憧れのその先 その2
フィギュアスケートをやりたい。そう親に頼み込んだのは小学校から中学生になるころの美鶴自身だ。それが長続きしなかったのは自分に才能がなかったからだ。そう言い訳してこの場所から離れたはずだった。
それがまさか氷の上に立つ日が来るだなんてわからないものだな。そのことに対してふたつ返事した自分のことだってよくわからない。自分のことだってわからないのに他のことがわかるわけなんてない。
最近。よくそう思う。
久しぶりに立った氷の上で靴の感触を確かめる。あの頃からちっとも変わっていない足のサイズがまるで自分が成長していないことへのメタファーのように思えてならない。小学生から大学生になって、将来の岐路に立たされているのにも関わらずどの道を選んでいいのかも分からない。そんな自分に対する当てつけのように思えるのだ。
仲がいい子たちもどんどん、将来のビジョンを決めているように見え、実際にそこに向けて行動を始めている。
それなのに私は。
はぁ。
気づけばため息を吐いている。まるで自分の中にある憂鬱を体内から出さないと溺れてしまうと言わんばかりに。
正直、焦っている。大学三年生の十月。なにをしていいのかわからないまま。ただ時間ばかりが過ぎていく。
こんなことやってる場合じゃない。そのハズなのにな。
そんなことを考えがならも練習に集中しなくてはと気分を切り替えるために深呼吸する。氷を冷やすために下げられた室内の空気は喉を冷やして刺激を与えてくれる。よしっと氷の上に足を踏み入れる。
スーッと進む感覚が久しぶりすぎて戸惑いを覚える。久しぶりの氷の上は流石に思い通りに滑ることはできそうにない。そもそも一年とちょっと。美鶴がレッスンを受けて大会に向けてがんばっていた期間だ。到底熟達したと言える実力ではない。
近所にスケートリンクが存在していたので年に一度は滑る機会があったものの、それはあくまでもレジャーのひとつ。それは日々に溶け込むような体験ではない。
きっかけはオリンピックだ。小学生の頃にたまたまテレビに写っていたその姿に鼓動が跳ねた。こんな動きが人間に出来るだなんて信じられなかった。それが可能であればやってみたいと思った。
両親は驚いていたと記憶している。なにせ自分から何かをやりたいと言い出したことがなかったからだ。やりたいことがなかったわけではない。目の前に提示されたものをこなしていることに夢中だっただけだ。
自分のことながら面白げのない子どもだったのだろうと思うことがある。そのつもりはまるでない。けれど、昔から与えられたもので遊ぶのが好きだった。例えば、驚かれることも多いけれど宿題をこなすということが嫌いではなかった。塾に行けと言われれば従った。習い事もいくつか経験したし、自分から辞めようとしたことはない。
けれど。それらをこなすことに精一杯になっていた美鶴は自分から何かをやりたいと言い出すことはなかった。
それが急にスケートを習いたいと言い出したのだ。驚いて当然だろう。
驚いた両親だったが許可が出た。中学に上がるにあたって習い事が全て一段落したということもある。中学受験をするほど熱心でもなかった家庭だ。やりたいならチャレンジしてみなさい。そんな感じだった。
そうして中学から始めたスケートだったけれど。踏み込んだ世界は思っていた以上に厳しいところだった。
「笹木さん? 久しぶりだけど大丈夫?」
対抗戦の監督役である上里コーチが隣に来ていた。そうやって全員の様子を見て周っているのだろう。まだ話をしたのは数回だけれど優しさがにじみ出ている。歳は三十過ぎだと思うのだけれど。アリスちゃんの年齢から考えるに四十近くてもおかしくない。顔つきは幼く見えるし、ちょっと周りには見かけないタイプで正直照れてしまう。
「大丈夫です。ちょっと久しぶりで戸惑っちゃってますけど」
目の前に与えられた課題があることは素直に嬉しいと思っている。見えない道を探り続けているよりかはずっと気が楽だ。
「今日はゆっくり感覚を思い出していけばいいので、焦らず行きましょう。あっ。それとは別に何かあったらすぐに相談してくださいね」
