残酷な描写あり
第五話 暴走するエゴ
「ア、アングリッド……くん……?」
母の名を呼びながら急ぎ家の中へと入っていった彼。それがこうして再び表へ出てくるとは、サニーは予想していなかった。
「どけ!!」
立ち尽くサニーには目もくれず、アングリッドは先程以上に荒んだ口調で暴言を吐き捨てながら、疾風のように彼女の横を駆け抜ける。
「うわっ!?」
ぶつかりそうになり、慌てて身を捻る。両手に持ったトランクに重心を持っていかれバランスを崩しそうになるが、なんとか転ぶ前にギリギリ体勢を立て直す事に成功した。
「っと、ととと……! あ、危なかった〜〜!」
お気に入りのワンピースを汚さずに済んで安堵の息を吐いた後、サニーは眉を顰めて走り去ってゆくアングリッドの背中を目で追う。
「どうしたんだろう、あの子……」
今の様子は明らかに普通じゃない。最初から怒りで頭に血を上らせていたのは確かだが、それに輪をかけて不穏な……いうなれば鬼気迫る切迫感を全身から放っている。
現に、まだ日が高いこの時間帯で外に飛び出していくなんて、アンダーイーヴズの住民としては危険な行為だと、さっきシェイドが言っていたではないか。
「気になるわね……。追いかけてみよう!」
好奇心か、虫の知らせか、あるいはその両方か。
アングリッドのただならぬ様子に放置しておけないものを感じ取ったサニーは、トランクをしっかり担ぎ直すと彼の後を追って走り出した。
◆◆◆
「ハァ、ハァ……! 何処までっ、行くのよ……!?」
無人の街中を走り続ける少年と少女。未だ止まる気配のないアングリッドの背中を眺めつつ、サニーは溜息混じりにぼやいた。
アングリッドの足は速く、進みには迷いがない。サニーは見失わないようにするだけでも一苦労だった。旅行用の荷物を詰め込んだトランクを抱えながらの走行は、中々キツい重労働だ。既に息は上がっている。
「もういっそ……ゼィ、ゼィ……! 大声上げて、呼び止めてみよう、かな……? ハァ、ハァ……! 無視、されるかもっ、だけど……!」
前を行くアングリッドに、尾行に気付いた様子は無い。というより、目的地以外はどうでも良いというように脇目も振らず駆け続けている。サニーの声が届いても反応してくれるかどうか。
「かといって……フゥ、フゥ……! このままじゃ……! い、息が……っ!」
サニーの視界が揺らぐ。ぼちぼち体力の限界が近付いてきたみたいだ。アングリッドとの距離が開き始めているのが分かる。このままでは彼の姿を見失ってしまう。
「……ん? と、止まった……!?」
不意に、アングリッドが一軒の店舗と思しき建物の前で立ち止まった。サニーは救われた気分で足を止め、荒くなった息を整える。
「開けろ!!!」
俯いて熱くなった肺に一生懸命新鮮な空気を送り込んでいたサニーの耳に、アングリッドの怒声が響く。
はっとして顔を上げると、ガラス張りのドアに向かって声を張り上げているアングリッドの姿が見えた。
「おい、聴こえてんのか!? さっさと開けろ!! オレは客だぞ!!」
「客……?」
サニーはドアの横へ目を動かす。そちらは同じくガラス張りのショーウィンドウとなっており、向こう側には木棚とその上に並べられているトレーが見えた。
「彼処、もしかしてパン屋さん?」
よく見ると、上の方に小さくそれと示す看板が掲げられていた。どうやらアングリッドは、パンを買う為に此処まで来たようだ。だが……。
「どう見ても、まだ営業してないよね……」
奥は薄暗く、トレーに並べられているパンはひとつも無い。更にはドアには『Closed』といった札も下げられており、明らかに休業中だ。
