残酷な描写あり
4.風凪の眠りに灯る光-2
深緑の街路樹の間を一台のバイクが駆け抜ける。
郊外に位置する、貴族の別荘地。綺麗に舗装された道路は滑らかで、車輪は摩擦を忘れたかのよう。家はまばらで人影もなく、木漏れ日の差す音すら聞こえてきそうな閑静さである。
ルイフォンは、タンデムシートのメイシアの体温を背中に感じながら、風を切っていた。
目指すは〈蠍〉の研究所跡。〈スー〉の家だ。
〈スー〉のプログラムの解析が終わるのは、まだまだ先の話なのであるが、埃だらけだという家の様子を聞いたメイシアが、〈スー〉の目覚めの日のために掃除をしておきたいと言ってくれたのだ。
「もし、ルイフォンが〈スー〉の解析作業で忙しいなら、私ひとりでも大丈夫だから……」
メイシアは、如何にも彼女らしく遠慮がちに申し出た。
「何を言ってんだよ? 勿論、俺も一緒に行く。それに、俺も掃除くらい手伝うよ」
「ありがとう! 嬉しい」
顔をほころばせる彼女を可愛らしく思いながら、ルイフォンは、あの家の状態を思い出す。
電気だけは通っていたものの、何年も放置されていた家だ。しかも、〈ケル〉の家の設計図をそのまま流用しただけあって、それなりに広い。掃除『くらい』というレベルの作業では済まないはずだ。専門の業者に頼まなければ無理だろう。
どう考えても、ふたりが一日掛けて掃除をしたところで、使えるような家にはならない。それは、分かりきっていた。だが、まずは、ふたりきりで行きたいと思ったのだ。
――そう。誰かに護衛を頼んだりせずに、『ふたりきり』だ。
ここ最近、ルイフォンは、一族を抜けて以来、怠けていた鍛錬を再開した。〈スー〉の解析作業で忙しくはあるのだが、やはり体を鍛えることも大切だと心を入れ替えたのだ。――勿論、万一のときに、メイシアを守り抜くためである。いくら、普段は鷹刀一族の厄介になることにしたとはいえ、たまには、メイシアと『ふたりきり』で出掛けたいからだ。
出発準備として、〈蠍〉の研究所跡の住所をエルファンに教えてもらった。前回は車で連れて行ってもらっただけなので、正確な位置を知らなかったのだ。そして、地図で確認したとき、ルイフォンは思わず感嘆の声を漏らした。
「母さん、やる気満々だな」
「え? どういうこと?」
首をかしげたメイシアに、ルイフォンは、にやりと口角を上げる。
「ほら、ここが、俺が昔、住んでいた〈ケル〉の家だろ? で、ここが〈ベロ〉のいる鷹刀の屋敷」
彼は、メイシアに地図を示す。
「そして、ここが〈蠍〉の研究所跡――〈スー〉の家」
ルイフォンが、〈ケル〉〈ベロ〉〈スー〉のいる三箇所を順に指でなぞると、地図上に、ほぼ正三角形の図形が描かれた。
「あ!」
敏いメイシアは、それだけで分かってくれたようだ。驚きの声を上げつつも、興奮を隠しきれない様子で、指先をそっと正三角形の中心に載せる。
桜色の爪の先が示したのは『神殿』――〈冥王〉が収められている場所である。
〈ケルベロス〉は、〈冥王〉を取り囲むように配置されていたのだ。
「まさに『包囲網』って、感じだな」
「キリファさん……。なんか、凄い……」
ふたりは顔を見合わせ、改めて、キリファの『〈冥王〉を破壊したい』という思いを受け止めた。――それを叶えるのか否かは、まだ未知数であるけれども。
閑散とした別荘地の中でも、更に周りからぽつんと取り残されたように、一軒だけ離れたところに〈スー〉の家はあった。その門扉の前で、ルイフォンはバイクを停める。
タンデムシートから降りたメイシアは、生け垣の隙間から雑草のはびこる庭を覗き見て、放心していた。思っていた以上に、荒れ放題だったのだろう。
しかし、目つきが徐々に真剣になっていく。この庭の手入れをする算段を組み立てているのだ。
「あのさ、先に言わなかったのは悪いんだけど、たぶん、俺たちが手作業で、この家を綺麗にするのは無理だと思う。あとで業者を頼むつもりだ」
