残酷な描写あり
5.比翼連理の夢
天空の間の扉が、力任せに押し開けられた。
重厚なはずの扉は、金箔の縁取りを煌めかせながら、まるでカーテンのように軽々と吹き飛ばされる。
次の瞬間、ストレッチャーに載せられた硝子ケースが、勢いよく部屋になだれ込んできた。
それを押しているのは、血相を変えたリュイセンひとり。
ルイフォンは、ひと呼吸、遅れて入ってくる。――ただでさえ、リュイセンのほうが圧倒的に足が速い上に、リュイセンに斬られた腹の傷が、まだ治りきっていなかったためである。
そのまま〈蝿〉のところまで走り抜けようとしたリュイセンだが、ストレッチャーが突如、がくんと妙な動きをした。雲上を示す織りだとかいう、毛足の長い絨毯に車輪を取られたのだ。
硝子ケースの中で培養液が激しく揺れ、蓋の内側に水しぶきを打ち付ける。あわやストレッチャーから落ちそうに、というところで、リュイセンが体を張って硝子ケースを守った。
「リュイセン!」
後ろから来たルイフォンが叫ぶ。
リュイセンは弟分の意図を即座に解し、ふたりで同時に硝子ケースを持ち上げた。扱いに気をつけながらも、全速力で〈蝿〉のもとへと運ぶ。
そして、〈蝿〉は――。
「ヘイシャオ!」
彼を呼んだのは、エルファンか。それとも、リュイセンか。
一族特有の声質は、口元を見なければ判別できないほどに、よく似ている。しかし、もはや彼には、重い瞼を開けるだけの力は残っていなかった。
この命の灯火は、今、消える。
周りの気配から、リュイセンたちが到着したのが分かった。
どうやら自分は、『ミンウェイ』が来るまで持ちこたえたようだ。リュイセンのせっかくの心遣い、無下にして逝くのも後味が悪い。間に合ってよかった。
安堵に意識を手放そうとした瞬間、自分がなんの反応も示さなければ、『ミンウェイ』が臨終に立ち会えたことを誰も知り得ないのだと気づき、彼は自嘲する。
「ヘイシャオ!」
歓喜の声が上がった。彼の頬が動いたのが分かったのだろう。
ああ、この声色はリュイセンだ。
ありがとう。これで私は……。
「ヘイシャオ、大変なんだ!」
彼の思考を遮るように、リュイセンの声が響いた。
「『彼女』が起きている! けど、苦しそうなんだ! 助けてくれ!」
耳朶を打つ、リュイセンの必死の叫び。
何を言われたのか、彼は一瞬、理解できなかった。
――『ミンウェイ』が、目覚めた……?
そんな馬鹿な、と彼は否定する。
あの硝子ケースは、肉体を育むための揺り籠。培養液の羊水に包まれ、中の生命は胎児のように昏々と眠り続けるようにできている。
凍結処理の施されていない『ミンウェイ』の肉体は眠ったまま、時の流れと共に成長し、老いて死を迎え、やがて朽ちていくのだ。
それが、オリジナルのヘイシャオが望んだこと。
何故なら、ケース内部の環境を維持するための電源設備が、特注の大容量のものに付け替えられていたから。あの硝子ケースは、彼女が天寿を全うするまで稼働し続けるように設計され、古びた研究室に残されていた。誰からも忘れ去られたような場所に、密やかに。
外部からの電力供給に頼らずに、微生物を利用した培養液を一定の状態に保つ。そうすることで、硝子ケース単体で――完成された世界で、ただ時を重ねる。そんな仕組みを作り上げ、ヘイシャオはこの世を去った。
勿論、硝子ケースの中から出せば、彼女は目覚めるだろう。彼が、ホンシュアに目覚めさせられたのと同じように。
しかし、すぐに記憶を書き込まれた彼とは違い、ただ肉体だけが成長した彼女が外に出されたとき、彼女の精神は胎児のままだ。だから、彼女を外に出そうなどという考えは、彼の心の片隅にも浮かばなかった。
それが……。
『ミンウェイ』が起きて……苦しんでいる――!?
彼の双眸が、かっと見開かれた。
――ミンウェイ!
