残酷な描写あり
命を継ぐ町
何も食べず、丸二日間歩き続けたあやめ。
そんな彼女の前に現れた光明。
そんな彼女の前に現れた光明。
三日目の朝。
この世界で目覚めてから最もローテンションな一日の始まりだった。
一度見失った川を再び発見し、飢えを無理やり満たそうとがぶ飲みしたせいで胃が重い。水浴びできたことで風呂の欲求は多少満たされたが、空腹は流石に限界が近い。
空腹は惨めさを加速させる。耳はしなだれ、尾は風に靡くままになっていた。耐えかねて草を食んでみても、あまりの苦さに吐き出してしまう。
そんな時である。
ケモミミのせいか飢えからか、鋭敏になった嗅覚が香ばしい匂いを嗅ぎつけた。調理された食べ物の匂いだ。
距離はまだ遠いが、間違いない。この先に人の住む場所がある。
溢れる涎を理性で抑え、あやめはその方向へ急いだ。
それは、町と言えるほどに大きかった。
建築様式はあやめのいた現代日本とは似ても似つかないもので、彼女にとっては異国情緒あふれるものだ。
バラック小屋よりはしっかりしていそうな石造の家々が立ち並ぶ。切り出した石材を用いた建物だ。石工技術は発展しているように思えたが、少なくとも二十一世紀の地球の一般的なコンクリートを用いた建築方法ではない。
目覚めた場所と比べると、あまりに技術格差が激しく思えた。しかし、これがこの世界の全てとは限らない。
町に外壁らしいものは特になかった。草原の中に石畳を敷いて整地したような町だ。
活気にあふれ、商店らしきものも多かった。看板と思しきものに描かれている文字は、一切読めなかったが。
——アルファベットやキリル文字とは根本的に違う。もちろんかなや漢字、ハングルの類でもない。アラビア文字でもない。やっぱり異世界の文字なのか……。
とはいえ、文字の判別のしやすさはアルファベットに近い気がした。
町の目抜き通りらしい通りに差し掛かる。とれたての野菜や果物を扱う市場や食堂が軒を連ねていた。
食べ物にありつける——そう思ったが、微かな理性が足を止める。
言葉の分からない世界で、どう注文すればいい?
元の世界でスタカフェに行くことすら躊躇していたのに。
そもそも代金は? 払えない。文なしだ。
皿洗いで許してもらえるか? あるいは食い逃げ?
ふと浮かんだ選択肢にぶんぶんと頭を振る。初手犯罪者ムーブはまずい。転落人生待ったなしだ。
鳴るお腹を抱え、俯きながらとぼとぼと歩く。解決策が見当たらぬまま、時が過ぎた。
ゴーンゴーン、と鐘が鳴る。
なんとなしに数を数えれば十三回。自分の足元を見れば影が短い。太陽が真上にある正午だ。
——この世界では十三時がお昼なのか。一日は二十五時間? あれ、二十六時間? いやもう、どうでもいいや……。
噴水の縁に座り込んだあやめ。その耳に、こんな言葉が聞こえてくる。
「ニ イール マンヂ ウドーノ」
——うどん⁉︎
数日前の反省は何処へやら。聞こえた聞き慣れた単語を勝手に解釈し、耳がピコンと跳ね上がる。
話しながら通り過ぎていった二人組を目で追うと、近くの店舗に入っていくのが見える。看板に書かれている文字は読めないが、麺類らしき絵が描かれていた。
——うどんだぁああああ‼︎
目を輝かせ、その店にふらふらっと吸い込まれていくあやめ。店に扉はなく、フードコートのようなオープンテラス席となっていた。
注文する二人を盗み見ていると、「ウドーノ」と言いながら指を二本立てている。うどん——とおぼしきもの——を二人前ということだろうか。
ドキドキしながらあやめも店に入り、カウンターで注文する。
「ううううどどぉぬぉ」
自身のそのあまりにも挙動不審な姿に、あやめは消えたくなった。店のおばさんもポカンとしている。
——こ、このままじゃまずい。
鳴るお腹で恥を捨てた。
「う、うどーの! うどーの!」
と必死に繰り返す。
客観的に自分がどう見られているのか。みすぼらしく裸足でガウン一枚の格好だ。草原を歩いてきたのでどこもかしこも土で汚れている。
見た感じ、店員には獣耳は生えていない。見た目で差別されるかもしれない。
「ラ プレーゾ エスタス ドゥーデククヴィン クプライ モネーロイ」
「うどーの、うどーの」
言葉がわからないため、あやめは繰り返すしかなかった。
「キーア ストランガ インファーノ。エブレ ヴィ ネ ハーヴァス モーノン?」
おばさんは呆れ顔になっていた。こんな客は初めてだという表情である。
「ミ パーゴス ポル ヴィ。ボンヴォール ドーニ チル ミ ドゥ サーマイン」
