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作者: 柊 雪鐘
残酷な描写あり
9-3 先の見えないトンネル
 昼になり、日和は弥生と共に中庭の屋根の下にいた。
 雨は午前中に止んで雲の切れ間からは日が射している。

「日和ー……お昼ご飯、私と一緒でよかったの?」

 少し不満げな弥生はじぃっと日和の顔を覗く。
 日和は朝よりは少し人らしさのある表情をしているが、それでも今にも死にそうな、疲れ切った顔をしていた。

「…………うん。なんか、逃げる口実みたいにしてる……よね。ごめん」

 昼食の時間、波音はいつものように声をかけてきた。
 しかし日和は「弥生と約束があるから」と言って、弥生の手を引いて逃げてきたのだった。

「私は別に構わないけどー……波音ちゃん達とお話し合いした方がいいよぉ……?」
「……ううん、いい。私が居ても、邪魔なだけだから……」

 心配そうにじっと視線を向ける弥生に、日和は首を振り弱々しく笑う。
 そんな日和は今日、ついに弥生と食事をする際にはあった紙パックの飲み物すら、持っていなかった。
 この様子ではきっと朝も食事をしていないだろう。
 いくらなんでも死に一直線といきそうな日和の現状に、弥生は手に持っていたパンを一口サイズにちぎり、「食べる?」と差し出す。

 「ううん、大丈夫」

 日和は首を振り拒否をする。
 しかし弥生は「そっか、分かった」と無理矢理口に押し込んだ。

「……日和、櫨倉命に何か言われたんでしょ?」
「むぐ……。言われてない。事実」

 小さく咀嚼し、パンを飲み込む日和の表情はまた落ちる。

「言われてるじゃない。気にしちゃ駄目だよ」
「……いいの。それに、だからってどうにも出来ないよ。それなら私は……ごめん、なんでもない」

 日和は口を噤み、その顔はもう何も喋らないと訴えていた。
 これ以上弥生にはどうすることもできず、残ったパンを食べ切り、紙パックドリンクを飲み干す。

「日和がそう言うなら、分かったよ」
「……ごめん、ありがとう」

 昼食時間の終わりを知らせるチャイムが鳴って、日和は一人、教室に戻っていった。

「だってー。そーゆー事みたいだけど、どうするのー?」

 弥生は後ろの花壇にわざとらしく声をかける。
 花壇の裏に居た波音は立ち上がると、弥生に視線を向けて頷いた。

「大体分かったわ、ありがとう。後で駅前のシュークリームでも奢るわ」
「私の友達が心配なんだから、この気持ちはお互い様でしょ? 今度三人でショッピングしようよ」
「ええ。じゃあ、近いうちに予定空けるわ」

◇◆◇◆◇


 午後の授業を終え、日和は一人帰路につく。
 向かう先は柳が丘。
 日和は魂が抜けたように虚ろな顔で、やはり置野家に向かうことはできなかった。
 その後ろ姿に狐面を付けた少女が声をかける。

「なぁんだ。ちゃんと殆ど一人で過ごせるんじゃない。一体何のための監視対象なの? ま、妖が出るのは今からの時間が多いからね。楽しみにしてるよ」

 狐の面をしたままで表情は分からなくても、くすりと笑う声はとても愉悦に浸っているようで。
 足は止まったが返事のない日和に首を傾げながらも、命は言葉を続けた。

「黄昏時、黄昏泣き、夕方は人間の心が不安定になり、妖が生まれる絶好の時間。君が監視対象だというのなら、妖を生み出す可能性もあるかとも思ったんだけど……どう? それも違うの?」

 日和は振り向き、最早心もない黒ずんだ茶色の目を向ける。

「私は……」

 日和が小さく口を開き、言葉を零す。 
 しかし姿に命は急いで指で風を切り、姿を消した。
 まさに一瞬の出来事。
 命に振り向いた日和の背後に、ゆらりと巨体が揺らめいた。
 牛の様に立派な角を持った頭、ふさふさとした熊の様な胴体、尾はひょろ長く二つの動物が混ざり合った不気味な姿をした妖が、上体を起こし前足を振り上げる。
 刹那、日和の体は軽々しく吹っ飛び、辺りの民家の塀に叩きつけられた。
 命がいた場所は体格の大きな妖の前足が振り下ろされる。

「うぁっ……ぶな!!」

 姿が消えたまま後ろに飛び退いていた命はゆらりと姿を現す。
 狐面に与えられた幻術、認識阻害。
 パーカーの袖が少し削れ、妖の爪が命の体ぎりぎりをかすめていった。
 一方で塀に打ち当たった日和は動くことなく、ただ霞んだ視界で黒い影のように大きな妖をじっと見ていた。
 その目はまるで死を望むかのように。
 日和の視線に気付いた妖はぐるりと体の向きを変え、日和に向けて突進する。
 そして人のように歪に発達した前足を使い、乱暴かつ獰猛な動きで日和の体を掴み、持ち上げた。

