残酷な描写あり
1.真白き夜更け-3
「はっ!? セレイエの最期って、熱暴走なんだろ?」
メイシアは先ほど、そう言ったはずだ。
何故、またその話を? との疑問を含ませてルイフォンが問いかけると、彼女は曖昧に頷き、静かに口を開く。
「〈冥王〉への侵入から戻ってきて、ルイフォンにライシェンの記憶を預けたら、セレイエさんの熱暴走は、もう冷却剤をいくら飲んでも止まらなかった。もはや死は免れない。それが、はっきりと分かる状態だった。だから……」
メイシアの花の顔が、切なげに歪んだ。
「『ひと目でいいから、ヤンイェンに逢いたい』と言って、セレイエさんは、殿下が幽閉されている館に向かったの。彼女は最後の力を振り絞り、〈天使〉の羽を広げて、警備の者の目を――記憶を掻いくぐった……」
メイシアの背後で、レースのカーテンが、ふわりと風に舞った。
その瞬間、白い月光を浴びた彼女の背から羽が生えたように見え、ルイフォンは狼狽した。
「!?」
――無論、錯覚だった。
安堵すると同時に、どうかしていると、ルイフォンは自分を叱咤する。セレイエの最期を想像して〈天使〉の幻影を見たのだろうが、それをメイシアに重ねてしまうなんて縁起でもない。
動揺をメイシアに気取られぬよう、ルイフォンは先を促すような相槌を打ち、そっと表情を誤魔化した。
「今にも崩れ落ちそうなセレイエさんの背中を、ホンシュアは見送ったの。――ほら、私にセレイエさんの記憶を書き込んだのは、『セレイエさん本人』ではなくて『〈影〉のホンシュア』なわけでしょう? だから、私の知っている最期の光景は『ホンシュアの目線』になるの」
「ああ、そうか。……そうなるのか」
――ということは、セレイエは死んだとは限らない……?
ルイフォンの胸中に疑念がもたげる。
彼が顔色を変えたことに、メイシアは当然、気づいただろう。しかし、彼女はそのまま話を続けた。
「ホンシュアは、最後までセレイエさんと一緒にいたわけじゃないから、セレイエさんが無事に殿下と会えたかどうかは分からない。途中で力尽きてしまったかもしれないし、弱りきったところを警備の者に捕まり、酷い目に遭わされたかもしれない。――セレイエさんの最期の様子は、正確には分からないの……」
そこでメイシアは、うつむき加減になって薄紅の唇を噛み締める。
「どうした?」
「ルイフォン……」
「セレイエが生きている可能性を考えているんだな? ――お前も」
ルイフォンの問いに、メイシアの頭が一度こくりと動きかけ、しかし首は左右に振られた。
「メイシア?」
「ホンシュアは、セレイエさんが息を引き取るところを見ていない。だから、私は、セレイエさんが一命をとりとめた可能性を否定できない。――けど!」
メイシアが勢いよく顔を上げた。硬い表情で、まっすぐにルイフォンを見つめる。
「それは、希望的観測でしかないの……。――だって、私の中のセレイエさんの記憶が告げている。あの状態になった〈天使〉に助かる術などないって」
震える声で言い切ると、堪えきれなくなったように「ごめんなさい」と、黒曜石の瞳が伏せられた。
「セレイエさんの最期をありのまま伝えれば、ルイフォンが希望を持ってしまうのは分かりきっていた。私だって、セレイエさんが無事であってほしいと思う。私自身は、生きていると信じたい……」
鈴を転がすようなメイシアの声が徐々に薄れていき、そこから急に弾ける。
「――でも、あり得ないの……! ごめんなさい。黙っていたほうがよかったのかもしれないけど、ルイフォンには、ちゃんと言いたかったし、言うべきだと思ったから……」
細い首がうなだれ、黒絹の髪が顔を隠すように流れた。その姿は、消え入りそうなほどに儚げで、ルイフォンは思わず彼女を抱き寄せる。
「なんで、お前が謝るんだよ? 俺は、教えてくれて嬉しい。気を遣ってくれてありがとな」
心優しいメイシアにとって、もしかしたらという希望を、絶望に塗り替えて伝えねばならなかったのは、どんなに酷であったことだろう。
彼は彼女の髪をくしゃりと撫でる。
