R-15
白い牛乳のゲロ
ある朝の目覚め。最近は朝起きると気分が悪い日が多かった。目が覚めても身体が動かないって感じでまずはキッチンのカウンターでゆっくりとホットミルクを飲むのがあたしの習性になっていた。
我が家のカウンターキッチンの椅子はどれもしょぼいのだけど、あたしは今年のお年玉で肘置きの付いたちょっとだけフカフカしたいい椅子を買って使っていた。最後の贅沢のつもりだった。明日はいよいよ出産予定日になっていた。今日と明日さえ生き抜ければあたしはなんとか無事に赤ちゃんが産める。これまで何度も神様に祈ってきたけど頼むから子供を産むまではあたしの寿命よ、続いて欲しい。
外は快晴だった。青と白のグラデーションのような空。地球に近いところほど鮮やかな青色をした空だった。そこには空の白より、さらに真っ白な雲が浮かんでいる。穏やかな空っていうのはきっとこういう空を言うのだろうなと考えていた。あたしは死に際が近づくにつれ人生を後悔することも多くなってきた。例えば、国語の勉強をもっとしておけば良かった。今、暇な時間に詩を書いていることが多いがもっと自分の言語能力が高ければ、もっとたくさん色んな表現で自分の言いたいことが言い表せるのに。そしてきっとこの空をみて穏やかなんてありふれた言葉じゃなくてもっと素敵な表現が出来たかと思うと激しく後悔するのだった。貧租なあたしの国語力では今飲んでいるホットミルクも暖かくてホッとする、としか表現出来ない。
ミルクを飲み終わってもそれからしばらくは椅子から動くことが出来ないでいた。約一時間後の朝食まであたしは座りっぱなし。お母さんの手伝いをすることも不可能ないくらい身体が重くてだるかった。卒業してからずっとこんな感じが続いている。これが妊娠や出産と関係する、どの母親も経験するものだったらよいのだけれど。健康診断では見逃したなにかの病気だったら嫌だな。心の隅っこであたしはまだまだ生きられるのではないかという非常に淡い期待も持ち続けてはいた。悪夢が見られなくなったことはあたしの寿命がどこまで続くか分からなくなったのではないかって。例えそうじゃなくても、やっと出産予定日の前日までたどり着いたのだ。あたしのカウントダウンは少なくともあと2、3日残っていたような気がする。いや、2週間や20日ほどあったかもしれない。いずれにしろふうわを産むまであと少し。妙な病気にでもなっていない限りなんとかなりそうなのだから。
オエッ。食道が焼ける様に熱くなりあたしは飲んだばかりのミルクを全部吐き出してしまった。疑った。あたしの体の中でなにかが起きている。やはりあたしの命は長くはないのか。
「大丈夫?優江。」
慌てて母親があたしの背中を擦ってくれた。もう無い。時間なんて無いのだ。早くふうわを産まないと。あたしの頭の中は既に相当なパニック状態に陥っていた。
「お母さん。怖いよ。あたしなにかの病気かもしれないよ。無事に子供を産めるかどうか分からないよ。」
母もどうしていいか分からずにオロオロとしていたが、やがてすがるように携帯電話を握りしめてどこかに電話していた。床を見ると真っ白なミルクがまだ暖かな状態で広がっている。別に血が混じっていた訳でもない。飲んだままのミルクが広がっていたのだが、それがかえってあたしの恐怖心を煽った。あたしの体はもういつも飲んでいる牛乳さえ受け付けなくなってしまったのだ。
母が電話をかけた先は病院だった。それからふたりして急いで病院へ向かった。神様。いらっしゃるのであればあたしの体を治してください。あたしはまだ死にたくありません。祈りながら車の助手席で小さく蹲りながら病院へ急いだ。
ベッドに寝かされ、エコー検査を受ける。お腹の中の子は蹲りながらも所狭しと手足を伸ばしたがっているように見えた。
「特に問題は無いと思います。出産の時期が差し迫っているので、おなかの中の赤ちゃんが早く外に出たがって動いているね。それで少し胃を圧迫したのかもしれないよ。」
