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作者: 月ノ瀬 静流
残酷な描写あり
4.絹糸の織りゆく道-1
 ハオリュウの耳に、摂政カイウォルの声が蘇る。



『介添えの彼は、息災ですか?』

『彼を大切にするとよいでしょう』



 誘い込むような響きが頭蓋に木霊こだまし、割れんばかりに轟いた。

 多くの人間は、カイウォルの雅やかな微笑と、蠱惑の旋律に抗うことができない。見えない重力に引き寄せられるかの如く、こうべを垂れる。だが、ハオリュウは、カイウォルに魅入られることのない、ごくまれなる例外だった。

 だから。

 シュアンが人質に取られたのだ。――ハオリュウを意のままに操るために。

「畜生……!」

 普段は決して使わぬ言葉で、ハオリュウは口汚く罵る。

 シュアンは今日、ハオリュウのために休暇を申請していた。それが前日になって急遽、取り消された。勤務態度について話がある――との名目ことだった。

 間違いない。カイウォルが裏で手を回したのだ。

 シュアンはそのまま職場で――上官に呼び出された先で、逮捕されたのだろう。警察隊の屋舎内では、抵抗も逃亡も、まず不可能だ。その点も、カイウォルは計算していたに違いない。

「糞ぉ……!」

 明かりをつけぬままの書斎で、ハオリュウはひとり、くらい奈落の闇に吐き捨てる。

「シュアン……!」

 脳裏に響くのは、妙に甲高い、皮肉げな濁声だみごえだ。



『俺は、あんたに賭けてみたい』

『俺は、あんたが欲しい。――国の中枢に喰い込める貴族シャトーアの当主』



 そう言って、彼はハオリュウの心を撃ち抜いた。

 彼の言葉が信じられなくて、ハオリュウは思わず尋ねた。

『僕と一緒にいるということは……、平穏な人生を歩めなくなる――ということですよ?』

 愚かな質問だった。

 ……だのに、彼は答え――応えてくれた。



『……――望むところだ』

『俺に『穏やかな日常』は、似合わねぇからよ』



 彼にそう『言わせた』にも関わらず、ハオリュウには、なんの覚悟もなかった。

 甘ったれた子供ガキが、責任転嫁の予防線を張っただけに過ぎなかった。

「僕は……」

 ハオリュウは呟き、ぎりりと奥歯を噛みしめる。

 ――シュアンの命が、駆け引きの駒にされている。

 ハオリュウが鷹刀一族を裏切り、『ライシェン』の隠し場所をカイウォルに教えなければ、役立たずの『もの』として、シュアンは処分される。

『上流階級のお偉いさんが、平民バイスア自由民スーイラを『もの』扱いする』――奇しくも、この前、シュアンが言っていた通りに。

「ふざけるなぁっ……!」

 激しく痛む頭を掻きむしるようにして抱え込み、彼は声にならぬ雄叫びを上げた。

 息苦しい。

 そして。

 生き苦しい……。



 …………。



 ひとしきり吠え続け、肩で息をしていたハオリュウは、ぐったりと執務机に突っ伏した。頬に触れた硬い木の感触が、妙に冷たく感じられる。

 ……ふと。

『ハオリュウさん』――と。魅惑の低音が、胸をいた。



『厳月家の先代当主の暗殺を、緋扇さんに依頼した件。――後悔していますか?』



 草薙レイウェンの言葉だ。

 よそ行きの服の注文と、ファンルゥへのお礼をするために草薙家を訪れた日、彼の書斎に呼ばれた。

「――っ!」

 ハオリュウは、弾かれたように体を起こした。

「……後悔なんか……しない……!」

 あのときと同じ答えをハオリュウは繰り返す。

「後悔なんかしたら、実行してくれたシュアンに失礼だ!」

 レイウェンに問われたとき、ハオリュウは意図が分からず、首をかしげた。けれど、今なら、理解できる。

 ハオリュウをおとしいれる目的で、シュアンが危険に晒される可能性を示唆――警告したのだ。