そこへ、割り込むように話しかけてきたのは巻角のある青年だった。身長はあやめよりも頭ひとつ高い。そのため、自然と見上げる形となった。
あやめの視線に気づいた彼はニコッと笑うと
「ヴェーヌ、ニ マンヂュ クーネ」
と言った。
席につき、うどんのような麺料理を渡してくれる。
「あ、ありがとう」
といって、あやめは箸で食べ始めた。
数日ぶりの食事が体に染み入るようだった。日本のうどんとは異なる味付けだがたいして気にならなかった。これはこれでイケる。何より命を繋いだ食事だ。おいしくないはずもない。
あやめの食べっぷりを満足そうに見ていた青年は、食べながらいくつか質問をしてきた。しかしそのどれもが何を聞かれているのか理解不能で、あやめに答えられるはずがなかった。
その表情で察したのだろう。青年はそれ以上質問することはなく、食事を集中することにしたようだった。
——さっきの店員とのやりとりは、見ていた限りは代金のことだったみたいだ。まー、そりゃそうだよね。でも、いくら請求されてるかもわからんからお金あっても払いようがないんだよ。今後どうしよ。
空腹が満たされるに従って頭が働きだす。するといっぺんに悩み事が増えていくようだった。思わずため息が漏れる。
目覚めた場所に戻るにせよ、ここでしばらく生活するにせよ、言語の習得が最優先に思えた。
——日本語に近い単語があるのには驚きだけど、そんなのはただの偶然だろうねぇ。問題はどうやって言葉を覚えるか、なんだけど。
和訳辞典なんかあるはずもない。だが、看板に文字が書かれているということは、識字率は低くないはずだと思った。カウンターのそばにある黒板には、メニューも文字で書かれている。赤ん坊は生まれた瞬間から文字がわかるわけではないから、読み書きの教育方法があるはずだ、と。
しかし、言語の習得には多少なりとも時間がかかる。その間の衣食住の確保も考えなければならなかった。椀は空になったが、悩みは尽きない。
食べ終わった食器をカウンターに戻して、あやめは改めて青年に礼を言った。
「本当にありがとうございました。助かりました。このご恩はいつかお返しします」
言葉が通じないなりに、頭を下げれば誠意は伝わるだろう。そう思って頭を下げた。
「セ ヴィ ネ ハーヴァス キーエン イーリ、ヴィ ポーヴァス レスティ チェ ミ ドゥム ケルカ テンポ」
と言って、手を差し伸べる。握手ではない。手を取ればどこかへ手を引いていく、そんな感じ。
流石に躊躇した。連れ去られるかもしれない不安がよぎる。
その表情を見て、青年は手を引っ込めて謝罪するような素振りを見せると、改めて自分の胸を掌で叩いて手招きする。怖がらなくていいからついておいで、というように。
一食の恩義を感じているのもあり、無下に断ったり逃げ出すのも憚られた。もし万が一の時は、それこそそのときに逃げ出そうと心に決め、警戒しつつ後をついていくあやめだった。
しばし歩いてたどり着いたのは、青年の家。
——やっぱり家に連れ込まれるかぁ。性行為要求されたらどうしよ……。
そんな心配も裏腹に、使ってない部屋を充てがわれ、部屋の鍵も用意してくれ、風呂にも自由に入って良いと身振り手振りで教えてくれた。
その間、あやめの体に無闇に触れることはもちろん、必要以上に近づくこともなかった。その態度からわかったことは、言葉がわからない以上可能な限り安心させようという気遣いがあったということだ。自分があやめよりも体が大きく、力もある男性であることの脅威をよく理解していることの証左だ。
この世界に来て初めてまともな風呂に入りながら——とはいえ日本にいた頃の風呂とはだいぶ異なるが——随分と真っ当な男もいるもんだと感心する。
——故郷ではどいつもこいつもヤることしか考えてなかったもんな。女は男にとってトロフィみたいなもんでいくつの穴に突っ込んだかってクソみたいなマウントの取り合いを猿どもはしてたわけだけど。
羊のような巻角の青年はどうやら少し違うようだ。いきなり盲目的に信用はできないけれど、家に上がったんだから合意と思ってるやつとは明らかに異なる態度だったのは確かだ。
なんにせよ、これで至急解決しなければならない問題のうち、衣食住の確保はできた。どうやって恩を返すかは未定だが。
——少しだけ信用してみようかな。もし欲情された時の断り方だけは考えておこう……。
風呂から上がったところで言語の習得がしたいと頼んでみようかと思っていたが、どうやら青年はあやめが思う以上に気が回る質のようだ。読み書きのための本とペン、ノートを買ってきていた。
そして笑顔で告げる。
