残酷な描写あり
4.絹糸の織りゆく道-1
ハオリュウの耳に、摂政カイウォルの声が蘇る。
『介添えの彼は、息災ですか?』
『彼を大切にするとよいでしょう』
誘い込むような響きが頭蓋に木霊し、割れんばかりに轟いた。
多くの人間は、カイウォルの雅やかな微笑と、蠱惑の旋律に抗うことができない。見えない重力に引き寄せられるかの如く、頭を垂れる。だが、ハオリュウは、カイウォルに魅入られることのない、ごく稀なる例外だった。
だから。
シュアンが人質に取られたのだ。――ハオリュウを意のままに操るために。
「畜生……!」
普段は決して使わぬ言葉で、ハオリュウは口汚く罵る。
シュアンは今日、ハオリュウのために休暇を申請していた。それが前日になって急遽、取り消された。勤務態度について話がある――との名目だった。
間違いない。カイウォルが裏で手を回したのだ。
シュアンはそのまま職場で――上官に呼び出された先で、逮捕されたのだろう。警察隊の屋舎内では、抵抗も逃亡も、まず不可能だ。その点も、カイウォルは計算していたに違いない。
「糞ぉ……!」
明かりをつけぬままの書斎で、ハオリュウはひとり、昏い奈落の闇に吐き捨てる。
「シュアン……!」
脳裏に響くのは、妙に甲高い、皮肉げな濁声だ。
『俺は、あんたに賭けてみたい』
『俺は、あんたが欲しい。――国の中枢に喰い込める貴族の当主』
そう言って、彼はハオリュウの心を撃ち抜いた。
彼の言葉が信じられなくて、ハオリュウは思わず尋ねた。
『僕と一緒にいるということは……、平穏な人生を歩めなくなる――ということですよ?』
愚かな質問だった。
……だのに、彼は答え――応えてくれた。
『……――望むところだ』
『俺に『穏やかな日常』は、似合わねぇからよ』
彼にそう『言わせた』にも関わらず、ハオリュウには、なんの覚悟もなかった。
甘ったれた子供が、責任転嫁の予防線を張っただけに過ぎなかった。
「僕は……」
ハオリュウは呟き、ぎりりと奥歯を噛みしめる。
――シュアンの命が、駆け引きの駒にされている。
ハオリュウが鷹刀一族を裏切り、『ライシェン』の隠し場所をカイウォルに教えなければ、役立たずの『駒』として、シュアンは殺される。
『上流階級のお偉いさんが、平民や自由民を『もの』扱いする』――奇しくも、この前、シュアンが言っていた通りに。
「ふざけるなぁっ……!」
激しく痛む頭を掻きむしるようにして抱え込み、彼は声にならぬ雄叫びを上げた。
息苦しい。
そして。
生き苦しい……。
…………。
ひとしきり吠え続け、肩で息をしていたハオリュウは、ぐったりと執務机に突っ伏した。頬に触れた硬い木の感触が、妙に冷たく感じられる。
……ふと。
『ハオリュウさん』――と。魅惑の低音が、胸を衝いた。
『厳月家の先代当主の暗殺を、緋扇さんに依頼した件。――後悔していますか?』
草薙レイウェンの言葉だ。
よそ行きの服の注文と、ファンルゥへのお礼をするために草薙家を訪れた日、彼の書斎に呼ばれた。
「――っ!」
ハオリュウは、弾かれたように体を起こした。
「……後悔なんか……しない……!」
あのときと同じ答えをハオリュウは繰り返す。
「後悔なんかしたら、実行してくれたシュアンに失礼だ!」
レイウェンに問われたとき、ハオリュウは意図が分からず、首をかしげた。けれど、今なら、理解できる。
ハオリュウを陥れる目的で、シュアンが危険に晒される可能性を示唆――警告したのだ。
そして、『そのとき』が来てもハオリュウが立ち止まらないように、彼が無自覚であることを承知で、誓わせた。