 そして、『そのとき』が来てもハオリュウが立ち止まらないように、彼が無自覚であることを承知で、誓わせた。

 腹をくくることを――。

「――ええ。そうですね、レイウェンさん。僕がすべきことは、後悔ではありません。シュアンを取り戻すことです」

 夜のとばりに包まれた静謐なる書斎にて、ハオリュウの意識は、闇と同化したように深く沈んでいった。





 クーティエを乗せた車は、夜の道を駆け抜けた。

 同乗のユイランとタオロンは、それぞれ自室でくつろいでいたにも関わらず、クーティエの我儘に機嫌を悪くするどころか、喜んで協力してくれた。背中を押してくれるふたりに、クーティエの胸は感謝でいっぱいになる。

 藤咲家に到着すると、草薙家警備会社から派遣されている門衛たちが、一行を快く迎えてくれた。続いて、メイシアからの連絡に待ち構えていた執事が飛び出してくる。「ハオリュウ様は、食事も摂られずに書斎に籠もられたままなのです」と。

 そして今、クーティエは、ハオリュウの書斎の前で、重厚な扉を見つめている。

 森閑とした廊下には、彼女ひとりきりだ。ユイランとタオロンは、執事と共に別室で待機している。

 クーティエは、ごくりと唾を呑み込んだ。

 ハオリュウは、彼女の来訪をまったく望んでいないだろう。彼を不快にすることは、火を見るよりも明らかだ。

 彼女は固く拳を握りしめた。その手で、扉をノックする。

 ――コン、コン……。

 …………。

 反応がない。

 聞こえていないのか、聞こえていないふりをしているのか。

 クーティエの心臓は激しく早鐘を打ち、壊れてしまいそうなほどの痛みを訴えた。けれど、ここで引くわけにはいかない。ハオリュウを『ひとり』にしたら駄目だ。

 何を言われても構わない。どんな言葉でも、受け入れる。

 ハオリュウに逢うのだ!

 クーティエは意を決し、扉を開く。

「――!?」

 廊下と書斎が繋がった瞬間、クーティエは視界を塞がれたのかと錯覚した。

 目の前が真っ暗だったのだ。

 あたかも窓から夜闇が入り込み、室内を侵食したかのようだ。人の気配は感じられるのに、無機的な空気で満たされている。

 押し寄せてくる闇に、クーティエの足がすくんだ。それと同時に、硬質な声が響く。

「誰です? 書斎への立ち入りを、私は許可した覚えはありません」

「ご、ごめんなさい!」

 反射的に上げた声は、悲鳴も同然だった。

 クーティエの背後から、廊下の明かりが差し込む。細い光が室内を照らすと、まっすぐにこちらをめつける闇色の瞳が見えた。

 怒気をはらみながらも、落ち着き払った彼の姿は、恐ろしいほどに冷徹で、まるで見知らぬ人のよう。

「ハオリュウ……、私……」

 取っ手を握ったままだった扉にすがるようにして、クーティエは、その場にずるずるとへたり込んだ。

 一方、部屋の奥では、ハオリュウが驚愕に腰を浮かせていた。勝手に扉を開けた不届き者の正体が、クーティエだと気づいたのだ。

「どうして、あなたが……!? ――姉様か! …………っ」

 当惑の言葉の語尾で、ほんの一瞬、彼は苦しげに声を揺らした。けれど、まるで糸の切れた操り人形のように崩れ落ちてしまったクーティエには、その切なげな表情を捕らえることはできなかった。

 それどころか、クーティエが目の前にいるのは異母姉あねの手引きに依るものだと察し、ハオリュウは異母姉メイシアに対して憤っているのだと思った。自分に近づいてくる、片足を引きずる足音に向かって、クーティエは顔を真っ青にして叫ぶ。

「メイシアは悪くないの! 私が『ハオリュウに逢いたい』って、我儘を言ったの! それで、メイシアが執事さんに頼んでくれて……。――お願い! 怒るのは私だけにして!」

 すぐそばで衣擦れの音がして、クーティエは身を固くした。

 ハオリュウの怒声が落ちてくる!

