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作者: 清水レモン
いよいよの瞬間まで
 カウントダウンするには、まだ時間に余裕がある。
 かといって、なにかの目的で動こうとするには足りない気がした。
 着席してから試験が始まるまで、こうして待っていてもいい。
 いいんだよな?
 すでに脳内では自問自答が始まっている。こうしているか、これでいいのか。
 これでいいのだ。
 と結論づけしたとたんに、
 『あ』
 おれはトイレに行くことにして立ちあがった。

 用を足すには早すぎることなどない。決断したら即行動。迷いなどいらない。
 もちろん、考えた。
 『いや、出ないだろ。どう考えても出る気がしない』
 それもそう。だが、それはそれ。
 試験前のトイレには、ふたつの意味がある。
 ひとつはアフレコ。文字通りに用を足すこと。まさに音入れだ。
 もうひとつは、深呼吸。あのまま、あの場所でもいいけれどほんの少し歩くだけで世界が変わる。
 気の持ちようなのだろうけれど、さまざまな模擬試験会場を体験しているのでわかる。
 新しい場所は、それだけで魅力的なんだ。
 いままできたことのない場所ゆえに、いつも使っているような道具ですら新鮮に感じられるし、必要に迫られて使用する設備でさえ必要以上に緊張を強いてくる。
 トイレだよ?
 トイレだろ。いつも使っている。いつもしていること。ただ、この学校が初めてで、ここのトイレは未知の領域というだけのこと。それだけのこと、なのに緊張感。
 …それがもう次の瞬間には気が抜けて、ほうっとしている不思議。
 
 この学校のトイレは入り口が広いな、と思う。
 こんなに生徒が並ぶことなどないだろう?
 っていうくらいに蛇口が並んでいる洗面エリア。その奥に、これから用を足すんだよ足すんだろと無言で迎える個室の群れ。広い。ムダに広いと思った。
 けど、無駄を感じない。なんだろうこの違和感ていうか矛盾。
 床のタイルは細かくて、特有な暗さを感じさせつつも、不思議と安心していられる。
 掃除が行き届いているのか。
 ここの掃除は生徒が?
 どういう当番制なのだろう。
 まさか用務員さんが、とかではないだろうしな?
 あるいは…

 おれは息を吐く。吐く。吐く、吐く、吐く吐く吐く、すると吸っていないぶんどんどん苦しくなってきて。急いで窓辺に立った。わかる、かすかだが花の香り。まちがいない、梅だ。
 窓は開いていた。
 冷たい空気が入ってくるのも自然にわかった。
 足元の違和感が、まだ消えない。
 けど。
 トイレに来るまでの廊下で慣れた。違和感は消えなくても薄れていく。
 出ないかな…と思ったが、出た。
 まあ、いい。
 
 戻るか。戻ろう。ゆっくり廊下を歩いていっても余裕。試験会場とは別の空間で過ごしたことが、なぜか体をこの場所にいっそうなじませた気がする。
 よくわからないけど、もう初めての場所って感じがしないな?
 おれは脳内の自問自答を暗記するかのように深く、ゆっくりと、言葉ひとりごとで宙につづった。
 
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