残酷な描写あり
2.高楼の雲上人たち-1
そして、王宮に行く当日。
ルイフォンは、『ルイリン』へと変貌を遂げた。
その出来栄えは、メイシアが口元に手を当て、うっすらと頬を上気させたことから、申し分ないものといえるのだろう。
「ね? 可愛いでしょう? 本当は、スカートのほうが女の子っぽく見えるんだけど、足さばきを考えて、スカンツにしてみたのよ。これなら、歩き方に、そんなに気を配らなくていいでしょう?」
自慢げに講釈を垂れるのは、勿論、ユイランである。
彼女の言う通り、ルイフォンは、見た目はスカートみたいにひらひらしているのに、内部構造はズボンという不可思議な下衣を着せられていた。
そして、上衣に大胆にドレープを効かせたブラウスを選んだことで、胸元に変な詰め物をせずに済ませている。シャオリエの娼館で、無理矢理に女物の服を着せられたときよりも、格段に着心地がよく、また動きやすかった。
ユイランは、ルイフォンを着飾ることを楽しんではいたが、それでも、おおいに気を遣ってくれたのだ。相手の気持ちを汲んだ専門家として、明らかな女物を使用せず、男女兼用衣装といえなくもない路線でまとめてくれた。
……なのに、鏡に映ったルイフォンの姿は、華奢で儚げな美少女にしか見えなかった。
細身ではあっても、ルイフォンだって、それなりの体格であるはずなのだ。現に、女物であるセレイエのペンダントは鎖が短く、彼が着けるとまるで首輪のようであったため、長いものと取り替え、充分な緩みをもたせた。そのせいで、なおのこと『華奢な首周り』という目の錯覚が起きてしまっていることも、事実なのであるが……。
姿見の前で絶句したまま、ルイフォンは立ち尽くす。
彼の衝撃を理解しているメイシアは、沈黙を保ってくれた。どんなに感動に震えた顔をしていたとしても、口元は閉ざされたままであった。
しかし、『仕立て屋を仲介した貴族』の屋敷から、『怪我で移動が難しい主人の代わりに、責任をもって見届けに来た』と言って現れた使用人は、主人への報告に必要だからと、遠慮なくシャッター音を鳴り響かせていた。
燦然と輝く白亜の王宮を前に、さすがのルイフォンも、ごくりと唾を呑んだ。
天を衝くような高楼は、まさに『天空神の代理人』の居城にふさわしい。
神を讃える創世神話が、虚飾にまみれた戯言と知っている身としては、雲を戴くまでに伸ばされた尖塔は、実に滑稽に思える。しかし、視点を変え、この威容は権力の象徴なのだと考え直すと、笑い飛ばすこともできないのが現実だった。
「それじゃあ、行きましょう」
隣に立つユイランが、涼やかに告げる。
彼女もまた緊張の面持ちであったが、どことなく好戦的な笑みをたたえていた。銀髪の穏やかそうな婦人に見えても、彼女は大華王国一の凶賊、鷹刀一族の中枢を担う人物。こんなところで怯んだりはしないらしい。
「ああ、行こうぜ」
ルイフォンは腹に力を込める。その途端、ユイランが顔をしかめた。
「ルイリンちゃん、言葉遣いは丁寧にね?」
「あ……」
どっと気が重くなる。
そんなルイフォンに、くすりとして、ユイランは指定された通用口へと向かう。――貴族のハオリュウが一緒ならまだしも、仕事を請け負っただけの平民であるので、当然のことながら正面玄関ではないのだ。
門衛の近衛隊員に、恭しく身分証明書を提示するユイランの後ろから、ルイフォンも『仕立て屋の助手』らしく、ひと抱えもある仕事鞄を担いで歩く。
荷物の大きさのためか、淑女らしからぬ動きで門を通過しても、彼が疑われることはなかった。それどころか、近衛隊員のひとりが、爽やかな笑顔で声を掛けてきた。
「お嬢さん、足元にお気をつけくださいね」
熱を感じる視線に見送られ、ルイフォンは王宮へと足を踏み入れた。