 彼女が首をすくめた瞬間――。

「……?」

 急に、あたりが明るくなった。ハオリュウが、扉のそばにある電灯のスイッチを点けたのだ。

「クーティエ……」

 床に座り込んでいる彼女を見下ろし、ハオリュウは名を呟いた。

 彼は、夏向きのよそ行きとして、新調したばかりの服を着ていた。その裾に、ひらりと涼しげな風を含ませ、彼女と目線を合わせるべく、隣に腰を下ろす。

 足を曲げた際に痛みが走ったのか、彼の口から小さなうめきが漏れた。絹地に織り込まれた流水文様が、ぐにゃりと不自然に歪む。

「ハオリュウ、足!」

 血相を変えて立ち上がろうとしたクーティエを、「大丈夫だ」というハオリュウの声が押し止めた。

「それに、僕は、あなたを怒ったりなんかしない。……僕を心配して駆けつけてくれたあなたを、怒れるわけがない」

 先ほどの別人のような威圧は鳴りを潜め、優しげな面差しのいつものハオリュウだった。

 ――否。彼の全身からは、常ではない、激しい憔悴が感じられた。

 異母姉あねのメイシアと顔立ちは違えど、同じ血筋を示すかのような、さらさらの黒髪が、何度も掻きむしられたように乱れていた。長いこと緊張に晒された、嫌な汗の残り香が、かすかに漂う。

「でも、どうして、クーティエが来るんだ……」

「ごめんなさいっ!」

「僕は、あなたに一番、逢いたくて……、一番、逢いたくなかった」

「え……?」

 まるで泣いているかのような、静かな微笑だった。

 ぴんと張り詰めた絹糸けんしの如く、ふとしたときに冷たい輝きを放ち……。

 ――どこかもろく、儚い。

「ハオリュウ……」

 クーティエの胸が、きゅうと、切なげな音を立てた。彼女は唇を噛み締め、彼に告げる。

「あ、あのね。さっき、執事さんに聞いたの。今日、ハオリュウは王宮に行った、って。――摂政殿下に呼ばれたんでしょ……?」

 王宮行きを聞いて、クーティエは、ぴんときた。

 ハオリュウは、摂政に何かを命じられたのだ。

 その『何か』が、ハオリュウの意に反するものであることは、彼の様子から明らかで。つまり、彼は『従わなければシュアンを殺す』と、脅されている。――それくらい、クーティエの頭にだって理解できた。

