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作者: 京泉
裂かれたドレスに偽りの涙
 舞踏練習会当日、私たちは夜明けとともに学園へと向かった。連日続いた特訓の疲れはあるものの、不思議と気持ちは落ち着いていた。

 あれから──エルンストの別邸にほぼ毎日通った。

 放課後の時間を目一杯使って、ロザリンと私は何度も練習を重ねた。エルンストの指導は容赦なく、しかしその分、的確だった。彼は舞踏だけでなく、貴族社会での所作や立ち居振る舞い、急な曲変更にどう対応するかといった危機管理まで教えてくれた。

 たとえば、曲が変わった時、ステップを保ちながらどう相手のリードに合わせるか。音の入り方や間の取り方を変えるとどう空気が変わるか。どれも座学では得られない、実戦的な知識だった。

 最初のうちはただ必死だった。けれど、回を重ねるごとに──ふとした瞬間、エルンストが小さく笑うと、私もつられて笑っていた。私が失敗して転びそうになったときは、三人して顔を見合わせて笑い合った。

 厳しさの中にも温かさがあり、毎回の練習が、少しずつ心の支えになっていった。

 ドレスについても、ロザリンが「万一のために」と提案してくれた“囮の一着”を軸に、様々な対策を練った。

 着替えの導線、控室の防犯、備えの位置。会場の設計図を見ながら、エルンストが使用人の流れまで整理してくれた。私たちは「何が起きても揺るがない」ための準備をした。

 だからこそ、今朝──外に出たとき、私は不思議なほど静かだった。どこか凪のような感情で、今日という日を受け入れていた。

 学園に近づく馬車の中、ロザリンが小さく言った。

「この道、いつもより長く感じますね」

 窓の外を見ていたロザリンがふと、目を細めた。

「私、きっと今日までのことも、今日、嫌なことがあったとしても今日のことも忘れないです」
「そうね、私も。忘れない。」

 自然に頷けた自分に少し驚いていた。
怖さがないわけではない。でも、独りじゃない。そう思えただけで、言葉がすっと出てきた。
 
──────────────────

「こちらが本日の控え室です。必要なものはすべて整えてございます」

 学園から派遣された身支度係が、丁寧に一礼して私たちを室内に通した。舞踏練習会では、家から付き添いを連れてこられない令嬢たちのために、こうして学園側が使用人を手配してくれる。

 当てがわれた部屋の中は明るく、朝の光が差し込んでいる。姿見や鏡台の位置も整っていて、きちんと掃除もされていた。中央のラックには、先に届けておいたドレスがきれいに吊るされている──はずだった。

「さあ、着替えましょう」

 ロザリンがそう言って一歩踏み出した瞬間だった。
 私は違和感に、足が止まった。

「⋯⋯これは」

 次の瞬間、私はドレスの前で、言葉を失っていた。

 セージグリーンのドレス。ロザリンが用意してくれた一着。その背面、右肩から裾にかけて斜めに、鋭く深く切り裂かれていた。
 綺麗に整っていた布地が、まるで獣の爪で裂かれたかのように、無残な線を描いている。

「⋯⋯やられてるわ」

 思わず口にしたその声は、思っていたより冷静だった。動揺より先に来たのは、やっぱり、という思いだった。

 私はロザリンのドレスに目を向けた。
 彼女のドレスは淡い桃色のチュールとレースが幾重にも重なる、妖精のようなデザイン。その繊細な美しさが、同じように裂かれていた。
 肩から胸元、そして裾へと、見事に引き裂かれている。レースの一部が落ち、床に花びらのように散っていた。

 ロザリンは何も言わずにそれを拾い上げ、ゆっくりと立ち上がった。

「やっぱり、来ましたね」

 落ち着いた声。驚きも怒りもなく、ただ静かに事実を受け止めている。その横顔に、私は少しだけ勇気をもらう。

「燃やされてなくて、良かったわ。エルンスト様が脅かせるのだもの」
「ふふ、本当ですね。切れ方も一方向。刃物ですね。短時間で済ませた感じです」
「わかりやすいのが、逆にありがたいわ」

 私は、切られた部分を指でなぞった。

「もし、一着しかなかったら、今ごろどうなっていたか」
「泣いていたか、叫んでいたか。草刈鎌を持って公爵家へ乗り込んだかも。リアーナ様、意外と強いから」
「ロザリン⋯⋯私にどんな印象を持っているのよ」