案内の官吏に連れられて、ルイフォンとユイランは、天空神の彫刻された一枚板の扉の前にたどり着く。
「こちらの部屋に、女王陛下とヤンイェン殿下がいらっしゃいます」
低く申し渡された声に、ユイランは恐縮したように顔を伏せた。それを見て、ルイフォンも慌てて倣う。ひと呼吸、遅れてしまったが、未熟な若い助手らしくてよいだろう。
頭を垂れたまま、ルイフォンは扉の向こうの気配を探る。武術は今ひとつの彼には、正確な人数を読み取ることはできないが、どうやら女王とヤンイェンの他に数人の侍女が控えているようだ。
だいたい予測通り。
ここから、ヤンイェンとふたりきりで話せる状況を作り出すためには、ヤンイェンの協力が必要だが……なんとかなるだろう。そのためのセレイエに似せた女装だ。
「くれぐれも、粗相のないように」
官吏は高飛車に念を押すと、扉を叩き、仕立て屋が到着した旨を室内に伝える。
「案内、ご苦労。あなたは下がって構いません」
聞こえてきた声は、女性のものではなかった。
間に壁を隔てているためにか、くぐもってはいるものの、麗らかな日和を思わせる、ゆったりとした蠱惑の音律。雰囲気は違えど、その声質は、盗聴で聞いたことのある摂政カイウォルのそれに酷似していた。
ヤンイェンだ。
察すると同時に、鞄を持つ手に汗がにじみ、ルイフォンの胸が高鳴る。
小さな足音がして、侍女が扉を開けた。嗅ぎ慣れない匂いが流れてきて、鼻腔をくすぐる。詳しくは知らないが、貴人の部屋で焚かれる香というやつだろう。メイシアから聞いたことがある。
「面を上げなさい」
先ほどの男の声が、今度は明瞭に響き渡った。
「藤咲家から推薦された仕立て屋ですね。ご足労、感謝します。――どうぞ、お入りなさい」
ユイランが動くのを確認してから、ルイフォンも顔を上げた。前に立つユイランの肩越しに見えたのは、天鵞絨張りの豪奢な椅子が二脚。
揃いの席に座るのは、対照的なふたりだった。
白金の髪を胸元に垂らし、青灰色の瞳を伏し目がちに揺らす、透き通った白い肌の少女。そして、彼女の影のように付き従いながらも、その存在感は隠しようもなく、むしろ少女の静けさを補うかのように典麗な微笑を浮かべる、黒髪黒目の大人の男性。
「お会いできるのを楽しみにしていましたよ」
名乗らなくても分かる。彼がヤンイェンだ。
緩やかにまとめられた、やや長めの黒髪からは、柔らかな印象を受けた。整った顔立ちは、やはり摂政に似ている。表向きは従兄弟、実際には異母兄弟の間柄なのだから当然だろう。
しずしずと歩を進めるユイランのあとを、ルイフォンもできるだけ小股に追っていく。
女王とヤンイェン、それから後ろに控えた侍女たちの目線は、ユイランひとりに注がれていた。若き藤咲家の当主に大抜擢された仕立て屋が、注目を集めるのは道理。助手のことなど気にもとめない。
ルイフォンの姿が視界をかすめても、やや高齢の母を手伝い、娘が荷物持ちをしているのだと思うだけだろう。鷹刀の色合いを全面に出した今の装いのルイフォンが、生粋の一族であるユイランと並べば、ふたりは母娘にしか見えないのだから。
しかし。
途中で、ひとつの視線が動いた。――ヤンイェンである。
彼は驚愕の表情で目を見開き、ルイフォンの顔を、そして胸元のペンダントを凝視する。期待通りの反応に、ルイフォンは内心で喜色を浮かべ、すかさず『話がある』と目配せをした。
それが通じたのか否かは、分からない。ただ、ルイフォンには、ヤンイェンが首肯するかのように、わずかに瞼を伏せたように思えた。
やがて、部屋の中ほどで、ユイランが歩みを止めた。
「陛下。此度は私めに、陛下のお衣装をお作りするという大役をお与えくださり、誠にありがとうございます」
国王の御前に出た仕立て屋として、彼女は平伏し、口上を述べる。ルイフォンも、今度は遅れないように叩頭する。