腹を括ることを――。
「――ええ。そうですね、レイウェンさん。僕が為すべきことは、後悔ではありません。シュアンを取り戻すことです」
夜の帳に包まれた静謐なる書斎にて、ハオリュウの意識は、闇と同化したように深く沈んでいった。
クーティエを乗せた車は、夜の道を駆け抜けた。
同乗のユイランとタオロンは、それぞれ自室でくつろいでいたにも関わらず、クーティエの我儘に機嫌を悪くするどころか、喜んで協力してくれた。背中を押してくれるふたりに、クーティエの胸は感謝でいっぱいになる。
藤咲家に到着すると、草薙家から派遣されている門衛たちが、一行を快く迎えてくれた。続いて、メイシアからの連絡に待ち構えていた執事が飛び出してくる。「ハオリュウ様は、食事も摂られずに書斎に籠もられたままなのです」と。
そして今、クーティエは、ハオリュウの書斎の前で、重厚な扉を見つめている。
森閑とした廊下には、彼女ひとりきりだ。ユイランとタオロンは、執事と共に別室で待機している。
クーティエは、ごくりと唾を呑み込んだ。
ハオリュウは、彼女の来訪をまったく望んでいないだろう。彼を不快にすることは、火を見るよりも明らかだ。
彼女は固く拳を握りしめた。その手で、扉をノックする。
――コン、コン……。
…………。
反応がない。
聞こえていないのか、聞こえていないふりをしているのか。
クーティエの心臓は激しく早鐘を打ち、壊れてしまいそうなほどの痛みを訴えた。けれど、ここで引くわけにはいかない。ハオリュウを『ひとり』にしたら駄目だ。
何を言われても構わない。どんな言葉でも、受け入れる。
ハオリュウに逢うのだ!
クーティエは意を決し、扉を開く。
「――!?」
廊下と書斎が繋がった瞬間、クーティエは視界を塞がれたのかと錯覚した。
目の前が真っ暗だったのだ。
あたかも窓から夜闇が入り込み、室内を侵食したかのようだ。人の気配は感じられるのに、無機的な空気で満たされている。
押し寄せてくる闇に、クーティエの足がすくんだ。それと同時に、硬質な声が響く。
「誰です? 書斎への立ち入りを、私は許可した覚えはありません」
「ご、ごめんなさい!」
反射的に上げた声は、悲鳴も同然だった。
クーティエの背後から、廊下の明かりが差し込む。細い光が室内を照らすと、まっすぐにこちらを睨めつける闇色の瞳が見えた。
怒気をはらみながらも、落ち着き払った彼の姿は、恐ろしいほどに冷徹で、まるで見知らぬ人のよう。
「ハオリュウ……、私……」
取っ手を握ったままだった扉に縋るようにして、クーティエは、その場にずるずるとへたり込んだ。
一方、部屋の奥では、ハオリュウが驚愕に腰を浮かせていた。勝手に扉を開けた不届き者の正体が、クーティエだと気づいたのだ。
「どうして、あなたが……!? ――姉様か! …………っ」
当惑の言葉の語尾で、ほんの一瞬、彼は苦しげに声を揺らした。けれど、まるで糸の切れた操り人形のように崩れ落ちてしまったクーティエには、その切なげな表情を捕らえることはできなかった。
それどころか、クーティエが目の前にいるのは異母姉の手引きに依るものだと察し、ハオリュウは異母姉に対して憤っているのだと思った。自分に近づいてくる、片足を引きずる足音に向かって、クーティエは顔を真っ青にして叫ぶ。
「メイシアは悪くないの! 私が『ハオリュウに逢いたい』って、我儘を言ったの! それで、メイシアが執事さんに頼んでくれて……。――お願い! 怒るのは私だけにして!」
すぐそばで衣擦れの音がして、クーティエは身を固くした。
ハオリュウの怒声が落ちてくる!
