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作者: 京泉
仕掛けられた策、返す罠。
 控え室に残るのは、悲劇を演じたあとの静寂だった。

 ドレスへの嫌がらせは想定の範囲──あえて仕掛けさせた囮。
 
 舞踏練習会では、ドレスが既製品であっても問題とされない。それは決して「安上がりでもよい」という意味ではなく、限られた条件の中で、場にふさわしい装いを選び取れるかどうか。審美眼と教養の一つとされているからなのだとか。
 
 だから私たちは、あえて「既製品でも良い」という状況を利用した。
 汚されても、裂かれても、最悪の場合、燃やされても構わないように。
 破かれた囮のドレスは、ロザリンが用意してくれたドレスから別のものになる予定の既製品に手を加えたものだった。

「仕切り直し、ですね」
「そうね、急ぎましょう」

 私は自分の荷物の中から、包みを取り出す。それは、もうひとつのドレス。
 深緑のドレスはこの舞踏練習会のために誂えたものではなく、以前親族の集まりで誂えたもの。
 ロザリンも薔薇色のドレスを広げた。

「いつ頃やられたのかしら」

 身支度係にドレスを着せてもらい、髪を結い上げてもらいながら思わずこぼれた声に、ロザリンはしばらく黙って考え込み、やがてぽつりと口を開いた。

「私たち、かなり早めに来ましたよね」
「昨日の夕方から今朝方まで⋯⋯間が空いてるよのね」

 舞踏練習会は、学園が主催する講義の一環行事。将来、貴族の夜会に参加するための実践的な練習会。
 準備や進行はすべて学園側が管理している。あくまで講義であるため、開始時間も定められており、会場の設営や動線の都合もあることから、生徒は皆、当日朝にそれぞれの控え室で身支度をするのが通例となっていた。
 そのため衣装の持ち込みは「前日夕方」または「当日朝」になっていた。
 
 私たちはあえて前日夕方に持ち込んだ。
 わざと隙を作るように、あくまで仕組みに従いながら、「触らせる機会」を与えるために。

「それに、私とリアーナ様が同じ部屋なのは嫌がらせのためでしょうか」
「そうだと思うわ⋯⋯」

 この控え室の割り当てには私も少しひっかかるものがあった。

 学園では控え室を割り振る際、生徒の身分ではなくあくまで講義の一環である以上、学園側は形式的な基準で振り分けるもの。

 仲の良い者同士が偶然同室になることも、ありえなくはない。けれど、今回ばかりはその「偶然」を、どこか信じきれないでいた。
 むしろ、そこに意図的な「仕掛け」があったのではないかと、思わずにはいられない。

 たとえば、「仲の良いふたりを一緒にした方が、準備も円滑でしょう」と、さりげなく進言した誰かがいたとしたら。
 それを鵜呑みにして部屋割りを決めた教師がいたとしたら。

 嫌がらせを仕掛けるなら、二人一緒の部屋の方が都合がいい。標的が分かれていれば手間も倍だが、同室なら効率的だから。
 私たちがそのことに気づいていようといまいと、彼女にとってはどちらでも構わないのだし。

 思考を巡らしながら私たちは、身支度係に化粧をほどこしてもらい、髪を整え、装いを整えた。
 身支度を終えたころ、扉の向こうからノックの音が響いた。控えめながら、ためらいのない音。

「リアーナ、ロザリン嬢用意はできたか」
「ええ、開けても大丈夫よ」

 扉が静かに開き、現れたのは、銀灰の髪を整えたエルンストだった。
 深い黒のコートには、銀糸で繊細な模様が施されている。光の加減でそれがわずかに浮かび上がり、静謐な気品を纏わせていた。
 胸元には控えめなタイピンがきらりと光り、シャツの白がその陰影を引き立てる。姿勢は常にまっすぐで、足取りには迷いがない。
 一歩踏み込むだけで、空気がすっと引き締まるのを感じた。
 堂々としていながら過剰な誇示はなく、それでも見る者を否応なく惹きつける。
 
 その彼の眼差しはいつものように冷静で、けれど視線の先が部屋の隅──切り裂かれた布に向かうと、わずかに表情が変わる。
 眉を少しだけ上げ、そして、口元をわずかに歪めた。それは驚きというより、むしろ思惑通りといった風だった。

「予想通りだな」
「ドレスを燃やされることもあるなんて、エルンスト様が脅すから切り裂きで良かった、なんて思ったわ」

 エルンストは少しだけ目を見開いたようだったが、すぐに苦笑に変わった。

「⋯⋯悪かった。不安にさせたな」

 その言葉が思いのほか柔らかくて、むしろこそばゆくて、私は視線を合わせられなくなった。

 するとエルンストは、ふと視線を斜めにそらし、小さく呼びかけた。

「クラリス」

 そう呼ばれた身支度係は、すっとエルンストの前に進み出て、丁寧に頭を下げた。
 驚いた⋯⋯。私はてっきり学園の係だと思っていたから。

「報告を」
「はい。早朝、私がここへ来た時はドレスには異常はありませんでした。リアーナ様とロザリン様がご到着される前に私は部屋を空ける動きを見せました。わざと品を取りに行くふりをし、扉の鍵もかけずに。部屋に戻る時──中から、一人の女生徒が出てくるのを確認しました。動きには明らかな狼狽があり、慣れている様子ではありませんでした」