「え……」
ルイフォンが少し申し訳ない気分で白状すると、案の定、メイシアは愕然とした面持ちで絶句した。どうやら、張り切っていたらしい。
そういえば、今日の彼女は、いつもは長くおろしている黒絹の髪を高い位置でひとつにまとめていた。てっきり暑いからだと思っていたのだが、作業の邪魔にならないようにとの意気込みだったのかもしれない。彼女が、がっくりと肩を落とすと、あらわになった白いうなじが、彼の目に眩しく映った。
「今日はさ、この家の状況を確認しようと思う。造りは〈ケル〉の家と同じなんだけど、置いてあるものとか、壊れてしまっているものとか、いろいろ把握しておきたいからさ」
「うん、分かった。――あ、桜……!」
ルイフォンに返事をしつつ、メイシアは庭の桜の木に気づいたらしい。嬉しそうに言葉尻を跳ねかせた。掃除の件では拍子抜けしたものの、気が遠くなるような作業がなくなって、心に余裕ができたのだろう。
濃い緑に覆われた木が、夏風にざわざわと枝葉を揺らす。
根本に置かれたベンチを見つけ、彼女は「わぁ」と声を漏らした。細部までもが〈ケル〉の家と、そっくりなことに気づいたのだ。
「ルイフォン」
「ん?」
「キリファさん、本当にこの家が好きだったのね。――エルファン様が設計してくださった、この家が」
葉擦れの音に、メイシアの微笑が溶ける。笑っているはずなのに、薄紅の唇はどこか儚げで、黒曜石の瞳は切なげに細められていた。
「メイシア?」
不思議な表情を見せる彼女に、ルイフォンは戸惑う。
「ルイフォンのお父様は、本当はイーレオ様じゃなくて、エルファン様なんじゃないか――って、レイウェンさんがおっしゃっていたのよね?」
「え? ああ。レイウェンの奴、どうしても俺を異母弟にしたがっていた。よく分かんねぇけど」
それは、菖蒲の館からの屈辱の敗走の末、レイウェンの家に寄らせてもらったときのことだ。レイウェンが強引に、異母兄を名乗ったのだ。
「その話、本当だと思うの。――だって、キリファさんは、こんなにもエルファン様を想っている……」
「はぁ? 母さんは、単に設計図を使いまわしただけだろ?」
「それだけだったら、庭まで同じにしなくてもいいと思うの」
「うーん……?」
メイシアの理屈はよく分からない。
ただ、母がずっとエルファンを想っていたことは、どうやら本当らしい。〈ケル〉がそんなことを匂わせていた。だから、ひょっとしたら……とは思うものの、実のところ、ルイフォンとしては父親が誰でも構わないのだ。
何故なら、彼はもう独立しているのだから。
そして何より、メイシアという伴侶が居るのだから。
イーレオのことも、エルファンのことも、血族だと思っているし、敬愛もしている。それで充分ではないかと思う。
「――けど。〈スー〉は、エルファンに逢いたいだろうな……」
「え?」
小さな呟きは風に紛れ、メイシアにはよく聞こえなかったようだ。彼女は、きょとんと彼を見上げる。
「早く、〈スー〉のプログラムの解析を終えなきゃな、ってことだ」
そう言って、ルイフォンはメイシアの手を引き、門扉を抜けた。
〈スー〉は、キリファではない。
たとえ〈スー〉が、母から作られた有機コンピュータであったとしても、母本人ではない。
死んだ人間は生き返らないのが、自然の理だからだ。
そして、おそらく『〈冥王〉の破壊』という目的が達成されたら、〈ケルベロス〉は消える。〈七つの大罪〉の技術を否定する母が設計したものであるのなら、それが道理だ。
だから、〈スー〉を目覚めさせても、いずれ別れを経験することになる。
それでも――。
家の中に足を踏み入れると、ふわりと埃が舞い上がった。かび臭さが、むわっと広がる。
庭の荒れ具合いから、メイシアは屋内の様子を覚悟していたらしく、驚くことはなかった。だが、如何にも廃屋然とした暗がりの廊下は、やはり怖かったようだ。ルイフォンの服の端をぎゅっと握りしめてきた。