さて、ここからは、しばらく形式的なやり取りだ。今までの様子から推測するに、ユイランとヤンイェンの間で話が進むのだろう。退屈だからといって、ボロを出さないよう、神妙な顔をしていなければ、とルイフォンは気を引き締める。
部屋に入った瞬間から――否、それ以前から分かっていたことだが、女王はお飾りだ。
政は王兄である摂政カイウォルに任せ、今だって、仕立て屋への対応を婚約者のヤンイェンにすべて委ねている。先ほどから俯いたまま、ひとこともないのが、その証拠だ。
『白金の髪、青灰色の瞳』という、〈神の御子〉の容姿のみを求められて玉座に就いた王なのだから、仕方がないのだろう。その一方で、可憐なる綺羅の美貌は疑いようもなく、信仰の対象としての国民の人気は高いので、むしろ、きちんと役割を果たしている、といえなくもない。
ともあれ、女王を放置して、ヤンイェンとふたりで別室に移るのは、容易ではなさそうだ。今更のようだが、計画に無理があったかもしれない。
ルイフォンは下を向いたまま、渋面を作る。
ヤンイェンと言葉を交わすことができなかったときのために、手紙も用意してきた。しかし、せっかく王宮まで乗り込んできたのだ。ここで諦めるなんて――。
女王……、使えねぇ……!
口に出そうものなら、不敬罪でしょっぴかれること間違いなしのぼやきが、ルイフォンの脳裏を駆け巡る。
そういえば、ハオリュウが婚礼衣装担当家の当主として女王に謁見したとき、彼女は浮かない顔のまま、まともに言葉を発さなかったと言っていた。今回も、そうなるというのか。
焦りと共に、苛立ちが胸中を渦巻く。
そのとき――。
ルイフォンのギスギスとした感情とは正反対のような、ヤンイェンの柔らかな音律が頭上から落ちてきた。
「堅苦しい挨拶は、このくらいにしましょう。どうぞ、楽になさってください」
それはつまり、顔を上げてよいということか?
ルイフォンは思考を戻し、ユイランの様子を盗み見する。――どうやら、それでよさそうだ。
再び、視界に戻ってきたヤンイェンの端麗な面差しは、朗らかに笑んでおり……なのに、どこか飄々としていた。
「服飾会社の『草薙』の噂は、私の耳にも届いていますよ。藤咲の若き当主が、領地の絹織物産業を盛り立てるために提携を結んだ、気鋭の会社だと」
「滅相もございません」
ユイランが畏まり、謙遜する。ルイフォンの気持ちとしては、こんな世辞など面倒臭い、さっさと本題に入れ、と歯噛みしたいところなのであるが、表向きは粛々とユイランに追従した。
すると、ヤンイェンが軽く口元に手を当て、「世辞ではありませんよ」と、実に上品に喉を鳴らす。
「若い女性の流行に疎い私でも、草薙の絹の髪飾りが、身分を問わず人気を集めていることくらい知っていますよ。初めは庶民の品だと軽んじていた上流階級の令嬢たちでさえ、今や、こぞって買い求め、それに似合う服を新調しているとか。――ほら」
蠱惑の音律が、誘うように響いた。
「陛下の御髪をご覧ください」
長い指先が動き、女王を示す。ルイフォンとユイランは、惹き込まれるように目線を移し、息を呑んだ。
白金の髪をふわりと揺らしながら、女王が横を向いた。その流れに乗るように、後ろで留められていた緑のリボンがたなびく。
「恐れ多くも、陛下が……!?」
ユイランが絶句し、血相を変えた。
「恐悦至極に存じます……!」
感嘆と共に、再び平身低頭するユイランに、ルイフォンも慌てて続く。
なんとも意外な展開だった。
これから服を依頼する仕立て屋に、気持ちよく仕事をしてもらうために、ほんの少し配慮をする、というのはよくある話だ。しかし、絶対君主であるはずの女王に、それは必要ないだろう。しかも、彼女は今ひとつ愚鈍……と言ってはさすがに失礼だが、聡明さに欠ける女王なのだ。
ヤンイェンの入れ知恵か?
