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作者: 夜門シヨ
24頁
「ホズ、何を言って――」
 
 愛する弟の予想外の言葉に、バルドルは唖然とした表情で彼を見つめている。
 そんな兄の姿を、初めて自分の目で見ることのできたホズは、混乱しているバルドルの事など他人事のように――あぁ、兄様は本当に美しい姿をしているんだな。と、うっとり見つめる。金色の瞳に、絹のように美しい金色の髪。誰をも魅了する姿。皆が彼惚れてしまうのも、敬うのも、救いを求めるのも分からなくもない、と。
 ホズは目を瞑り、ある日の出来事を思い起こす。今の彼ならいとも容易く想像が出来るだろう。
 オーディンがいないのを機に兄と共に部屋を出た日の事を。神族達が話していたことを。兄が捨てられるはずだった自分を救ったことで、彼の優しさのある心を讃える者が増えたことを。
 そして――兄が、「すまない、救えなくて……すまない」と謝った日の声を。表情が、今なら分かる。

「兄様」
 
 ホズはバルドルの手を払い除け、すっと立ち上がる。
 
「僕は兄様に救ってもらった。だから、今度は僕が兄様を救いたいんだよ。だから――止めないで!」

 背後に、彼の後悔の念であるレムレスが姿を現す。レムレスは黒い靄で大きな翼を型取り、靄で作っていた弓と矢をホズへと渡す。赤い瞳は、バルドルを悲しげに見つめている。
 
「レムレス……どうして」
「……このレムレスは、僕の後悔は……兄様を、救えなかったこと」
 
 ホズが受け取った弓と矢を持つ拳を強く握る。

「今度こそ、貴方を救うためにっ――」

 森しかない空間に、痛々しい音が悲しく響く。
 
「ホズ」
 
 バルドルが、ホズの頬を叩いたのだ。
 
「私は、お前に救ってほしいと言ったことはあるかい?」

 バルドルは、苦しげに肩を震わせながら、ほろほろと瞳から大粒の涙をこぼしていく。兄に初めて手を出されたホズは放心状態であったものの、彼の涙を見た瞬間首を横に振りながら、その涙を拭う手を伸ばす。と、その手はバルドルの手に掴まれてしまう。

「兄様」
「どうして。そんなことをしようとするんだ」
「兄様、泣かないでください」
「しなくていいんだよ、ホズ。私の愛する弟」
「……」
「君が私の家族であるだけでいいんだ。私の傍に、いてくれるだけでいいんだ。それが、私の救いだ。……それだけで、いいんだよ」

 涙を流し続ける兄を見て、ホズは赤く憎しみに染まった瞳が揺らぎ――兄と同じ金色へと戻っていく。それと同時に、レムレスは再び彼の影の中へうっすらと姿を消してしまった。
 
「……僕は、そうは思いません。でも、兄様が悲しんでしまうのなら……どうしたらいいのですか」

 ホズは、自身の胸元をぎゅっと掴む。
  
「この晴らせぬ後悔を抱えながら、世界が壊れるのを見るしかないのですか」

 ホズがおかしな事を呟く中。兄弟の様子を遠くから見守っていたロプトは、〈……あの兄弟が分かり合うには、やっぱり時間が足りないか。はぁ、世話が焼けるぜ〉と、拳に灯していた炎を消す。

「おい」

 そんなロプトの元に、不機嫌気味のロキが訪れる。

「いい加減、目的を話したらどうだ」
〈……目的?〉

 ロキの言葉に、ロプトは大袈裟に首を傾げる。

〈なんだ、今更そんな事聞いてどうするんだ〉
「どうもこうもない! ホズのレムレスの事とか……他にも、知ってることがあるんだろ」

 ロキは初めこそ力強く言っていたものの、その勢いは行き場のない最後に弱々しく「シギュンの事とか」と呟く。その声を聞き取っていたロプトは、深く溜息を吐く。

〈じゃあ聞こう。……あの兄妹のこと、今の君はどう思ってる?〉

 ロプトは、ロキの背後にいる兄妹を指差す。兄妹は自分達はどうすればいいのか、とロキの事を見たり、バルドル達の様子を伺ったりと顔を右往左往させている。そんな彼等の慌てている様子に、ロキはまるで我が子のように愛おしげに見つめて、口角をほんの少しあげる。そして、ロプトに……笑みを見せながら伝える。

