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作者: 清水レモン
響いている
 ちがわない。なにも、ちがわない。
 予想通りの展開だ。架空の未来行動だったけど、思い描いていたとおりにおれはいまこうして歩いている。線路沿いの一本道だから迷いようがない。踏切から踏切まで、つまり改札口を抜けて最初の踏切を過ぎたら次の踏切が見えるまでは、ひたすら歩くだけ。
 なにも考えなくていい。なんなら歴史の年号の暗唱でもするか脳内で。あるいは。
 なんて自由に思いを馳せながら歩けばいい。つい、うっかり道を間違えてしまった、なんてことにはならないのがまたいい。
 『うん。この道この舗道このような砂利道。凍結の心配がなく滑りようがない』
 ときどき大きな砂利が靴の裏でジャリッと音をたてるのがわかった。手入れの行き届いた繊細な砂利道ではないな、だがそれがいい。ジャリジャリジャリジャリと一歩踏みしめるたびに、じんわりと沈み込む。おれの体重は軽い。喧嘩のときは不利に感じることが多かったけれど、今は違う。むしろ頼もしい。
 なんという軽やかさだろう!
 おれが歩けば砂利が鳴る。ステップのまま鳴り響いてる。なんていうか、その。
 『まるで音楽じゃないか』
 ひそかに喜びをかみしめた。
 『歩きやすい道を、すべる心配もなく安心して歩き続けられる。なんていうかこれはもう』
 ラッキーだ。
 ちがうか?

 ひとつ気になることがある。
 おれしかいないことだ。
 改札口を抜けたときこそ大勢いたけれど、いまは周囲どこをどう見渡しても。
 『誰もいない』
 ちらり、うしろ。振り返ったが誰もいない。
 当然ながら前方はるか彼方まで人間の姿そのものがない。まったく、ない。
 『…早すぎたか』
 おれは思う。行動が早すぎたのかと。いくら遅刻は厳禁とはいえ、選んだ電車が早すぎたのか。
 だが、いい。それでいい。これでこそ、おれだ。
 早めに行動したからって、誰かが誉めてくれるわけではない。
 なんなら『心配性かよ! 小心者め』とののしられる。
 それでいい。言いたいやつには言わせておく主義だ。おれは、そいつじゃない。すなわち、そいつもおれではない。おれはおれだ。
 試験開始時刻の他に、校門オープンの時刻がある。おれが照準を合わせたのは、そっち。
 『早めに会場に入って、なんなら少し校内を見て回ろう』くらいの気持ちでいる。
 余裕だ余裕なんだよ、余裕なんてかましたれや。かましてなんぼの余裕だろ。五分前行動? そんなの知るか。五分前じゃトイレいって用を足して手を洗ってるうちに過ぎ去ってしまうそんな程度の時間じゃないか。
 30分。いや、なんなら1時間くらいか。余裕が欲しい。現実的には20分くらいだろうけど、それだけあればうろつける。うろうろ、うろうろ。現場の確認は重要なんだよ、うろうろはリスクマネジメントにおける正義そのもの。うろつかせてくれよ!
 なぜ、うろうろが必要なのか。
 いざってときの非常口。
 そもそもだけどトイレどこ。
 そもそもへんなやつとか、いない?
 秘密の小部屋っぽい雰囲気とか開かずの教室みたいな状況に出くわしたりすれば興奮する。間違いなく気分が高揚する。気分の高揚は自己の能力を極限まで高めてくれる副作用を伴うから好きだ。おれを高めてくれよ。受験と関係ないだろ? いやいや、いやいや。
 おおありだよ。
 