ルイフォンがそう思ったとき、ヤンイェンが女王に視線を送った。その次の刹那、まるで、天界の琴が弾かれたかのような、細く高い、妙なる音色が奏でられた。
「こ、この髪飾りは、私が頼んで買ってきてもらったものなの!」
「!?」
威厳の欠片もない、国王にあるまじき口調と内容に、ルイフォンは耳を疑った。
ただし、声だけを聞けば、天上の音楽と評しても差し支えないほどの美しさ。これが、女王の第一声だった。
唖然とする仕立て屋一行に、女王は今の台詞だけでは不充分だと気づいたのだろう。しどろもどろに付け加える。
「今日のために、じゃなくて。もう、随分と前に手に入れたのよ。私も、人気の髪飾りが欲しくて、侍女に無理を言ってお願いしたの。――だから、顔を上げて」
「陛下……。ありがとうございます」
戸惑いつつも、ユイランが嬉しそうに微笑む。
女王の言葉に従い、ルイフォンも体を起こせば、今まで伏し目がちだった青灰色の瞳が、まっすぐにユイランを見つめていた。
本当に青い瞳なのだな、と。今更のように、間の抜けた感想を抱く。ついでに、この瞳の色ならば、髪飾りは緑ではなくて青系統のほうが似合うだろうに、などと余計なことを思った。
だが、それは仕方がなかったのだろう。女王が『人気の髪飾り』を所望したのなら、侍女はまず緑を選ぶ。何故なら、一番初めに売り出され、今も根強い人気の商品が『森の妖精』をイメージした緑色の髪飾りだからだ。
「あのね、髪飾りだけじゃないの。ずっと、あなたの作る服を着てみたかったのよ」
「陛下!?」
驚嘆するユイランに、女王は言葉を重ねる。
「だから、藤咲の当主があなたを抜擢したとき、とても嬉しかったの。カイウォルお兄様……っ、……摂政カイウォルは、伝統を重んじ、老舗の仕立て屋の中から選び直すべきだと主張したのだけど、私、譲らなかったのよ」
女王は胸を張り、花がほころぶような愛らしさで笑う。
「『私は、王命において、藤咲の当主に衣装担当を任じました。その藤咲の人選を覆すのは、王として恥ずべき行為です』って正論をぶつけて、あのお兄様……摂政の意見を退けたのよ」
誇らしげな女王に、ルイフォンは、ぽかんと口を開けた。
彼女が、本心からユイランを歓迎していることは分かった。だが、一国の王に『伝家の宝刀で兄を言い負かした』と、自慢――もとい、告白された気がする……。
今までの女王に対する印象が、がらがらと音を立てて崩れていく。
どうやら、悪い子ではないらしい。自国の王に向かって『子』と表現するのは如何なものかと思うが、この女王は、良くも悪くも、ごく普通の女の子だ。――少しだけ、厚顔無恥の。
兄との仲は悪くはなさそうであるが、少々、煙たがっている節が見える。おそらく、公式の場で、彼女が沈黙するのは、彼女があまりにも王族の威信というものから掛け離れているため、余計なことを言うなと、兄に諫言されているためだろう。『陛下は恋に憧れているような、普通の夢見る少女だ』という摂政の弁も、あながち作り話ではないのかもしれない。
「陛下」
なんとも珍妙な空気となった部屋に、蠱惑の音律が響き渡る。
「せっかく憧れの仕立て屋に会えたのですから、少しご歓談されるとよいでしょう。事務的な手続きは、私が別室で、助手の方と済ませておきますから」
「!」
ヤンイェンが、ルイフォンとふたりきりになれる場を設けた――!