しかしアングリッドはまるでそんな事に頓着なく、ドアにへばり付くようにして「開けろ!」と怒鳴り続けている。何かに追われるようにガラス戸を叩き、ドアノブを掴んでガチャガチャしている姿は、恐ろしく異様で異常だった。
「なんだい!? なにやってんだい!?」
やがて表の騒音が聴こえたのか、奥の暗がりから店主らしき大柄の女性がのそりと姿を見せる。注ぎ込む日光を避けるように影の切れ目付近で立ち止まってから、外のアングリッドに向かって叫んだ。
「今は営業時間外だよ! また夜出直しな!」
「うるせェ! そんな暇無ェんだよ!!」
店主から直接拒否されても、アングリッドは引き下がらない。相手の迷惑など顧みずに要求を繰り返す。
「今すぐパンが要るんだ! 金ならある! 売ってくれ!!」
「そんな事言われたって無理だよ! 窯もまだ冷えたままだし、急には用意出来ないよ! 空をご覧よ! まだお日様が出てるじゃないか! 夜になってから来なよ! 大体あんた、なんで日中に出歩いてんだい!?」
「嘘をつくな!!!」
「ひっ!?」
アングリッドが拳を振り上げて、一際強くガラス戸を殴り付ける。ガァン! という音がして、ガラス部分に僅かにヒビが入った。
「今ったら今だ、このボケが!! とっととパンを作れ!! のろま!!」
「アングリッド君、もう止めて! 止めなさいっっ!!!」
呆然と成り行きを見守っていたサニーは、ガラスを割らんばかりの音を耳にしてようやく我に返り、慌ててアングリッドを止めに入った。
「なんだ!? またテメェかよ!?」
サニーの方を振り返り、アングリッドが顔をしかめる。
「一体何をしてるのよ!? こんな事やって良いと思ってるワケ!?」
「此処はパン屋だ! オレは客だ! パンを買いに来て何が悪い!?」
全く悪びれもしないアングリッドに、サニーの心の中で再び怒りが湧き上がる。
「悪いに決まっているでしょう!? 見なさい! ちゃんと休業中って札が出てるじゃない!」
「それがどうした!!!」
アングリッドは、まるで聞き分けのない小さな子どものようにサニーの注意を一蹴する。
「金貰ってんならよォ! 客の望みは聞き届けるべきだろうが!!」
「そんなワガママ、通る筈が無いでしょう!? なんなのあなた!! 自制心ってものは無いの!!?」
「オレに説教するんじゃねェェェ!!!」
殺意すら籠もったような目付きがサニーを睨み付ける。気の所為か、その瞳はギラギラと赤く光っているような気さえした。
「……っ!?」
アングリッドから放たれる異常な雰囲気に圧倒され、サニーは言葉をなくしてしまう。
(なんなのこの子……!? おかしいってものじゃない……!)
戦慄を覚え、一歩後ろに下がる。それを追うように、アングリッドが一歩足を踏み出す。
「母ちゃんが待ってるんだ……! パンを食べたいって、そう言ってたんだ……!」
ゆらゆらと身体を揺らしながら、アングリッドはくぐもった声を出す。先程までとは真逆の抑揚の無い口調が却って不気味だった。
「どいつもこいつも、オレの邪魔をしやがって……! オレは、病気の母ちゃんに楽させてやりてェだけなのに……! 母ちゃんの喜ぶ顔が見てェだけなのに……っ!!」
「――っ!?」
不意に、アングリッドの周囲に黒い『何か』が立ち上る。煙のようなそれは、何条もの線に分かれて彼の背後から吹き上がり、膜のようにアングリッドの全身を覆っている。
「……えっ!?」
サニーは気付いた。煙を吹き上げているものの正体に。
それは、日光を浴びて地面に出来た、アングリッドの影だ。
人の形をした影は、まるで意志が宿っているかのように全身を波打たせ、盛り上がっている。質量なんてある筈が無いのに、立体化を伴ってどんどん膨れ上がっていっている。
(なに、これ……!? 夢……!? あたし、悪夢を見ているの……!?)
