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作者: 霜月かつろう
意味のあるバトン その1
「ほんっと、バッかみたい。いい歳して張り切るからでしょ。面倒見るこっちの身にもなってよね。五十手前にもなってアキレス腱をやっちゃうんなんてどうするのよ。だいたい全部、仕事をほっぽり出してスケートばっかりやってるからでしょ。そろそろバトンタッチでもしたらどう?」

 まだ、脚が痛む中。ベッドの中でけたたましい娘の話をそりゃそうなんだけど。と大人しく聞いていることしか出来ない。それなりの立場にある以上、みんなを引っ張っていかなきゃならない。鼓舞することだって仕事のうちだと思っている。まだまだ若いものにバトンを渡すことは考えちゃいない。言い訳みたいな言葉ばかりが頭の中に浮かんでは消える。

「母さんはどうした」

 話を逸らすことしかできず、それを分かってる娘はムスッとする。

「店番してるよ。だれかさんがここから動けないっていうんだから仕方ないでしょ」

 いつから、娘はこんなにも口が悪くなってしまったのか。高校生になってからそれが一気に加速した感覚もある。

 いや、これが父親である自分にだけ向けられているのは気づいている。それを見ないふりもしている。娘は口が悪く育ってしまった。そう思うことにして自分への嫌悪感を少しでも減らそうとしているのは間違いない。

 そう海藤学はアキレス腱が切れたと診断された右足をなんとも言えぬ感情を懐きながら見つめることしか出来ない。

 フィギュアスケートの商店街対抗戦に出るようになってからもうすぐ五年。最初は他に適任者がいないからという理由だけで始めたこの伝統行事の担当というのもすっかり板に付いてしまった。

 思えば商店街を盛り上げようと立ち上がった若者だけのチームも今や、おじさんの集まりだ。それでも商店街の平均年齢よりかは下だし、実際今の商店街を支えているのも自分たちだという自負もある。

 けれども。ちょっとしたアクシデントで入院だなんて。そりゃ娘に悪態も付かれれば呆れられもする。

 だれも悪くない事故みたいなものなんだけど。十年若ければ絶対に起きなかった事故だし怪我だ。年甲斐もなく無理したとかは思わない辺りもたちが悪い。自分が思っている以上に老化している証拠でしかない。

「それで。どうするの? スケート対抗戦来月なんでしょ?」

 だからそんな娘からそんなことを問いかけられるとは思わなかった。気にしてくれていることを嬉しくも思いつつ。気にさせてしまっている申し訳無さも込み上げてくる。それは対抗戦に出場予定の他のメンバーに対してもだ。お見舞いに来てくれたみんなの表情は暗かった。いや、優太だけは元気だったが。それも琥珀ちゃんに咎められすぐに静かになった。言うことをすぐに聞く辺りいい子だと思う。

 優太は出場選手のひとり、立花琥珀ちゃんの息子だ。ふたりは縁あって海藤靴店の二階に住んでいる。他のメンバーは商店街でパソコン教室を開いている川島良二。商店街のボードゲームカフェに通う笹木美鶴ちゃん。そして現役選手の上里アリスちゃん。そこに学を含めた五人が対抗戦のメンバーだ。

 この前、全員揃って見舞いに来てくれたのだ。練習中の怪我だったこともあり心配してくれたのだろう。対抗戦に間に合うかを誰も尋ねなかったのは明らかに無理だと分かっていたからだ。まあ、ただひとり子どもの優太だけは何が起きているのかまったく分からずに無邪気にはしゃいでいた。でも同時にそれがみんなの不安を紛らわせてもいた。

 そんな優太と同じように今目の前にいる娘はよく泣き、よく笑う子だった。今は表情ひとつ変えずにこちらをにらみつけるようにしている。可愛げが見え隠れすらしない。いつからだったか冷たい視線ばかりを送ってくるようになった。家庭を顧みなかったつもりはないのだけれど。娘からしたらそんなことはないのかもしれない。

 たしかに、商店街の打ち合わせだと行ってはよく飲みに連れ出されるし、商店街のイベントだからと行って娘の学校行事に参加できないことも多々あった。それらの積み重ねが今の状況を作り出している。

 そしてそんな娘が父親が参加するイベントについて心配している。何かをおねだりされるのか。最近なにかほしいとぼやいていただろうか。記憶を辿るけれど。そもそも一緒の空間にいて。そんなことを聞ける状況に置かれたのはいつだったか思い出せもしなかった。こうやってふたりきりで同じ空間にいることが久しぶりだと認識して、妙に気恥ずかしくなる。それも怪我をして弱っているところを見られているのだからなおさらだ。カッコつけたいのにその余裕すらない。