だから彼は、華奢な肩をそっと抱き寄せる。
「メイシア、まずは地下だ」
前回、この家に来たときには、〈スー〉のいる地下へは行かなかった。〈スー〉のプログラムの解析が終わらないうちは、行くべきではないと思ったのだ。
けれど、今日は事情が違う。
業者に掃除を頼むつもりでありながら、わざわざメイシアと『ふたりきり』で来たのには、ちゃんと理由がある。
「お前を〈スー〉に――母さんに紹介したい」
「えっ」
薄明かりの中でも、はっきりと分かるほどに、黒曜石の瞳が大きく見開かれた。
「お前だって、俺のことをお継母さんに紹介してくれただろ? だから俺も、お前を母さんに紹介したいんだ」
〈スー〉は母ではないし、そもそも、まだ眠りの中だ。メイシアが彼を継母に紹介してくれたのとは、同じ意味にはならないだろう。
けれど、意義はあるはずだ。
「俺にとって母さんは、『乗り越えるべき壁』みたいな存在だった。母さんに認められれば『一人前』なんだと、ずっと思っていた」
昔を懐かしむように苦笑しながら、ルイフォンは語る。
「母さんが死んだとき、俺はまだまだ餓鬼だった。自分が『一人前』には、ほど遠いのは分かっていて、俺のことを認めさせる前に、母さんが死んじまったのが悔しかった」
メイシアの眉が曇った。
そんな顔はしなくてよいのだ。もうとっくに過ぎた過去の話だ。ルイフォンは柔らかな表情で、彼女の髪をくしゃりと撫でる。
「今だって、どうなれば『一人前』といえるのか、分かっているわけじゃない。でも俺は、お前と出逢って確実に変わったと思う。『一人前』に近づけたんじゃないかと思う。――だから、お前を母さんに見せたいんだ」
ルイフォンはメイシアを見つめ、覇気に満ちたテノールを響かせる。
「まぁ、結局のところ、お前のことを自慢したいだけかもな」
そう言って、得意げに口の端を上げた。
地下の造りも、当然のことながら〈ケル〉の家とそっくりで、迷うことはなかった。
奥の小部屋の手前には、ルイフォンが『張りぼて』と呼ぶ巨大なコンピュータが設置されており、体を芯から揺り動かすような騒音が鳴り響いていることも、また同じである。
この張りぼてに関しては、〈ベロ〉から新しい情報を得ていた。
曰く、光の珠の姿をした真の〈ケルベロス〉のために、張りぼての〈ケルベロス〉が、電気エネルギーを有機コンピュータが消費できる形の動力源に変換しているのだという。
このことは、ルイフォンがこんな質問をしたことから判明した。
『まさか、〈ケルベロス〉も、〈冥王〉みたいに人の血肉を喰らって動いている、ってことはねぇよな?』
なかば恐喝の口調で尋ねたら、人の世には関わらないと公言している〈ベロ〉も、さすがにかちんと来たのか、声を張り上げて教えてくれたのだ。
『キリファが、そんなものを作るわけないでしょ! お前が『張りぼて』呼ばわりしている、あのデカブツ。あれが、〈ケルベロス〉の『動力変換器』になっているのよ!』――と。
だから、眠っているとはいえ、密やかに息づいている真の〈スー〉に動力源を供給するために、張りぼての〈スー〉は無人の家で動き続けている。そう思うと、不快な振動も、どことなく頼もしかった。
それに――。
「メイシア」
轟音に声を掻き消されても、彼女はちゃんと分かってくれる。
彼が手を伸ばせば、彼女は手を重ね合わせてくれる。
そして、ふたりで〈スー〉の部屋の扉を開いた。
小部屋に入り、分厚い防音扉を閉じる。密封された空間に、今までの騒音が嘘のような静寂が訪れる。
照明のスイッチの在り処は知っていたが、あえて点けない。余計な光は、今は野暮だ。
部屋の奥を見やり、ルイフォンとメイシアは、同時に息を呑む。
漆黒の中に、神秘的な白金の光が、淡く浮かび上がっていた。
幻想的な輝きを放つ光の珠は、まるで寝息を立てるようにゆっくりと明るさを変えていく……。