彼女が首をすくめた瞬間――。
「……?」
急に、あたりが明るくなった。ハオリュウが、扉のそばにある電灯のスイッチを点けたのだ。
「クーティエ……」
床に座り込んでいる彼女を見下ろし、ハオリュウは名を呟いた。
彼は、夏向きのよそ行きとして、新調したばかりの服を着ていた。その裾に、ひらりと涼しげな風を含ませ、彼女と目線を合わせるべく、隣に腰を下ろす。
足を曲げた際に痛みが走ったのか、彼の口から小さなうめきが漏れた。絹地に織り込まれた流水文様が、ぐにゃりと不自然に歪む。
「ハオリュウ、足!」
血相を変えて立ち上がろうとしたクーティエを、「大丈夫だ」というハオリュウの声が押し止めた。
「それに、僕は、あなたを怒ったりなんかしない。……僕を心配して駆けつけてくれたあなたを、怒れるわけがない」
先ほどの別人のような威圧は鳴りを潜め、優しげな面差しのいつものハオリュウだった。
――否。彼の全身からは、常ではない、激しい憔悴が感じられた。
異母姉のメイシアと顔立ちは違えど、同じ血筋を示すかのような、さらさらの黒髪が、何度も掻きむしられたように乱れていた。長いこと緊張に晒された、嫌な汗の残り香が、かすかに漂う。
「でも、どうして、クーティエが来るんだ……」
「ごめんなさいっ!」
「僕は、あなたに一番、逢いたくて……、一番、逢いたくなかった」
「え……?」
まるで泣いているかのような、静かな微笑だった。
ぴんと張り詰めた絹糸の如く、ふとしたときに冷たい輝きを放ち……。
――どこか脆く、儚い。
「ハオリュウ……」
クーティエの胸が、きゅうと、切なげな音を立てた。彼女は唇を噛み締め、彼に告げる。
「あ、あのね。さっき、執事さんに聞いたの。今日、ハオリュウは王宮に行った、って。――摂政殿下に呼ばれたんでしょ……?」
王宮行きを聞いて、クーティエは、ぴんときた。
ハオリュウは、摂政に何かを命じられたのだ。
その『何か』が、ハオリュウの意に反するものであることは、彼の様子から明らかで。つまり、彼は『従わなければシュアンを殺す』と、脅されている。――それくらい、クーティエの頭にだって理解できた。
そして今、摂政とハオリュウの間で持ち上がっている問題といえば、これしかない。
「女王陛下の婚約者になるように……、摂政殿下に命令されたのね……?」
刹那、ハオリュウの顔が凍りついた。もともと悪かった顔色が、更に紙のように白くなる。
彼の反応に、クーティエは畳み掛けた。
「摂政殿下は緋扇シュアンを盾にして、ハオリュウに無理やり、婚約者を引き受けるように要求しているんでしょ!? 酷い! 卑怯だわ!」
クーティエは拳を震わせ、ここにはいない摂政を睨みつける。すると、感情の読めないハオリュウの声が「違う」と、鋭く響いた。
「婚約者の件なら、今日、摂政殿下にお会いしたときに、既に承諾のお返事を申し上げている」
「え?」
「『いつまでも婚約の儀を先延ばしするのは、国民のためにならない』と言われてしまえば、臣下の身としては断ることはできない」
「そ、そんなっ……!」
「『私』は王族を助け、国を守るという義務を負っている。そのための貴族という身分だ」
