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作者: 遠堂沙弥
残酷な描写あり
26 「それは恋という名の魔法」
 ルーシーは十歳になった。
 この頃には屋敷内の雑務のほとんどを覚えており、『怒られる前に自分でなんとかする』ということが出来るようになっていた。わずか三歳の頃から始まった奉公。
 七年もの間、怒鳴られ暴力を振るわれ、人間の中では誰一人味方のいない状況下で、ルーシーは動物達の言葉に耳を傾けながら、健気に働き続けていた。
 酷い仕打ちをされた日には、屋敷内に住むネズミやすっかり老犬となったイーズデイル家の飼い犬ジェットに叱咤激励されては元気を取り戻していた。

 ある晴れた日、ルーシーは屋敷の周囲で生い茂っている雑草を刈る仕事を任された。ルーシーにとって屋敷から少し離れた場所でも初めての外出に近かった為、どこからどこまでが敷地内なのかわからなかった。
 屋敷の外へ出ることを禁じられていたルーシーが戸惑っていると、庭師が無愛想な表情と口調で説明する。
 イーズデイルの屋敷は小高い丘の上に建っているそうだ。緩やかな坂道を下って街道が見え始めた辺りが敷地の外周だということを教わった。ルーシーは庭師に丁寧にお礼を言うと、草刈り鎌と刈り取った雑草を入れる袋を持って、刈り取り場所へと向かう。

 もうすぐ夏ということもあり、作業に取り掛かってからたったの数分で汗が滲んでくる。
 それでも屋敷の周辺半分を今日中に終わらせないといけない。屋敷の執事からはそう命じられていた。暑くても、大変でも、やるしかない。屋敷に戻って昼食を取る為の往復時間すら惜しいので、ルーシーは事前に飲み物とサンドウィッチを作って持参していた。
 どう考えても今日中に終わりそうにない、そんなことが脳裏をよぎった時だ。
 街道から男性の声がしてルーシーはふと視線を向ける。そこには荷馬車と、ルーシーより十歳は年が離れているであろう若者が、こちらに向かって手を振っている。
 もしかして自分を呼んでいるのだろうか、と思ったルーシーはきょろきょろと辺りを見回す。やはりこの周辺には自分以外は見当たらない。迷った挙句、ルーシーは戸惑いながら丘を駆け降りていった。
 若者は笑顔で話しかけてくる。自分に対して気さくに話しかけてくるなんて……、と思っていたがその理由はすぐにわかった。ルーシーは直射日光に当てられて体調を悪くしないように、頭から頭巾を被っていたからだ。
 顔にも陰がかかるように目深に被っていたせいで、恐らく顔の下半分しか若者には見えなかったのだろう。
 それならそれで構わない。若者の用件が済んだらすぐに離れればいいのだから。

「あの、何かお困りでしょうか」
「いやぁ、馬車の車輪が壊れてしまってね。修理しようにも道具が不足していて。修理に必要な材料はあるんだよ。これでも行商人で、ありとあらゆる商品を荷馬車に積んでいるからね」

 見ると若者が言った通り、馬車の片側の車輪がすっかり壊れてしまって荷台は偏っており、かろうじてそのバランスを保っている様子だった。しかし少しでも衝撃を加えればそのまま転がってしまいそうな程に危うい。
 ルーシーは逡巡し、若者に少しだけ待ってもらうように声をかけると、急いで納屋へと走って行った。

 納屋には修理道具やら農具やらが詰め込まれており、何かあった時にはここから道具を出してきたものだ。ルーシーはまだ幼いので、修理することは出来ないが、その内ルーシーにもやらせるということで修理道具の使い方や種類などを、使用人からある程度教わっていた。
 ルーシーは金槌や釘などを選別し、他にも必要になるものがあるかもしれないと、道具箱を抱えて若者の元へ戻って行く。