猫の目を見開くと、その視界に、麗らかに微笑むヤンイェンの美貌が映り込む。
そして、ルイフォンはヤンイェンに促されるままに、続き部屋へと移ったのだった。
ルイフォンは、『ルイリン』へと変貌を遂げた。
その出来栄えは、メイシアが口元に手を当て、うっすらと頬を上気させたことから、申し分ないものといえるのだろう。
「ね? 可愛いでしょう? 本当は、スカートのほうが女の子っぽく見えるんだけど、足さばきを考えて、スカンツにしてみたのよ。これなら、歩き方に、そんなに気を配らなくていいでしょう?」
自慢げに講釈を垂れるのは、勿論、ユイランである。
彼女の言う通り、ルイフォンは、見た目はスカートみたいにひらひらしているのに、内部構造はズボンという不可思議な下衣を着せられていた。
そして、上衣に大胆にドレープを効かせたブラウスを選んだことで、胸元に変な詰め物をせずに済ませている。シャオリエの娼館で、無理矢理に女物の服を着せられたときよりも、格段に着心地がよく、また動きやすかった。
ユイランは、ルイフォンを着飾ることを楽しんではいたが、それでも、おおいに気を遣ってくれたのだ。相手の気持ちを汲んだ専門家として、明らかな女物を使用せず、男女兼用衣装といえなくもない路線でまとめてくれた。
……なのに、鏡に映ったルイフォンの姿は、華奢で儚げな美少女にしか見えなかった。
細身ではあっても、ルイフォンだって、それなりの体格であるはずなのだ。現に、女物であるセレイエのペンダントは鎖が短く、彼が着けるとまるで首輪のようであったため、長いものと取り替え、充分な緩みをもたせた。そのせいで、なおのこと『華奢な首周り』という目の錯覚が起きてしまっていることも、事実なのであるが……。
姿見の前で絶句したまま、ルイフォンは立ち尽くす。
彼の衝撃を理解しているメイシアは、沈黙を保ってくれた。どんなに感動に震えた顔をしていたとしても、口元は閉ざされたままであった。
しかし、『仕立て屋を仲介した貴族』の屋敷から、『怪我で移動が難しい主人の代わりに、責任をもって見届けに来た』と言って現れた使用人は、主人への報告に必要だからと、遠慮なくシャッター音を鳴り響かせていた。
燦然と輝く白亜の王宮を前に、さすがのルイフォンも、ごくりと唾を呑んだ。
天を衝くような高楼は、まさに『天空神の代理人』の居城にふさわしい。
神を讃える創世神話が、虚飾にまみれた戯言と知っている身としては、雲を戴くまでに伸ばされた尖塔は、実に滑稽に思える。しかし、視点を変え、この威容は権力の象徴なのだと考え直すと、笑い飛ばすこともできないのが現実だった。
「それじゃあ、行きましょう」
隣に立つユイランが、涼やかに告げる。
彼女もまた緊張の面持ちであったが、どことなく好戦的な笑みをたたえていた。銀髪の穏やかそうな婦人に見えても、彼女は大華王国一の凶賊、鷹刀一族の中枢を担う人物。こんなところで怯んだりはしないらしい。
「ああ、行こうぜ」
ルイフォンは腹に力を込める。その途端、ユイランが顔をしかめた。
「ルイリンちゃん、言葉遣いは丁寧にね?」
「あ……」
どっと気が重くなる。
そんなルイフォンに、くすりとして、ユイランは指定された通用口へと向かう。――貴族のハオリュウが一緒ならまだしも、仕事を請け負っただけの平民であるので、当然のことながら正面玄関ではないのだ。
門衛の近衛隊員に、恭しく身分証明書を提示するユイランの後ろから、ルイフォンも『仕立て屋の助手』らしく、ひと抱えもある仕事鞄を担いで歩く。
荷物の大きさのためか、淑女らしからぬ動きで門を通過しても、彼が疑われることはなかった。それどころか、近衛隊員のひとりが、爽やかな笑顔で声を掛けてきた。
「お嬢さん、足元にお気をつけくださいね」
熱を感じる視線に見送られ、ルイフォンは王宮へと足を踏み入れた。