冷涼とした光沢を放つ、滑らかな絹糸の振る舞いで、ハオリュウは淡々と澱みなく告げた。
「……っ」
――分かっていたはずだった。
正絹の貴公子は、自分の立場をしかと弁えている、と。
クーティエは、喉の奥にこみ上げてきた熱いものを、ぐっと堪えた。
そんな彼女を切なげに見つめたのち、ハオリュウは、闇色の瞳を静かに伏せる。
「初めに婚約者の話が出たときから、決まっていたようなものだ。カイウォル殿下が本気でお求めになったら、私には断る術はない」
「…………っ」
「『僕』は、あなたに顔向けできない。だから、帰ってほしい。……あなたが来てくれて、あなたの顔を見ることができて嬉しかった。――ありがとう」
ハオリュウは、ふわりと髪をなびかせ、優しく笑んだ。
そして、彼は、中途半端に開かれたままになっていた扉に掴まり、足を庇いながら立ち上がる。服の裾がクーティエの視界を遮るように広がり、巻き上がった風が拒絶を示した。
床に取り残された彼女は、呆然と彼を見上げ、気づいた。
ハオリュウは書斎の内側にいで、クーティエは廊下だ。今は繋がった空間であるが、ふたりの間には扉がある。それを、ぱたんと閉められてしまえば、それきりになる。
夜中に駆けつけたところで、それだけでは駄目なのだ。
「ハオリュウ!」
クーティエは、彼を追いかけるように立ち上がった。
「じゃあ、緋扇シュアンが捕まった理由は何よ!? ハオリュウが婚約者になるって決まったなら、摂政殿下はシュアンを押さえる必要はないでしょ!? おかしいじゃない!」
ハオリュウの態度は、どこか不自然だ。
それは、すなわち――。
「摂政殿下は、他にも何か、ハオリュウに要求しているのね! 隠していないで、教えなさいよ!」
誰にも打ち明けずに、ハオリュウは『ひとり』きりで抱えている。見栄っ張りで、意地っ張りな彼は、周りを――クーティエを頼ってくれない。
……ならば、こちらから喰らいつくまでだ!
「私に顔向けできない? 何をふざけたことを言っているの? ハオリュウが女王陛下の婚約者になるって? それがどうしたのよ? 平民の私が、貴族のハオリュウを好きになるって、生半可な気持ちじゃないんだから!」
彼女は言葉の勢いそのままに、書斎の中へと強引に体を割り込ませる。
「私を見くびらないでほしいわ! そんな陰湿な顔をしたハオリュウを放って、帰れるわけないでしょ! 馬鹿にしないで!」
強気に尖らせた唇で、クーティエは、ぐっと詰め寄った。鮮烈に煌めく眼差しが、至近距離からハオリュウを貫く。
いつもなら高く結い上げている髪は、慌てて家を出たために、まっすぐにおろされたまま。可憐に飛び跳ねるのではなく、優雅に宙を舞う。……艶めきながら、ハオリュウの腕を絡め取る。
「――!」
ハオリュウは声を詰まらせた。彼は、自分が話の流れを誤ったことに気づいたのだ。
クーティエに対し、誠実でありたい。だから、女王の婚約者を引き受けたと、きちんと告げるべきだと、彼は思った。
その事実で彼女を家に帰し、彼は扉を閉じるつもりだった。
だのに、彼女は、彼の懐に飛び込んできてしまった。
……何も言わずに、帰せばよかったのだろうか?