 若者は荷馬車が倒れてしまわないよう、偏っている側に立って、揺れたら支える……という動作をしていた。
 荷馬車を引っ張る馬が悪さをしてしまわないよう、近くの木の枝に手綱を結んで、水や餌を与えていたみたいだ。ルーシーが戻って来たことに気付いた若者は嬉しそうな顔で、また手を振ってくる。
 これは目深に被った頭巾は取らない方が賢明かもしれない、とルーシーは心の中で呟いた。

「いやぁ、すまないね。実はこの近くに貴族さんのお屋敷があるとかで、そこに飛び込みで商売をしようと思っていたんだけど、その矢先にこれじゃあ幸先悪いなぁ」
「……もしかして、イーズデイルのお屋敷ですか?」
「そう、確かそういうファミリーネームだっけな。あれ、もしかしてお嬢ちゃんってそこの人だったりするかな」
「一応……、そこで召使いをしております」

 悲しいかな、ルーシーはその家の娘だとは言えなかった。
 ただでさえ家族から忌み嫌われ、距離を置かれているのに、その家の者だとはとても言えなかった。それに話したところで、きっとこの若者はルーシーを使って家族に自分を紹介してくれと言ってくるに違いない。
 そうなってしまえばルーシーはこの若者の前で全てを晒されてしまうだろうと恐れた。
 せっかく何も知らず、こうして友好的に話しかけてくれる外の者がルーシーの正体を知ってしまえば。イーズデイルで最も惨めな生活を送っていることを彼が知ってしまえば、ルーシーの心はさらに深い傷を残してしまうだろう。
 いわばこれはルーシーが初めて行なった自衛手段だ。
 若者はルーシーが魔女であることを知らないまま、イーズデイルの屋敷に来てもルーシーが見つかりさえしなければ、ルーシーは若者にとって「親切な女の子」で締め括ってくれるはず。
 お互いにいい思い出として、終わらせたかった。

 ***

「よし、こんなもんかな。何でも持っておくに限るな。まさかこんなところで自分の商品が役に立つなんて。それもこれもみんな、お嬢ちゃんが道具を貸してくれたおかげだよ。ありがとうな」
「いいえ、大したことはしていませんので。それではお気をつけて」

 そう言って、道具を持って別れるはずだった。
 しかしルーシーの細腕を若者は掴み、離さない。それはとても力強かったが、不思議と乱暴されている感じはしない。きっと若者から嫌な感じがしなかったせいだろう。柔和な表情は変わらないが、若者は真剣な眼差しでルーシーをあまりに見つめるものだから、その視線から思わず逃れたくなってしまう。
 そんな風に熱い眼差しをルーシーは向けられたことがない。今まで向けられた視線はどれも侮蔑に満ちて、凶暴な目をしていた。だけど若者からは、そういったものは一切感じられなかった。こんなことは初めてだったが、きっと彼もルーシーの容姿を見れば、他の者と同じ態度になるだろう。
 それを再認識したくなかったルーシーは、彼の手から逃れようともがく。

「あの、離してください」
「名前を……。俺はイーノックっていうんだ。君は? 恩人だ、ぜひ教えてほしい」

 名前くらい、なら。容姿を見られるくらいなら、名乗って去ってしまえばいいだけのことだ。

「ルーシー、です」
「ルーシー、いい名前だね」
「……よくある名前だそうです」
「だからだよ、君はその名の本当の意味を知らないだけさ」

 知らないのは若者、イーノックの方だと口走りそうになった。
 なぜならルーシーは他のメイドからちゃんと教わった。「ルーシー」という名前は、この地域では非常によく使われる名前で、適当に付けるにはうってつけなのだと。孤児院に捨てられる女児は皆ルーシーと名付けられるのだと、そう聞いたことがある。 
 それだけありふれた、どこにでもある名前をルーシーは好きになれなかった。「ルーシー」と名付けられた理由を知ってから、いわば無関心の象徴としてしか感じられない名前となっていたから。

