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作者: 唯響-Ion
第六九話 諫干
 伊東がいっていた九州の問題の一つである諫干問題について知るべく、弥勒らは現地を訪れる。
 三組に別れていた六人は合流し、夜に移動を始めた。そして、目的地である有明海付近に到着し、厚東家別荘に宿泊した。およそ、名家の別荘とは思えない、こじんまりとした古民家であった。
 そういう家の方が、弥勒らは都合が良かった。大友一派に目を付けられずに済むからだ。しかしそういう話は、弥勒、巳代、渋川三人の秘密事であった。
「ごめんねぇお客さん方。こーんなちっちゃい家で」
「あんまりこがん家に泊まれんけん嬉しかよ!」
「そりゃあ衣世梨ちゃんはいいやろうけどさぁ。こういう普通っぽいのが好きだろうし」
 五条が普通を好む性格は、周囲に知れ渡っている普遍的事実なのだと、弥勒は悟った。しかし逆に、こうして普通を求めれば求める程、自分が普通の女子高生ではないということを証明してしまうのではないかと、弥勒はそう思った。だが、五条という自由人のことを、そんなに案じる必要も無いのではないかとも思った。彼女自身、それくらいは割り切れているだろうと思ったのだ。
 五条衣世梨という女性は、誰かに心配をされたり、守ってもらいたいと思う弱々しい女性ではないと、弥勒は考えていた。実際、襲われた際は出しゃばりはせず周布のいうことを聞ける程の賢さはある。だが精神的には常に独立していて、それが普通を求めるだけの秋月とは異なる個性と、名家の誇りを大切にしつつも積み上げた名家の仕来りに縛られずに自由を追い求める、他を惹き付けて止まないカリスマ性を作り出しているのだ。
 弥勒は、五条をよく理解出来出来たと思った。彼女を見つめながらそんなことを考えていると、背筋が凍る思いがした。すぐ後方から、鷲頭の鋭い視線が感じられたのだ。その視線には「ジロジロ見るな」という攻撃的な波長が含まれていた。
 弥勒は咄嗟に目線を離し、巳代や渋川と共に、しれっと部屋を出た。

 翌朝、弥勒は目の前に広がる巨大な海に見惚れた。美しかった。自然が豊かな九州でも、まだ海を堪能してはいなかった。
 弥勒は東京湾でさえ、眺める機会はなかった。
「これからこの海に行くんでしょう? 海に触れるなんて初めてだよ、巳代」
「はしゃいで落ちるなよ弥勒。もう夏じゃないんだ。泳げないぜ」
「秋の海でも冷たいの?」
「あとで触ってみな」
 一行は諫早(いさはや)にある鉄の壁、通称ギロチンの許へ向かった。ギロチンは、海苔や魚介類が豊富で宝の海と呼ばれた有明海を、全く漁が出来ない死の海に変えた諫干問題の、元凶となった壁である。
「冷て! あとなんか……クラゲばっかりだね。なんでなのかな、巳代」
「あんま魚がいないと、クラゲが発生しやすくなるんだよ。ビゼンクラゲってやつさ。でもそれじゃあ宝の海とは呼べないのさ」
 有明海は日本有数の漁場だった。
 しかし、清由党政権下で始まった干拓事業で、有明海は変わった。
 有明海の一部である、長崎県諫早市にある諫早湾。ここは水害が多い地域だった。加えて昭和前期の食糧難を解決する為に稲田の拡大をする必要があり、諫早湾に堤防を築き、一部を陸地にする計画が持ち上がった。
 その後食糧難が解決してもなお、巨額の費用を投じたこの計画は形を変えて強行され、遂には国営諫早湾干拓事業(こくえいいさはやわんかんたくじぎょう)として、防災と農地拡大を目的とした堤防と水門が築かれた。
 そして修文元年、遂に水門は閉められ、諫早湾の一部は有明海から切り離された。この時、鉄の板が海へ落とされる姿は強烈であり、人はそれをギロチンと呼んだ。
 その翌年から、有明海の名物であった有明海苔はほとんど実らなくなり、病気にかかることも増えた。またタイラギと呼ばれる高級二枚貝も姿を消し、その他多くの魚介類がその数を減らしていった。
 そもそも有明海は、北東部にある九州有数の大河の筑後川から流れ込むリンや窒素を、反時計回りの潮流が循環することで、栄養が有明海中に分散され、宝の海と呼ばれるほどの漁獲量を得るに至っていた。しかし諫早湾を切り離したことで潮流が上手く循環できなくなり、停滞した栄養がプランクトンを増殖させ、赤潮を引き起こす。そうして有明海は死の海と化してしまったのである。
 干拓事業を始めた頃はそのメカニズムが改名されておらず、この諫干問題は起こってしまったのだ。
 また肝心の農地は作られたものの、水門の内側に作られた調整池は水質が悪く農業に使えず、農地としても不備があり、初めに入植した農家の半分近くが既に撤退をしている始末である。防災面でも過大評価されており、高潮を防ぐ程度の効果しかないのである。
 この問題を解決しようとせず、主に佐賀県の漁師が行う、開門や開門による水質調査の訴えを退けて金銭で和解を測ろうとする清由党の姿勢に、多くの地元民が怒りを覚えていた。
修文元年……1989年。

国営諫早湾干拓事業……有明海の1部である諫早湾に水門を築き、それを閉じることで陸地を増やし水害の防止と農地の拡大を目指した国営事業。
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