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作者: 草上アケミ
残酷な描写あり R-15
剣と少女の眠る揺り籠(上)
 夢を見た。

 小さな男の子が、もっと小さな女の子の手を引いて森の中を進んでいた。
 小さいといっても、男の子は女の子よりも身体がずっと大きかったので、女の子は半ば引きずられるようにして歩いていた。

 男の子は女の子の方を見ることもなく、ただ真っ直ぐに森の中を早足で歩いていたが、女の子は後ろが気になるのか時々立ち止まって振り返ろうとしていた。
 けれども、男の子は決して足を止めることも手を離すこともしなかったので、女の子は後ろを確かめることはできなかった――筈だった。



 女の子は振り返らずとも後ろにあるものが分かっていた。

 二人の背後、森の外には集落があった。深い雪に耐えうるどっしりとした暗灰色の煉瓦と石で造られた家屋が並ぶ寒村だ。そこが二人が生まれ育った場所だった。

 突然、集落から断末魔に似た悲鳴が響いた。悲鳴は怒声に掻き消され、さらに悲鳴が上塗りする。
 その集落は、突然の来訪者によって蹂躙されていた。

 全身鎧に身を包んだ騎士の一団が、住民を次々と斬り殺して回っていた。騎士の鎧には月と翼を組み合わせた紋章が刻まれていた。
 住民達も武器を手に取り抵抗していたが、武器の質が余りにも違い過ぎた。過酷な土地で逞しく生きていた人々は、あっけなく魔剣に食いつかれ、命を啜り取られて絶命していった。

 時折、灰色の霧が騎士達を飲み込み無力化させていたが、霧は複数の魔剣に切り払われると散り散りになってしまった。そして、餌食になっていく。

 戦う力のない幼い二人は、唯々逃げるしかなかった。
 早足で逃げながら、時々女の子は不安そうに男の子の顔を見上げた。その度に、男の子の一片たりとも諦めていない表情を見て、女の子は安心してまた前を向いた。



  ほら、見なよ   、あそこに行けば母さんが来てくれるって。



 男の子が森の外を、厚手の手袋を嵌めた手で指さして言った。

 その方向に目を向けて、愕然とした。

 待ち合わせの場所に、『母さん』はまだ到着していなかった。
 しかし、そこには既に『お母様』がいた。

 白い法衣に鮮血の模様を散りばめた、『お母様』の死体が両腕を広げて佇んでいた。もし顔が残っていれば、慈愛に満ちた微笑みを浮かべていたのかもしれない。慈愛、というよく分からない表情を。


 違う、貴女は『お母様』ではない! もう『お母様』の価値を失った!
 そう叫んだが、空気は声を伝えることを拒み、当然沈黙のままでは二人の子供に届くことはなかった。足も一歩として動かず、死体の『お母様』へと駆け寄る二人に耐えかねて顔を伏せることしかできなかった。

――いや、彼女は母親さ。少なくとも、君にとっては、ね。

 誰にも聞こえなかった筈の慟哭へと返す言葉に、はっとして顔を上げた。男の声が聞こえた。低すぎない、耳触りのいい声だった。

 一方的に破壊されていく集落を背景にして、一人の男が立っていた。
 外套は雪のように白く、飾り気がない。長身で、腰に差した大太刀に釣り合う体格だった。顔はよく見えなかったが、青葉のような瑞々しい緑の瞳の周囲で月色の髪が舞い踊っていた。

――普通、子供は親を選べない。でも君は親を選んだ。それは、実は選ばされたのかもしれないけど、君はその運命を受け入れなければならない。

 男の宣告は拒否を許さない厳しい語気を含んでいたが、不思議とすんなり受け入れてしまいそうになる声色だった。まるで親が子を諭すような、押しつけがましい優しさがあった。

 だが、理解できないその不条理に、心はただ拒否を示した。声を出せないままでどうやって示せばよいのか分からなかったが、受け入れるわけにはいかなかった。
 男に拒絶の意思が伝わったようで、困ったように首を傾げた。

――どうか受け入れてほしい。受け入れないと、君は生まれることができないんだから。ほら、どんな生き物にも親がいるじゃないか。

 いつの間にか、頭上からちらほらと灰色の結晶が降ってきていた。雪のような結晶は木々や地面に触れても融けることはなく、白い雪の上に灰色の層を徐々に作っていった。

――生まれ落ちなければ、ずっと君はままだよ。そこにいないまま、誰も救えない。

 次第に周囲も冷え込み、芯まで冷え切った身体を見下ろした。

 なにもなかった。

 動くための足も、掴むための手も、叫ぶための喉すらなかった。子供達に何も届かないのも道理だ。ここにいないのだから。
 冷えたと思ったのは、空気が冷えたのを直に感じていたのに過ぎない。本質的に、自分は此処にはいないのだ。
 だが、此処ではない何処かに行くこともできない。いない筈の此処に縛られているせいだ。

  ぺちゃ、ぺちゃ、ぺちゃ、ぺちゃり

 目の前に赤い球体が転がってきた。白く長い糸飾りをたくさんつけた球体だった。元々は赤色ではなく、赤い液体に塗れているようだ。液体は粘性を持っているようで、転がる度に音が付いてまわった。
 球体からどくどくと流れ出る赤い液体からは湯気が立ち上っていた。冷え切ったこの場所で、唯一の熱をもった物体だった。

  ……うう

 ひょっとすると、その熱で温めれば此処にいられるのではないか、という考えがよぎった。
 その予感に従い、ない腕を伸ばし、ない手を液体に浸すと、そこには手があった。予感は的中した。
 身体を温めて此処にいるために、血塗れの生首を掻き抱こうとさらに腕を伸ばした。

  ……おお

 生首はあの女のものだった。髪と瞳の色以外、全く似ても似つかない顔の、『お母様』だったものだった。
 手の指先が、生首の鼻先に触れた。断面から流れ続けている血は温かいのに、肌は氷のように冷たかった。
 あまりの冷たさに、生首を掴もうとした手を引っ込めてしまう。

  ……おおぉい、リーフううう

 再度、温かい血に手を浸そうと、身体を浸そうと腕を伸ばした。

「みつけた」

 手首に熱が絡みついた。
 見れば一本の腕が雪に覆われた地面から突き出て、手首を掴んでいた。

 その腕は酷い火傷を負っていた。肌は熱で赤く腫れ上がり、表皮が一枚ぺろりと捲れて乾きかけの組織がてらてらとしていた。
 むき出しになった赤と青の血管は弾けとんでしまいそうなほど浮き出て脈動し、血管の終着点である赤黒い爪の中からは、熱湯のような血液が滲み出し、じゅうじゅうと音を立てて泡立っている。まるで、まだ炎の中で焼かれ続けているかのようだった。
 当然腕自体も酷く熱を持っていて、焼けた鉄のように音を立てて手首に張り付いた。

 肉が焼ける激痛に声が漏れた。あれほど熱を求めていたというのに、熱を振り解こうと試みる。
 しかしその腕は手首をしっかりと掴み、下へと引っ張った。

 白と灰色に覆われた大地は、それまでの強固さが嘘だったかのようにずぶりと容易く沈み込んだ。地面の中は生き物の臓物ように温かく、血と涙と憎悪の臭いがした。不快感に鳥肌が立った。
 だが、抵抗する暇も与えず腕は強引に地下へと潜っていき、あっという間に全身が大地に呑み込まれた。

 完全に沈みきる直前、男と目が合った。

 男の宝石のような緑の瞳が、驚きで丸くなるのが見えた。
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