ハオリュウは、温和な外見とは裏腹に、必要とあらば、いくらでも詭弁を弄することのできる人間である。あるいは冷徹に振り払い、切り捨てる。だが――。
ハオリュウはクーティエを見つめ、観念したように溜め息を落とす。
彼女にだけは、自分を偽りたくなかった。
「カイウォル殿下は、僕に『ライシェン』の居場所を鷹刀一族から聞き出してくるよう、命じられたんだ」
「え!? それって、つまり、緋扇シュアンの命が惜しければ、『ライシェン』を差し出せ、ってこと……」
クーティエの顔が驚愕に染まった。まさか、ここで『ライシェン』が関係してくるとは思わなかったのだ。
しかし、衝撃は、それで終わりではなかった。「だからね」と、ハオリュウが温度のない声で続ける。
「僕は、この身を〈天使〉にすることに決めたよ」
ハオリュウの背後から、深い闇の幻が広がった。
それはまるで、昏い光を放つ『羽』のようで――。
言い知れぬ禍々しさが漂い、クーティエは身を震わせた。
『介添えの彼は、息災ですか?』
『彼を大切にするとよいでしょう』
誘い込むような響きが頭蓋に木霊し、割れんばかりに轟いた。
多くの人間は、カイウォルの雅やかな微笑と、蠱惑の旋律に抗うことができない。見えない重力に引き寄せられるかの如く、頭を垂れる。だが、ハオリュウは、カイウォルに魅入られることのない、ごく稀なる例外だった。
だから。
シュアンが人質に取られたのだ。――ハオリュウを意のままに操るために。
「畜生……!」
普段は決して使わぬ言葉で、ハオリュウは口汚く罵る。
シュアンは今日、ハオリュウのために休暇を申請していた。それが前日になって急遽、取り消された。勤務態度について話がある――との名目だった。
間違いない。カイウォルが裏で手を回したのだ。
シュアンはそのまま職場で――上官に呼び出された先で、逮捕されたのだろう。警察隊の屋舎内では、抵抗も逃亡も、まず不可能だ。その点も、カイウォルは計算していたに違いない。
「糞ぉ……!」
明かりをつけぬままの書斎で、ハオリュウはひとり、昏い奈落の闇に吐き捨てる。
「シュアン……!」
脳裏に響くのは、妙に甲高い、皮肉げな濁声だ。
『俺は、あんたに賭けてみたい』
『俺は、あんたが欲しい。――国の中枢に喰い込める貴族の当主』
そう言って、彼はハオリュウの心を撃ち抜いた。
彼の言葉が信じられなくて、ハオリュウは思わず尋ねた。
『僕と一緒にいるということは……、平穏な人生を歩めなくなる――ということですよ?』
愚かな質問だった。
……だのに、彼は答え――応えてくれた。
『……――望むところだ』
『俺に『穏やかな日常』は、似合わねぇからよ』
彼にそう『言わせた』にも関わらず、ハオリュウには、なんの覚悟もなかった。
甘ったれた子供が、責任転嫁の予防線を張っただけに過ぎなかった。
「僕は……」
ハオリュウは呟き、ぎりりと奥歯を噛みしめる。
――シュアンの命が、駆け引きの駒にされている。
ハオリュウが鷹刀一族を裏切り、『ライシェン』の隠し場所をカイウォルに教えなければ、役立たずの『駒』として、シュアンは殺される。
『上流階級のお偉いさんが、平民や自由民を『もの』扱いする』――奇しくも、この前、シュアンが言っていた通りに。
「ふざけるなぁっ……!」
激しく痛む頭を掻きむしるようにして抱え込み、彼は声にならぬ雄叫びを上げた。
息苦しい。
そして。
生き苦しい……。
…………。
ひとしきり吠え続け、肩で息をしていたハオリュウは、ぐったりと執務机に突っ伏した。頬に触れた硬い木の感触が、妙に冷たく感じられる。
……ふと。
『ハオリュウさん』――と。魅惑の低音が、胸を衝いた。
『厳月家の先代当主の暗殺を、緋扇さんに依頼した件。――後悔していますか?』
草薙レイウェンの言葉だ。
よそ行きの服の注文と、ファンルゥへのお礼をするために草薙家を訪れた日、彼の書斎に呼ばれた。
「――っ!」
ハオリュウは、弾かれたように体を起こした。
「……後悔なんか……しない……!」