声を出せずに震えるしかないサニーの前で、とうとうアングリッドの影が本人の背を越す程に巨大化する。
「なんてこったい……!」
パン屋のおばさんが息を呑む気配がした。
「許さねェ……! 許サネェゾ……! オレヲ、阻ムヤツハッァ!!!」
アングリッドの声が変調する。少年のものから、この世のものではありえないような声に。
アングリッドの目の赤い光が増々強くなる。最早気の所為とは、サニーには思えなかった。
アングリッドの影が割れる。彼の真後ろで、全てを飲み込む大海嘯のように。
そして――
アングリッドの姿は、影の中に消えた。
母の名を呼びながら急ぎ家の中へと入っていった彼。それがこうして再び表へ出てくるとは、サニーは予想していなかった。
「どけ!!」
立ち尽くサニーには目もくれず、アングリッドは先程以上に荒んだ口調で暴言を吐き捨てながら、疾風のように彼女の横を駆け抜ける。
「うわっ!?」
ぶつかりそうになり、慌てて身を捻る。両手に持ったトランクに重心を持っていかれバランスを崩しそうになるが、なんとか転ぶ前にギリギリ体勢を立て直す事に成功した。
「っと、ととと……! あ、危なかった〜〜!」
お気に入りのワンピースを汚さずに済んで安堵の息を吐いた後、サニーは眉を顰めて走り去ってゆくアングリッドの背中を目で追う。
「どうしたんだろう、あの子……」
今の様子は明らかに普通じゃない。最初から怒りで頭に血を上らせていたのは確かだが、それに輪をかけて不穏な……いうなれば鬼気迫る切迫感を全身から放っている。
現に、まだ日が高いこの時間帯で外に飛び出していくなんて、アンダーイーヴズの住民としては危険な行為だと、さっきシェイドが言っていたではないか。
「気になるわね……。追いかけてみよう!」
好奇心か、虫の知らせか、あるいはその両方か。
アングリッドのただならぬ様子に放置しておけないものを感じ取ったサニーは、トランクをしっかり担ぎ直すと彼の後を追って走り出した。
◆◆◆
「ハァ、ハァ……! 何処までっ、行くのよ……!?」
無人の街中を走り続ける少年と少女。未だ止まる気配のないアングリッドの背中を眺めつつ、サニーは溜息混じりにぼやいた。
アングリッドの足は速く、進みには迷いがない。サニーは見失わないようにするだけでも一苦労だった。旅行用の荷物を詰め込んだトランクを抱えながらの走行は、中々キツい重労働だ。既に息は上がっている。
「もういっそ……ゼィ、ゼィ……! 大声上げて、呼び止めてみよう、かな……? ハァ、ハァ……! 無視、されるかもっ、だけど……!」
前を行くアングリッドに、尾行に気付いた様子は無い。というより、目的地以外はどうでも良いというように脇目も振らず駆け続けている。サニーの声が届いても反応してくれるかどうか。
「かといって……フゥ、フゥ……! このままじゃ……! い、息が……っ!」
サニーの視界が揺らぐ。ぼちぼち体力の限界が近付いてきたみたいだ。アングリッドとの距離が開き始めているのが分かる。このままでは彼の姿を見失ってしまう。
「……ん? と、止まった……!?」
不意に、アングリッドが一軒の店舗と思しき建物の前で立ち止まった。サニーは救われた気分で足を止め、荒くなった息を整える。
「開けろ!!!」
俯いて熱くなった肺に一生懸命新鮮な空気を送り込んでいたサニーの耳に、アングリッドの怒声が響く。
はっとして顔を上げると、ガラス張りのドアに向かって声を張り上げているアングリッドの姿が見えた。
「おい、聴こえてんのか!? さっさと開けろ!! オレは客だぞ!!」
「客……?」
サニーはドアの横へ目を動かす。そちらは同じくガラス張りのショーウィンドウとなっており、向こう側には木棚とその上に並べられているトレーが見えた。
「彼処、もしかしてパン屋さん?」
よく見ると、上の方に小さくそれと示す看板が掲げられていた。どうやらアングリッドは、パンを買う為に此処まで来たようだ。だが……。
「どう見ても、まだ営業してないよね……」
奥は薄暗く、トレーに並べられているパンはひとつも無い。更にはドアには『Closed』といった札も下げられており、明らかに休業中だ。
しかしアングリッドはまるでそんな事に頓着なく、ドアにへばり付くようにして「開けろ!」と怒鳴り続けている。何かに追われるようにガラス戸を叩き、ドアノブを掴んでガチャガチャしている姿は、恐ろしく異様で異常だった。