目の前に『ミンウェイ』の硝子ケースがあった。裸体を隠す長い髪を振り乱し、苦しげに身をよじりながら、閉じられたケースの中で培養液を掻き分けている。
彼女が求めているのは、彼だ。
封じられた空間の中から、彼に向かって懸命に手を伸ばしている。
肌が青白く見えるのは、硝子越しだから、培養液を通してだから、ではない。彼女の顔には、明らかに死相が現れている。
――ミンウェイ!?
まるで力の入らなかったはずの彼の腕が動く。彼はソファーに横たわったまま、透明なケースに手を触れる。
硬質な硝子の感触。
彼女の柔らかな手は、その向こう。
すぐそこに彼女は居るのに、ふたりの世界は隔てられている。
――彼女に、触れたい……。
彼の目尻から、熱い涙がすっと流れ落ちた。
そのときだった。
「〈蝿〉……! 『彼女』のケースを開けてもいいですか!」
叫んだのは、想像もしていなかった人物――メイシア。
質問であるはずなのに、彼女の言葉は断定だった。
「私には、ホンシュアの記憶があります! このケースの開け方は、分かります!」
彼が息を呑むのと、メイシアが長い黒絹の髪を翻したのとは、ほぼ同時だった。
硝子ケースの開閉には、それなりに複雑な手順が必要だ。しかし、メイシアの指先は迷うことなく、高速でパネルを操作した。まるでホンシュアに乗り移られたかのように。
驚愕する彼が瞬きをひとつしている間に、ケース内外の気圧差による鋭い音が上がり、蓋が開いた。培養液の飛沫が上がり、太陽を象るという豪奢なシャンデリアの光を乱反射させる。
「あな、た……!」
あえぐ声で、彼女が叫んだ。
弱々しい手が、空をもがく。
硝子ケースの縁に指をかけ、彼女は起き上がろうとする。しかし、すぐに培養液の中へと沈んだ。自分の体を支えるだけの力がないのだ。
それを見たリュイセンが「失礼します!」と断りを入れ、裸体の彼女から目を背けながら抱き上げた。ソファーのそばに、そっと下ろし、着ていた上着を彼女に掛ける。
そして――。
彼女の手が、彼へと伸ばされる。
彼の手もまた、引き寄せられるように彼女へと向かう。
掌が触れ合い、指先が絡み合う。
彼は、残っていたすべての力を使って、彼女を抱き寄せた。
柔らかで温かな彼女の体が、腕の中に収まる。ずっと空虚だった胸が満たされていく。
彼女の歓喜の溜め息が、彼の頬を優しく撫でた。
「やっと……、あなたに……」
「…………っ」
彼の顔が、切なげに揺れた。
彼の記憶は、ホンシュアによって、オリジナルのヘイシャオのものに上書きされてしまった。だから彼は、彼女と共に、この硝子ケースで過ごした時間を忘れてしまっている。
「そんな顔……しないで。……私、ちゃんと……分かっている。……全部」
「!?」
眉を寄せた彼に、彼女がにこりと笑いかける。
切れ長の目尻に、涙を浮かべながら。
「創造主が……、私たちが何者であるか……言っていたの、聞いている。〈天使〉が……あなたの記憶……奪ったのも……知っている。大丈夫……、安心して……」
彼女の言葉は、どこか舌足らずだった。苦しそうであるのを差し引いても、たどたどしさを感じる。
まるで、幼い子供のような。けれど、言い回しは、どこか小難しく……?