案内の官吏に連れられて、ルイフォンとユイランは、天空神の彫刻された一枚板の扉の前にたどり着く。
「こちらの部屋に、女王陛下とヤンイェン殿下がいらっしゃいます」
低く申し渡された声に、ユイランは恐縮したように顔を伏せた。それを見て、ルイフォンも慌てて倣う。ひと呼吸、遅れてしまったが、未熟な若い助手らしくてよいだろう。
頭を垂れたまま、ルイフォンは扉の向こうの気配を探る。武術は今ひとつの彼には、正確な人数を読み取ることはできないが、どうやら女王とヤンイェンの他に数人の侍女が控えているようだ。
だいたい予測通り。
ここから、ヤンイェンとふたりきりで話せる状況を作り出すためには、ヤンイェンの協力が必要だが……なんとかなるだろう。そのためのセレイエに似せた女装だ。
「くれぐれも、粗相のないように」
官吏は高飛車に念を押すと、扉を叩き、仕立て屋が到着した旨を室内に伝える。
「案内、ご苦労。あなたは下がって構いません」
聞こえてきた声は、女性のものではなかった。
間に壁を隔てているためにか、くぐもってはいるものの、麗らかな日和を思わせる、ゆったりとした蠱惑の音律。雰囲気は違えど、その声質は、盗聴で聞いたことのある摂政カイウォルのそれに酷似していた。
ヤンイェンだ。
察すると同時に、鞄を持つ手に汗がにじみ、ルイフォンの胸が高鳴る。
小さな足音がして、侍女が扉を開けた。嗅ぎ慣れない匂いが流れてきて、鼻腔をくすぐる。詳しくは知らないが、貴人の部屋で焚かれる香というやつだろう。メイシアから聞いたことがある。
「面を上げなさい」
先ほどの男の声が、今度は明瞭に響き渡った。
「藤咲家から推薦された仕立て屋ですね。ご足労、感謝します。――どうぞ、お入りなさい」
ユイランが動くのを確認してから、ルイフォンも顔を上げた。前に立つユイランの肩越しに見えたのは、天鵞絨張りの豪奢な椅子が二脚。
揃いの席に座るのは、対照的なふたりだった。
白金の髪を胸元に垂らし、青灰色の瞳を伏し目がちに揺らす、透き通った白い肌の少女。そして、彼女の影のように付き従いながらも、その存在感は隠しようもなく、むしろ少女の静けさを補うかのように典麗な微笑を浮かべる、黒髪黒目の大人の男性。
「お会いできるのを楽しみにしていましたよ」
名乗らなくても分かる。彼がヤンイェンだ。
緩やかにまとめられた、やや長めの黒髪からは、柔らかな印象を受けた。整った顔立ちは、やはり摂政に似ている。表向きは従兄弟、実際には異母兄弟の間柄なのだから当然だろう。
しずしずと歩を進めるユイランのあとを、ルイフォンもできるだけ小股に追っていく。
女王とヤンイェン、それから後ろに控えた侍女たちの目線は、ユイランひとりに注がれていた。若き藤咲家の当主に大抜擢された仕立て屋が、注目を集めるのは道理。助手のことなど気にもとめない。
ルイフォンの姿が視界をかすめても、やや高齢の母を手伝い、娘が荷物持ちをしているのだと思うだけだろう。鷹刀の色合いを全面に出した今の装いのルイフォンが、生粋の一族であるユイランと並べば、ふたりは母娘にしか見えないのだから。
しかし。
途中で、ひとつの視線が動いた。――ヤンイェンである。
彼は驚愕の表情で目を見開き、ルイフォンの顔を、そして胸元のペンダントを凝視する。期待通りの反応に、ルイフォンは内心で喜色を浮かべ、すかさず『話がある』と目配せをした。
それが通じたのか否かは、分からない。ただ、ルイフォンには、ヤンイェンが首肯するかのように、わずかに瞼を伏せたように思えた。
やがて、部屋の中ほどで、ユイランが歩みを止めた。
「陛下。此度は私めに、陛下のお衣装をお作りするという大役をお与えくださり、誠にありがとうございます」
国王の御前に出た仕立て屋として、彼女は平伏し、口上を述べる。ルイフォンも、今度は遅れないように叩頭する。