「セレイエは死んだんだろう。無事でいるのなら、俺たちに接触してくるはずだ」
「……うん」
細くかすれてはいたが、メイシアの声は、どこか胸のつかえが取れたような響きをしていた。
ルイフォンは気持ちを切り替えるように、「それよりさ」と、努めて明るい声を作る。
「俺たちが『ライシェン』を連れてきたことを、父親のヤンイェンに教えないとな。セレイエの計画にはなかった展開だろ? 心配するはずだ。――けど、平民から王族には近づけないし……、ヤンイェンが異変に気づいて、俺たちに連絡してくるのを待つ感じかな」
あの異父姉と恋に落ち、子供までもうけたという王族、ヤンイェン。
いったい、どんな人物なのか。
まだ見ぬ、事実上の義兄というべき相手への想像を膨らませていると、メイシアが申し訳なさそうに眉を寄せ、口ごもりながら「あのね」と切り出した。
「ヤンイェン殿下は、『デヴァイン・シンフォニア計画』のことをご存知ないの。だから、ルイフォンや私が『ライシェン』と関わりがあるなんて、まったく知らないの」
「なっ!?」
「確かにね、オリジナルのライシェンが殺された直後から、ヤンイェン殿下とセレイエさんは〈七つの大罪〉の技術で息子を生き返らせることを考えていた。でもそれは、王宮を離れ、三人で静かに暮らしたいという思いからで、『デヴァイン・シンフォニア計画』のように『ライシェン』を女王陛下の御子として誕生させる気なんてなかったの」
「なん……だって……?」
困惑に目を瞬かせるルイフォンに、メイシアが言葉を重ねる。
「殿下とセレイエさんは、息子を殺した先王陛下への憎しみはあったけれど、それはオリジナルのライシェンが人を殺してしまったからだと、理性で乗り越えようとしていた」
「え……?」
ルイフォンにとって、ヤンイェンは名前しか知らない相手だ。だから、先王を殺したという事実から血の気の多い男だと考えていた。しかし、どうやら違うらしい。
「じゃあ、ヤンイェンは、どうして先王を殺したんだ?」
「ライシェンを蘇生させようとしていることに気づいた先王陛下が、ヤンイェン殿下を呼び出して厳しくお叱りになったから。先王陛下は〈七つの大罪〉の『技術は禁忌だ』とおっしゃり、ヤンイェン殿下は『『ライシェン』には人を殺させないから認めてほしい』と主張した。ふたりは口論になって、殿下には堪えていた恨みもあって押さえきれずに――それで……」
ルイフォンは「なるほど」と納得しかけ、途中で、はっと矛盾に気づく。
「待った! 〈七つの大罪〉は、王を頂点とした秘密研究機関だろ? 先王にしてみれば、いわば『自分のところの組織』だ。そこで開発された技術を所有者自らが、なんで禁忌だなんて言うんだよ?」
「それは、先王陛下が〈七つの大罪〉の技術を憎んでらしたから。……ルイフォン、覚えている? 先王陛下は、王位を継ぐためだけに作られた『過去の王のクローン』だった、ってこと」
「あー……」
そういえば、ハオリュウと摂政の密談を盗み見たときに、そんな話が出た気がする。
愛情を与えてもらえなかった先王は〈七つの大罪〉の技術を拒み、クローンに頼らない王位継承者を求めて、公的には姉である女性を手籠めにした、と。
そして、生まれたのがヤンイェン。だから、先王とヤンイェンは実の父子だ。
「ヤンイェンは、実の父親を殺したことになるのか……」
「うん……」
メイシアは「いろいろ、あったの」と呟き、遠い日を思い出すような目で、遠くの白い月を見やる。
「あのね、ライシェンが生まれたとき、先王陛下が一番、喜んでくださったの。ご自身が作られた存在だったから、自然に生まれたライシェンを心から祝福してくださった。母親が平民だって構わない、って」
「はぁ? 嘘だろ?」
ルイフォンは反射的に不審の声を上げたが、この場でメイシアが嘘を言うはずもない。彼が気まずげに首をすくめると、月に照らされた彼女の横顔は、ただ悲しげに微笑んでいた。
「それが、どうして、こうなっちゃったんだろう……。誰も、悪くなかったはずなのに……」