ルイフォンは、メイシアの手を取った。
彼女の指先は、緊張で震えていた。そして、彼は、はっと気づく。
「よく考えたら、母さんに向かって堅苦しい挨拶なんて、可笑しいな」
「えっ!?」
「だって、俺は、最高のお前を母さんに見せたい。――だから、お前が笑っていなきゃ、意味がない!」
彼は、にやりと猫の目を細めた。そして、実に洗練された動作で、滑らかに彼女の膝裏をすくい上げる。
「え……? ――きゃっ!」
最近、鍛えていたのは伊達ではなく、メイシアの体は、あっという間に、軽々とルイフォンに抱き上げられた。
……とはいえ、不意打ちだった彼女は本気で驚き、必死に彼にしがみついてくる。
「ル、ルイフォン!」
遠慮がちな抗議の声は可愛らしく、その表情はいつもの自然なメイシアだ。
ルイフォンは満足気に微笑むと、光の珠へと近づき、晴れやかな声を響かせた。
「母さん、紹介するよ。俺のメイシアだ」
背筋を伸ばし、誇らしげに胸を張る。
「俺を幸せにしてくれる女。そして、俺が幸せにする女だ」
抜けるような青空の笑顔で宣告する。
腕の中のメイシアが、ぱっとルイフォンを見上げた。その瞳はうっすらと涙で潤み……、けれど、それはすぐに極上の笑みへと移り変わった。
そして、彼に床に下ろしてほしいと頼み、彼女もまた光の珠と正面から向き合う。
優雅に一礼し、祈りを捧げるように胸元で両手を組んだ。
「キリファさん。ルイフォンは、私がいつも笑っていられるように、と言ってくれるんです。だから私も、ルイフォンがいつも笑っていられるように尽くすと――誓います」
微笑みながらも、凛と響く声。
感極まったルイフォンは大きく腕を広げ、包み込むように彼女を抱きしめた。その動きに、彼の背で一本に編まれた髪も、彼女を守るように流れていく――。
光の珠が、ほのかに煌めく。
凪いだような静けさの中、ルイフォンの髪先を飾る金の鈴に、祝福の光を灯した。
~ 第十章 了 ~
~ 第二部 完 ~
郊外に位置する、貴族の別荘地。綺麗に舗装された道路は滑らかで、車輪は摩擦を忘れたかのよう。家はまばらで人影もなく、木漏れ日の差す音すら聞こえてきそうな閑静さである。
ルイフォンは、タンデムシートのメイシアの体温を背中に感じながら、風を切っていた。
目指すは〈蠍〉の研究所跡。〈スー〉の家だ。
〈スー〉のプログラムの解析が終わるのは、まだまだ先の話なのであるが、埃だらけだという家の様子を聞いたメイシアが、〈スー〉の目覚めの日のために掃除をしておきたいと言ってくれたのだ。
「もし、ルイフォンが〈スー〉の解析作業で忙しいなら、私ひとりでも大丈夫だから……」
メイシアは、如何にも彼女らしく遠慮がちに申し出た。
「何を言ってんだよ? 勿論、俺も一緒に行く。それに、俺も掃除くらい手伝うよ」
「ありがとう! 嬉しい」
顔をほころばせる彼女を可愛らしく思いながら、ルイフォンは、あの家の状態を思い出す。
電気だけは通っていたものの、何年も放置されていた家だ。しかも、〈ケル〉の家の設計図をそのまま流用しただけあって、それなりに広い。掃除『くらい』というレベルの作業では済まないはずだ。専門の業者に頼まなければ無理だろう。
どう考えても、ふたりが一日掛けて掃除をしたところで、使えるような家にはならない。それは、分かりきっていた。だが、まずは、ふたりきりで行きたいと思ったのだ。
――そう。誰かに護衛を頼んだりせずに、『ふたりきり』だ。
ここ最近、ルイフォンは、一族を抜けて以来、怠けていた鍛錬を再開した。〈スー〉の解析作業で忙しくはあるのだが、やはり体を鍛えることも大切だと心を入れ替えたのだ。――勿論、万一のときに、メイシアを守り抜くためである。いくら、普段は鷹刀一族の厄介になることにしたとはいえ、たまには、メイシアと『ふたりきり』で出掛けたいからだ。