優しい声で先生が状況を解説してくれた。確かにエコーで見ると赤ちゃんが狭苦しそうだ。足でお腹を蹴っているようにも見える。あたしにもおなかの中から蹴られているような自覚症状があった。ふうわに異常がないことはなんとなく納得出来たけど、今のあたしは自分の体も心配だ。それを先生は察したのか、
「お母さんの体が心配なら内科に寄ってみて下さい。もう間もなく出産ですから不安な事は全部確認しておきましょう。」
心優しい先生に促されてあたし達は内科に向かった。そこで問診、触診をしてもらったが特に問題はないという。念の為に胸部と腹部のレントゲンをとったが結果は異常無しだった。さすがにあたしの気にしすぎだったのかな。ミルクを吐き出したのも妊娠の辛さのひとつだったのかもしれない。
だけど、そうだとしてもあたしの不安は完全には消えなかった。まあ消えるはずもないだろう。なにせ不安の元がなんだか分からないのだから。ただ漠然ともう死ぬかもしれないという影のようなものに怯えているだけなのだから。そう、あたしは影が怖い。なにも直接的な害はないのだけれど、雲の無いとき、明るいときに限って色濃くその姿を現し、空が黒い雲に覆われた暗い日にはそのなりを暗闇の中に隠す。姿が見えても、見えなくても不気味な存在。それがなんとなしに怖いのだ。影は急に襲ってきたり、消えたりする。しかも、実態がないのだからなんともこの恐怖心をあなたに伝えるのも難しい。なんとなく感じる恐怖はあたしの心臓に癌のように張り付いて取り除けない。
産婦人科の医者からは家で安静にしているようにと言われた。出産も間近に控えているのだから、あまり過剰に不安になると体力にまで影響するから悪いことはあまり考えないように、と言われた。
勘弁してくれ。こっちだって好きで不安や恐怖に怯えているわけではない。奴らが勝手に迫ってくるのだ。誰がなんと言おうと今のあたしは死が怖いのだ。それが分かってくれないならいっそのことあたしのことを全部正直に話してやろうか。あたしには死ぬまでの残りの寿命がつい先日まで見えていて、おそらく間もなく死ぬことが分かっているってことを。ほうら、誰も信じまい。
我が家のカウンターキッチンの椅子はどれもしょぼいのだけど、あたしは今年のお年玉で肘置きの付いたちょっとだけフカフカしたいい椅子を買って使っていた。最後の贅沢のつもりだった。明日はいよいよ出産予定日になっていた。今日と明日さえ生き抜ければあたしはなんとか無事に赤ちゃんが産める。これまで何度も神様に祈ってきたけど頼むから子供を産むまではあたしの寿命よ、続いて欲しい。
外は快晴だった。青と白のグラデーションのような空。地球に近いところほど鮮やかな青色をした空だった。そこには空の白より、さらに真っ白な雲が浮かんでいる。穏やかな空っていうのはきっとこういう空を言うのだろうなと考えていた。あたしは死に際が近づくにつれ人生を後悔することも多くなってきた。例えば、国語の勉強をもっとしておけば良かった。今、暇な時間に詩を書いていることが多いがもっと自分の言語能力が高ければ、もっとたくさん色んな表現で自分の言いたいことが言い表せるのに。そしてきっとこの空をみて穏やかなんてありふれた言葉じゃなくてもっと素敵な表現が出来たかと思うと激しく後悔するのだった。貧租なあたしの国語力では今飲んでいるホットミルクも暖かくてホッとする、としか表現出来ない。
ミルクを飲み終わってもそれからしばらくは椅子から動くことが出来ないでいた。約一時間後の朝食まであたしは座りっぱなし。お母さんの手伝いをすることも不可能ないくらい身体が重くてだるかった。卒業してからずっとこんな感じが続いている。これが妊娠や出産と関係する、どの母親も経験するものだったらよいのだけれど。健康診断では見逃したなにかの病気だったら嫌だな。心の隅っこであたしはまだまだ生きられるのではないかという非常に淡い期待も持ち続けてはいた。悪夢が見られなくなったことはあたしの寿命がどこまで続くか分からなくなったのではないかって。例えそうじゃなくても、やっと出産予定日の前日までたどり着いたのだ。あたしのカウントダウンは少なくともあと2、3日残っていたような気がする。いや、2週間や20日ほどあったかもしれない。いずれにしろふうわを産むまであと少し。妙な病気にでもなっていない限りなんとかなりそうなのだから。