「……!?」
今のは、セレイエの言葉だ。
メイシアが、セレイエの感情に流された。
戦慄する彼の前で、レースのカーテンが風に舞い、途方に暮れたように落とされたメイシアの肩をかすめた。差し込んできた白い光がふわりと広がり、彼女の背に再び幻影の羽を作り出す。
刹那。
ルイフォンの耳に、エルファンの言葉が蘇った。
『セレイエは、メイシアを『最強の〈天使〉』にして、その体を乗っ取ろうとしている』
メイシアが〈蝿〉のもとへさらわれる直前、エルファンは断片的な情報から、そう推測した。
だが、先ほどメイシアから明かされた『デヴァイン・シンフォニア計画』の『真の目的』からすれば、セレイエが願ってやまない『本物の愛』、『真実の愛』のためには、メイシアが乗っ取られる心配はないと信じてよいはずだ。
ただし。
メイシアが『最強の〈天使〉』になり得るのは真実。
娼館生まれの母キリファは、わずかに王族の血が混じっていたというだけで、力の強い〈天使〉となった。では、王族の血を色濃く引くメイシアならば――。
「!」
その瞬間、彼は理解した。
セレイエは、メイシアを『最強の〈天使〉』にして、『ライシェン』の庇護を託すつもりだ。
風がそよぎ、月光が差し込む。
黒絹の髪がなびき、白金の羽が背中に広がる。
「メイシア!」
ルイフォンは、思わず彼女の名を叫んだ。
急激に鼓動が跳ね上がり、全身に嫌な汗が噴き上がる。
……幻だ。
光の具合いで、そう見えただけだ……。
「ルイフォン!? どうしたの?」
「あ、いや……。……つまり、ヤンイェンが先王を殺して幽閉されたあとで、セレイエは『デヴァイン・シンフォニア計画』をひとりで組み上げた、ってわけだな。……ああ、そうか。ヤンイェンの解放を求めて、摂政を脅迫したとか言っていたしな……。ヤンイェンが身動きを取れないから、俺やメイシアに託したというわけか……」
ルイフォンはしどろもどろになりながら、無理やりに話を繋ぐ。
……気づいてしまったのだ。
否。無意識のうちに、気づいていたのだ。だから、メイシアに〈天使〉の幻影を見た。
メイシアは、ホンシュアと接触したときに、気づかぬうちに『セレイエの記憶』を受け取った。
ならば、そのとき、知らぬうちに『〈天使〉の羽』も受け取っていたとしてもおかしくない。
つまり――。
メイシアは、既に〈天使〉となっている可能性がある。
メイシアは先ほど、そう言ったはずだ。
何故、またその話を? との疑問を含ませてルイフォンが問いかけると、彼女は曖昧に頷き、静かに口を開く。
「〈冥王〉への侵入から戻ってきて、ルイフォンにライシェンの記憶を預けたら、セレイエさんの熱暴走は、もう冷却剤をいくら飲んでも止まらなかった。もはや死は免れない。それが、はっきりと分かる状態だった。だから……」
メイシアの花の顔が、切なげに歪んだ。
「『ひと目でいいから、ヤンイェンに逢いたい』と言って、セレイエさんは、殿下が幽閉されている館に向かったの。彼女は最後の力を振り絞り、〈天使〉の羽を広げて、警備の者の目を――記憶を掻いくぐった……」
メイシアの背後で、レースのカーテンが、ふわりと風に舞った。
その瞬間、白い月光を浴びた彼女の背から羽が生えたように見え、ルイフォンは狼狽した。
「!?」
――無論、錯覚だった。
安堵すると同時に、どうかしていると、ルイフォンは自分を叱咤する。セレイエの最期を想像して〈天使〉の幻影を見たのだろうが、それをメイシアに重ねてしまうなんて縁起でもない。
動揺をメイシアに気取られぬよう、ルイフォンは先を促すような相槌を打ち、そっと表情を誤魔化した。
「今にも崩れ落ちそうなセレイエさんの背中を、ホンシュアは見送ったの。――ほら、私にセレイエさんの記憶を書き込んだのは、『セレイエさん本人』ではなくて『〈影〉のホンシュア』なわけでしょう? だから、私の知っている最期の光景は『ホンシュアの目線』になるの」
「ああ、そうか。……そうなるのか」
――ということは、セレイエは死んだとは限らない……?