「どうするかな。まだ何も考えられないな。でもどうにかするさ。去年の参加者に頭を下げればひとりくらい協力してくれるかもしれないしな」

 もう勘弁してくださいよ。海藤さん。去年の対抗戦が終わったときに他の参加者から言われたことばが不意に思い出される。

 五年に渡って同じ言葉を幾度となく繰り返し言われた。全員違う人からだ。流石にそろそろ堪える。参加してくれる人を見つけるのもそろそろ限界に近い。今年はたまたま新しい人達が見つかって胸をなでおろしていたのに。まさか自分が戦線離脱するなんて思いもしなかった。

 結局は情けない姿を地区の人達の目に晒す。それが耐えられなかったとみんな口を揃えて言う。球技や陸上などはみんなで競争して、結果が悪くてもそれなりに笑い話になる。しかしフィギュアスケートになるとそうも行かない。それなりのプライドを持って生きてきた大の大人たちが醜態を晒すのだ。練習して上手になる。がどうしたってテレビの中で見ている世界と比べられるそりゃ比較対象がないのだから仕方ない。しかしそれは実際に演技している側からしたらたまったもんじゃない。そういう理屈らしい。

 であれば自分はどうして続けられているのだろうと自問自答した時、浮かび上がってくるのは娘と妻の呆れた顔だ。もとから期待されていない分、どうしたってその期待値は下がる。

 あとは商店街を引っ張っていくものとしての責任だな。

 海藤靴店を引き継いだとき、やれることはとことんやろうと決めた。それが商店街に関わることなら全部だ。お陰で今もなんとか商店街に活気は残っているし、新しいお店もオープンし続けている。若干だが、お店の数が減って行っているのだけが懸念点ではあるが。

「ふぅん。ほんとにそんな都合よく引き受けてくれる人、いるのかな。だってもう来月の話でしょ?」

 自分の娘ながら痛いところを突いてくる。それにしたって今日はやたらに絡んでくるな。そもそも入院先にお見舞いに来るだなんて普段の娘からは信じられない行動だ。

やっぱりお小遣いでもせびられるんじゃないだろうか。入院という予定外の出費があるのだ。あまり出せはしないのだが、こうやって見舞いしてくれたのだ。妻には内緒でちょっとくらい渡したっていいだろう。妻のご機嫌取りも大事だけれど。娘のご機嫌取りのほうが大事なのだ。

 そうと決めたら早めに切り出してもらったほうがお互いのためか。

「そうかもな。でもやるしかないからな。それで。どうした。なにか欲しいものでもあるのか」
「あっ。えーと。まあ。そうだね」

 娘が分かりやすく動揺している。珍しいこともあるものだ。よっぽどの金額を請求されるのだろうか。あまりに高すぎる場合は目的も聞かなくてはならない。

「それがね。彼氏がそのスケートの対抗戦出たいって言ってるんだけど。どうかな?」

 思いがけない言葉に思考が止まる。もしかしたら情けない顔をしているかもしれないと分かっているがそれに思考は追いつきやしない。

 なんて言った。彼氏? スケート対抗戦に出たい?

 彼氏がいるだなんて初耳だ。いつからだ。娘と付き合っておきながら挨拶もこないのか。いや、まてまて。自分だってそんなことをしていない。時代が進んでいるのだからそんなことをいちいち気にしてはいけない。

 そうじゃない。スケート対抗戦に出てくれるのであれば、助かるのは確かだ。それこそ猫の手も借りたい状況なのだ。スケートの実力はいかほどだ。あと一ヶ月で二分の演技が出来るくらいに仕上げられるのか。

 いやまて。そもそも商店街関係者なのか。娘の彼氏であれば関係者か。いやそれでは娘との交際を認めてしまうことにならないか。

「お父さん?」

 いつまでたっても返事をしないことに不思議に思ったのか娘が追い打ちを仕掛けてくる。そりゃ当然だ。ここまでカッコ付かない姿を見せることになるだなんて思いもしない。寝耳に水が過ぎる。

「あ。ああ。そうだな。考えてみるよ」

 最高にカッコ悪い返事をして、なんで素直に気にしてくれてありがとうと言えないんだと。娘が病室を出て言ってから頭を抱えた。
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