そう思い、彼は直感的に悟った。
培養液の中の生命は深い眠りに落ちていて、外界のことは何も知覚できないものと考えていたが、そうではないのだ。意識を深層に沈めながらも、好奇心いっぱいに広い世界を求めていたのだ。
だから、そばにいたであろう、オリジナルのヘイシャオから言葉を知り、知識を得た。――彼と彼女ならば、おそらく。きっと、そうしたはずだ……。
「そうか……。なら、……教えてほしい。……私たちは『何』なのだ?」
それは長い間、疑問だったこと。
オリジナルのヘイシャオは何故、『成長する体』の『ふたり』をこの世に遺して、死んだのか。
凍結処理で時を止め、彼と彼女が共に在る幸せな刹那を、永遠に留めておこうとしたのならば理解できる。しかし、老いて朽ちていき、やがて消えていくだけの体を残すなど、まったくの無意味だ。
腕の中の彼女が、ふわりと顔を上げた。今まで培養液に浸かっていた髪から、きらきらと水滴がこぼれ落ちる。まるで、彼女の笑顔を彩るかのように。
「私たちは……『比翼連理の夢』……」
「『比翼連理の夢』……!?」
謎めいた彼女の言葉を、彼は繰り返した。
「創造主が……そう呼んでいた。私たちは、創造主の夢……。創造主が、焦がれた……理想」
「オリジナルの理想!?」
訝しげに顔をしかめた彼に、彼女は続ける。
「創造主は……自分の憧れを……形にしたかった。……死ぬ前に、残したかった……。……だから、作った。……それが、私たち……」
「…………!?」
「私たちは……創造主の願い……。……創造主は……私たちに、託した。……叶えたかった夢を」
「オリジナルが……叶えたかった……夢」
彼の心臓が早鐘を打った。
それは、死の淵にいる彼が、より『死』に近づいているからか、それとも、彼の『生』の真実へと近づいているからか――。
「創造主は、言っていた……」
俺は、夢物語の願いを叶える。
君と共に、歳を取りたい。
君のそばで、永遠に在りたい。
君と刹那を積み上げ、刹那を繋ぎ合わせ、刹那を連ね続け……。
刹那を重ねていけば、それは、いつかきっと、永遠になる。
「――!」
彼の瞳が、いっぱいに見開かれた。
やっと、理解できた。
オリジナルが何故、『成長する体』の『ふたり』をこの世に遺したのか――。
「そうだ……。私は……ミンウェイと共に生きたかった……、ただ、それだけだ……」
彼は、呆然と呟く。
ささやかな願いだった。
共に時を過ごし、共に歳を重ねて……、それは尊く、儚い願いだった。
だから、オリジナルは夢見たのだ。
刹那の時を止めて永遠にするのではなく、刹那を続けて永遠になりたいと――。
「……そう。……創造主は、妻と共に生きて……」
彼女の口元が愛しげにほころび、彼を見つめる目元が切なげに細められた。
「共に死にたかった……」
「……え……?」
ぞわりと、悪寒が走る。
無意識の内に、彼は強く彼女を抱きしめていた。――その手が、小刻みに震えている。
「……顕界でも、幽界でも……、片時も離れることなく……共に在る。……それが、創造主の理想……夢」
「っ!」
ひくりと胸が跳ね、鋭い音を立てて息を吸い込む。それを吐き出しながら、彼は、かすれた声で呟く。
「それは……どういう……」
尋ねながらも、悟っていた。だから、その問いは、決定的な事実を突きつけられるための前段階に過ぎなかった。
決して目覚めないはずの彼女が、苦しさのあまりに培養液の中で目を開けた。
それは、すなわち――。
「創造主は……、私たちが、決して離れたりしないように……、私たち『ふたり』の命を、『ひとつ』にした……魔法……みたいな……技術で。……どちらかが、置き去りに、ならないように……。自分と妻のように……、『死』によって、分かたれたり……しないように」
「……つまり……、私が……死ねば……、君も……」
「うん」
全身を慄かせる彼に、彼女は無邪気な笑顔で頷いた。
