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残酷な描写あり R-15
第九話 石勒
 数万の軍勢、確かに脅威ではあるが、それでもこちらの優位は揺るがない。
陽平郡太守の李志りしはそう考えながら、身に帯びた銀印青綬ぎんいんせいじゅを握りしめる。
彼が治める陽平郡は、山東地方と河北地方の東西にまたがる広大な郡である。
その陽平郡に、司馬穎しばえいの救援を掲げた公師藩こうしはんの勢力が東から侵入してきた。
郡ともなれば有事の際にそこに充てられる兵も多大なものとなり、李志は敵の公師藩将軍が引き連れている賊軍に上回る数の兵を動員していた。
加えて敵は遠征軍、長期戦になれば兵糧の差から次第に相手は追い詰められていく。
負けるわけはないし、負けるわけにはいかない。
李志のついた太守などの二千石にせんせき、あるいは長吏ちょうりなどと呼び慣わされる高級官僚は青い紐飾りのついた銀の印綬を帯びる。
これを持つ者は皇帝の命令以外では決して逮捕されないという特権がある。
また、前漢時代に既に廃止されているはずの任子制度、これは一族を官吏として登用できるという腐敗待ったなしの制度であるが、そんなものも暗黙の了解として生き続けていた。
銀印青綬を帯び、全能感に包まれて日々を送っていた李志にとって、それを脅かす虫ケラどもの発生は司馬越の命令を待つまでもなく駆除の対象であった。
前方に対峙する公師藩軍を見て、李志は笑みを浮かべた。

「歩兵と弓兵中心のつまらぬ布陣よ。力押しでも問題なくいけるだろう」

思惑通り開戦直後から李志軍の優勢は明らかだった。
圧力に負けて公師藩軍はずるずると後退していく。
勢いに乗った李志は自らが先陣を切って追いかける。
長期戦の構想は既に頭から抜け落ちていた。
追撃する李志軍、ひたすら退く公師藩軍。
前方に小高い丘が見えてきた。
公師藩は、伸びきった李志軍を見て采配を高々と掲げた。

汲桑きゅうそう、一働きせい!」

猛烈な砂塵を巻き上げて、汲桑、そしてベイの率いる騎兵隊が丘を駆け下りる。
愚かな羊のような李志軍の無防備な横腹を、残忍な狼のごとく汲桑達は食い破る。
濛々と立ち込める土煙の中で悲鳴と血飛沫が飛び交う。
ベイはその中を縫うように進み、一人、また一人と血祭りに上げていく。
ベイの耳に、李志の怒りと嘆きの言葉が響く。

「こんな、二千石のこの私が、許さん、許さんぞ公師藩! この恨みは必ずや……撤退、撤退だ!」

「おっ??? 偉いやつ? 待て待て、大人しく死んでいけって」

やがて静寂が満ちた。
煙が晴れると、公師藩軍の損害は軽微であり、それに対して李志軍は再起不能の壊滅的打撃を受けている様子であった。
ぼろぼろになった兵達が城址に向かって逃走を開始する。
ベイは夔安きあんらに追撃を命じ、自分はある物を持って、公師藩と汲桑のもとに向かった。