 その時、控えめなノックが響いた。
 扉の向こうからは柔らかな、しかしどこか芝居がかった声。

「失礼⋯⋯お支度中かしら?」

──来た。

 ロザリンと私は一瞬だけ目を見交わし、呼吸を整える。

「どうぞ」

 ロザリンが微笑を浮かべながら、扉へ向かってそう言った。
 現れたのは、ラリッサ。そして、彼女の取り巻きの令嬢たちだった。

「まあ⋯⋯!」

 部屋に入った瞬間、ラリッサの視線は裂かれたドレスに吸い寄せられる。そして、わざとらしく手を口元に当てた。

「まあ⋯⋯まぁ⋯⋯なんてこと。お二人とも、大丈夫ですの?」

 言葉とは裏腹に、目の奥にはまったく動揺がなかった。いや、むしろ愉悦すら感じさせる光が潜んでいた。

「そのドレス⋯⋯どちらもお二人に似合いそうだったのに。本当に、残念ですわね」

 私たちは言葉を返さない。ラリッサはさらに一歩、距離を詰めてくる。

「でも⋯⋯こういうことって、あるのね。まさか、予想していなかったのかしら? 可哀想ですわ」

 その声は優しく、同情するような響きを帯びていた。けれど、私には聞こえた。
 嘲笑の音が。

「お気に入りの一着でしたのでしょう?」

 ラリッサの取り巻きが、口元を押さえてうっすらと笑っていた。

「まあまあ、そんなに落ち込まないで。きっと誰かの⋯⋯ちょっとした悪戯よ。きっと」

 私とロザリンは、まるで打ちのめされたかのように、ゆっくりと俯いた。

「⋯⋯どうして、こんなことに⋯⋯」
「誰が⋯⋯誰がこんなことを⋯⋯」

 私は唇を震わせながら、壊れたドレスの肩を握りしめた。目の端にわずかに涙を浮かべて、声をかすらせる。
 ロザリンも、震える指先でドレスのレースを撫で、肩を揺らしわずかに嗚咽のような音を漏らした。

 ラリッサは、私たちの様子をじっと見つめ、やがて、満足したように目を細めると、そっと言った。

「どうか気をつけて⋯⋯次はもっと、大切なものが狙われるかもしれませんもの」

 ラリッサが踵を返すと、取り巻きたちが後に続き、控室の扉が静かに閉じられた。

 ラリッサ達の笑い声が遠ざかり、私はそっと息を吐き出した。

「⋯⋯うまく行った、かな」
「はい。あの満足げな表情、思わず笑いそうになって、肩が揺れてしまいました」
「ロザリン、演技うますぎるわよ。涙ぐむタイミングも肩の揺れも完璧だった」
「リアーナ様こそ。震えた声、あれは本物に聞こえました」

 二人で顔を見合わせて、クスリと笑い合う。

 破られたドレスは、役目を果たした。ただの布切れではなく、私たちを守ってくれた“盾”だった。
 私たちはもう一度、裂かれたドレスを見下ろした。乱雑に切られた布地は哀れにも揺れている。それを前にしてなお、私たちはどこか冷静で──むしろ、この瞬間を迎えることを待っていた。

「⋯⋯ラリッサって、本当に、非の打ち所がない悪役令嬢だわ」
「悪役令嬢?」

 ロザリンが首をかしげる。そうだった。悪役令嬢なんて名詞は前世の世界でしか意味が通じない。私は少し言い淀んで、笑ってごまかした。

「ごめんなさい、ちょっと変な言い回しだったわね。そうね⋯⋯説明するのは難しいのだけれど「完璧な悪意」かな。表向きは立派で、それでいて人を貶めるときに迷いがない。立場も言葉遣いも完璧。どんなに意地悪でも、傍から見れば正しいことをしているように見える、だから従ってしまう⋯⋯ まあ、そんな感じの、例えよ」

 ロザリンは静かに頷いたが、それでもまだ、私の言葉の真意を探るように目を細めている。
 私は誤魔化すように笑った。

「ただの私の感じ方よ。気にしないで」
「そうですね。ラリッサ様のような人は、時にとても賢く、そして恐ろしい。でも」

 ロザリンが破れたレースを指先で撫でながら、ゆっくりと言葉を継いだ。

「だからといって、誰もがそれに従う必要はありません。リアーナ様が私にしてくださったように」

 彼女の言葉に、私は反射的に顔を上げた。
 その瞳はまっすぐ私を見つめていた。深く、静かで、けれど確かな熱を帯びたまなざし。

「あの時、リアーナ様が私に声をかけてくださらなければ、私は今ここにいません」

 言葉に詰まりかけて、私はゆっくりと息を吐いた。

「ロザリン⋯⋯ 一歩、間違えていたら、私は取り巻きの一人になっていたかもしれないのよ。私、取り巻きたちと同じだったのよ。逆らうのが怖くて、空気を読むふりをして、関係ない関わらないって⋯⋯あなたを見捨てていたかもしれない。あの時、一瞬、迷ったの⋯⋯私は、ずっと私が怖かった」

 それは、ずっと心の底にしまい込んでいた罪悪感、心の奥にしまっていた後悔の種。口にしたのはこれが初めてだった。

 ロザリンは黙って私の言葉を聞いていた。そして──そっと、私の手を取った。

「でも、リアーナ様は手を差し出してくださいました」

 ロザリンのその手はあたたかくて、優しい。

「迷いがあったとしても、それでも私を救ってくれたのは、リアーナ様です⋯⋯あの時、どれほど心強かったか、どれほど嬉しかったか。私は忘れません。忘れなさいとリアーナ様が言っても忘れてあげません」

 私は目を伏せた。ラリッサに見せた偽物ではない、本物の涙がこぼれそうになるのを、必死に堪えながら。

「救った、なんて。私はただ、見ていられなかっただけよ」
「それがどれだけ勇気が必要なことか、リアーナ様は気づいていないのですね」

 そう言って、ロザリンはふわりと微笑んだ。その笑顔を見て、私はようやく胸の奥の苦しさがほどけていくのを感じた。

 私たちは負けていない。心が折れるどころか、むしろその逆だ。
 あのとき差し伸べた手が、今ここで、こうして繋がっている。

 私はもう一度ロザリンと目を合わせ、ゆっくりと頷いた。

 笑われても、見下されても構わない。
 誰にも、私たちの心を壊させはしない。

 救われたのは、きっと私の方──そんな気さえしていた。
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