出発準備として、〈蠍〉の研究所跡の住所をエルファンに教えてもらった。前回は車で連れて行ってもらっただけなので、正確な位置を知らなかったのだ。そして、地図で確認したとき、ルイフォンは思わず感嘆の声を漏らした。
「母さん、やる気満々だな」
「え? どういうこと?」
首をかしげたメイシアに、ルイフォンは、にやりと口角を上げる。
「ほら、ここが、俺が昔、住んでいた〈ケル〉の家だろ? で、ここが〈ベロ〉のいる鷹刀の屋敷」
彼は、メイシアに地図を示す。
「そして、ここが〈蠍〉の研究所跡――〈スー〉の家」
ルイフォンが、〈ケル〉〈ベロ〉〈スー〉のいる三箇所を順に指でなぞると、地図上に、ほぼ正三角形の図形が描かれた。
「あ!」
敏いメイシアは、それだけで分かってくれたようだ。驚きの声を上げつつも、興奮を隠しきれない様子で、指先をそっと正三角形の中心に載せる。
桜色の爪の先が示したのは『神殿』――〈冥王〉が収められている場所である。
〈ケルベロス〉は、〈冥王〉を取り囲むように配置されていたのだ。
「まさに『包囲網』って、感じだな」
「キリファさん……。なんか、凄い……」
ふたりは顔を見合わせ、改めて、キリファの『〈冥王〉を破壊したい』という思いを受け止めた。――それを叶えるのか否かは、まだ未知数であるけれども。
閑散とした別荘地の中でも、更に周りからぽつんと取り残されたように、一軒だけ離れたところに〈スー〉の家はあった。その門扉の前で、ルイフォンはバイクを停める。
タンデムシートから降りたメイシアは、生け垣の隙間から雑草のはびこる庭を覗き見て、放心していた。思っていた以上に、荒れ放題だったのだろう。
しかし、目つきが徐々に真剣になっていく。この庭の手入れをする算段を組み立てているのだ。
「あのさ、先に言わなかったのは悪いんだけど、たぶん、俺たちが手作業で、この家を綺麗にするのは無理だと思う。あとで業者を頼むつもりだ」
「え……」
ルイフォンが少し申し訳ない気分で白状すると、案の定、メイシアは愕然とした面持ちで絶句した。どうやら、張り切っていたらしい。
そういえば、今日の彼女は、いつもは長くおろしている黒絹の髪を高い位置でひとつにまとめていた。てっきり暑いからだと思っていたのだが、作業の邪魔にならないようにとの意気込みだったのかもしれない。彼女が、がっくりと肩を落とすと、あらわになった白いうなじが、彼の目に眩しく映った。
「今日はさ、この家の状況を確認しようと思う。造りは〈ケル〉の家と同じなんだけど、置いてあるものとか、壊れてしまっているものとか、いろいろ把握しておきたいからさ」
「うん、分かった。――あ、桜……!」
ルイフォンに返事をしつつ、メイシアは庭の桜の木に気づいたらしい。嬉しそうに言葉尻を跳ねかせた。掃除の件では拍子抜けしたものの、気が遠くなるような作業がなくなって、心に余裕ができたのだろう。
濃い緑に覆われた木が、夏風にざわざわと枝葉を揺らす。
根本に置かれたベンチを見つけ、彼女は「わぁ」と声を漏らした。細部までもが〈ケル〉の家と、そっくりなことに気づいたのだ。
「ルイフォン」
「ん?」
「キリファさん、本当にこの家が好きだったのね。――エルファン様が設計してくださった、この家が」
葉擦れの音に、メイシアの微笑が溶ける。笑っているはずなのに、薄紅の唇はどこか儚げで、黒曜石の瞳は切なげに細められていた。
「メイシア?」
不思議な表情を見せる彼女に、ルイフォンは戸惑う。
「ルイフォンのお父様は、本当はイーレオ様じゃなくて、エルファン様なんじゃないか――って、レイウェンさんがおっしゃっていたのよね?」
「え? ああ。レイウェンの奴、どうしても俺を異母弟にしたがっていた。よく分かんねぇけど」
それは、菖蒲の館からの屈辱の敗走の末、レイウェンの家に寄らせてもらったときのことだ。レイウェンが強引に、異母兄を名乗ったのだ。