ルイフォンの胸中に疑念がもたげる。
彼が顔色を変えたことに、メイシアは当然、気づいただろう。しかし、彼女はそのまま話を続けた。
「ホンシュアは、最後までセレイエさんと一緒にいたわけじゃないから、セレイエさんが無事に殿下と会えたかどうかは分からない。途中で力尽きてしまったかもしれないし、弱りきったところを警備の者に捕まり、酷い目に遭わされたかもしれない。――セレイエさんの最期の様子は、正確には分からないの……」
そこでメイシアは、うつむき加減になって薄紅の唇を噛み締める。
「どうした?」
「ルイフォン……」
「セレイエが生きている可能性を考えているんだな? ――お前も」
ルイフォンの問いに、メイシアの頭が一度こくりと動きかけ、しかし首は左右に振られた。
「メイシア?」
「ホンシュアは、セレイエさんが息を引き取るところを見ていない。だから、私は、セレイエさんが一命をとりとめた可能性を否定できない。――けど!」
メイシアが勢いよく顔を上げた。硬い表情で、まっすぐにルイフォンを見つめる。
「それは、希望的観測でしかないの……。――だって、私の中のセレイエさんの記憶が告げている。あの状態になった〈天使〉に助かる術などないって」
震える声で言い切ると、堪えきれなくなったように「ごめんなさい」と、黒曜石の瞳が伏せられた。
「セレイエさんの最期をありのまま伝えれば、ルイフォンが希望を持ってしまうのは分かりきっていた。私だって、セレイエさんが無事であってほしいと思う。私自身は、生きていると信じたい……」
鈴を転がすようなメイシアの声が徐々に薄れていき、そこから急に弾ける。
「――でも、あり得ないの……! ごめんなさい。黙っていたほうがよかったのかもしれないけど、ルイフォンには、ちゃんと言いたかったし、言うべきだと思ったから……」
細い首がうなだれ、黒絹の髪が顔を隠すように流れた。その姿は、消え入りそうなほどに儚げで、ルイフォンは思わず彼女を抱き寄せる。
「なんで、お前が謝るんだよ? 俺は、教えてくれて嬉しい。気を遣ってくれてありがとな」
心優しいメイシアにとって、もしかしたらという希望を、絶望に塗り替えて伝えねばならなかったのは、どんなに酷であったことだろう。
彼は彼女の髪をくしゃりと撫でる。
「セレイエは死んだんだろう。無事でいるのなら、俺たちに接触してくるはずだ」
「……うん」
細くかすれてはいたが、メイシアの声は、どこか胸のつかえが取れたような響きをしていた。
ルイフォンは気持ちを切り替えるように、「それよりさ」と、努めて明るい声を作る。
「俺たちが『ライシェン』を連れてきたことを、父親のヤンイェンに教えないとな。セレイエの計画にはなかった展開だろ? 心配するはずだ。――けど、平民から王族には近づけないし……、ヤンイェンが異変に気づいて、俺たちに連絡してくるのを待つ感じかな」
あの異父姉と恋に落ち、子供までもうけたという王族、ヤンイェン。
いったい、どんな人物なのか。
まだ見ぬ、事実上の義兄というべき相手への想像を膨らませていると、メイシアが申し訳なさそうに眉を寄せ、口ごもりながら「あのね」と切り出した。
「ヤンイェン殿下は、『デヴァイン・シンフォニア計画』のことをご存知ないの。だから、ルイフォンや私が『ライシェン』と関わりがあるなんて、まったく知らないの」
「なっ!?」
「確かにね、オリジナルのライシェンが殺された直後から、ヤンイェン殿下とセレイエさんは〈七つの大罪〉の技術で息子を生き返らせることを考えていた。でもそれは、王宮を離れ、三人で静かに暮らしたいという思いからで、『デヴァイン・シンフォニア計画』のように『ライシェン』を女王陛下の御子として誕生させる気なんてなかったの」
「なん……だって……?」
困惑に目を瞬かせるルイフォンに、メイシアが言葉を重ねる。
「殿下とセレイエさんは、息子を殺した先王陛下への憎しみはあったけれど、それはオリジナルのライシェンが人を殺してしまったからだと、理性で乗り越えようとしていた」
「え……?」
ルイフォンにとって、ヤンイェンは名前しか知らない相手だ。だから、先王を殺したという事実から血の気の多い男だと考えていた。しかし、どうやら違うらしい。
「じゃあ、ヤンイェンは、どうして先王を殺したんだ?」