「私たちは……どこまでも一緒。……決して離れない。……私たちは……〈悪魔〉の創造主が作った……『比翼連理の夢』……だから」
「……『悪魔』……め……!」
彼は、唇を噛みしめる。
彼の選択は、決して間違っていなかったはずだ。
最高の終幕だったはずだ。
けれど、彼女の命が懸かっていたのなら――……。
「……あなた。……あなたは、きっと……、今の状況に……憤ると、思っていた。……その通り、だった。……でも、私は……今、この刹那を……奇跡だと、思っている……」
不可思議な顔で、彼女は笑う。
培養液で濡れた髪が、艶めく色香を漂わせる。なのに、彼女の瞳は幼子のようで……、どこまでも純粋に、澄み渡っていて――。
「何を……言っているんだ!? 私が、君を……殺してしまう……! 私は……誰よりも、……君の『生』を願っていたはずなのに……!」
彼の悲痛な叫びに、彼女は、ふわりと微笑んだ。
「……ねぇ、あなた。……安全な培養液の中で、眠り続けることは……本当に『生きている』……と思う?」
「!?」
「創造主の願いは……老いるまで、共に生き……共に死ぬ、ことだった。……でも、私の願いは……違う」
あどけない口調であるにも関わらず、大人びた魅惑の響きで彼女は告げる。
「私は……眠りの中で……、一生を終えたくは……ない……! たとえ刹那でも……、あなたと、ちゃんと……『生きたい』!」
彼を叱咤するような美声は、魔性を帯びていた。彼女の言葉に抗うことを忘れ、彼は声を失う。
「培養液の中で漂いながら……、時々、肌が触れるだけ、は……違う……! こうして……あなたと、言葉を交わし……、意思を持って……抱きしめたかった……ずっと!」
苦しげでありながらも、懸命な声。知れず、彼の魂は震え、魅入られる。
「だから、今……この刹那! ……私は……『生きている』……!」
「……っ」
「やっと、言える……。やっと、伝えられる……。やっと、私の願い……叶う!」
土気色の彼女の唇が、艶やかに咲き誇った。大輪の花のように、この上もなく美しく。
「愛している……あなたを……!」
涙をたたえた彼女の瞳が、彼を捕らえた。
その瞬間、まるで見えない糸に導かれたかのように、彼は彼女に口づけた。
彼女と過ごした記憶はなくとも、彼もまた、ずっと彼女を愛していたのだと魂が識っていた。
体温を失いつつある、ふたつの冷たい唇が重なり、熱い吐息が生まれる。
『生きている』と、感じる。
創造主たる〈悪魔〉が遺した眠りの魔法は、本来なら解けないはずの呪術だった。
だから――。
この刹那は、奇跡。
「愛している」
彼は、彼女に囁く。
この『生』が良いものであったとは思わない。――自分にとっても、他者にとっても。
けれども……。
「ありがとう」
この『生』で出会った、すべての人々に感謝を――。
そして――。
「ミンウェイ……」
不意に、〈蝿〉が娘へと振り返った。
彼は、満ち足りたような、穏やかな顔をしていた。
真っ赤な目をしていたミンウェイは、うまく返事ができず、しゃくりあげる。
「幸せにおなり……」
〈蝿〉が微笑む。
その隣で、『彼女』も微笑む。
ふたりで――とても、幸せそうに。
「――、――っ!」
ミンウェイは奥歯を噛み締め、叫びだしそうになるのを必死にこらえた。
『はい』と答えるべきなのに、言葉が出なかった。代わりに、涙があふれてきた。
ふたりの姿に、両親の墓標が重なる。
仲睦まじく寄り添う、あの海を臨む丘の潮騒が聞こえる……。
『ミンウェイ、幸せにおなり……』
耳の中で反響する、〈蝿〉の優しい低音。
寄せて返す波のような。揺り籠のような……。
そして、ふたりは――。
すうっと潮が引いていくように、静かに息を引き取った。
重厚なはずの扉は、金箔の縁取りを煌めかせながら、まるでカーテンのように軽々と吹き飛ばされる。
次の瞬間、ストレッチャーに載せられた硝子ケースが、勢いよく部屋になだれ込んできた。