「大切な子達だよ」

 その言葉に、その表情に、ロプトは〈……そうか〉と微笑んでいるかのような安堵の声音を出す。
 
〈それじゃあ〉

 彼が自身のフードに手をかけた――が。
 
「あら、楽しいお話?」

 それは、目の前に現れた彼女の声によって止まる。

「でも残念。それはもう必要のないことね」

 彼女は楽しげに自身の銀色の横髪をくるくると弄りながら、ロプトに花が咲いたようなあたたかな笑顔を向ける。地面にまでつきそうなほどに長い、艶やかな銀の髪を揺らして。それと同じ宝石のように輝く銀の瞳を見せつけて。

〈シギュン……!〉

 彼等の目の前に彼女がいた。ロキの最愛の妻、シギュンが目の前に突如として現れたのだ。

「シギュン、今までどこに――!」

 ロキは血相を変えて、彼女の肩を強く掴んでしまう。しかし、シギュンはロキの心配を他所に「痛いわよ、ロキ」とほんわかとした笑みを見せる。
 
「ごめんなさい、心配をかけさせて。それで――」

 シギュンは自身の肩から彼の手を離させ、その両手をぎゅうと握る。

「お待たせ、ロキ」

 もう絶対に離さない、と言わんばかりの強さで彼の手を握るのだ。シギュンはロキの瞳をまっすぐと見つめる。ロキも、その瞳に吸い込まれるかのように見つめる。久方ぶりに見る、愛おしい人の眩い瞳を。
 シギュンの背後にいるロプトが何やら叫んでいるが、今のロキには何も聞こえない。そして――シギュンの瞳が、赤く濁る。
 
「行きましょう。幸せの世界へ」





 
◆ど◆ろ◆り◆
 
 「「起ーきーろー!」」
 
 二つの声が寝台で眠る橙髪の男の耳元に向かって、鼓膜を潰さんばかりに叫んでいる。男はもう少し寝ていたい気分なのか「ううん」と唸るだけだ。それでも、それはこの二人の怪獣がいるせいで叶わないらしい。
 
「起きてよお父さん!」
「起きろよ父さん!」
 
 執拗に男の身体を揺らしながら、耳元で叫び続ける二人の怪獣。
 
「「ねぇ」」
「あー! 分かった! 分かったから耳元で叫ぶな! 鼓膜を本気で潰す気か! ナリ、ナル!」
 
 男がその怪獣二人の名前を叫ぶと、銀色の髪と瞳がよく似合う兄妹が「やっと起きた」と笑う。その笑った動きに合わせて、二人の耳元に飾られた緑のイヤリングが光って揺れる。
 
「「おはよう、父さん/お父さん」」
「ん、おはよう」
 
 兄妹は男への挨拶と起こすという任務を終えると、仲良く一緒に階段へ降りていった。下の階で、「起こしてきたよ」と兄妹は誰かに報告している。美味しそうな匂いが下の階から開け放たれた扉へとやってきて、男の鼻をくすぐらせる。男は一度大きく伸びをしてから、少しハネた髪を櫛で梳かし、三つ編みにくくっていく。そこで、彼は不思議な感覚に陥いる。
 何かを忘れている、と。
 けれどその何かが分からず、うんうんと唸りながら彼は下へと降りていく。
 
「おはよう、ロキ」
 
 心地の良い、愛しい声が男の名を呼んだ。
 台所に立つ彼女は、子供達と一緒に朝御飯の支度をしている。今日も一段と、彼女の銀色の髪と瞳は綺麗だった。左手の薬指にある指輪も、一段と輝いている。
 
「おはよう、シギュン」
 
 ロキはそんな彼女に笑いかけた。先程まで悩んでいたことなど忘れて。
「父さん、今日は俺の新技に付き合って!」
「え〜やだ〜」
「父さん!」
「こら、ナリ。食事中に稽古の話しないの」
「お兄ちゃん、パン屑飛んでるよ」

 どこにでもいるような、家族団欒のあたたかな朝御飯を囲む様子。稽古を断られて拗ねるナリ、そんな兄に呆れるナル、そんな彼の顔を見てニヤニヤしているロキ。そして、そんな彼等を愛おしくあたたかい瞳で見つめるシギュン。

「それならホズさんに付き合ってもらおうっと。ホズさんも新しい魔法をオーディン様に教えてもらったって自慢してたし」
「フレイさん、拗ねない?」
「アイツは誘わなくてもどうせ来るよ」