オエッ。食道が焼ける様に熱くなりあたしは飲んだばかりのミルクを全部吐き出してしまった。疑った。あたしの体の中でなにかが起きている。やはりあたしの命は長くはないのか。
「大丈夫?優江。」
慌てて母親があたしの背中を擦ってくれた。もう無い。時間なんて無いのだ。早くふうわを産まないと。あたしの頭の中は既に相当なパニック状態に陥っていた。
「お母さん。怖いよ。あたしなにかの病気かもしれないよ。無事に子供を産めるかどうか分からないよ。」
母もどうしていいか分からずにオロオロとしていたが、やがてすがるように携帯電話を握りしめてどこかに電話していた。床を見ると真っ白なミルクがまだ暖かな状態で広がっている。別に血が混じっていた訳でもない。飲んだままのミルクが広がっていたのだが、それがかえってあたしの恐怖心を煽った。あたしの体はもういつも飲んでいる牛乳さえ受け付けなくなってしまったのだ。
母が電話をかけた先は病院だった。それからふたりして急いで病院へ向かった。神様。いらっしゃるのであればあたしの体を治してください。あたしはまだ死にたくありません。祈りながら車の助手席で小さく蹲りながら病院へ急いだ。
ベッドに寝かされ、エコー検査を受ける。お腹の中の子は蹲りながらも所狭しと手足を伸ばしたがっているように見えた。
「特に問題は無いと思います。出産の時期が差し迫っているので、おなかの中の赤ちゃんが早く外に出たがって動いているね。それで少し胃を圧迫したのかもしれないよ。」
優しい声で先生が状況を解説してくれた。確かにエコーで見ると赤ちゃんが狭苦しそうだ。足でお腹を蹴っているようにも見える。あたしにもおなかの中から蹴られているような自覚症状があった。ふうわに異常がないことはなんとなく納得出来たけど、今のあたしは自分の体も心配だ。それを先生は察したのか、
「お母さんの体が心配なら内科に寄ってみて下さい。もう間もなく出産ですから不安な事は全部確認しておきましょう。」
心優しい先生に促されてあたし達は内科に向かった。そこで問診、触診をしてもらったが特に問題はないという。念の為に胸部と腹部のレントゲンをとったが結果は異常無しだった。さすがにあたしの気にしすぎだったのかな。ミルクを吐き出したのも妊娠の辛さのひとつだったのかもしれない。
だけど、そうだとしてもあたしの不安は完全には消えなかった。まあ消えるはずもないだろう。なにせ不安の元がなんだか分からないのだから。ただ漠然ともう死ぬかもしれないという影のようなものに怯えているだけなのだから。そう、あたしは影が怖い。なにも直接的な害はないのだけれど、雲の無いとき、明るいときに限って色濃くその姿を現し、空が黒い雲に覆われた暗い日にはそのなりを暗闇の中に隠す。姿が見えても、見えなくても不気味な存在。それがなんとなしに怖いのだ。影は急に襲ってきたり、消えたりする。しかも、実態がないのだからなんともこの恐怖心をあなたに伝えるのも難しい。なんとなく感じる恐怖はあたしの心臓に癌のように張り付いて取り除けない。
産婦人科の医者からは家で安静にしているようにと言われた。出産も間近に控えているのだから、あまり過剰に不安になると体力にまで影響するから悪いことはあまり考えないように、と言われた。
勘弁してくれ。こっちだって好きで不安や恐怖に怯えているわけではない。奴らが勝手に迫ってくるのだ。誰がなんと言おうと今のあたしは死が怖いのだ。それが分かってくれないならいっそのことあたしのことを全部正直に話してやろうか。あたしには死ぬまでの残りの寿命がつい先日まで見えていて、おそらく間もなく死ぬことが分かっているってことを。ほうら、誰も信じまい。