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作者: 霜月かつろう
ないものねだり その9
「よっ」
「なんでお前がここに」

 名簿に名前はなかったはずだ。それは朝の習慣で必ず確認しているのだから間違ない。であれば、パソコン教室開始直前のこの時間に香住が目の前にいる理由が分からない。

「琥珀が来ないからってふてくされないでよ。私は良二のためを思ってきてるのよ。まあ、琥珀にお願いされたんだけど。あの子、昔に比べて図々しくなったと思わない? 私に頼み事なんて昔は絶対にしなかったのに」

 そうかもしれない。琥珀は誰にも頼らずひとりで生きていくんだ。そう固く決意していた様にみえた。

「それで頼まれごとって?」
「代わりに授業受けてきてくれって。なんだかんだ言ってお金苦労してるんでしょ? だから私が受けることにしたの。ちょうど生徒たちの名簿作ったりしたかったから。パソコンやらなきゃならないのよ。先生ってば年相応にパソコンとか苦手なのよね。だから私が代わりにやらないといけなくてね」

 聞いてもいないことまでひたすらに喋り続ける香住にどこか違和感を覚える。こんな調子の香住が記憶にいる。あれはいつだったか。

 必死に考えて浮かび上がってきたのは高校生の頃の自分たちだ。その日も香住は輪の中心にいた。それを遠巻きから見ている。やっぱ香住ちゃんて可愛いよな。なんてクラスメイトに同意を求められて曖昧な返事しかできないでいた。

 そこに琥珀がいた記憶はない。そんなはずはないと思う。香住がいるところには琥珀もいた。近づきはしない。でも遠くに離れたりもしない。ふたりともグループには属することはしなかった。おそらくスケートというものがあったからだ。

 授業が終わればふたりで一目散に学校を去っていた。仲良さそうにはしない。けれど共通した目的はふたりを同士にしているように思えてならなかった。

 けれど。思い出した記憶には琥珀はいない。スケートの大会だろうか。いや、でもその場合はふたりともいないはずだった。香住だけいるのはおかしい。

「あっ」
「なによ。急に大きな声出して。脅かさないでよ」
「わりい」

 思い出した。琥珀がいないのは琥珀だけ国体に遠征に行っていたからだ。香住がいるのは代表に選ばれなかったから。その時の香住と同じ感じがするのだ。

「もうすぐ始まるから適当なイスに座って待ってて」

 追い返そうと思っていたのだけれど止めた。きっとなんでもいいから気を紛らわせたいのだ。代表に選ばれなかった時くらいのなにかが。それを良二が知る必要はないと思っている。それが香住との適切な距離。

『なあ。香住ちゃんて良二の幼馴染なんだろ。付き合ったりしないのか』
「ばーか」

 そんなことしないだろ。誰だかとも忘れたクラスメイトに向かって。何年越しかわからない答えをひとり。誰にも聞こえないように返した。

「おはようございます」

 そう続けざまにパソコン教室の受講者たちが集まってきて、昔のことを考える余裕はすぐになくなる。それは香住も同じようだった。琥珀と同レベルのパソコン音痴具合に。マジかよとつぶやきながら、慌ただしく時間が過ぎていった。

「お疲れ様。パソコンって思ったより難しいのね。スマホと違ってめんどくさい」

 講習終わり。みんなが帰る中、香住だけがさも当然のように残っていた。午前中の講習はもうひとつある。しかしそれが始まるまで時間もある。香住がそうしたいのであれば。そうすればいいと思う。

「同じものだと思ってると大変かも。慣れちゃえば簡単だと思うけどね」
「そっか。琥珀とさ。どっちがパソコン上手く使えてた?」

 思いもしない質問にちょっとだけ動揺するが琥珀の様子を思い出して、真摯に答える。

「五十歩百歩。俺から見ればふたりとも変わらないよ。どっちも初心者。始めたて。これからに期待」

 それは本音だ。できればふたりからみた良二のスケートもそうであって欲しいと思う。なにもかもこれから。短い期間で出来るだけ伸ばすことしかできない。

「ふうん。ねえ。私ってさ、琥珀に一生勝てないのかな」

 まさか自分から踏み込んでくるとは思わず。パソコンのキーボードを除菌しいてた手が止まる。

「なんかあったのか?」

 そう聞き返すのが精一杯だ。聞かないわけにはいかない。それは香住との間で始めての距離感。

「先生がね。琥珀の滑りが良くなったって言うのよ。スケートから離れて成長したのかもしれないって。いっつもそう。琥珀、琥珀って。琥珀の話ばっかり。琥珀のように頑張れ。琥珀のように表現しろ。琥珀のみたいになれないのか。ばっかみたいに琥珀のことばっかり。琥珀は先生から離れたっていうのに。私はずっと先生の隣にいたっていうのに。先生は私のことを見てはくれない。そのくせ。先生から離れられないんだから私ってばだめよね。先生から認められないのも当然」

 言いたいことを一気に吐き出したあと。香住は小さく。ごめんね。と謝った。聞こえるか聞こえないくらいの声だ。あえて聞いていないふりをしつつ。そうだろうかと思う。スケートリンクで何度か見かけてはいるが、その先生とやらは香住を随分と信頼しているように見えた。だからこそレッスンを香住に任せている部分もあるだろうに。

 それだけ琥珀と比べられ続けたのだろうし。良二が知らぬところで色々なことがあったのは想像に難くない。そんな香住に向かって気軽にアドバイスなんてできそうにない。気休めでいいからと言葉をかけることもできない。きっとそれは香住を傷つけてしまうから。

「良二も私より琥珀を好きになったもんね」
「それは」

 違うとは言えなかった。でも、比べたこともないのも確かだ。

「それは違うじゃんか。高校の頃、立花さんより香住のほうがモテてたし。香住との間を持てって相談結構受けてたんだぜ」

 焦って何かを言わなきゃと続けた、でもそれは違うんじゃかは自分の方だと気づいたときには手遅れだ。

「まあ。それは事実ね。でもそれじゃあダメなのよ。私はね」

 そうなのだろう。きっと香住が求めているのはそうではないのだ。そして、その求めているものを良二は与えてあげることはきっと出来ない。

「対抗戦は負けないから。絶対に」

 何も言えない良二に対して香住がそう宣言する。きっとそれが今の香住の中での全てだ。

「ああ。俺も頑張るよ」
「あたりまえでしょ。あんたがいたから南口が負けたなんて、琥珀に勝てたってことにならないんだから」

 そう言い残すと香住は出ていった。良二が香住にしてあげられることは精一杯練習すること。それだけかもしれなかった。
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