「ミ アンタゥヂョーヤス ラ ターゴン、キーアム ミ ポーヴォス パルォーリ クン ヴィ」
この世界で目覚めてから最もローテンションな一日の始まりだった。
一度見失った川を再び発見し、飢えを無理やり満たそうとがぶ飲みしたせいで胃が重い。水浴びできたことで風呂の欲求は多少満たされたが、空腹は流石に限界が近い。
空腹は惨めさを加速させる。耳はしなだれ、尾は風に靡くままになっていた。耐えかねて草を食んでみても、あまりの苦さに吐き出してしまう。
そんな時である。
ケモミミのせいか飢えからか、鋭敏になった嗅覚が香ばしい匂いを嗅ぎつけた。調理された食べ物の匂いだ。
距離はまだ遠いが、間違いない。この先に人の住む場所がある。
溢れる涎を理性で抑え、あやめはその方向へ急いだ。
それは、町と言えるほどに大きかった。
建築様式はあやめのいた現代日本とは似ても似つかないもので、彼女にとっては異国情緒あふれるものだ。
バラック小屋よりはしっかりしていそうな石造の家々が立ち並ぶ。切り出した石材を用いた建物だ。石工技術は発展しているように思えたが、少なくとも二十一世紀の地球の一般的なコンクリートを用いた建築方法ではない。
目覚めた場所と比べると、あまりに技術格差が激しく思えた。しかし、これがこの世界の全てとは限らない。
町に外壁らしいものは特になかった。草原の中に石畳を敷いて整地したような町だ。
活気にあふれ、商店らしきものも多かった。看板と思しきものに描かれている文字は、一切読めなかったが。
——アルファベットやキリル文字とは根本的に違う。もちろんかなや漢字、ハングルの類でもない。アラビア文字でもない。やっぱり異世界の文字なのか……。
とはいえ、文字の判別のしやすさはアルファベットに近い気がした。
町の目抜き通りらしい通りに差し掛かる。とれたての野菜や果物を扱う市場や食堂が軒を連ねていた。
食べ物にありつける——そう思ったが、微かな理性が足を止める。
言葉の分からない世界で、どう注文すればいい?
元の世界でスタカフェに行くことすら躊躇していたのに。
そもそも代金は? 払えない。文なしだ。
皿洗いで許してもらえるか? あるいは食い逃げ?
ふと浮かんだ選択肢にぶんぶんと頭を振る。初手犯罪者ムーブはまずい。転落人生待ったなしだ。
鳴るお腹を抱え、俯きながらとぼとぼと歩く。解決策が見当たらぬまま、時が過ぎた。
ゴーンゴーン、と鐘が鳴る。
なんとなしに数を数えれば十三回。自分の足元を見れば影が短い。太陽が真上にある正午だ。
——この世界では十三時がお昼なのか。一日は二十五時間? あれ、二十六時間? いやもう、どうでもいいや……。
噴水の縁に座り込んだあやめ。その耳に、こんな言葉が聞こえてくる。
「ニ イール マンヂ ウドーノ」
——うどん⁉︎
数日前の反省は何処へやら。聞こえた聞き慣れた単語を勝手に解釈し、耳がピコンと跳ね上がる。
話しながら通り過ぎていった二人組を目で追うと、近くの店舗に入っていくのが見える。看板に書かれている文字は読めないが、麺類らしき絵が描かれていた。
——うどんだぁああああ‼︎
目を輝かせ、その店にふらふらっと吸い込まれていくあやめ。店に扉はなく、フードコートのようなオープンテラス席となっていた。
注文する二人を盗み見ていると、「ウドーノ」と言いながら指を二本立てている。うどん——とおぼしきもの——を二人前ということだろうか。
ドキドキしながらあやめも店に入り、カウンターで注文する。
「ううううどどぉぬぉ」
自身のそのあまりにも挙動不審な姿に、あやめは消えたくなった。店のおばさんもポカンとしている。
——こ、このままじゃまずい。
鳴るお腹で恥を捨てた。
「う、うどーの! うどーの!」
と必死に繰り返す。
客観的に自分がどう見られているのか。みすぼらしく裸足でガウン一枚の格好だ。草原を歩いてきたのでどこもかしこも土で汚れている。
見た感じ、店員には獣耳は生えていない。見た目で差別されるかもしれない。
「ラ プレーゾ エスタス ドゥーデククヴィン クプライ モネーロイ」
「うどーの、うどーの」
言葉がわからないため、あやめは繰り返すしかなかった。
「キーア ストランガ インファーノ。エブレ ヴィ ネ ハーヴァス モーノン?」
おばさんは呆れ顔になっていた。こんな客は初めてだという表情である。
「ミ パーゴス ポル ヴィ。ボンヴォール ドーニ チル ミ ドゥ サーマイン」
そこへ、割り込むように話しかけてきたのは巻角のある青年だった。身長はあやめよりも頭ひとつ高い。そのため、自然と見上げる形となった。