 試験で実力を発揮できるかどうかは、緊張の度合いと無関係ではない。
 なにごとも過ぎたるは及ばざるがごとしと言ってだな。
 緊張感は大切、だが緊張しすぎると体が硬直してしまう。硬直した体のままで長くいると心が萎縮してしまう。心の萎縮は自己の能力を制限するリミッターの役割を果たしてしまうから、その結果どうにもならないことになってしまう…ま、それも経験済みなんだけどな。
 模試すなわち『模擬試験』で、いやというほど味わってきた。これでもかと味あわされたよ。
 『だからリラックスこそが正義』これにつきる。
 リラックスして、ゆったりと硬直から解放された体はおれの意思と綿密に連携して動いてくれる。おれのIQは残念ながらかなり低いらしいが、いま備えているIQそのものをフル稼働できればそれでいい。おれが戦う相手は、能力の高いきわめて優秀なあいつらか。違うだろ。違うよな。
 あいつらはすぐマウントとってこちらを見下してヘラヘラ武器みな笑いを浮かべやがる。だがそれがどうした。忘れるなよ、あいつらだって人間だ。なんなら緊張することもあるらしい。っていうか、誰でも緊張にふるえ未来を案じて鬱になる要素を兼ね備えている。
 な。
 おれが倒すまでもない。勝手に自滅してくれる。
 おれと同じようにリラックスしてリミッター解除されるとそれはもうどうしようもない。どうしようもないことだけど、もしそういう状況になれることを知っている相手なら『友だち』になれる可能性がある。マウントとって見下してくるやつなんて、こっちから願い下げではあるけれど。
 友だち…か。
 悪くない響きだ。
 うん。どんなやつにもひとつくらいは、人に言えない秘密を持っていたりするものさ。その秘密をめぐる冒険においては、敵は味方になってくれたほうがストーリーが面白い。強力で嫌味なやつであればあるほど、ひとたび味方になってくれようものなら絶大なる無敵さを誇れるようになるだろう。まあ単純に、敵対し続けるよりも妥協でいいから表向きなんとか仲良くふるまえるほうが生きやすくなる。それだけのことさ。
 それだけのこと…か。うーさむ。ああ、寒い。まじ指先ヤバイ凍えてきてヤバめ。おれはカバンのジッパーを手で探る。慣れたもんさ、見なくても。ジジジーッと開けて、そう、このあたり。っていうところに手袋が入れてある。ほうら、あった。おれは手袋を取り出して、まずは左手それから右手に。
 って、なったところで、
 『うわっ! ヤバイ落ちる落ちる落ちる落ちちゃう、したたりおちて落ちてくる~』
 ってなった。鼻水な。すごく水っぽくてサラサラなやつ、あれ。
 つつつーって。
 瞬間的に反射的に、おれは静止する。
 制止できなかったサラサラ鼻水が千切れて落ちていった。
 砂利に、しみこむ。
 『…』
 まあ、いいさ。
 おれは装着途中の手袋を解除して脱ぎ、カバンに元通り戻した。
 かわりにコートに忍ばせているポケットティッシュ。取り出すとき、指先の冷えが尋常ではないことを自覚する。なかば感覚を朦朧とさせたしまっている指先がティッシュペーパーの薄さに膠着する。うまく取り出せない、取り出せないで静かにもがいていると次の水滴爆弾が装填されちゃうよ。サラサラなやつが、また落ちてくるんだよ?
 なんとかかろうじて一枚!
 って思った瞬間、その一枚が破けてしまって、『あああ』って残念がった刹那にピーっと汽笛。
 
 ピーっ。
 
 二度目の汽笛で、おれの真横を電車が猛烈なスピードで走り去っていった。
 『おれが乗ってきたのとは反対方向のだな。きっと受験生も乗っていただろう』
 鼻水をすすることなくティッシュペーパーに気持ちよく放出しながら振り返る、いま来た道この砂利あふれる舗道。チーン。あ、やぶけた。指先ちょっとサラサラに濡れた。 

 おれの家族は神経質じゃないから、いちいち気にしていなかったし、なんならそういう配慮のカケラもないってことだけど。
 おちる。すべる。禁句です。
 いや、別に普通に使う言葉だろ。でも。
 落ちる、滑る、は言わないようにしましょう。って空気をビシビシ感じてしまうことがある。
 おれは思うんだよ? いくら『言霊』が重要だからって、言葉に責任を押し付けすぎていないかい。
 もちろん、他の言葉に置き換えることは可能だろう。
 言わずに済むなら言わないようにする、それだけのこと。っていうのも本当だし。でもな。
 そういうのが萎縮の始まりになる。
 心が萎縮しちゃうんだ。
 『落ちる』という言葉に穢れを載せて禁句にすれば、言葉ではなく気持ちの萎縮が不合格を手招きするだろう。
 『滑る』という言葉を忌み嫌うなら、スケートは? あれほど美しくて研ぎ澄まされた競技を知ったうえで呪いをかける気なのか? そういう発想センスそのものが入試に向けて『滑り止め対策』とか言わせるんだよ。ちがうか。
 落ちたくなければ対策しろ。滑りたくなければ工夫すればいい。言葉じゃない、おまえ自身の気持ちの問題だ。だからおれはするし、した。
 じゃーん!
 誰も見ていない舞台で、くるりとおれは旋回する。リアルにくるっとまわった。
 見ろよ見てくれよ、なあ自分自身。おれは、おれに呼びかけて自慢する。
 『この靴!』

