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作者: konoyo
R-15
不安と絶望
お母さんが手を握り締めていてくれたからだろう。それほど恐怖心に支配はされていなかった。

 ただ、なにを話していいのか分からない。身体のどこかに痛みがあるわけではない。吐き気もしないし、熱もない。ずる休みをしているつもりはないのだけれど後ろめたい。不調を丁寧に説明しづらいから困っている。
 
 大葉先生はあまりあたしを見つめずに、出された珈琲を舐めながら視線を下に落としたり、天井を仰いだりしていた。リビングの空気はとても張りつめておりお母さんも先生も声を出さない。お母さんはあたしと先生の顔色を不安げに交互に見つめる。ふたりともあたしになんと声をかけてよいのか悩んでいるようだが、重苦しい空気に堪えられなくなったのか口を開いた。息を吸い込む為ではないだろうか。

「先生、申し訳ありません。」
 
 それしか言えなかったけど仕方のないことだろう。お母さんだってあたしの状態を把握していない。もう何日も顔を合わせて会話などしていないのだから。

 ふたりとも無理にあたしを問い質すことはしない。だけど、あたしがなにかを口にしないと空気は変わらない。重圧のかかる居心地の悪さだ。だけど真になにを話すべきなのか分からないのだ。だから、あたしもすいません、としか言えない。すいません、とは謝罪の言葉だが、あたしはどうして謝っているのだろう。

 わざわざ自宅まで訪問してくれても話すことはないんだよ。別に先生が嫌いだからというわけではないんだよ。先生に限らず誰に対してもあたしが抱える不安感や絶望感なんてものを伝えられるわけがないのだ。
 
 そもそも信じて貰えるはずもない。幻覚を見てしまったことなど。あたしの命が終わりを迎える日を知ってしまったことなど。そうだ。あたしは狂っているのだ。身体だけでなく、脳の具合もおかしい。あの夜から何日過ぎたのかも覚えていない。何回眠りについたのかも、何回食事をしたのかも。狂人の戯言など理解されない。大人に相談にのって頂くというのは大人に少し理解して貰って、大人の言うことをあたしが少し譲って聞き入れてお互いの妥協点を探すことでしょう。今のあたしには大人に意見があるわけでもないし、して欲しいこと、言って欲しい言葉もあるわけではない。だから大人と話すことなどなにもないのだ。

「なにか辛いことがあったか?先生や他の誰かが的間を傷付けることを言ったかな。」

 そんなことはない。的外れな心配をして欲しくない。人間のせいには出来ない。
 だったらなぜ、と先生は頭を抱えてしまった。そしてこれまでよりは勢いのある言葉遣いであたしに問いかける。

「的間。正直に話してくれないか。なにがあったんだ。どうしてしまったんだ。話をしてくれないと先生もお母さんもなにも分からないぞ。」

 だから、話をしても分からないのだって。どうして、あなたはそんなにあたしのことを知ろうとするの。あなたに限らずお母さんにさえ理解されないのだってば。

 あたしの手を握るお母さんの手に力が入った。その顔は泣き出してしまいそうな様子をしている。そうか。この状況はお母さんを悲しませ、苦しめてしまうのか。あたしはそれをまったく望まない。打ち開く為にはあたしが口にしないとならないのか。

「先生。あたしは将来の夢を持てないんです。それどころか目の前に目標もないし、なんのために学校行くのかも釈然としないんです。」

 まったくの嘘をついたわけではない。あたしの苦しみを少しだけ汲み取ってもらうには、この程度の口述が適当なのだ。

 先生は大きな両の掌で口を覆って随分と悩んでから応えた。

「そうか。そのことを気にしていたのか。俺が悪かったな。的間をそんなに苦しめているとは気が付かなかった。申し訳ないことをした。今は無理をしてそれを探すことはやめておこう。そのうちなにか見つかるだろう。ただ、学校にだけは行こう。学校に行く理由なんてたいしてないさ。義務教育だから行かなければならない。そんな程度の認識でいいんだ。

的間には友達がいるじゃないか。友達といるときはとてもいい顔をしていたぞ。友達に逢いにきなさい。楽しい時間を過ごしにきなさい。」
 
 なんだか優しい言葉だ。時計の針を進めるためだけに発した言葉に先生は温かく応えてくれた。しかし、ふたりの距離は先程よりさらに離れてしまった。あたしが語った真実ではないものに先生が本気で向き合ってくれたから。

「少しでも体調がよくなったら何曜日でも何時でもいいから学校へ出ておいで。少しずつ身体を慣らして二年生になる頃には、今まで通りに学校に通えるようになろう。きっとみんな待っているぞ。むずかしいことは考える必要はない。みんなに逢いに出ておいで。」

 先生はなにかひとつ結論を出したかっただけ。大人にとっては沈黙だけが続く時間は無駄なのであろう。そうですよね。先生は、話し合いにきたのですものね。先生は優しく応えてくれたけど、あたしはやっぱり心を閉ざしておいてよかった。

 先生のお帰りを玄関の外まで出て見送った。お母さんは、

「わざわざすいませんでした。」

とお辞儀をする。あたしも、すいませんでしたと言った。お母さんは休みの日に時間をさいてここまできてくれたこと、あたしのことで心配をかけていることを、すいませんと言ったのだろう。あたしは先生には心を開けないことを、すいませんと言った。
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