それを押しているのは、血相を変えたリュイセンひとり。
ルイフォンは、ひと呼吸、遅れて入ってくる。――ただでさえ、リュイセンのほうが圧倒的に足が速い上に、リュイセンに斬られた腹の傷が、まだ治りきっていなかったためである。
そのまま〈蝿〉のところまで走り抜けようとしたリュイセンだが、ストレッチャーが突如、がくんと妙な動きをした。雲上を示す織りだとかいう、毛足の長い絨毯に車輪を取られたのだ。
硝子ケースの中で培養液が激しく揺れ、蓋の内側に水しぶきを打ち付ける。あわやストレッチャーから落ちそうに、というところで、リュイセンが体を張って硝子ケースを守った。
「リュイセン!」
後ろから来たルイフォンが叫ぶ。
リュイセンは弟分の意図を即座に解し、ふたりで同時に硝子ケースを持ち上げた。扱いに気をつけながらも、全速力で〈蝿〉のもとへと運ぶ。
そして、〈蝿〉は――。
「ヘイシャオ!」
彼を呼んだのは、エルファンか。それとも、リュイセンか。
一族特有の声質は、口元を見なければ判別できないほどに、よく似ている。しかし、もはや彼には、重い瞼を開けるだけの力は残っていなかった。
この命の灯火は、今、消える。
周りの気配から、リュイセンたちが到着したのが分かった。
どうやら自分は、『ミンウェイ』が来るまで持ちこたえたようだ。リュイセンのせっかくの心遣い、無下にして逝くのも後味が悪い。間に合ってよかった。
安堵に意識を手放そうとした瞬間、自分がなんの反応も示さなければ、『ミンウェイ』が臨終に立ち会えたことを誰も知り得ないのだと気づき、彼は自嘲する。
「ヘイシャオ!」
歓喜の声が上がった。彼の頬が動いたのが分かったのだろう。
ああ、この声色はリュイセンだ。
ありがとう。これで私は……。
「ヘイシャオ、大変なんだ!」
彼の思考を遮るように、リュイセンの声が響いた。
「『彼女』が起きている! けど、苦しそうなんだ! 助けてくれ!」
耳朶を打つ、リュイセンの必死の叫び。
何を言われたのか、彼は一瞬、理解できなかった。
――『ミンウェイ』が、目覚めた……?
そんな馬鹿な、と彼は否定する。
あの硝子ケースは、肉体を育むための揺り籠。培養液の羊水に包まれ、中の生命は胎児のように昏々と眠り続けるようにできている。
凍結処理の施されていない『ミンウェイ』の肉体は眠ったまま、時の流れと共に成長し、老いて死を迎え、やがて朽ちていくのだ。
それが、オリジナルのヘイシャオが望んだこと。
何故なら、ケース内部の環境を維持するための電源設備が、特注の大容量のものに付け替えられていたから。あの硝子ケースは、彼女が天寿を全うするまで稼働し続けるように設計され、古びた研究室に残されていた。誰からも忘れ去られたような場所に、密やかに。
外部からの電力供給に頼らずに、微生物を利用した培養液を一定の状態に保つ。そうすることで、硝子ケース単体で――完成された世界で、ただ時を重ねる。そんな仕組みを作り上げ、ヘイシャオはこの世を去った。
勿論、硝子ケースの中から出せば、彼女は目覚めるだろう。彼が、ホンシュアに目覚めさせられたのと同じように。
しかし、すぐに記憶を書き込まれた彼とは違い、ただ肉体だけが成長した彼女が外に出されたとき、彼女の精神は胎児のままだ。だから、彼女を外に出そうなどという考えは、彼の心の片隅にも浮かばなかった。
それが……。
『ミンウェイ』が起きて……苦しんでいる――!?
彼の双眸が、かっと見開かれた。
――ミンウェイ!
目の前に『ミンウェイ』の硝子ケースがあった。裸体を隠す長い髪を振り乱し、苦しげに身をよじりながら、閉じられたケースの中で培養液を掻き分けている。
彼女が求めているのは、彼だ。
封じられた空間の中から、彼に向かって懸命に手を伸ばしている。
肌が青白く見えるのは、硝子越しだから、培養液を通してだから、ではない。彼女の顔には、明らかに死相が現れている。
――ミンウェイ!?
