第二話 父親
弥勒は心無い悪意に晒されながらも、大会に出場する為努力する。その理由の一つには、去年の大会で出会った女性の存在があった。
大会までの数日間、弥勒(みろく)ら舞楽部の生徒は練習に励んだ。練習をするのは好きだったが、周囲の生徒から向けられる心無い言葉には、腹が立った。
だがそれは言葉というよりも、神通力を通じて直接、心に流れ込んでくる悪意そのものであった。
舞楽(ぶがく)部の生徒が、雅楽(ががく)を演奏するのを背にして舞う中、弥勒(みろく)は心の中で告げた。
「馬鹿にされるのは、いつも主人公だ。僕が誰よりも努力しているから、君らは足を引っ張ることしか出来ないんだろう?」
挑発された生徒らは、動揺した。いつも、なにもいい返さない弥勒(みろく)が、いい返してきたからだ。しかもそれが、大会に向けた予行練習中であり、誰もが予想していない時だったからだ。
演奏が乱れた時、離れた場所から舞を見ていた顧問は再び、鬼の様な目で生徒らを睨んだ。
生徒らは弥勒(みろく)の挑発を顧問へ伝える術もなく、フラストレーションを貯めながら、演奏を終えた。
演奏を乱した生徒らは顧問に折檻されていた。
「皇(すめらぎ)のやつが、俺らを罵ってきたんですよ……!」
「言い訳するな! どうせいつもお前らがしていることをやり返されただけだろう! これ以上、惟神(かんなが)の陵王の邪魔をするな!」
怒号が飛ぶ体育館を抜けて、弥勒(みろく)は石造りの階段に腰を下ろした。
「これで多少は、大人しくなってくれたらいいけど……」
夏休みの前、汗をかいた体に触れる風がやけに涼しく、心地よかった。
もはや、生徒らから向けられる悪意や嫉妬など、どうでもよくなっていた。
弥勒(みろく)は今回の大会に、誰よりも真剣に臨んでいた。関東の選抜を抜けて、秋に行われる全国大会に行きたい理由が二つ、彼にはあった。
それは、厳格な父の皇正仁(すめらぎまさひと)の目から逃れて遠征に行ける機会だからという理由と、会いたい人がいるからという理由であった。
「あの人……綺麗だったな」
それは、舞楽部のオーケストラである雅楽で演奏をしていた女性だった。その音は聴こえていなかったが、誰よりも真剣に演奏をする気持ちは、神通力によって美しい波長として、彼に届いていた。
美しい女性が真剣に取り組むその波長は、音のない世界に響いた、たった一つの優美な音色であった。
「博雅三位(はくがのさんみ)とはあなたのことをいうのだろうか……なんてね」
その日の夜、帰宅後の弥勒(みろく)は、召使いから居間に来るようにといわれた。
「誰かお客さんでも来たの?」
「いいえお坊ちゃま。旦那様がお呼びなのです」
「お父さんが? もう帰ってたなんて、今日は早いんだね」
「いつもはまだお仕事をされていますものね。なにやらお急ぎの様なので、さぁお早く」
父正仁は、家に居ないことが多い人だった。職種を聞かれれた時は、難しいと感じる。政治家というべきか、宗教家というべきか、あるいは帝の側近とでもいうべきか。
正仁(まさひと)は惟神(かんながら)学園が属する惟神庁(かんながらちょう)の長官であり、規律を重んじる厳かな人だ。急ぎで呼び出されるとなれば、心当たりにあるのは、新宿や渋谷へ遊びに行きたいなどと、楓と話したことぐらいしかなかった。
大理石でできた長い廊下を通り、居間に入る。するとそこには、電話をしながら待つ父正仁の姿があった。
「そうか……また北側で起きたのか。早く大友を黙らせられる様に手を打たねばな」
正仁(まさひと)は弥勒(みろく)がやってきたことに気づくや否や、颯爽と電話を切った。
「弥勒(みろく)、そこに座りなさい。大事な話があるんだ」
恐る恐るソファに座った弥勒(みろく)だったが、なんとなく、自分が原因で呼び出された訳では無いと感じた。それは、父正仁が電話を切った後、少し気を使う様な笑顔を見せたからだった。
「今日は早いんだね、お父さん」
「あぁ。この頃は特に忙しくてね。だが今日は……」
眉にシワを刻み、妙になにかいいにくそうな顔をした後、正仁はわざとらしく咳をした。
「最近はどうだ、神通力のコントロールは上手くいっているのか?」
「今までよりは上手くなってるよ。言葉は聞こえないけど、意志の波長を受け取る時に、余計に集中しすぎたり、雑念が混じったりはしにくくなってきてるよ。でも少し……」
「どうした、いいにくいことか?」
「いや……まぁコントロールが完璧じゃないから、周囲の人をゾワゾワさせちゃうみたいでさ」
オブラートに包んだいい方になってしまったが、周囲に不快な思いをさせてしまっているということは、伝わるだろうと、弥勒(みろく)は思った。
無言になった。気まずさを誤魔化そうとして弥勒(みろく)は「舞楽に集中したいから、どうでもいいんだけどね。大会も近いし」といった。
正仁(まさひと)は黙りきっていた。
他者の不快感をどうでもいいなどと吐き捨てるのは、悪手だったか。だが父親はそこまで鈍感ではないだろう。十七年も育ててきた息子が、本気でそんなことを吐き捨てる様な人間では無いことぐらい、分かるはずだろうという信頼は、確かにあった。
だが尚も黙る父親に対し、弥勒(みろく)は少しばかりの焦りを感じた。