「その話、本当だと思うの。――だって、キリファさんは、こんなにもエルファン様を想っている……」
「はぁ? 母さんは、単に設計図を使いまわしただけだろ?」
「それだけだったら、庭まで同じにしなくてもいいと思うの」
「うーん……?」
メイシアの理屈はよく分からない。
ただ、母がずっとエルファンを想っていたことは、どうやら本当らしい。〈ケル〉がそんなことを匂わせていた。だから、ひょっとしたら……とは思うものの、実のところ、ルイフォンとしては父親が誰でも構わないのだ。
何故なら、彼はもう独立しているのだから。
そして何より、メイシアという伴侶が居るのだから。
イーレオのことも、エルファンのことも、血族だと思っているし、敬愛もしている。それで充分ではないかと思う。
「――けど。〈スー〉は、エルファンに逢いたいだろうな……」
「え?」
小さな呟きは風に紛れ、メイシアにはよく聞こえなかったようだ。彼女は、きょとんと彼を見上げる。
「早く、〈スー〉のプログラムの解析を終えなきゃな、ってことだ」
そう言って、ルイフォンはメイシアの手を引き、門扉を抜けた。
〈スー〉は、キリファではない。
たとえ〈スー〉が、母から作られた有機コンピュータであったとしても、母本人ではない。
死んだ人間は生き返らないのが、自然の理だからだ。
そして、おそらく『〈冥王〉の破壊』という目的が達成されたら、〈ケルベロス〉は消える。〈七つの大罪〉の技術を否定する母が設計したものであるのなら、それが道理だ。
だから、〈スー〉を目覚めさせても、いずれ別れを経験することになる。
それでも――。
家の中に足を踏み入れると、ふわりと埃が舞い上がった。かび臭さが、むわっと広がる。
庭の荒れ具合いから、メイシアは屋内の様子を覚悟していたらしく、驚くことはなかった。だが、如何にも廃屋然とした暗がりの廊下は、やはり怖かったようだ。ルイフォンの服の端をぎゅっと握りしめてきた。
だから彼は、華奢な肩をそっと抱き寄せる。
「メイシア、まずは地下だ」
前回、この家に来たときには、〈スー〉のいる地下へは行かなかった。〈スー〉のプログラムの解析が終わらないうちは、行くべきではないと思ったのだ。
けれど、今日は事情が違う。
業者に掃除を頼むつもりでありながら、わざわざメイシアと『ふたりきり』で来たのには、ちゃんと理由がある。
「お前を〈スー〉に――母さんに紹介したい」
「えっ」
薄明かりの中でも、はっきりと分かるほどに、黒曜石の瞳が大きく見開かれた。
「お前だって、俺のことをお継母さんに紹介してくれただろ? だから俺も、お前を母さんに紹介したいんだ」
〈スー〉は母ではないし、そもそも、まだ眠りの中だ。メイシアが彼を継母に紹介してくれたのとは、同じ意味にはならないだろう。
けれど、意義はあるはずだ。
「俺にとって母さんは、『乗り越えるべき壁』みたいな存在だった。母さんに認められれば『一人前』なんだと、ずっと思っていた」
昔を懐かしむように苦笑しながら、ルイフォンは語る。
「母さんが死んだとき、俺はまだまだ餓鬼だった。自分が『一人前』には、ほど遠いのは分かっていて、俺のことを認めさせる前に、母さんが死んじまったのが悔しかった」
メイシアの眉が曇った。
そんな顔はしなくてよいのだ。もうとっくに過ぎた過去の話だ。ルイフォンは柔らかな表情で、彼女の髪をくしゃりと撫でる。
「今だって、どうなれば『一人前』といえるのか、分かっているわけじゃない。でも俺は、お前と出逢って確実に変わったと思う。『一人前』に近づけたんじゃないかと思う。――だから、お前を母さんに見せたいんだ」
ルイフォンはメイシアを見つめ、覇気に満ちたテノールを響かせる。
「まぁ、結局のところ、お前のことを自慢したいだけかもな」
そう言って、得意げに口の端を上げた。
地下の造りも、当然のことながら〈ケル〉の家とそっくりで、迷うことはなかった。