「うっ……ぐ……」

 強く締めつけられる日和は大きく声を上げる事はなく、苦しそうな表情を浮かべ、足はびくびくと細く痙攣する。
 体の限界だ。
 このままではすぐに圧死するだろう。

「あ、あっ……?」
「――射る」

 現状を理解できなくなった狐面の横を、風切り音と影が駆け抜ける。

「――日和……っ!」

 二つの声が響いた。
 日和を掴んでいた妖の腕には水の矢が刺さり大きく弾け、胴体には石の槍が下から上へずん、と重々しく衝き上げる。
 吹き飛んだ腕と共に日和の体が空を彷徨う。
 駆け抜け、地面を叩き槍を出した竜牙の勢いはそのままに、落ちる日和の体を受け止めた。

「よりにもよって日和に手を出すなんて、最ッ低! 爆ぜろ!!」

 両手に炎を携えた波音は勢いよく地面を蹴り上げ、巨体に業火の打撃を3発食らわせる。
 ついでと言わんばかりに竜牙が空けた胴体の穴に向けて火薬を投げた。
 火薬はパチパチと線香花火のような小さい音を立てると波音の言う通りに黒煙を上げながら爆発する。
 そしてその体は四散、さらに細かく霧散して消えた。

「日和……大丈夫か、日和!」
「ぐっ……!……怪我は消えた、しかし……」

 竜牙は日和の体を抱え声をかけるが、返事はない。
 竜牙と共に日和の様子を見る玲は咲栂に変わって癒しの水をかける。
 しかし体の傷は癒えても目覚める気配は一向にない。
 咲栂は日和の目に伝った乾きかけた涙を拭い、竜牙を見る。

「……一度休ませた方がいいかもしれぬな。竜牙、頼めるか?」
「ああ……」

 竜牙は頷き、日和を抱えたまま急ぎで場を後にした。

「さて、失礼するわよ」

 波音は遠くからその様子を見ると、腰を抜かしているのか動かない狐面に向き直り、その面を剥ぐ。
 面の下から覗いたのは櫨倉命、クラスメイトの姿だった。

「ヘぇ、貴女狐面だったの。随分と烏滸おこがましい事してくれるのね」

 波音は怒っていた。
 今にも殴りかかりたい気持ちだが、きっと親友はそれを望まないだろう。

「なんで……どうして……! わからない、わからない……!」

 命は波音を見ること無く、霧散した妖の場所を見て混迷の表情を浮かべている。

「私からすれば、あんたの行動の方が分からないわ」

 その姿を見て波音は苛立ちを吐き捨てた。
 命はぎょろりと波音に目を向け、野獣の咆哮のように攻撃的な顔で叫ぶ。

「だってそうだろう、術士様はこの地に住まう者達の為に戦っているのだ! それなのに何故わざわざ一人の一般市民の為に動く!? あの女も何なんだ! 術士様に近付く不届き者の癖に……好意で近づいたのでないのなら妖のたぐいかと思ったのに……!」
「あんた、最っ低ね……性根腐ってんじゃないの…?」
「傾倒するのも大概にしてくれないかな。流石に日和ちゃんをあの姿に戻してしまった事は僕も看過できない。その物言いは彼女に失礼だよ」

 波音と換装を解いて隣に戻った玲は憤懣ふんまんの限界だった。
 それでも手を出さないのは、日和の心配と事の重大さを師隼に纏めてもらう為だ。
 波音は憎しみたっぷりに命を睨み付け、言葉を吐き捨てる。

「明日を覚悟しておくことね。私は絶対に貴女を許そうなんて思わないわ」



***
 日和は竜牙に運ばれ、置野家の自分の部屋に帰ってきた。
 ベッドの傍らには竜牙が付きっきりで傍に居る。
 部屋に戻ってから6時間程が経つが、日和は一向に目覚める気配もない。
 竜牙は頭を抱え、気が滅入っていた。
 どうにもこの少女には生存意欲が無く、閉鎖的、してや犠牲的な性格らしい。
 昼食時と様子を見ている間に玲といくつか連絡をしたが、今回の騒動で見事にその弱さが表に出てしまったようだった。
 この性格はやはり父を筆頭に家族が亡くなったのが原因か、それとも母親に棄てられたからなのか。
 日和が決別した日を考えると、母親から虐待を受けていた可能性もあるが……今はわかりそうにない。
 もしかしたら運命的なものなのかもしれないが、この少女に安寧の時は来るのだろうか。
 少しでも癒やせる方法があれば是非教えて欲しい、そんな心情だった。
 憐れんでいるつもりはないが、無意識に手が伸びて眠る日和の前髪をかき分ける。