あやめの視線に気づいた彼はニコッと笑うと
「ヴェーヌ、ニ マンヂュ クーネ」
と言った。
席につき、うどんのような麺料理を渡してくれる。
「あ、ありがとう」
といって、あやめは箸で食べ始めた。
数日ぶりの食事が体に染み入るようだった。日本のうどんとは異なる味付けだがたいして気にならなかった。これはこれでイケる。何より命を繋いだ食事だ。おいしくないはずもない。
あやめの食べっぷりを満足そうに見ていた青年は、食べながらいくつか質問をしてきた。しかしそのどれもが何を聞かれているのか理解不能で、あやめに答えられるはずがなかった。
その表情で察したのだろう。青年はそれ以上質問することはなく、食事を集中することにしたようだった。
——さっきの店員とのやりとりは、見ていた限りは代金のことだったみたいだ。まー、そりゃそうだよね。でも、いくら請求されてるかもわからんからお金あっても払いようがないんだよ。今後どうしよ。
空腹が満たされるに従って頭が働きだす。するといっぺんに悩み事が増えていくようだった。思わずため息が漏れる。
目覚めた場所に戻るにせよ、ここでしばらく生活するにせよ、言語の習得が最優先に思えた。
——日本語に近い単語があるのには驚きだけど、そんなのはただの偶然だろうねぇ。問題はどうやって言葉を覚えるか、なんだけど。
和訳辞典なんかあるはずもない。だが、看板に文字が書かれているということは、識字率は低くないはずだと思った。カウンターのそばにある黒板には、メニューも文字で書かれている。赤ん坊は生まれた瞬間から文字がわかるわけではないから、読み書きの教育方法があるはずだ、と。
しかし、言語の習得には多少なりとも時間がかかる。その間の衣食住の確保も考えなければならなかった。椀は空になったが、悩みは尽きない。
食べ終わった食器をカウンターに戻して、あやめは改めて青年に礼を言った。
「本当にありがとうございました。助かりました。このご恩はいつかお返しします」
言葉が通じないなりに、頭を下げれば誠意は伝わるだろう。そう思って頭を下げた。
「セ ヴィ ネ ハーヴァス キーエン イーリ、ヴィ ポーヴァス レスティ チェ ミ ドゥム ケルカ テンポ」
と言って、手を差し伸べる。握手ではない。手を取ればどこかへ手を引いていく、そんな感じ。
流石に躊躇した。連れ去られるかもしれない不安がよぎる。
その表情を見て、青年は手を引っ込めて謝罪するような素振りを見せると、改めて自分の胸を掌で叩いて手招きする。怖がらなくていいからついておいで、というように。
一食の恩義を感じているのもあり、無下に断ったり逃げ出すのも憚られた。もし万が一の時は、それこそそのときに逃げ出そうと心に決め、警戒しつつ後をついていくあやめだった。
しばし歩いてたどり着いたのは、青年の家。
——やっぱり家に連れ込まれるかぁ。性行為要求されたらどうしよ……。
そんな心配も裏腹に、使ってない部屋を充てがわれ、部屋の鍵も用意してくれ、風呂にも自由に入って良いと身振り手振りで教えてくれた。
その間、あやめの体に無闇に触れることはもちろん、必要以上に近づくこともなかった。その態度からわかったことは、言葉がわからない以上可能な限り安心させようという気遣いがあったということだ。自分があやめよりも体が大きく、力もある男性であることの脅威をよく理解していることの証左だ。
この世界に来て初めてまともな風呂に入りながら——とはいえ日本にいた頃の風呂とはだいぶ異なるが——随分と真っ当な男もいるもんだと感心する。
——故郷ではどいつもこいつもヤることしか考えてなかったもんな。女は男にとってトロフィみたいなもんでいくつの穴に突っ込んだかってクソみたいなマウントの取り合いを猿どもはしてたわけだけど。
羊のような巻角の青年はどうやら少し違うようだ。いきなり盲目的に信用はできないけれど、家に上がったんだから合意と思ってるやつとは明らかに異なる態度だったのは確かだ。
なんにせよ、これで至急解決しなければならない問題のうち、衣食住の確保はできた。どうやって恩を返すかは未定だが。
——少しだけ信用してみようかな。もし欲情された時の断り方だけは考えておこう……。
風呂から上がったところで言語の習得がしたいと頼んでみようかと思っていたが、どうやら青年はあやめが思う以上に気が回る質のようだ。読み書きのための本とペン、ノートを買ってきていた。
そして笑顔で告げる。
「ミ アンタゥヂョーヤス ラ ターゴン、キーアム ミ ポーヴォス パルォーリ クン ヴィ」
次回、第一章【押し付けられた使命】