「お頭、こんな物を見つけたぜ。受け取ってくれ」

汲桑はベイの差し出した物を見て、ギョッとした。そこには布に載せた血まみれの人間の手首があった。

「お前、こんなキモいもん持ってきて、なんのつもりだ!」

「ただの手首じゃねーよー。ちょい待ち……」

死後硬直で固くなった手の指をへし折る嫌な音が続き、握った手首の中から銀の印が転がりでた。
公師藩はこれを見て感嘆の声をあげた。

「貴様、陽平郡太守の李志を討ち取ったのか!これは、手柄だぞ」

「へへっ、お褒めはこのお頭に」

その時、汲桑がベイの肩をつかんで公師藩の方に押し出した。

「この者は俺の腹心ですが、此度の働きはこいつ自身の手柄と思います。なにとぞ、この者に恩賞を賜りますよう、おねがいいたしやす」

公師藩は顎髭をいじりながら、言った。

「よかろう。ベイとか言ったな。貴様を前隊督ぜんたいとくに任じよう。そして、その名誉を称え、これからは漢人の名前を名乗ることを許そう」

ベイはポカンとした様子だ。

「え……それって別に嬉しくなムグぅ」

汲桑はベイの口を抑えると、ありがたき幸せに存じます、と頭を下げた。


 「というわけで!第一回俺の名前を決めろ大会の開催をここに宣言しまーす!」

「それって第二回あるんですか?」

ベイは突っ込んだ張越ちょうえつという部下の頭をはたく。
張越はいつも一言多い。
ベイは自分の部下を集めてこの宴を開いていた。
ここには汲桑の姿はない。
士官になったと言っても前から公師藩と付き合いのあった汲桑とは扱いが違うようで、彼だけが公師藩を囲む祝勝会に呼ばれているのだ。
張越に代わって逯明ろくめいという部下が手を挙げた。

「若頭のベイという名前に当て字でいいんじゃないでしょうか」

逯明は盗賊上がりに珍しく常識的で、悪く言えば固い性格だ。
彼は枝を使って地面に一文字の字を書いた。
㔨、と。

「これで、べい、と読みます。どうです」

「なんか、この字カッコ悪いから却下!」

十八人の幹部達は思い思いの意見を言う。
ベイはどれもしっくりこないと言って退ける。
次に孔萇こうちょうが手を挙げる。

「いっそ、ベイという音から離れたらどうでしょう。もちろん、名前に思い入れが強くなければ、ですが」

ベイは目を瞑り、過去に思いを馳せた。

ーーベイ!てめぇ、父親の言うことが聞けねぇってのか!ーー

ーーベイ!とっとと、酒持ってこい!ーー

パチリと目を開く。

「うーん、この名前に特に良い想い出なし!ベイじゃなくていいよー!」

色々な意見が出たが、最も耳目を集めたのは支雄しゆうの意見だった。

「名前のベイを使わないにしても、出身の部族を名前にするというのはどうでしょう。チュルクにちなんだ名前なら、今後、若頭が有名になったときに、同じ部族の人間が広く集まるのでは」

「飲んだくれのクソ親父は無様にくたばっていてほしいし二度と会いたくはないが、それは良い案かもな」

逆に会いたいのは弟のように可愛がっていた甥のフーである。
しかし、あいつは離れ離れになったとき、まだ幼かった。
生きている望みは薄いだろう、とベイは寂しい気持ちになった。
そこからは色んな漢字でチュルクを表現する展開になった。
郭黒略がもの凄い達筆で書いた文字を見ると、ベイは鼻息を荒くした。

「これは……どういう漢字だ」

「姓のほうは石、チュに音の近いシュで選びました。名の勒は、ルクに近いロクです。勒は未来に現れる仏様の生まれ変わりたる救世主、弥勒みろくから一文字拝借しました」

ベイは愛用の剣を抜いた。
そこには“|石氏昌(せきししょう)”の文字がくっきり彫られている。

「ほう、奇しくも……これも御仏のお導きでしょう」

郭黒略は恭しく手を合わせた。

「決めた! 俺の名前は今日からシュロク! 石勒せきろくだ!」

その名前の座りの良さに、皆が心からの拍手を送った。
孔萇が鼻を鳴らして言う。

「それでは、我々はさしもの“石勒十八騎せきろくじゅうはっき”というところですかな」

「おお、強そうじゃん!いいねいいね!よーし、飲むぞー!俺と、そしてお前たちの命名記念だ!」

李志軍の輜重隊から奪った酒を開け、一行は酔いつぶれるまで飲んだ。
後に天下を揺るがすこととなる石勒、登場の夜であった。
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