「あの、早く仕事に戻らないといけないので……」
「あぁごめん! そうだね、邪魔して悪かったよ」

 優しい声音、聞いているだけで落ち着く。こうして穏やかに会話を出来たことが、ルーシーにとっては非常に稀なことだった。誰も彼も厳しい口調で、突き放すような言い方しかしてもらえない。その度にルーシーは怯え、従うしか出来なかった。怖くて反論など出来るはずもない。
 でもイーノックの言葉は違った。聞いていて、話していてとても心地いい。ずっと会話をしていたいと思える程に。このまま別れるのが名残惜しく思える程に、彼の声や言葉には優しさや温もりで溢れていた。
 もうとっくに離してもらっているのにルーシーは逃げるように走って行かない。自分でもどうしたんだろうと思っていた。いつもなら解放されたらすぐさまその場から離れているはずなのに。

「あの……」
「ん?」
「……イーズデイルの、ロックウェルという執事に話を通してみてください。商品などの仕入れは主にロックウェル様が取り仕切っていますので。その……、上手くいけば定期的な購入を検討してくださる、かも……」
「本当かい!?」
「あの、多分……ですけど。今は馬主の事業を検討しているそうなので、馬に関する物であればお話を聞いてくださる可能性が……」

 以前、掃除中に聞こえてきた内容のことをイーノックに話して聞かせた。具体的な内容は、同じように盗み聞いた屋敷のネズミからの情報であったが。ネズミ曰く、馬主になるととんでもない金額が飛んで行くからやめておいた方がいいと言っていた。それだけいい馬を育て、競走馬として育成するには莫大なお金がかかるらしい。
 もし少しでも安値で入手出来るのなら張り切って契約を結ぶかもしれない、と考えたのだ。それもネズミや他の動物達による知恵なのだが、教育の場を与えてもらえないルーシーはそうやって決して学びを与えてもらえない環境で、知識を得ていた。

 イーノックにとって有用な情報を与えたのだから、これで解放されるはずだと思っていた。しかしイーノックはルーシーに更なる難題を突きつけた。

「最後にいいかな。君の顔をきちんと見てお礼を言いたいんだけど。ほら、ずっと頭巾で口元しか見えないからさ。もし次また会った時に、お互いに顔を見知っていた方が」
「それは……」

 このまま立ち去ってもよかった。それなのにルーシーはいつまでも、この優しい若者の前から逃げようとしない。自分でもよくわからないが、顔を見せるのは絶対にダメだと強く感じた。
 ルーシーがあまりに頑固なものだから、イーノックは気を使ったのかそれ以上強引に言葉をかけようとしなかった。
 残念そうにため息をつきながら無理矢理に笑顔を作る。近くの木の枝に繋いであった手綱を外し、馬を荷馬車の方へと連れて来た。ようやく出発する決意が出来たようである。

「色々と世話になったのに、困らせてしまって申し訳なかったね。見ず知らずの男に、いきなり顔を見せてくれ……なんて言われたら、そりゃ警戒するよな。鈍くてごめんよ」
「そ、そういうわけじゃ!」

 そういった意味で拒絶していたのではないと言いかけた。イーノックは自分が不審者だと思われて拒絶されているのだと勘違いをしている。決してそういうわけじゃないことを、今この場で誤解を解かなくてはいけないと思った瞬間だった。
 荷馬車を引く馬がルーシーの頭巾を咥え引っ張った。
 目深に被っていた頭巾は紐で結んでいたので取られることはなかったが、顔だけではなく頭まで露出してしまい、銀髪の長い三つ編みが晒け出す。驚きの余り大きく見開いた両目は、ばっちりとイーノックの瞳を捉えた。
 当然イーノックも目を丸くしている。

「銀色の、髪……。赤い……瞳……?」
「か、返して!」

 ルーシーは馬に向かって大声で叫ぶと、馬は申し訳なさそうな顔で大人しく頭巾を離した。慌てて頭巾を頭から深く被るが、時すでに遅しである。ルーシーは背を向けて、そのまま走り出そうと思った。
 彼の口から酷い言葉を浴びせられたら、もう本当に生きていけないかもしれないと思ったから。
 あれだけ他人に対して親切な若者でさえ、相手が魔女だと知れば石を投げるのかもしれない、罵倒を浴びせてくるのかもしれないと思うと、そんな人間の残酷な一面をイーノックという男にだけはされたくなかった。
 しかしまたしてもイーノックは逃げ出そうとするルーシーの肩を掴み、引き止める。

