聞きましたか志乃さん。『私』に似た茶々を可愛いと言いましたよ。雲之介さんが」
「何言っているのですか? 茶々『も』と言ったではありませんか。つまり『私たち』の子供と同じくらい可愛いという意味ですよ」

 駄目だ。何を言っても険悪になってしまう。晴太郎を抱っこすると少し震えている。

「えっとね。お二人とも、仲良く――」
「できるわけないじゃない」
「そうですよ。何を言っているんですか?」

 表面上はにこやかだった二人が、恐ろしいものに変わった。志乃は般若のような怒りの表情になったし、お市さまは逆に能面のような無表情になった。

「私から雲之介さんを奪った志乃さんは許せませんよ」
「未だに雲之介の心を奪っているお市さんは許せない」

 ああ、僕のせいだと分かっているのだけど。
 誰か助けてほしい――

「おお! 雲之介! よう戻ったな――」

 救い主の登場だ! 障子を開けて入ってきたのは秀吉だった!

「何か用ですか? 秀吉さま」
「用が無ければ帰ってください」
「おおう? お邪魔だったようだな。しかし雲之介に――」
「雲之介は今忙しいのです。帰ってください」
「そうです。見て分かりませんか?」

 二人の凍るような視線。邪魔だ、さっさとどっか行けと暗に示しているのを受けて秀吉は「……すまなかった」と引き下がってしまった。

「ちょっと、秀吉! これから――」
「どうしたの雲之介。これから『私たち』の話を聞くんでしょう?」
「そうですよ。どこ行くんですか? それに秀吉さまも了承してくださったではないですか」

 秀吉に助けてくれと視線を送る。
 あ、目を逸らされた!?

「それではわしはこの辺で……」
「待って秀吉! 頼むから!」

 その言葉も虚しく、無情にも障子は閉められた。

「雲之介ぇ。あなたどこに行こうとしたのぉ?」
「そうですよぉ。あなたのいる場所はここしかないんですからぁ」

 もしも脇差があれば、この場で切腹したほうがマシだと思われるほどの恐怖を感じた。

「……はい。そのとおりです」

 僕の言葉で冷たい論戦は再開された。

「雲之介さんを『私』から奪ったときの気分はどうでしたか?」
「最高の気分でしたね。お市さんから奪ったと知ったときはもっと最高の気分でしたよ」
「へえ。人の想い人を奪うってそんな気分なんですねえ」
「ええ。本当に――」
「雲之介さんの一番は今でも『私』ですけどね」
「――今なんて言いました?」
「あら。すみません。本当のことを言ってしまって」
「……雲之介の一番は私よ」
「うふふ。焦っていますね。そうですねえ。一番はあなたかもしれませんね。私は別格ですからね」
「大した自信ですね。結局は手に入れられなかったくせに」
「心は手に入れましたよ……」

 仏教では等活地獄とうかつじごくと呼ばれる、罪人が落ちる地獄が教えられている。身を切られても何度も生き返って、苦しみを受け続けるという。
 志乃とお市さまの言葉は僕の心を切り裂く。まさに生きながら地獄に居るようなものだ。

「ねえ。雲之介。あなたが愛しているのはどっち?」

 ついに究極の問いが志乃から発せられた。
 答えれば、彼女たちのどちらかは、確実に怒り狂ってしまう。それは避けたい……

「言ってください。雲之介さん」
「言いなさいよ。雲之介」

 僕の覚悟が定まらないまま、何とか言葉を紡ごうと口を開く……

「……あなた方。何をしているのですか?」

 障子をがらりと開けて、怒気を膨らませながら、秀吉の奥方であるねね殿――いや、大名の奥方だからねねさまか――が二人に言う。

「ね、ねねさま――」
「人手がまるで足らないというときに、雲之介さんを拘束するとは、何事ですか!」
「い、いや。今大事な――」
「黙りなさい! あなたたちは武士の嫁として失格です!」