「大丈夫か、日和……」
「……う、ん…………」

 思わず心配の声を出してしまったが、同時に日和の表情も歪んでゆっくりと目が開いた。

「ここ……」
「日和……!」
「……竜牙、なんで……! 私の傍に居たら仕事の邪魔になります!すみません、すぐ出て行きますから……!」

 竜牙を認識した途端、日和の表情は真っ青になった。
 焦ったようにベッドから飛び出し、逃亡しようとする日和を抱き寄せ、落ち着かせる。

「何処に行く? 大丈夫だ、落ち着け」
「だっ、め……です……。離して下さい……! 私は、もう……!」

 駆り立てられるかのように必死の形相で日和は藻掻き、逃げようとする。
 竜牙は日和の両頬を両手で包み、真っ直ぐに自分に目線を向かせた。

「落ち着けと言っている。何があった? あの女に何を言われた」
「はな、して……ください……。私は、皆の邪魔になります……ここに居たらだめなんです……!」
「妖に襲われていたのに、声すら発しなかったな。
 死ぬつもりだったか? ここに居られないなら死ぬしかない、と思ったのか? 誰がそんな事を決めた? 私か? 師隼か? それとも、あの女か?
 ……日和、よく聞いて欲しい。私や波音、玲、夏樹も……師隼だってお前が死ぬ事は一切望んでいない」
「で、でも……」
「私達術士は確かに妖を倒すのが仕事だ。だが目の前で衰弱し、今にも死にそうな少女一人救えなくて人を守る仕事など、出来る訳がないだろう」

 竜牙の真剣で真っ直ぐな目が日和に刺さる。
 日和の頬と目元が赤くなって、ぼろっと大粒の涙が落ちた。

「……っ…うぅ……」

 何かを言いたげで、ぼろぼろと落ちる涙は今まで出さなかった感情が詰め込まれている気がした。
 何をそんなにも耐えなければいけなかったのか。
 感情を抑え込んで、言葉を飲み込んで、何が彼女をそうさせるのか。
 何も言わずただ傷つくばかりの少女、その心の内を竜牙は知らない。

「よく覚えておけ。人は独りで生きられると言う奴もいる。だが、それは所詮まやかしだ。独りでいるつもりで自分が自分の状況を認知していないだけだ。
 外の範囲には必ず誰かがいる。それは家族かもしれない、友人、もしくはもっと外の人間だ。日和がもしその人間が認知できたら、言え。なんでも。気持ちでもいいし、我が儘でもいい」
「……」
「守られるのは、辛いか? だが、それはお前が今までに戦ってきたからだ。ずっと戦ってきた人間にこれからも戦えとは言えない。今が休む時なんだ。その間は言いたいことを好きなだけ言え。そしたらまた戦う日が来る。戦える日が来る。
 その時はきっと守る側にいるはずだから、沢山世話になった分返してやれ」

 日和は静かに涙を流す。
 竜牙の胸に寄りかかり、酷い顔をして、静かに頷く。
 …………。
 ……。
 それから時計の長針が半分以上廻り、それまで静かに泣いていた日和はぐすっと鼻をすすって呟いた。

「……竜牙、お腹が、空きました……」

 弥生からパンを一口貰ったとはいえ、丸1日食事を抜いていた日和はお腹を押さえながら目や鼻を赤くしている。

「……ふふ、分かった。今準備させる」

 まるで泣きじゃくった子供のような日和の姿に竜牙は笑い出した。
 そして日和の頭を撫でると立ち上がり、部屋を出て行く。
 それから一人の時間が訪れ、日和は自身の両頬を撫でた。

 術士達と会ってから、優しさや安心感ばかりに触れていたように思う。
 少し遠かった玲は再び近くなっても変わらず優しく心配してくれた。
 波音は友達だと言って世話を焼いてくれる。
 竜牙は何でも受け入れ、傍に居てくれる。
 夏樹はまだ遠いがきっと良い子なんだろう、そんな気がする。
 確かに日和の周りには今、人がいる。

『人間孤独ではいられないよ。あと数人お友達がいて、日和ちゃんがちゃんと頼れるようになったら、私も安心だよ』

 祖父の言葉が、脳裏に浮かんだ。
 ねえ、私は頼ってもいいの…――?
 あとは自分次第なのだと気付いて、竜牙が戻ってくるまで、日和はもうひと泣きした。
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