あのときと同じ答えをハオリュウは繰り返す。
「後悔なんかしたら、実行してくれたシュアンに失礼だ!」
レイウェンに問われたとき、ハオリュウは意図が分からず、首をかしげた。けれど、今なら、理解できる。
ハオリュウを陥れる目的で、シュアンが危険に晒される可能性を示唆――警告したのだ。
そして、『そのとき』が来てもハオリュウが立ち止まらないように、彼が無自覚であることを承知で、誓わせた。
腹を括ることを――。
「――ええ。そうですね、レイウェンさん。僕が為すべきことは、後悔ではありません。シュアンを取り戻すことです」
夜の帳に包まれた静謐なる書斎にて、ハオリュウの意識は、闇と同化したように深く沈んでいった。
クーティエを乗せた車は、夜の道を駆け抜けた。
同乗のユイランとタオロンは、それぞれ自室でくつろいでいたにも関わらず、クーティエの我儘に機嫌を悪くするどころか、喜んで協力してくれた。背中を押してくれるふたりに、クーティエの胸は感謝でいっぱいになる。
藤咲家に到着すると、草薙家から派遣されている門衛たちが、一行を快く迎えてくれた。続いて、メイシアからの連絡に待ち構えていた執事が飛び出してくる。「ハオリュウ様は、食事も摂られずに書斎に籠もられたままなのです」と。
そして今、クーティエは、ハオリュウの書斎の前で、重厚な扉を見つめている。
森閑とした廊下には、彼女ひとりきりだ。ユイランとタオロンは、執事と共に別室で待機している。
クーティエは、ごくりと唾を呑み込んだ。
ハオリュウは、彼女の来訪をまったく望んでいないだろう。彼を不快にすることは、火を見るよりも明らかだ。
彼女は固く拳を握りしめた。その手で、扉をノックする。
――コン、コン……。
…………。
反応がない。
聞こえていないのか、聞こえていないふりをしているのか。
クーティエの心臓は激しく早鐘を打ち、壊れてしまいそうなほどの痛みを訴えた。けれど、ここで引くわけにはいかない。ハオリュウを『ひとり』にしたら駄目だ。
何を言われても構わない。どんな言葉でも、受け入れる。
ハオリュウに逢うのだ!
クーティエは意を決し、扉を開く。
「――!?」
廊下と書斎が繋がった瞬間、クーティエは視界を塞がれたのかと錯覚した。
目の前が真っ暗だったのだ。
あたかも窓から夜闇が入り込み、室内を侵食したかのようだ。人の気配は感じられるのに、無機的な空気で満たされている。
押し寄せてくる闇に、クーティエの足がすくんだ。それと同時に、硬質な声が響く。
「誰です? 書斎への立ち入りを、私は許可した覚えはありません」
「ご、ごめんなさい!」
反射的に上げた声は、悲鳴も同然だった。
クーティエの背後から、廊下の明かりが差し込む。細い光が室内を照らすと、まっすぐにこちらを睨めつける闇色の瞳が見えた。
怒気をはらみながらも、落ち着き払った彼の姿は、恐ろしいほどに冷徹で、まるで見知らぬ人のよう。
「ハオリュウ……、私……」
取っ手を握ったままだった扉に縋るようにして、クーティエは、その場にずるずるとへたり込んだ。
一方、部屋の奥では、ハオリュウが驚愕に腰を浮かせていた。勝手に扉を開けた不届き者の正体が、クーティエだと気づいたのだ。
「どうして、あなたが……!? ――姉様か! …………っ」
当惑の言葉の語尾で、ほんの一瞬、彼は苦しげに声を揺らした。けれど、まるで糸の切れた操り人形のように崩れ落ちてしまったクーティエには、その切なげな表情を捕らえることはできなかった。
それどころか、クーティエが目の前にいるのは異母姉の手引きに依るものだと察し、ハオリュウは異母姉に対して憤っているのだと思った。自分に近づいてくる、片足を引きずる足音に向かって、クーティエは顔を真っ青にして叫ぶ。
「メイシアは悪くないの! 私が『ハオリュウに逢いたい』って、我儘を言ったの! それで、メイシアが執事さんに頼んでくれて……。――お願い! 怒るのは私だけにして!」
すぐそばで衣擦れの音がして、クーティエは身を固くした。
ハオリュウの怒声が落ちてくる!