奥の小部屋の手前には、ルイフォンが『張りぼて』と呼ぶ巨大なコンピュータが設置されており、体を芯から揺り動かすような騒音が鳴り響いていることも、また同じである。
この張りぼてに関しては、〈ベロ〉から新しい情報を得ていた。
曰く、光の珠の姿をした真の〈ケルベロス〉のために、張りぼての〈ケルベロス〉が、電気エネルギーを有機コンピュータが消費できる形の動力源に変換しているのだという。
このことは、ルイフォンがこんな質問をしたことから判明した。
『まさか、〈ケルベロス〉も、〈冥王〉みたいに人の血肉を喰らって動いている、ってことはねぇよな?』
なかば恐喝の口調で尋ねたら、人の世には関わらないと公言している〈ベロ〉も、さすがにかちんと来たのか、声を張り上げて教えてくれたのだ。
『キリファが、そんなものを作るわけないでしょ! お前が『張りぼて』呼ばわりしている、あのデカブツ。あれが、〈ケルベロス〉の『動力変換器』になっているのよ!』――と。
だから、眠っているとはいえ、密やかに息づいている真の〈スー〉に動力源を供給するために、張りぼての〈スー〉は無人の家で動き続けている。そう思うと、不快な振動も、どことなく頼もしかった。
それに――。
「メイシア」
轟音に声を掻き消されても、彼女はちゃんと分かってくれる。
彼が手を伸ばせば、彼女は手を重ね合わせてくれる。
そして、ふたりで〈スー〉の部屋の扉を開いた。
小部屋に入り、分厚い防音扉を閉じる。密封された空間に、今までの騒音が嘘のような静寂が訪れる。
照明のスイッチの在り処は知っていたが、あえて点けない。余計な光は、今は野暮だ。
部屋の奥を見やり、ルイフォンとメイシアは、同時に息を呑む。
漆黒の中に、神秘的な白金の光が、淡く浮かび上がっていた。
幻想的な輝きを放つ光の珠は、まるで寝息を立てるようにゆっくりと明るさを変えていく……。
ルイフォンは、メイシアの手を取った。
彼女の指先は、緊張で震えていた。そして、彼は、はっと気づく。
「よく考えたら、母さんに向かって堅苦しい挨拶なんて、可笑しいな」
「えっ!?」
「だって、俺は、最高のお前を母さんに見せたい。――だから、お前が笑っていなきゃ、意味がない!」
彼は、にやりと猫の目を細めた。そして、実に洗練された動作で、滑らかに彼女の膝裏をすくい上げる。
「え……? ――きゃっ!」
最近、鍛えていたのは伊達ではなく、メイシアの体は、あっという間に、軽々とルイフォンに抱き上げられた。
……とはいえ、不意打ちだった彼女は本気で驚き、必死に彼にしがみついてくる。
「ル、ルイフォン!」
遠慮がちな抗議の声は可愛らしく、その表情はいつもの自然なメイシアだ。
ルイフォンは満足気に微笑むと、光の珠へと近づき、晴れやかな声を響かせた。
「母さん、紹介するよ。俺のメイシアだ」
背筋を伸ばし、誇らしげに胸を張る。
「俺を幸せにしてくれる女。そして、俺が幸せにする女だ」
抜けるような青空の笑顔で宣告する。
腕の中のメイシアが、ぱっとルイフォンを見上げた。その瞳はうっすらと涙で潤み……、けれど、それはすぐに極上の笑みへと移り変わった。
そして、彼に床に下ろしてほしいと頼み、彼女もまた光の珠と正面から向き合う。
優雅に一礼し、祈りを捧げるように胸元で両手を組んだ。
「キリファさん。ルイフォンは、私がいつも笑っていられるように、と言ってくれるんです。だから私も、ルイフォンがいつも笑っていられるように尽くすと――誓います」
微笑みながらも、凛と響く声。
感極まったルイフォンは大きく腕を広げ、包み込むように彼女を抱きしめた。その動きに、彼の背で一本に編まれた髪も、彼女を守るように流れていく――。
光の珠が、ほのかに煌めく。
凪いだような静けさの中、ルイフォンの髪先を飾る金の鈴に、祝福の光を灯した。
~ 第十章 了 ~
~ 第二部 完 ~