 それからねねさまは僕に向かってにっこりと笑った。

「さあ雲之介さん。秀吉さまが評定の間でお待ちですよ。私はこの二人を説教しますから」
「は、はい! それでは!」

 僕は晴太郎を下ろして、素早くその場から逃げた。

「雲之介! 待ちなさい――」
「志乃さん! まだ分かって――」

 ふう。地獄から抜け出せた。さあ仕事だ仕事。
 ……でも帰ったら地獄が戻るんだよなあ。
 憂鬱な気分で評定の間に入ると仲間たちが暖かく迎えてくれた。

「災難だったね。雲之介」
「まったくだな。女の戦いってのは、男には何もできねえ」
「罪な男ねえ雲之介ちゃんも」

 秀長殿、正勝、半兵衛さんが慰めてくれた。

「すまない……拙者はあの場に居る勇気がなかった」
「……まあ、それは分かるけど。謝ったらそれでいいよ」

 長政にはいろいろ言いたかったけど、同じ立場だったら僕も逃げるだろうから、不問にした。
 そして上座に居た秀吉は「ねねはやるのう」と嬉しそうに言った。

「もしかして、ねねさまを向かわせたのは――」
「無論わしだ。ふふ。感謝せよ」

 僕は秀吉の前に跪いた。

「ありがとう……! 僕は一生、秀吉について行く……!」
「おいおい兄弟。そこまで……って泣くなよ!?」

 正勝の言葉どおり、僕は泣いていた……地獄から生還できたんだ。当然だろう。

「さて。雲之介も落ち着いたところで、評定を始める」

 取り乱した僕が冷静になったところで、評定が開かれた。

「とりあえずお屋形様からは北近江国を発展させることを命じられている。そこで長政、おぬしならばどうする?」
「そうですね……やはり琵琶湖の水運を使うか、もしくは商業を奨励することですね」

 まあ妥当な判断だろう。

「そうだな。しかしそれを行なうにしても問題がある」
「ああ、人材が足らないってことね」

 半兵衛さんの言うとおりだ。ここに居る六人だけでは難しい。

「浅井家の旧臣を寄越してくれるとお屋形様は言ってくださったが……」
「うーん。でも今のうちに秀吉ちゃんの直臣を増やしておかないとね」

 すると秀長殿が「そういえば母上が有望な若者を推挙してきたよ」と言う。

虎之助とらのすけ市松いちまつの二人。鍛えれば勇士になるかもしれない」
「おお! それはありがたい! 実はねねの親戚筋からも来てな。浅野長吉あさのながよしという。わしの祝言のときの若者よ。それと侍女の子から桂松よしまつという子を推挙してきた」

 四人か。欲を言えば後一人ぐらい欲しい。

「子飼いの家臣が増えるのは良いことだわ。秀吉ちゃんには譜代がいないから」
「そうなのだ。そこがわしの弱点よ」

 それから秀吉は僕たちに向かって頭を下げた。

「これから一層忙しくなるが、皆の者、よろしく頼む」

 大名が家臣に頭を下げる。それは異常な光景だったけど、秀吉を知る僕たちにとっては普通の行動だった。
 だからこそ、僕たちは秀吉に従っているんだ。

「それと、わしの家臣団の中での筆頭を決めたいと思う。いざというときのわしの代理だな。誰が良いと思う?」

 僕たちは顔を見合わせた。

「そりゃあ……秀長殿しかいないよ」

 僕の言葉に驚いたのは当の秀長殿だった。

「わ、私が筆頭!? 冗談はやめてくれ。筆頭は雲之介だ。最初の家臣だろう?」
「あたしは秀長ちゃんだと思うわ」
「俺も秀長殿に一票だ」
「拙者は入って間もないから、皆の意見に従おう」

 戸惑う秀長殿に秀吉が「ならば秀長が筆頭だ」と決めた。

「ま、待ってくれ! 私は何の能力もない! 半兵衛のように軍才もない。雲之介のように内政の才もなければ、正勝殿のように戦働きもできない。長政殿のように上に立った経験もない。なのに……」
「秀長殿は羽柴家に無くてはならない人です。先ほど述べたことが何でもできますし、加えて人望があります」

 僕は秀長殿を説得した。なかなか首を縦に振らなかったけど、時間をかけたらなんとか頷いてくれた。

「分かった。しかし他に相応しい人が居たら代わる。それでいいかい?」

 こうして羽柴家臣団の筆頭には秀長殿が就いた。
 それからいろいろ話し合いをして、今日の仕事は終わった。
 気が重いけど帰らないといけなかった。僕は自室に戻った。

「ただいま……」
「……雲之介。ごめんなさい」

 障子を開けると、頭を下げる志乃が居た。

「ど、どうしたんだ?」
「あなたを困らせて、本当にごめんなさい。ねねさまに叱られたわ。今後はお市さんと揉めないようにする」

 ねねさま……! 本当にありがとう……!

「良いんだ。僕もはっきりしなかったから。晴太郎とかすみと一緒にご飯食べよう。お腹空いたよ」
「ええ。一緒に食べましょう」

 それから何があったのか分からないけど、志乃とお市さまは物凄く仲良くなった。
 僕と長政が戸惑うくらいに。
 ねねさま、一体何を言ったのだろうか?
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