 エルンストはわずかに表情を動かしただけで、黙って聞いていたが、その沈黙には明らかに怒気が含まれていた。

 クラリスの視線が一瞬、切り裂かれたドレスへと向けられる。

「部屋を離れる前、ドレスは着用直前の確認を終えていた状態です。それが戻ってきたときには引き裂かれておりました。丁寧に狙ったというより、時間がない中で手早く切った印象です。明らかにその場で急いで破かれたものと判断できます。私がドレスを確認したのは女生徒が出ていったあと、ほんの数十秒後の出来事です。したがって──その生徒以外にドレスに触れた者はいないと断言できます」

 エルンストの目が細くなる。わずかに息を吐きながら問うた。

「──顔は確認したか?」
「いえ。後ろ姿のみで、顔は見ておりません。ですが、学園にはまだほとんど生徒がおらず、通用門は閉じられており、正門から入った者だけが校内に入れる状態でした」
「クラリス。その時間帯に学園に出入りした生徒の情報を拾い出せ」
「かしこまりました」

 クラリスは深く一礼すると、静かに部屋をあとにした。その背中には、すでに次の任務に向かう気配が宿っていた。

 エルンストは扉の閉まった先を見つめたまま。
 その静かな佇まいからは、確かな意志と、責任を背負う覚悟がにじみ出ていた。

 今目の前にいる彼の姿は、まぎれもなく「侯爵家の名を背負う者」のものだった。それは、名だけを持つ者にはできないこと。誰かを守ると決め、そのために必要なすべてを動かす冷静さと、迷いなく人を導く力。
 彼は、彼自身の在り方で、侯爵家を──名を、誇りを、矜持を──その背中にしっかりと背負っているのだ。

 だからこそ、私の胸には申し訳なさが広がる。ここまで動いてくれて、こんなにも真剣になってくれて。それがただの任務や義務でないことを、私はもう、知っている⋯⋯。

「そろそろ時間だ。いくぞリアーナ、ロザリン嬢」
「はい。リアーナ様行きましょう──リアーナ様?」
「えっ、あ⋯⋯はい」
「大丈夫か?」

 不思議そうな表情をしたロザリンとエルンストに 私はぎこちなく微笑んでみせた。けれど、うまく笑えていたかは自信がない。
 喉の奥が少しだけ詰まるような感覚がして、胸の奥がまだ静かにざわついている。

「ええ、大丈夫よ」

 そう口にしながら、視線はロザリンにもエルンストにも向けられずドレスの裾をそっと整えるふりをした。
 本当は、目を見てしまったら何かがこぼれてしまいそうだったから。
 心のどこかがまだ震えているのを悟られたくなくて、私はいつもよりゆっくりとした動きで一歩を踏み出した。

 昼前の学園はすでに静けさを失っていた。各控え室からは生徒たちの話し声や衣擦れの音が漏れ、まるで本物の夜会のような熱気に包まれている。私たちは三人並んで、ホールへと続く渡り廊下を歩き出した。

 エルンストが先頭を歩き、私はそのすぐ後ろ。ロザリンはわずかに肩を寄せるようにして隣を歩いてくれる。
 その静かな距離感が、ありがたかった。

 角を曲がった先で、数人の生徒とばったり視線がぶつかった。

「っ⋯⋯え?」

 聞き慣れた、やや甲高い声が漏れる。ラリッサの取り巻きのひとりだ。

 向こうの一団が、まるで幽霊でも見たかのように、ぴたりと足を止めてこちらを凝視していた。
 目を見開き、口元を押さえたその顔には、隠しきれない驚きが浮かんでいる。

「どうして⋯⋯」
「ドレス⋯⋯無事なの?」
「それに、エルンスト様と一緒に⋯⋯」

 小さな声が交錯する。まるで噂話の続きをつなぎ合わせるように、彼女たちは目配せをしながらこちらを見た。
 あからさまに見下した笑いも、せせら笑いも、そこにはなかった。ただ、予想外の光景に戸惑っているだけの顔。

 そう──私とロザリンがもう会場に入れないと、彼女たちは思っていたのだ。

 エルンストは一度も立ち止まらず、ただ淡々と歩を進めている。私は彼の背中を見つめながら、その歩調に少し遅れないよう、自然に合わせた。

 負けるわけにはいかない。

 誰のためでもない、私自身のために。今日という日を、笑顔で終えるために。

 ホールの扉が見えてきた。磨かれた扉の奥からは、音楽の調べと人々の声が微かに漏れ出している。明かりに照らされたその向こうには、今日という日を試す舞台が広がっているのだろう。

 私は、ほんのわずか息を吸い込んで──扉へと向かって歩を進めた。
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