 そして今、摂政とハオリュウの間で持ち上がっている問題といえば、これしかない。

「女王陛下の婚約者になるように……、摂政殿下に命令されたのね……?」

 刹那、ハオリュウの顔が凍りついた。もともと悪かった顔色が、更に紙のように白くなる。

 彼の反応に、クーティエは畳み掛けた。

「摂政殿下は緋扇シュアンを盾にして、ハオリュウに無理やり、婚約者を引き受けるように要求しているんでしょ!? 酷い! 卑怯だわ!」

 クーティエは拳を震わせ、ここにはいない摂政を睨みつける。すると、感情の読めないハオリュウの声が「違う」と、鋭く響いた。

「婚約者の件なら、今日、摂政殿下にお会いしたときに、既に承諾のお返事を申し上げている」

「え?」

「『いつまでも婚約の儀を先延ばしするのは、国民のためにならない』と言われてしまえば、臣下の身としては断ることはできない」

「そ、そんなっ……!」

「『私』は王族フェイラを助け、国を守るという義務を負っている。そのための貴族シャトーアという身分だ」

 冷涼とした光沢を放つ、滑らかな絹糸けんしの振る舞いで、ハオリュウは淡々とよどみなく告げた。

「……っ」

 ――分かっていたはずだった。

 正絹の貴公子は、自分の立場をしかとわきまえている、と。

 クーティエは、喉の奥にこみ上げてきた熱いものを、ぐっとこらえた。

 そんな彼女を切なげに見つめたのち、ハオリュウは、闇色の瞳を静かに伏せる。

「初めに婚約者の話が出たときから、決まっていたようなものだ。カイウォル殿下が本気でお求めになったら、私には断るすべはない」

「…………っ」

「『僕』は、あなたに顔向けできない。だから、帰ってほしい。……あなたが来てくれて、あなたの顔を見ることができて嬉しかった。――ありがとう」

 ハオリュウは、ふわりと髪をなびかせ、優しく笑んだ。

 そして、彼は、中途半端に開かれたままになっていた扉に掴まり、足を庇いながら立ち上がる。服の裾がクーティエの視界を遮るように広がり、巻き上がった風が拒絶を示した。

 床に取り残された彼女は、呆然と彼を見上げ、気づいた。

 ハオリュウは書斎の内側にいで、クーティエは廊下だ。今は繋がった空間であるが、ふたりの間には扉がある。それを、ぱたんと閉められてしまえば、それきりになる。

 夜中に駆けつけたところで、それだけでは駄目なのだ。

「ハオリュウ!」

 クーティエは、彼を追いかけるように立ち上がった。

「じゃあ、緋扇シュアンが捕まった理由は何よ!? ハオリュウが婚約者になるって決まったなら、摂政殿下はシュアンを押さえる必要はないでしょ!? おかしいじゃない!」

 ハオリュウの態度は、どこか不自然だ。

 それは、すなわち――。

「摂政殿下は、他にも何か、ハオリュウに要求しているのね! 隠していないで、教えなさいよ!」

 誰にも打ち明けずに、ハオリュウは『ひとり』きりで抱えている。見栄っ張りで、意地っ張りな彼は、周りを――クーティエを頼ってくれない。

 ……ならば、こちらから喰らいつくまでだ!

「私に顔向けできない? 何をふざけたことを言っているの? ハオリュウが女王陛下の婚約者になるって? それがどうしたのよ? 平民バイスアの私が、貴族シャトーアのハオリュウを好きになるって、生半可な気持ちじゃないんだから!」

 彼女は言葉の勢いそのままに、書斎の中へと強引に体を割り込ませる。

「私を見くびらないでほしいわ! そんな陰湿な顔をしたハオリュウを放って、帰れるわけないでしょ! 馬鹿にしないで!」

 強気にとがらせた唇で、クーティエは、ぐっと詰め寄った。鮮烈に煌めく眼差しが、至近距離からハオリュウを貫く。

 いつもなら高く結い上げている髪は、慌てて家を出たために、まっすぐにおろされたまま。可憐に飛び跳ねるのではなく、優雅に宙を舞う。……つやめきながら、ハオリュウの腕を絡め取る。

「――!」

 ハオリュウは声を詰まらせた。彼は、自分が話の流れを誤ったことに気づいたのだ。

 クーティエに対し、誠実でありたい。だから、女王の婚約者を引き受けたと、きちんと告げるべきだと、彼は思った。

 その事実で彼女を家に帰し、彼は扉を閉じるつもりだった。

 だのに、彼女は、彼のふところに飛び込んできてしまった。

 ……何も言わずに、帰せばよかったのだろうか? 

 ハオリュウは、温和な外見とは裏腹に、必要とあらば、いくらでも詭弁をろうすることのできる人間である。あるいは冷徹に振り払い、切り捨てる。だが――。

 ハオリュウはクーティエを見つめ、観念したように溜め息を落とす。

 彼女にだけは、自分を偽りたくなかった。

「カイウォル殿下は、僕に『ライシェン』の居場所を鷹刀一族から聞き出してくるよう、命じられたんだ」

「え!? それって、つまり、緋扇シュアンの命が惜しければ、『ライシェン』を差し出せ、ってこと……」

 クーティエの顔が驚愕に染まった。まさか、ここで『ライシェン』が関係してくるとは思わなかったのだ。

 しかし、衝撃は、それで終わりではなかった。「だからね」と、ハオリュウが温度のない声で続ける。



「僕は、この身を〈天使〉にすることに決めたよ」



 ハオリュウの背後から、深い闇の幻が広がった。

 それはまるで、くらい光を放つ『羽』のようで――。

 言い知れぬ禍々まがまがしさが漂い、クーティエは身を震わせた。

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