そしてやっと口を開いた父はいった。
「舞楽部の大会はなしだ」
重々しい言葉に、弥勒(みろく)は唖然とした。
だがそれは言葉というよりも、神通力を通じて直接、心に流れ込んでくる悪意そのものであった。
舞楽(ぶがく)部の生徒が、雅楽(ががく)を演奏するのを背にして舞う中、弥勒(みろく)は心の中で告げた。
「馬鹿にされるのは、いつも主人公だ。僕が誰よりも努力しているから、君らは足を引っ張ることしか出来ないんだろう?」
挑発された生徒らは、動揺した。いつも、なにもいい返さない弥勒(みろく)が、いい返してきたからだ。しかもそれが、大会に向けた予行練習中であり、誰もが予想していない時だったからだ。
演奏が乱れた時、離れた場所から舞を見ていた顧問は再び、鬼の様な目で生徒らを睨んだ。
生徒らは弥勒(みろく)の挑発を顧問へ伝える術もなく、フラストレーションを貯めながら、演奏を終えた。
演奏を乱した生徒らは顧問に折檻されていた。
「皇(すめらぎ)のやつが、俺らを罵ってきたんですよ……!」
「言い訳するな! どうせいつもお前らがしていることをやり返されただけだろう! これ以上、惟神(かんなが)の陵王の邪魔をするな!」
怒号が飛ぶ体育館を抜けて、弥勒(みろく)は石造りの階段に腰を下ろした。
「これで多少は、大人しくなってくれたらいいけど……」
夏休みの前、汗をかいた体に触れる風がやけに涼しく、心地よかった。
もはや、生徒らから向けられる悪意や嫉妬など、どうでもよくなっていた。
弥勒(みろく)は今回の大会に、誰よりも真剣に臨んでいた。関東の選抜を抜けて、秋に行われる全国大会に行きたい理由が二つ、彼にはあった。
それは、厳格な父の皇正仁(すめらぎまさひと)の目から逃れて遠征に行ける機会だからという理由と、会いたい人がいるからという理由であった。
「あの人……綺麗だったな」
それは、舞楽部のオーケストラである雅楽で演奏をしていた女性だった。その音は聴こえていなかったが、誰よりも真剣に演奏をする気持ちは、神通力によって美しい波長として、彼に届いていた。
美しい女性が真剣に取り組むその波長は、音のない世界に響いた、たった一つの優美な音色であった。
「博雅三位(はくがのさんみ)とはあなたのことをいうのだろうか……なんてね」
その日の夜、帰宅後の弥勒(みろく)は、召使いから居間に来るようにといわれた。
「誰かお客さんでも来たの?」
「いいえお坊ちゃま。旦那様がお呼びなのです」
「お父さんが? もう帰ってたなんて、今日は早いんだね」
「いつもはまだお仕事をされていますものね。なにやらお急ぎの様なので、さぁお早く」
父正仁は、家に居ないことが多い人だった。職種を聞かれれた時は、難しいと感じる。政治家というべきか、宗教家というべきか、あるいは帝の側近とでもいうべきか。
正仁(まさひと)は惟神(かんながら)学園が属する惟神庁(かんながらちょう)の長官であり、規律を重んじる厳かな人だ。急ぎで呼び出されるとなれば、心当たりにあるのは、新宿や渋谷へ遊びに行きたいなどと、楓と話したことぐらいしかなかった。
大理石でできた長い廊下を通り、居間に入る。するとそこには、電話をしながら待つ父正仁の姿があった。
「そうか……また北側で起きたのか。早く大友を黙らせられる様に手を打たねばな」
正仁(まさひと)は弥勒(みろく)がやってきたことに気づくや否や、颯爽と電話を切った。
「弥勒(みろく)、そこに座りなさい。大事な話があるんだ」
恐る恐るソファに座った弥勒(みろく)だったが、なんとなく、自分が原因で呼び出された訳では無いと感じた。それは、父正仁が電話を切った後、少し気を使う様な笑顔を見せたからだった。
「今日は早いんだね、お父さん」
「あぁ。この頃は特に忙しくてね。だが今日は……」
眉にシワを刻み、妙になにかいいにくそうな顔をした後、正仁はわざとらしく咳をした。
「最近はどうだ、神通力のコントロールは上手くいっているのか?」
「今までよりは上手くなってるよ。言葉は聞こえないけど、意志の波長を受け取る時に、余計に集中しすぎたり、雑念が混じったりはしにくくなってきてるよ。でも少し……」
「どうした、いいにくいことか?」
「いや……まぁコントロールが完璧じゃないから、周囲の人をゾワゾワさせちゃうみたいでさ」
オブラートに包んだいい方になってしまったが、周囲に不快な思いをさせてしまっているということは、伝わるだろうと、弥勒(みろく)は思った。
無言になった。気まずさを誤魔化そうとして弥勒(みろく)は「舞楽に集中したいから、どうでもいいんだけどね。大会も近いし」といった。
正仁(まさひと)は黙りきっていた。
他者の不快感をどうでもいいなどと吐き捨てるのは、悪手だったか。だが父親はそこまで鈍感ではないだろう。十七年も育ててきた息子が、本気でそんなことを吐き捨てる様な人間では無いことぐらい、分かるはずだろうという信頼は、確かにあった。
だが尚も黙る父親に対し、弥勒(みろく)は少しばかりの焦りを感じた。
そしてやっと口を開いた父はいった。
「舞楽部の大会はなしだ」
重々しい言葉に、弥勒(みろく)は唖然とした。
続きが気になると思って頂けましたら、いいねやコメントをお願いいたします!