その言葉に、見当違いな相談をしてもいいのかなと考えてぐっとそれを飲み込む。そんな相談をしてもしょうがない。スケートの話を上里コーチはしているのだ。
「分かりました。ありがとうございます」
スケートの感覚。早々に諦めてしまった自分にそんなものが残っているのかと問いただしたくなる。
初めて自ら始めたことだったのに一年足らずで心が折れたのは周りがあまりにもすごくて、それについていくことが出来なかったからだ。
琥珀さんを始め、レッスンを受けている同世代はもれなく小さい頃からスケートをしている。ジャンプもスピンも。大会だって何度も出て経験を積んでいる。美鶴が一緒に練習するのは始めたばかりの小さい子たちと一緒。それも小さい子たちはどんどんと技を身に着け先へ行ってしまう。そのこと自体に焦りもなかったし。目の間に積まれた課題をこなしていくのは単純に楽しかった。
しかし。見誤っていたのだ。その積み重なれた課題の量と、それをこなすための時間が作れないことに。
選手の大半が小さい頃から習っている。それはやらなければならないこと、覚えなければならないことが多いこと。そう思っている。けれどオリンピックの選手たちみたいに出来ないまでも近くまで行けるのだとそう思っていた。
でも練習時間が限られる。貸切時間はひと枠、一時間半。一般滑走も日によって滑れる時間は限られている。それが美鶴には相性が悪かった。
家での練習もイメージトレーニングをした。それでも圧倒的に経験が足りない美鶴からするとあまり効果的でない時間ばかりが過ぎていった。練習したいのに、課題に取り組みたいのに思うようにできない期間がこんなにもストレスだなんて思いもしなかった。
結果的に一年半。高校受験を控え始めた頃。それが我慢できなくなって止めた。両親に申し訳ないと思いながらも耐えられなかった。決して安くはないスケート靴と、レッスン代。高校生になってからバイトして返すからと半ば泣きそうになりながら両親に頭を下げた。
そんなの気にする必要はない。そう言われて。フィギュアスケートのことを忘れるように必死に受験勉強に打ち込んだ。そうしているうちにちゃんと忘れられた。
それなのに。ここにまた来てしまった。そのことに後悔している訳じゃないけれど不安はつきまとっている。
それがまさか氷の上に立つ日が来るだなんてわからないものだな。そのことに対してふたつ返事した自分のことだってよくわからない。自分のことだってわからないのに他のことがわかるわけなんてない。
最近。よくそう思う。
久しぶりに立った氷の上で靴の感触を確かめる。あの頃からちっとも変わっていない足のサイズがまるで自分が成長していないことへのメタファーのように思えてならない。小学生から大学生になって、将来の岐路に立たされているのにも関わらずどの道を選んでいいのかも分からない。そんな自分に対する当てつけのように思えるのだ。
仲がいい子たちもどんどん、将来のビジョンを決めているように見え、実際にそこに向けて行動を始めている。
それなのに私は。
はぁ。
気づけばため息を吐いている。まるで自分の中にある憂鬱を体内から出さないと溺れてしまうと言わんばかりに。
正直、焦っている。大学三年生の十月。なにをしていいのかわからないまま。ただ時間ばかりが過ぎていく。
こんなことやってる場合じゃない。そのハズなのにな。
そんなことを考えがならも練習に集中しなくてはと気分を切り替えるために深呼吸する。氷を冷やすために下げられた室内の空気は喉を冷やして刺激を与えてくれる。よしっと氷の上に足を踏み入れる。
スーッと進む感覚が久しぶりすぎて戸惑いを覚える。久しぶりの氷の上は流石に思い通りに滑ることはできそうにない。そもそも一年とちょっと。美鶴がレッスンを受けて大会に向けてがんばっていた期間だ。到底熟達したと言える実力ではない。
近所にスケートリンクが存在していたので年に一度は滑る機会があったものの、それはあくまでもレジャーのひとつ。それは日々に溶け込むような体験ではない。
きっかけはオリンピックだ。小学生の頃にたまたまテレビに写っていたその姿に鼓動が跳ねた。こんな動きが人間に出来るだなんて信じられなかった。それが可能であればやってみたいと思った。