 兄妹の話を麦パンを頬張りながら聞いていたロキは、ふと、齧るのをやめる。彼等の話に出てきた、一つの疑わしい事柄にロキは眉を顰める。
 ホズとオーディン。
 決して、混じり合ってはいけない組み合わせがどうして出てくるのかということを。

「ロキ」

 口に残ったパンを飲み込むも、疑問は飲み込めないでいたロキは名前を呼ばれる。

「どうしたの?」

 シギュンは変わらず、ロキに可愛らしい笑みを向ける。そんな彼女にロキは、「……何でもねぇよ」と返すしかなかった。

 朝食を食べ終え、三人は勤め先である神殿へと向かった。

「おはよう、ロキ」
「おはよう。ナリ君、ナルさん」
「「おはようございます!」」

 その入り口で、彼等の親友であるバルドルとホズが出迎える。バルドルはいつも通りきっちりと神服を着こなし、隣にいるホズは――鬱陶しい前髪はそのままで、けれどバルドルと同じように神服を着ている。ロキにとって、見慣れない姿のはずであった。
 
「……おう、はよ」
「? どうした、なんだか元気がないようだな」
「バルドルさん、気にしなくていいぜ」
「お父さん、まだ寝ぼけてるだけだから」

 兄妹の言葉に、バルドルは「そうなんだね」と少し苦笑いを見せる。

「ホズさん! 今日は一緒に稽古しようぜ! 新技の!」
「いいよ。僕の新技に驚かないでよ〜」
「はいはい。稽古は仕事終わってからでしょ! テュールさんの所行くよ、お兄ちゃん、ホズさん」
「「はーい」」

 兄妹とホズは互いにバルドルとロキに「行ってきます」と別れを告げて、楽しげに会話しながら目的地へと向かっていった。その後ろ姿を、ロキは眩しく細目で見つめながら隣にいるバルドルを横目で見る。彼も、あの三人の姿を微笑ましげに見つめていた。

「いつも楽しそうでいいね」

 親友の幸せそうな横顔に、ロキは「……あぁ。本当に、そうだな」と、返すことしか出来なかった。

 それから。いつも通り、そう、いつも通りに。バルドルやトールとわいわい騒ぎながら仕事をこなし、稽古を終えているであろう兄妹達をロキは迎えに行く。道中、他神族の刺々しい視線など感じずに、だ。小さくも大きくも積み重なっていく違和感を抱えながら、ロキは目的の場所へと到着する。
 鍛錬場はナリとホズ、そこにフレイも混じって三つ巴で戦闘を繰り広げている真っ只中であった。盤上外にはナルとフレイヤが三人を応援しており、そんなナルの傍らにはフェンリルがスヤスヤと眠っている姿が見られる。
 少しすると、ナリがギリギリで勝てたのか、腕を大きく天井に上げてブイサインを掲げた。剣から彼の相棒であるエアリエルも出てきて、共に喜び合う姿はとても微笑ましい。
 その様子を、ロキはあたたかな瞳で見つめる。ずっと、ずっと見ていたい、ずっと過ごしていたい、この穏やかな時間を。

「あれ、お父さんだ!」

 ナルがようやくロキの存在に気がついたらしく、彼女は大きく手を振る。

「おう、帰るぞ。ナリ、ナル」

 家に帰ろう。幸せの詰まった家に。
 そしてまた。いつも通り、そう、いつも通りに。家族で晩御飯を囲んで、温かい牛乳で身体を温めて。「おやすみ」と言い合って、明日の朝を迎えるのだ。
 ロキもまた、シギュンが温まっている寝台の中へと入っていく。

「ねぇ、ロキ」
「うん?」
「ロキは……今、幸せ?」
「なんだよ急に」
「いいから。……ね、幸せ?」

 愛する妻の突然の問いかけに、ロキは呆れながらも。彼女の頭を優しく撫でながら自分の元へと抱き寄せる。

「あぁ、幸せだよ。とっても」

 その答えがお気に召したのか、シギュンは「うん、そうよね」と彼の胸元へ幸せそうな顔を埋める。
 どうか、この幸せが続きますように。と、彼らしくもない恥ずかしげな願いを心の中で呟きながら、ロキは眠りについた。









 
◆オ◆キ◆ロ◆

「起きろ、馬鹿野郎が!」

 白。何も書かれていない無の空間で、ロキは罵声と共に目を覚ます。

「…………………………は?」

 そこで彼の瞳に真っ先に映ったのは、自分の胸ぐらを掴む誰かの姿。その者の姿は、黒い髪に赤い瞳を持つ――ロキ、自分自身だった。
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