「なんだい!? なにやってんだい!?」
やがて表の騒音が聴こえたのか、奥の暗がりから店主らしき大柄の女性がのそりと姿を見せる。注ぎ込む日光を避けるように影の切れ目付近で立ち止まってから、外のアングリッドに向かって叫んだ。
「今は営業時間外だよ! また夜出直しな!」
「うるせェ! そんな暇無ェんだよ!!」
店主から直接拒否されても、アングリッドは引き下がらない。相手の迷惑など顧みずに要求を繰り返す。
「今すぐパンが要るんだ! 金ならある! 売ってくれ!!」
「そんな事言われたって無理だよ! 窯もまだ冷えたままだし、急には用意出来ないよ! 空をご覧よ! まだお日様が出てるじゃないか! 夜になってから来なよ! 大体あんた、なんで日中に出歩いてんだい!?」
「嘘をつくな!!!」
「ひっ!?」
アングリッドが拳を振り上げて、一際強くガラス戸を殴り付ける。ガァン! という音がして、ガラス部分に僅かにヒビが入った。
「今ったら今だ、このボケが!! とっととパンを作れ!! のろま!!」
「アングリッド君、もう止めて! 止めなさいっっ!!!」
呆然と成り行きを見守っていたサニーは、ガラスを割らんばかりの音を耳にしてようやく我に返り、慌ててアングリッドを止めに入った。
「なんだ!? またテメェかよ!?」
サニーの方を振り返り、アングリッドが顔をしかめる。
「一体何をしてるのよ!? こんな事やって良いと思ってるワケ!?」
「此処はパン屋だ! オレは客だ! パンを買いに来て何が悪い!?」
全く悪びれもしないアングリッドに、サニーの心の中で再び怒りが湧き上がる。
「悪いに決まっているでしょう!? 見なさい! ちゃんと休業中って札が出てるじゃない!」
「それがどうした!!!」
アングリッドは、まるで聞き分けのない小さな子どものようにサニーの注意を一蹴する。
「金貰ってんならよォ! 客の望みは聞き届けるべきだろうが!!」
「そんなワガママ、通る筈が無いでしょう!? なんなのあなた!! 自制心ってものは無いの!!?」
「オレに説教するんじゃねェェェ!!!」
殺意すら籠もったような目付きがサニーを睨み付ける。気の所為か、その瞳はギラギラと赤く光っているような気さえした。
「……っ!?」
アングリッドから放たれる異常な雰囲気に圧倒され、サニーは言葉をなくしてしまう。
(なんなのこの子……!? おかしいってものじゃない……!)
戦慄を覚え、一歩後ろに下がる。それを追うように、アングリッドが一歩足を踏み出す。
「母ちゃんが待ってるんだ……! パンを食べたいって、そう言ってたんだ……!」
ゆらゆらと身体を揺らしながら、アングリッドはくぐもった声を出す。先程までとは真逆の抑揚の無い口調が却って不気味だった。
「どいつもこいつも、オレの邪魔をしやがって……! オレは、病気の母ちゃんに楽させてやりてェだけなのに……! 母ちゃんの喜ぶ顔が見てェだけなのに……っ!!」
「――っ!?」
不意に、アングリッドの周囲に黒い『何か』が立ち上る。煙のようなそれは、何条もの線に分かれて彼の背後から吹き上がり、膜のようにアングリッドの全身を覆っている。
「……えっ!?」
サニーは気付いた。煙を吹き上げているものの正体に。
それは、日光を浴びて地面に出来た、アングリッドの影だ。
人の形をした影は、まるで意志が宿っているかのように全身を波打たせ、盛り上がっている。質量なんてある筈が無いのに、立体化を伴ってどんどん膨れ上がっていっている。
(なに、これ……!? 夢……!? あたし、悪夢を見ているの……!?)
声を出せずに震えるしかないサニーの前で、とうとうアングリッドの影が本人の背を越す程に巨大化する。
「なんてこったい……!」
パン屋のおばさんが息を呑む気配がした。
「許さねェ……! 許サネェゾ……! オレヲ、阻ムヤツハッァ!!!」
アングリッドの声が変調する。少年のものから、この世のものではありえないような声に。
アングリッドの目の赤い光が増々強くなる。最早気の所為とは、サニーには思えなかった。
アングリッドの影が割れる。彼の真後ろで、全てを飲み込む大海嘯のように。
そして――
アングリッドの姿は、影の中に消えた。