両親は驚いていたと記憶している。なにせ自分から何かをやりたいと言い出したことがなかったからだ。やりたいことがなかったわけではない。目の前に提示されたものをこなしていることに夢中だっただけだ。
自分のことながら面白げのない子どもだったのだろうと思うことがある。そのつもりはまるでない。けれど、昔から与えられたもので遊ぶのが好きだった。例えば、驚かれることも多いけれど宿題をこなすということが嫌いではなかった。塾に行けと言われれば従った。習い事もいくつか経験したし、自分から辞めようとしたことはない。
けれど。それらをこなすことに精一杯になっていた美鶴は自分から何かをやりたいと言い出すことはなかった。
それが急にスケートを習いたいと言い出したのだ。驚いて当然だろう。
驚いた両親だったが許可が出た。中学に上がるにあたって習い事が全て一段落したということもある。中学受験をするほど熱心でもなかった家庭だ。やりたいならチャレンジしてみなさい。そんな感じだった。
そうして中学から始めたスケートだったけれど。踏み込んだ世界は思っていた以上に厳しいところだった。
「笹木さん? 久しぶりだけど大丈夫?」
対抗戦の監督役である上里コーチが隣に来ていた。そうやって全員の様子を見て周っているのだろう。まだ話をしたのは数回だけれど優しさがにじみ出ている。歳は三十過ぎだと思うのだけれど。アリスちゃんの年齢から考えるに四十近くてもおかしくない。顔つきは幼く見えるし、ちょっと周りには見かけないタイプで正直照れてしまう。
「大丈夫です。ちょっと久しぶりで戸惑っちゃってますけど」
目の前に与えられた課題があることは素直に嬉しいと思っている。見えない道を探り続けているよりかはずっと気が楽だ。
「今日はゆっくり感覚を思い出していけばいいので、焦らず行きましょう。あっ。それとは別に何かあったらすぐに相談してくださいね」
その言葉に、見当違いな相談をしてもいいのかなと考えてぐっとそれを飲み込む。そんな相談をしてもしょうがない。スケートの話を上里コーチはしているのだ。
「分かりました。ありがとうございます」
スケートの感覚。早々に諦めてしまった自分にそんなものが残っているのかと問いただしたくなる。
初めて自ら始めたことだったのに一年足らずで心が折れたのは周りがあまりにもすごくて、それについていくことが出来なかったからだ。
琥珀さんを始め、レッスンを受けている同世代はもれなく小さい頃からスケートをしている。ジャンプもスピンも。大会だって何度も出て経験を積んでいる。美鶴が一緒に練習するのは始めたばかりの小さい子たちと一緒。それも小さい子たちはどんどんと技を身に着け先へ行ってしまう。そのこと自体に焦りもなかったし。目の間に積まれた課題をこなしていくのは単純に楽しかった。
しかし。見誤っていたのだ。その積み重なれた課題の量と、それをこなすための時間が作れないことに。
選手の大半が小さい頃から習っている。それはやらなければならないこと、覚えなければならないことが多いこと。そう思っている。けれどオリンピックの選手たちみたいに出来ないまでも近くまで行けるのだとそう思っていた。
でも練習時間が限られる。貸切時間はひと枠、一時間半。一般滑走も日によって滑れる時間は限られている。それが美鶴には相性が悪かった。
家での練習もイメージトレーニングをした。それでも圧倒的に経験が足りない美鶴からするとあまり効果的でない時間ばかりが過ぎていった。練習したいのに、課題に取り組みたいのに思うようにできない期間がこんなにもストレスだなんて思いもしなかった。
結果的に一年半。高校受験を控え始めた頃。それが我慢できなくなって止めた。両親に申し訳ないと思いながらも耐えられなかった。決して安くはないスケート靴と、レッスン代。高校生になってからバイトして返すからと半ば泣きそうになりながら両親に頭を下げた。
そんなの気にする必要はない。そう言われて。フィギュアスケートのことを忘れるように必死に受験勉強に打ち込んだ。そうしているうちにちゃんと忘れられた。
それなのに。ここにまた来てしまった。そのことに後悔している訳じゃないけれど不安はつきまとっている。