「ライシェンを蘇生させようとしていることに気づいた先王陛下が、ヤンイェン殿下を呼び出して厳しくお叱りになったから。先王陛下は〈七つの大罪〉の『技術は禁忌だ』とおっしゃり、ヤンイェン殿下は『『ライシェン』には人を殺させないから認めてほしい』と主張した。ふたりは口論になって、殿下には堪えていた恨みもあって押さえきれずに――それで……」
ルイフォンは「なるほど」と納得しかけ、途中で、はっと矛盾に気づく。
「待った! 〈七つの大罪〉は、王を頂点とした秘密研究機関だろ? 先王にしてみれば、いわば『自分のところの組織』だ。そこで開発された技術を所有者自らが、なんで禁忌だなんて言うんだよ?」
「それは、先王陛下が〈七つの大罪〉の技術を憎んでらしたから。……ルイフォン、覚えている? 先王陛下は、王位を継ぐためだけに作られた『過去の王のクローン』だった、ってこと」
「あー……」
そういえば、ハオリュウと摂政の密談を盗み見たときに、そんな話が出た気がする。
愛情を与えてもらえなかった先王は〈七つの大罪〉の技術を拒み、クローンに頼らない王位継承者を求めて、公的には姉である女性を手籠めにした、と。
そして、生まれたのがヤンイェン。だから、先王とヤンイェンは実の父子だ。
「ヤンイェンは、実の父親を殺したことになるのか……」
「うん……」
メイシアは「いろいろ、あったの」と呟き、遠い日を思い出すような目で、遠くの白い月を見やる。
「あのね、ライシェンが生まれたとき、先王陛下が一番、喜んでくださったの。ご自身が作られた存在だったから、自然に生まれたライシェンを心から祝福してくださった。母親が平民だって構わない、って」
「はぁ? 嘘だろ?」
ルイフォンは反射的に不審の声を上げたが、この場でメイシアが嘘を言うはずもない。彼が気まずげに首をすくめると、月に照らされた彼女の横顔は、ただ悲しげに微笑んでいた。
「それが、どうして、こうなっちゃったんだろう……。誰も、悪くなかったはずなのに……」
「……!?」
今のは、セレイエの言葉だ。
メイシアが、セレイエの感情に流された。
戦慄する彼の前で、レースのカーテンが風に舞い、途方に暮れたように落とされたメイシアの肩をかすめた。差し込んできた白い光がふわりと広がり、彼女の背に再び幻影の羽を作り出す。
刹那。
ルイフォンの耳に、エルファンの言葉が蘇った。
『セレイエは、メイシアを『最強の〈天使〉』にして、その体を乗っ取ろうとしている』
メイシアが〈蝿〉のもとへさらわれる直前、エルファンは断片的な情報から、そう推測した。
だが、先ほどメイシアから明かされた『デヴァイン・シンフォニア計画』の『真の目的』からすれば、セレイエが願ってやまない『本物の愛』、『真実の愛』のためには、メイシアが乗っ取られる心配はないと信じてよいはずだ。
ただし。
メイシアが『最強の〈天使〉』になり得るのは真実。
娼館生まれの母キリファは、わずかに王族の血が混じっていたというだけで、力の強い〈天使〉となった。では、王族の血を色濃く引くメイシアならば――。
「!」
その瞬間、彼は理解した。
セレイエは、メイシアを『最強の〈天使〉』にして、『ライシェン』の庇護を託すつもりだ。
風がそよぎ、月光が差し込む。
黒絹の髪がなびき、白金の羽が背中に広がる。
「メイシア!」
ルイフォンは、思わず彼女の名を叫んだ。
急激に鼓動が跳ね上がり、全身に嫌な汗が噴き上がる。
……幻だ。
光の具合いで、そう見えただけだ……。
「ルイフォン!? どうしたの?」
「あ、いや……。……つまり、ヤンイェンが先王を殺して幽閉されたあとで、セレイエは『デヴァイン・シンフォニア計画』をひとりで組み上げた、ってわけだな。……ああ、そうか。ヤンイェンの解放を求めて、摂政を脅迫したとか言っていたしな……。ヤンイェンが身動きを取れないから、俺やメイシアに託したというわけか……」
ルイフォンはしどろもどろになりながら、無理やりに話を繋ぐ。
……気づいてしまったのだ。
否。無意識のうちに、気づいていたのだ。だから、メイシアに〈天使〉の幻影を見た。
メイシアは、ホンシュアと接触したときに、気づかぬうちに『セレイエの記憶』を受け取った。
ならば、そのとき、知らぬうちに『〈天使〉の羽』も受け取っていたとしてもおかしくない。
つまり――。
メイシアは、既に〈天使〉となっている可能性がある。