彼女が首をすくめた瞬間――。
「……?」
急に、あたりが明るくなった。ハオリュウが、扉のそばにある電灯のスイッチを点けたのだ。
「クーティエ……」
床に座り込んでいる彼女を見下ろし、ハオリュウは名を呟いた。
彼は、夏向きのよそ行きとして、新調したばかりの服を着ていた。その裾に、ひらりと涼しげな風を含ませ、彼女と目線を合わせるべく、隣に腰を下ろす。
足を曲げた際に痛みが走ったのか、彼の口から小さなうめきが漏れた。絹地に織り込まれた流水文様が、ぐにゃりと不自然に歪む。
「ハオリュウ、足!」
血相を変えて立ち上がろうとしたクーティエを、「大丈夫だ」というハオリュウの声が押し止めた。
「それに、僕は、あなたを怒ったりなんかしない。……僕を心配して駆けつけてくれたあなたを、怒れるわけがない」
先ほどの別人のような威圧は鳴りを潜め、優しげな面差しのいつものハオリュウだった。
――否。彼の全身からは、常ではない、激しい憔悴が感じられた。
異母姉のメイシアと顔立ちは違えど、同じ血筋を示すかのような、さらさらの黒髪が、何度も掻きむしられたように乱れていた。長いこと緊張に晒された、嫌な汗の残り香が、かすかに漂う。
「でも、どうして、クーティエが来るんだ……」
「ごめんなさいっ!」
「僕は、あなたに一番、逢いたくて……、一番、逢いたくなかった」
「え……?」
まるで泣いているかのような、静かな微笑だった。
ぴんと張り詰めた絹糸の如く、ふとしたときに冷たい輝きを放ち……。
――どこか脆く、儚い。
「ハオリュウ……」
クーティエの胸が、きゅうと、切なげな音を立てた。彼女は唇を噛み締め、彼に告げる。
「あ、あのね。さっき、執事さんに聞いたの。今日、ハオリュウは王宮に行った、って。――摂政殿下に呼ばれたんでしょ……?」
王宮行きを聞いて、クーティエは、ぴんときた。
ハオリュウは、摂政に何かを命じられたのだ。
その『何か』が、ハオリュウの意に反するものであることは、彼の様子から明らかで。つまり、彼は『従わなければシュアンを殺す』と、脅されている。――それくらい、クーティエの頭にだって理解できた。
そして今、摂政とハオリュウの間で持ち上がっている問題といえば、これしかない。
「女王陛下の婚約者になるように……、摂政殿下に命令されたのね……?」
刹那、ハオリュウの顔が凍りついた。もともと悪かった顔色が、更に紙のように白くなる。
彼の反応に、クーティエは畳み掛けた。
「摂政殿下は緋扇シュアンを盾にして、ハオリュウに無理やり、婚約者を引き受けるように要求しているんでしょ!? 酷い! 卑怯だわ!」
クーティエは拳を震わせ、ここにはいない摂政を睨みつける。すると、感情の読めないハオリュウの声が「違う」と、鋭く響いた。
「婚約者の件なら、今日、摂政殿下にお会いしたときに、既に承諾のお返事を申し上げている」
「え?」
「『いつまでも婚約の儀を先延ばしするのは、国民のためにならない』と言われてしまえば、臣下の身としては断ることはできない」
「そ、そんなっ……!」
「『私』は王族を助け、国を守るという義務を負っている。そのための貴族という身分だ」
冷涼とした光沢を放つ、滑らかな絹糸の振る舞いで、ハオリュウは淡々と澱みなく告げた。
「……っ」
――分かっていたはずだった。
正絹の貴公子は、自分の立場をしかと弁えている、と。
クーティエは、喉の奥にこみ上げてきた熱いものを、ぐっと堪えた。
そんな彼女を切なげに見つめたのち、ハオリュウは、闇色の瞳を静かに伏せる。
「初めに婚約者の話が出たときから、決まっていたようなものだ。カイウォル殿下が本気でお求めになったら、私には断る術はない」