さて、ここからは、しばらく形式的なやり取りだ。今までの様子から推測するに、ユイランとヤンイェンの間で話が進むのだろう。退屈だからといって、ボロを出さないよう、神妙な顔をしていなければ、とルイフォンは気を引き締める。
部屋に入った瞬間から――否、それ以前から分かっていたことだが、女王はお飾りだ。
政は王兄である摂政カイウォルに任せ、今だって、仕立て屋への対応を婚約者のヤンイェンにすべて委ねている。先ほどから俯いたまま、ひとこともないのが、その証拠だ。
『白金の髪、青灰色の瞳』という、〈神の御子〉の容姿のみを求められて玉座に就いた王なのだから、仕方がないのだろう。その一方で、可憐なる綺羅の美貌は疑いようもなく、信仰の対象としての国民の人気は高いので、むしろ、きちんと役割を果たしている、といえなくもない。
ともあれ、女王を放置して、ヤンイェンとふたりで別室に移るのは、容易ではなさそうだ。今更のようだが、計画に無理があったかもしれない。
ルイフォンは下を向いたまま、渋面を作る。
ヤンイェンと言葉を交わすことができなかったときのために、手紙も用意してきた。しかし、せっかく王宮まで乗り込んできたのだ。ここで諦めるなんて――。
女王……、使えねぇ……!
口に出そうものなら、不敬罪でしょっぴかれること間違いなしのぼやきが、ルイフォンの脳裏を駆け巡る。
そういえば、ハオリュウが婚礼衣装担当家の当主として女王に謁見したとき、彼女は浮かない顔のまま、まともに言葉を発さなかったと言っていた。今回も、そうなるというのか。
焦りと共に、苛立ちが胸中を渦巻く。
そのとき――。
ルイフォンのギスギスとした感情とは正反対のような、ヤンイェンの柔らかな音律が頭上から落ちてきた。
「堅苦しい挨拶は、このくらいにしましょう。どうぞ、楽になさってください」
それはつまり、顔を上げてよいということか?
ルイフォンは思考を戻し、ユイランの様子を盗み見する。――どうやら、それでよさそうだ。
再び、視界に戻ってきたヤンイェンの端麗な面差しは、朗らかに笑んでおり……なのに、どこか飄々としていた。
「服飾会社の『草薙』の噂は、私の耳にも届いていますよ。藤咲の若き当主が、領地の絹織物産業を盛り立てるために提携を結んだ、気鋭の会社だと」
「滅相もございません」
ユイランが畏まり、謙遜する。ルイフォンの気持ちとしては、こんな世辞など面倒臭い、さっさと本題に入れ、と歯噛みしたいところなのであるが、表向きは粛々とユイランに追従した。
すると、ヤンイェンが軽く口元に手を当て、「世辞ではありませんよ」と、実に上品に喉を鳴らす。
「若い女性の流行に疎い私でも、草薙の絹の髪飾りが、身分を問わず人気を集めていることくらい知っていますよ。初めは庶民の品だと軽んじていた上流階級の令嬢たちでさえ、今や、こぞって買い求め、それに似合う服を新調しているとか。――ほら」
蠱惑の音律が、誘うように響いた。
「陛下の御髪をご覧ください」
長い指先が動き、女王を示す。ルイフォンとユイランは、惹き込まれるように目線を移し、息を呑んだ。
白金の髪をふわりと揺らしながら、女王が横を向いた。その流れに乗るように、後ろで留められていた緑のリボンがたなびく。
「恐れ多くも、陛下が……!?」
ユイランが絶句し、血相を変えた。
「恐悦至極に存じます……!」
感嘆と共に、再び平身低頭するユイランに、ルイフォンも慌てて続く。
なんとも意外な展開だった。
これから服を依頼する仕立て屋に、気持ちよく仕事をしてもらうために、ほんの少し配慮をする、というのはよくある話だ。しかし、絶対君主であるはずの女王に、それは必要ないだろう。しかも、彼女は今ひとつ愚鈍……と言ってはさすがに失礼だが、聡明さに欠ける女王なのだ。
ヤンイェンの入れ知恵か?