 聞きたくない。
 聞きたくない。
 あなたのその優しい声音が、侮蔑を込めた声音に変わることに耐えられない。
 ついさっき会ったばかりの人間だからこそ、ルーシーのことを何も知らず、何もわかっていないまま、美しい記憶として保管しておきたいだけなのに。

 今度は拒絶しているのに肩を掴む手を離さないイーノックは、そのままルーシーの両肩に触れて自分の方へと振り向かせる。ルーシーは顔を上げられない。何も見たくないのだ。

「あの、怖がらせて……ごめんよ」

 どうして謝るんだろう。むしろ驚かせて、怖がらせたのは自分の方なのに……とルーシーは思った。
 イーノックが謝る理由は何一つないはずなのに。
 それでも顔を上げることが出来ないルーシーは、俯いたまま答えない。
 彼の声は、優しいままだ。

「魔女、だったんだね」

 その一言でルーシーの胸は鋭い痛みを感じた。
 やっぱりこの人もそうなんだと。銀髪、赤い瞳というだけで、自分は全く別種の生き物になってしまう。
 同じ人間に対して、果たして同じ反応が出来るだろうか。せいぜい美醜の差くらいのはずだ。
 しかし彼の声は優しいままで、どこか悲しみを帯びていた。

「君のその態度でよくわかるよ。きっと、今まで辛い思いをしてきたんだろう? だから髪と瞳を僕に見られないようにしていたんだね?」

 優しかった。
 彼の言葉はどこまでも優しかった。
 だけどその優しさはルーシーの思う優しさと、どこか違っているように感じる。

「大丈夫、僕は何もしないから。君のことを傷付けたりしないから、安心して?」

 優しい、けれど。

「可哀想に。こんな少女まで、魔女というだけでこき使われてしまって……。なんて酷い……」

 あぁ、そうだ。
 これは魔女であるルーシーに優しくしているわけじゃない。
 
ーーこれは、同情なんだ。

「僕は君の家の者ではないから直接助けてあげることは出来ないけど、しばらくこの地域を拠点にして商売を始めようと思っていたところなんだ。君がこの辺りに住んでいるのなら、僕もここに居を構えることにするよ」
「ど、どうして……、そこまでして?」

 同情したとしても、彼がそこまでする必要があるのだろうかと思った。
 しかし心のどこかでルーシーは彼の優しさを求めていた。

「君がとても素敵な女の子だからだよ。見ず知らずの赤の他人である僕に、ここまで優しくしてくれた。だから今度は僕が君に優しく出来たらと思って。迷惑なら、うん……、そうだな。君に信用してもらえるように頑張るよ。まずは知り合いから、友達へとステップアップ出来るように、さ」

 真っ直ぐなイーノックの言葉に、ルーシーはやっと顔を上げた。
 赤い瞳を潤ませながら、今の言葉が真実なのか確かめるように。
 その瞳をイーノックはじっと見つめ返して、そしてうっとりするように口走る。

「本当に、美しい瞳だ」
「え……」
「太陽の光を受けて、透けるように輝く銀色の髪……。それに……、これほど情熱的な赤い瞳は今まで見たことがない。ルーシー、君は本当に……とても綺麗な女の子だ」

 イーノックの言葉一つ一つが、生まれてこの方一度も聞くことがなかった言葉だ。
 褒めちぎるように紡がれる言葉がとてもくすぐったくて、歯痒くなってくる。
 こんな風に真っ直ぐに見つめられ、褒められたことのないルーシーは恥ずかしさの余り目が泳いでしまう。

「ルーシー、こんなことを言われて……君は嬉しくないかもしれないけれど」
「……?」

 照れたように頬を染め、イーノックは告げる。
 きっとこの先、後にも先にも、死ぬまで一生言われることがないと思っていた言葉を。

「僕は、君に恋をしてしまったのかもしれない……」
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