「…………っ」
「『僕』は、あなたに顔向けできない。だから、帰ってほしい。……あなたが来てくれて、あなたの顔を見ることができて嬉しかった。――ありがとう」
ハオリュウは、ふわりと髪をなびかせ、優しく笑んだ。
そして、彼は、中途半端に開かれたままになっていた扉に掴まり、足を庇いながら立ち上がる。服の裾がクーティエの視界を遮るように広がり、巻き上がった風が拒絶を示した。
床に取り残された彼女は、呆然と彼を見上げ、気づいた。
ハオリュウは書斎の内側にいで、クーティエは廊下だ。今は繋がった空間であるが、ふたりの間には扉がある。それを、ぱたんと閉められてしまえば、それきりになる。
夜中に駆けつけたところで、それだけでは駄目なのだ。
「ハオリュウ!」
クーティエは、彼を追いかけるように立ち上がった。
「じゃあ、緋扇シュアンが捕まった理由は何よ!? ハオリュウが婚約者になるって決まったなら、摂政殿下はシュアンを押さえる必要はないでしょ!? おかしいじゃない!」
ハオリュウの態度は、どこか不自然だ。
それは、すなわち――。
「摂政殿下は、他にも何か、ハオリュウに要求しているのね! 隠していないで、教えなさいよ!」
誰にも打ち明けずに、ハオリュウは『ひとり』きりで抱えている。見栄っ張りで、意地っ張りな彼は、周りを――クーティエを頼ってくれない。
……ならば、こちらから喰らいつくまでだ!
「私に顔向けできない? 何をふざけたことを言っているの? ハオリュウが女王陛下の婚約者になるって? それがどうしたのよ? 平民の私が、貴族のハオリュウを好きになるって、生半可な気持ちじゃないんだから!」
彼女は言葉の勢いそのままに、書斎の中へと強引に体を割り込ませる。
「私を見くびらないでほしいわ! そんな陰湿な顔をしたハオリュウを放って、帰れるわけないでしょ! 馬鹿にしないで!」
強気に尖らせた唇で、クーティエは、ぐっと詰め寄った。鮮烈に煌めく眼差しが、至近距離からハオリュウを貫く。
いつもなら高く結い上げている髪は、慌てて家を出たために、まっすぐにおろされたまま。可憐に飛び跳ねるのではなく、優雅に宙を舞う。……艶めきながら、ハオリュウの腕を絡め取る。
「――!」
ハオリュウは声を詰まらせた。彼は、自分が話の流れを誤ったことに気づいたのだ。
クーティエに対し、誠実でありたい。だから、女王の婚約者を引き受けたと、きちんと告げるべきだと、彼は思った。
その事実で彼女を家に帰し、彼は扉を閉じるつもりだった。
だのに、彼女は、彼の懐に飛び込んできてしまった。
……何も言わずに、帰せばよかったのだろうか?
ハオリュウは、温和な外見とは裏腹に、必要とあらば、いくらでも詭弁を弄することのできる人間である。あるいは冷徹に振り払い、切り捨てる。だが――。
ハオリュウはクーティエを見つめ、観念したように溜め息を落とす。
彼女にだけは、自分を偽りたくなかった。
「カイウォル殿下は、僕に『ライシェン』の居場所を鷹刀一族から聞き出してくるよう、命じられたんだ」
「え!? それって、つまり、緋扇シュアンの命が惜しければ、『ライシェン』を差し出せ、ってこと……」
クーティエの顔が驚愕に染まった。まさか、ここで『ライシェン』が関係してくるとは思わなかったのだ。
しかし、衝撃は、それで終わりではなかった。「だからね」と、ハオリュウが温度のない声で続ける。
「僕は、この身を〈天使〉にすることに決めたよ」
ハオリュウの背後から、深い闇の幻が広がった。
それはまるで、昏い光を放つ『羽』のようで――。
言い知れぬ禍々しさが漂い、クーティエは身を震わせた。