ルイフォンがそう思ったとき、ヤンイェンが女王に視線を送った。その次の刹那、まるで、天界の琴が弾かれたかのような、細く高い、妙なる音色が奏でられた。
「こ、この髪飾りは、私が頼んで買ってきてもらったものなの!」
「!?」
威厳の欠片もない、国王にあるまじき口調と内容に、ルイフォンは耳を疑った。
ただし、声だけを聞けば、天上の音楽と評しても差し支えないほどの美しさ。これが、女王の第一声だった。
唖然とする仕立て屋一行に、女王は今の台詞だけでは不充分だと気づいたのだろう。しどろもどろに付け加える。
「今日のために、じゃなくて。もう、随分と前に手に入れたのよ。私も、人気の髪飾りが欲しくて、侍女に無理を言ってお願いしたの。――だから、顔を上げて」
「陛下……。ありがとうございます」
戸惑いつつも、ユイランが嬉しそうに微笑む。
女王の言葉に従い、ルイフォンも体を起こせば、今まで伏し目がちだった青灰色の瞳が、まっすぐにユイランを見つめていた。
本当に青い瞳なのだな、と。今更のように、間の抜けた感想を抱く。ついでに、この瞳の色ならば、髪飾りは緑ではなくて青系統のほうが似合うだろうに、などと余計なことを思った。
だが、それは仕方がなかったのだろう。女王が『人気の髪飾り』を所望したのなら、侍女はまず緑を選ぶ。何故なら、一番初めに売り出され、今も根強い人気の商品が『森の妖精』をイメージした緑色の髪飾りだからだ。
「あのね、髪飾りだけじゃないの。ずっと、あなたの作る服を着てみたかったのよ」
「陛下!?」
驚嘆するユイランに、女王は言葉を重ねる。
「だから、藤咲の当主があなたを抜擢したとき、とても嬉しかったの。カイウォルお兄様……っ、……摂政カイウォルは、伝統を重んじ、老舗の仕立て屋の中から選び直すべきだと主張したのだけど、私、譲らなかったのよ」
女王は胸を張り、花がほころぶような愛らしさで笑う。
「『私は、王命において、藤咲の当主に衣装担当を任じました。その藤咲の人選を覆すのは、王として恥ずべき行為です』って正論をぶつけて、あのお兄様……摂政の意見を退けたのよ」
誇らしげな女王に、ルイフォンは、ぽかんと口を開けた。
彼女が、本心からユイランを歓迎していることは分かった。だが、一国の王に『伝家の宝刀で兄を言い負かした』と、自慢――もとい、告白された気がする……。
今までの女王に対する印象が、がらがらと音を立てて崩れていく。
どうやら、悪い子ではないらしい。自国の王に向かって『子』と表現するのは如何なものかと思うが、この女王は、良くも悪くも、ごく普通の女の子だ。――少しだけ、厚顔無恥の。
兄との仲は悪くはなさそうであるが、少々、煙たがっている節が見える。おそらく、公式の場で、彼女が沈黙するのは、彼女があまりにも王族の威信というものから掛け離れているため、余計なことを言うなと、兄に諫言されているためだろう。『陛下は恋に憧れているような、普通の夢見る少女だ』という摂政の弁も、あながち作り話ではないのかもしれない。
「陛下」
なんとも珍妙な空気となった部屋に、蠱惑の音律が響き渡る。
「せっかく憧れの仕立て屋に会えたのですから、少しご歓談されるとよいでしょう。事務的な手続きは、私が別室で、助手の方と済ませておきますから」
「!」
ヤンイェンが、ルイフォンとふたりきりになれる場を設けた――!
猫の目を見開くと、その視界に、麗らかに微笑むヤンイェンの美貌が映り込む。
そして、ルイフォンはヤンイェンに促されるままに、続き部屋へと移ったのだった。