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作者: 丘多主記
油断
試合前。明林の守備練習。スタメンの選手が各ポジションに就き、守備練習をする。

「「「「うおおおおおお! すげええええ!」」」」

 久良目商業のベンチから歓声が沸き上がる。久良目商業のベンチの視線は、一人の男に注がれていた。

「オーケー。カモーン!」

 右中間の奥深くに打球が飛ぶ。ライトからでも難しい場所ではあるが、センターが捕るとなると難易度はさらに上がるようなところだ。

 並の選手なら間に合うわけが無い。だが、幸長は違う。

 幸長はバットに当たった瞬間から、飛んだ方向へと走り出していた。そして快足かいそくを飛ばし、何事もなかったかのように打球に追いつき、涼しい顔でボールをキャッチしていた。

 さらに、それがたった一度のことではない。練習中何十回も見せているのだ。

「幸長君! 今日はかなり調子がいいね」

 ノッカーの薗部は参りました、というような表情をしていた。

「いえいえこれくらいイージーですよ。これくらい取れなくては、天才、ジーニアスの名が廃れてしまいますよ」

 澄まし顔で幸長は帽子を取り、ご自慢の茶髪の髪を整えた。

「凄えなあのセンター。俺らの先輩より上手いし、広いんじゃねか?」

「かもなあ。あんなに守備範囲広いんじゃ、センターに上げたら確実にアウトだぞ」

「ま、でも多分センターだけさ。凄いのは。じゃなきゃもっと勝ってるだろよ。どーせ、こういうチームなんだし、ピッチャーは大したことねえんだよ」

 三塁手の西木が高慢な態度で、ベンチにふんぞり返っていた。

「まあそうだな。言っても弱小校だし」

「そうだな」

 不安がっていた他のメンバーも、この一声で安心し始めた。だが、捕手の西浦と大地は違った。

「おい。何試合やる前から浮かれてやがんだ。野球は何があるかわかんねえんだぞ。気を引き締めろよ」

 西浦は怖い顔をして言葉を放った。その声でまた、盛り上がりそうだった雰囲気がまた凍りつき始めた。

「おいおい西浦。そんなこと言っても、相手が相手だ。いいピッチャーがいるはず無い。お前はちょっと警戒しすぎなんだよ」

 茶化すように西木は言った。それが気に入らなかったのか、西浦はさらに鋭い目で西木を睨んだ。それに西木が反応した。

「お!? 試合前にやる気か? 売られた喧嘩は買う主義だぞ」

 西木が西浦に詰め寄る。西浦より十センチほど身長が高い西木が見下ろしていた。

「喧嘩は売ってない。ただ、お前のその勝負を舐めた態度に腹を立てているだけだ」

 西浦は西木には目もくれず。吐き捨てるようにそう言った。

「なんだと?!」

 一触即発の雰囲気の中、大地がその中に割って入った。

「二人とも落ち着けって。西浦の気持ちはわかるけど、ここで喧嘩してチームワーク悪くなったら元も子もないじゃん。それにキャッチャーだから、こういう時こそ落ち着いてないと」

「わかったよ……」

 西浦は大地になだめられ、少し落ち着いたようだ。

「あと西木も。確かに相手は相手かもしれない。けど何事も決めてかかるのはダメじゃねえの?」

「んなこた知らねえよ」

 西木も西浦と同じようになだめられるが、こちらは一切聞いていなかった。

「それに、相手の先発はあのし、……添木なんだよ?」

「ん? 添木? あの添木があ?!」

 聞く耳を持たなかった西木も、これを聞いた途端飛び上がるように驚いた様子を見せた。

 どうやら、伸哉のことを知っていたようである。そして西木だけではない。

 その名前が出た時、メンバーがざわつき始めた。

「で、でもあいつ二年の冬に野球やめてるんだし、いくら凄くてもブランクっつーもんが」

 強がってはいるものの、その声は少し震えていた。

「それはどうだろう。ちょうど今から投球練習するみたいだし、見てみたらどう?」

 大地がマウンドの方を指差すと、西木や他のメンバーはマウンドの方に目をやった。

 伸哉が投球練習を始める。一球ごとにミットからは小気味の良い音が響く。

 バッターボックスに立たずとも、伸哉の球の凄さとコントロールの良さは十二分に伝わってくる。

「嘘だろ……、あんなの反則やん」

「これじゃ打つの厳しいぞ」

 メンバーに流れる雰囲気は、より一層暗くなった。そんな中ベンチの奥から一人声を上げた。

「何を騒いどるんだたわけども」

 その声の主は、一年生チームの代理監督をする若手コーチの小代羅だった。

「いくらすげえっつてもお前らの同級生だぞ。なーにやる前からしょげてやがんだ。おめーら仮にも、久良商にいんだろ。だったらあんぐらい打ち崩してこい!」

『うっす!』

 メンバー間の空気はまた暖かいものになった。一方で大地と西浦は穏やかな気分にはなれなかった。

「小代羅コーチ。作戦はどうなさいますか?」

 大地が小代羅に尋ねた。小代羅は何を言っているのだと、といわんばかりの表情をしていた。

「こんな相手に策練ってどうする? 普通にしてりゃ勝てるだろう」

 どうやら小代羅は無策で行く気満々の様だ。

「お言葉ですが小代羅さん。相手のピッチャーは中二の時に、シニアリトルで全国準優勝した時の主戦投手です。ブランクがあるとはいえ、凄い投手には違いありません。何かしらの策は練っておくべきでは?」

 西浦はまた怖い顔を忠告した。だが、そんなことを小代羅は一切気に留めてなさそうだった。

「おいおいそんな怖い顔すんなよ。確かにブランクあるにしちゃあメチャクチャいい球放る。だがあんな調子で投げてりゃあ、五回くらいにはバテるだろうよ。それに作戦は一回り以降に立てればいいだろうし、まあその必要はねえと思うけど」

 西浦は呑気に言うとそうですか、とだけ返して不満そうな表情でベンチに座った。
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