 この靴は、おれが選んだ一品だ。最高の逸品なんだよ?
 父はクリスマスプレゼントとして『入試当日の服装』を提案してくれた。母は乗り気で店から店へ。姉は冷静に『いやならイヤって言いなね?』とおれに耳打ちした。うん、わかってる。
 父は真っ白な、それはそれは美しくて軽快そうで、爽やかな感性あふれるスニーカーを提案してきた。
 おれは首を振って答えた、『今日だけは自分で選ばせてください』と。
 なにを言ってるんだおまえは、「おとうさんが選んだのが最高に決まってるだろ」って父が笑いながら上機嫌に断りかけてきたけれど、
 「お父さま! 今日はアキラに自分で選んでいただきましょうよ? なにしろ実際に戦場に赴いて戦闘を繰り広げるのは彼自身なんですから」
 と姉が言う。
 「うん?」と一瞬なにか迷ったのか考えたのか父が言うには「それもそうだ。そっか、そうだな。ヨシッ! どれでもいいぞ、アキラ。お・ま・え・が選べ。好きな靴、とってみろ」
 それがいま履いている、この靴。
 色は漆黒で漆黒なる闇すなわち艶やかなるブラック光沢感ビシビシの黒。
 形は、がっしり。見た感じのとおり固い革。天然ものか合成か人工的なものなのか詳細はわからないが、おれはひとめで気に入った。なによりも、うたい文句にしびれた。
 『防水撥水加工で優れた耐水性』
 レインブーツなみの防水効果が期待できそうだ。
 『耐油性』
 油にも強いんだって。レストランの厨房でも安心なんだって。おれがまじまじと見ていると店員さんが来て『よかったら履いてみてください』と言ってくれたっけ。
 右と左が細い樹脂糸で繋げられていて、履くのは用意ではなかった。正直、難儀した。けれども、履いているときに説明してくれた言葉を今でも忘れない。
 「水にも油にも強いんですよ」
 なんだよそれ控えめに言って最強じゃん。水と油、相反するふたつの要素に対して。
 さらには。
 「タグには書いてないけど、対滑性もあるんですよ~」
 「たいかつせいって、なんですか」
 「ひとことで言うと、すべらないんです」
 「すべらない!?」
 おれの大声に父が苦々しそうに笑いながら「声、おおきい」とおれの頭を拳固した。
 そんな父が言う「そりゃあ耐水性で耐油性っていうんなら、すべりにくい構造ってことはわかることじゃないですか。だからわざわざ書いてないのでは?」
 と誇らしげに語り、控えめに笑った。
 すると店員さんは、すっとしゃがみこんでおれを見た。
 おれと視線が水平に交差する。すなわち、しっかりと目が合った。
 「雨の日に履いても中が濡れない、長靴みたいな耐水性。
  耐油性というのは、油の成分で素材が傷んだりひび割れたりするのを抑えられるっていうこと。
  耐水でも滑りやすいし、耐油でも滑ってしまうのよ。でもね」
 すっと店員さんが立ち上がるとき、ちらりとスカートの奥が見えた。黒いパンティストッキング越しに淡くてカラフルな色彩の生地を感じたけれど、一瞬過ぎてもう確かめられなかった。
 「耐滑性は、すべらない。ほんとうに、すべらないんです」
 その静かで落ち着いた微笑が無敵ぶりを感じさせてくれる。
 姉がスッと会話に入ってきた、
 「つまり。びしょぬれの床でも安心。油が飛び跳ねてる床でも滑らない!』
 「そのとおり~」と店員さんが満面の笑みで目を細めた。
 おれは片足突っ込んでよろけつつも「うん。ぴったり」と言った。
 もうちょっと明るいのを選べばいいのに、と母が小さく言う。
 それに対して父が「おれもそう思うけど今日は特別だ。アキラに選ばせようじゃないか。なあ!」
 と、おれの背中をバシッ叩いて自慢げに言った。
 「すべらない靴、かあ」
 おれは思わず言いながら相当ニヤけていた、と思う。

 だから文字通り、おれは滑らない。
 これはもう科学的にも約束されている事実なんだよ。
 おれは再び歩き出す。ジャリジャリ砂利のざわめきは、やっぱりアップビートの曲みたいに響き渡っておれの靴の裏から足を伝って背骨をふるわせ脳に届いた。
 
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