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作者: 霜月かつろう
ないものねだり その10
「ねー。これ」

 優太くんが手に持ったボールを差し出してきた。商店街のおもちゃ屋さんからもらったビニールボールだ。

「遊んでほしいのか? でもどうやって遊べば」

 ボール一個で出来ることなんて限られている。バットも無ければましてや相手は優太くんだ。キャッチボールだってまだままならない。

「投げて。取って」

 良二ひとりでと言うことだろうか。試しに真上に投げて見る。スケートリンクの控室は貸切練習なのもあって人はいない。天井がそんなに高くないが手加減すると天井までは届かないのでほどほどに力を込める。打ち上がるように飛び上がったボールを見て。優太くんがキャッキャと喜ぶ声がする。視線はボールに集中しているからその姿は見えない。落ちてくるボールをキレイに受け止めることが出来て一安心する。

「たかいー。すごい!」

 思いの外、喜んでくれて良二も嬉しくなる。

「ほら優太。川島くんの邪魔しないの。次は川島くんの番なんだから」

 その言葉に心臓が跳ねる。いくら練習とは言え、曲に合わせての始めての練習だ。どうごけばいいのか必死に反芻して間違えないようにしたくてはと考えれば考えるほど焦る。優太くんの相手をしていて気が紛れたくらいだ。

「まだ練習だし。落ち着いてやればいいよ。ここからなんども合わせていけばいいから」

 上里コーチが氷の上から呼んでいる。他の人の邪魔をしちゃいけないと氷から上がって待っていたところだった。それがいよいよ良二の番というわけだ。

 結局、琥珀の提案通り、アニメ映画の劇中歌を使うことになった。上里コーチはその話を聞いて、なんどか曲を流し続けると。これで大丈夫そうだね。編集しておくよとなんてことない様子だった。

 商店街のメンバーは二分の演技を要求されていた。その時間に合わせて曲を編曲するのだという。上手な選手はプロが編曲するのだがまだ実力もない人たちはコーチがやっているらしい。慣れっこだから大丈夫。そう笑顔の上里コーチの万能さに気後れすらしてしまった。

 優太くんにボールを返すとそのまま氷の上へと向かう。実のところスケートリンクの上にたったひとりというのは経験がない。一緒に練習している人がだれかしらいた。そのみんなも今は氷の外。

 自分だけが立っているその空間に圧倒される。中央に向かえば向かうほどにそれは際立つ。何もない空間だというのにも関わらず圧迫される。

 だって本番はこの状態でたくさんの人達の目にさらされるのだ。想像しただけで今から緊張が止まらない。いや。緊張しているのは今から音楽に合わせて初めて滑るからだ。

 スケートリンクはアイスホッケーやショートトラックのような他の競技のための線や印が氷の中に埋め込まれている。予め上里コーチに指示された場所をそれらを目印にしながら滑る。

 たどたどしいもののようやく前に進むことには慣れてきている。さして困ることなくたどり着ける。氷を削りながらスピードを抑える。

 そして指定されたどおりにポーズを取るのだが、これがまた上手く行かない。棒立ちって言うわけにもいかないのは分かる。さすがに格好がつかない。だから、初心者でも取りやすいポーズを考えてくれたのだが、これもまた簡単ではない。氷の上でジッと動かないでいるのは身体が悲鳴を上げる。

 左手を左ひざに当ててそれと同時に右側に身体を開く。右腕を後ろ斜め上に伸ばす。この腕がキレイに伸ばすようにと口うるさく言われた。

 最初のときにこのポーズをとった自分の写真を見せられて以来、必死に鏡を見ながら練習した。とても人に見せられるものじゃなかったからだ。

 少しは様になっているだろうか。不安で仕方がない、これが音楽合わせの初練習だ。けれどこっからだ。上里コートもそう声をかけてくれた。きっとボロボロの結果になることが見通せているのだろう。ショックを受けないように予め声をかけてくれたんだ。

 それともうひとり。練習前の会話が思い返す。琥珀が声をかけてきてくれた。彼女もきっとボロボロになって落ち込むことを心配してくれいたのだろう。

『私もこの練習のときだけはずっと緊張しっぱなしだったなぁ』

 意外な言葉だった。琥珀のレベルともなれば本番はともかく練習にまでそれを持ち込むとは思っていなかったのだ。

『私は自信がなかったから。自信満々で滑る他のみんなが羨ましかったなぁ。特に香住とか。川島くんって香住と仲よかったもんね。香住のすごさは分かってるか』

 続く言葉も意外過ぎて。表情も変えられないくらい驚いた。
 あの香住が自信満々。そんなはずはない。あれは虚勢のはずだ。少なくとも良二からみた香住はそう見えていた。

 いつもクラスの中心にいるのだってそうしていないと不安だからだ。今日だって琥珀への対抗心だけでわざわざパソコン教室に来たくらいだ。

『香住ってはほんとすごいんだから』

 そう屈託ない笑顔は必死に抵抗しようとする香住とは違うけれど、想いは同じように見えた。

 ないものねだり。

 そんなふうに最近よく思う。確かに自分にないものは羨ましいし。欲しくなる。
 それはみんな変わらない。良二自身だってきっとそうだ。
 まあ。でもこうやって新しいことを始めるだけでずいぶんと自分にないものばかり手に入っている。それも事実だ。やりたいと口にしたことからはどんどんと離れて行ってしまっている気がする。

 WEBデザイナーからパソコン教室。その影響でフィギュアスケートだなんて、信じてすら貰えないくらい突拍子もない。

 それでもなんだか悪い気がしない。それはきっと自分が知らないことばかりが身の回りにあるからだろう。最初は抵抗もあったはずなのだけれど。今はそれを受け入れてしまっている。

 スケートリンク全体に音楽が流れ始める。本番用のスピーカーではない。上里コーチたちが使う練習用の機器だ。本番に比べればあまりにも小さいその機器から飛び出すその曲は良二の鼓動を早めるには十分だ。曲が懐かしさと共に当時の記憶が蘇る。そこには香住も琥珀もいる。挫折も後悔も焦燥感も当時からあったけれど。今思えばそのことに一喜一憂していたのが随分と子どもだったのだ。

 香住も琥珀も。今もなおあの頃の延長線にいる。それは当然なのだけど、なんだかそれを実感できた今日だった。

 ふたりとも変わってない。互いのことを羨ましがって、ないものねだりして。置いていかれてる人たちのことなんてお構いなし。向こうは隣にずっといるつもりなのだろうがこっちからすればふたりはもうずっと先。

 今からでも追いつけるだろうか。いや、これまで隣に立てたことなんてないのだ。

 であればこれからの一歩が隣にたどり着くための一歩になればいいなと思う。音楽に合わせて右足に力を込めて氷を蹴る。

 スーッと滑り始めた足に。人生もこれくらい簡単に前に滑ればいいのに。そうさっそくよくない考えが頭を過ぎった。

『ひねくれてるね』

 記憶の中の琥珀にそう笑われた気がした。
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