まるで力の入らなかったはずの彼の腕が動く。彼はソファーに横たわったまま、透明なケースに手を触れる。
硬質な硝子の感触。
彼女の柔らかな手は、その向こう。
すぐそこに彼女は居るのに、ふたりの世界は隔てられている。
――彼女に、触れたい……。
彼の目尻から、熱い涙がすっと流れ落ちた。
そのときだった。
「〈蝿〉……! 『彼女』のケースを開けてもいいですか!」
叫んだのは、想像もしていなかった人物――メイシア。
質問であるはずなのに、彼女の言葉は断定だった。
「私には、ホンシュアの記憶があります! このケースの開け方は、分かります!」
彼が息を呑むのと、メイシアが長い黒絹の髪を翻したのとは、ほぼ同時だった。
硝子ケースの開閉には、それなりに複雑な手順が必要だ。しかし、メイシアの指先は迷うことなく、高速でパネルを操作した。まるでホンシュアに乗り移られたかのように。
驚愕する彼が瞬きをひとつしている間に、ケース内外の気圧差による鋭い音が上がり、蓋が開いた。培養液の飛沫が上がり、太陽を象るという豪奢なシャンデリアの光を乱反射させる。
「あな、た……!」
あえぐ声で、彼女が叫んだ。
弱々しい手が、空をもがく。
硝子ケースの縁に指をかけ、彼女は起き上がろうとする。しかし、すぐに培養液の中へと沈んだ。自分の体を支えるだけの力がないのだ。
それを見たリュイセンが「失礼します!」と断りを入れ、裸体の彼女から目を背けながら抱き上げた。ソファーのそばに、そっと下ろし、着ていた上着を彼女に掛ける。
そして――。
彼女の手が、彼へと伸ばされる。
彼の手もまた、引き寄せられるように彼女へと向かう。
掌が触れ合い、指先が絡み合う。
彼は、残っていたすべての力を使って、彼女を抱き寄せた。
柔らかで温かな彼女の体が、腕の中に収まる。ずっと空虚だった胸が満たされていく。
彼女の歓喜の溜め息が、彼の頬を優しく撫でた。
「やっと……、あなたに……」
「…………っ」
彼の顔が、切なげに揺れた。
彼の記憶は、ホンシュアによって、オリジナルのヘイシャオのものに上書きされてしまった。だから彼は、彼女と共に、この硝子ケースで過ごした時間を忘れてしまっている。
「そんな顔……しないで。……私、ちゃんと……分かっている。……全部」
「!?」
眉を寄せた彼に、彼女がにこりと笑いかける。
切れ長の目尻に、涙を浮かべながら。
「創造主が……、私たちが何者であるか……言っていたの、聞いている。〈天使〉が……あなたの記憶……奪ったのも……知っている。大丈夫……、安心して……」
彼女の言葉は、どこか舌足らずだった。苦しそうであるのを差し引いても、たどたどしさを感じる。
まるで、幼い子供のような。けれど、言い回しは、どこか小難しく……?
そう思い、彼は直感的に悟った。
培養液の中の生命は深い眠りに落ちていて、外界のことは何も知覚できないものと考えていたが、そうではないのだ。意識を深層に沈めながらも、好奇心いっぱいに広い世界を求めていたのだ。
だから、そばにいたであろう、オリジナルのヘイシャオから言葉を知り、知識を得た。――彼と彼女ならば、おそらく。きっと、そうしたはずだ……。
「そうか……。なら、……教えてほしい。……私たちは『何』なのだ?」
それは長い間、疑問だったこと。
オリジナルのヘイシャオは何故、『成長する体』の『ふたり』をこの世に遺して、死んだのか。
凍結処理で時を止め、彼と彼女が共に在る幸せな刹那を、永遠に留めておこうとしたのならば理解できる。しかし、老いて朽ちていき、やがて消えていくだけの体を残すなど、まったくの無意味だ。
腕の中の彼女が、ふわりと顔を上げた。今まで培養液に浸かっていた髪から、きらきらと水滴がこぼれ落ちる。まるで、彼女の笑顔を彩るかのように。
「私たちは……『比翼連理の夢』……」
「『比翼連理の夢』……!?」
謎めいた彼女の言葉を、彼は繰り返した。
「創造主が……そう呼んでいた。私たちは、創造主の夢……。創造主が、焦がれた……理想」
「オリジナルの理想!?」
訝しげに顔をしかめた彼に、彼女は続ける。
「創造主は……自分の憧れを……形にしたかった。……死ぬ前に、残したかった……。……だから、作った。……それが、私たち……」
「…………!?」
「私たちは……創造主の願い……。……創造主は……私たちに、託した。……叶えたかった夢を」
「オリジナルが……叶えたかった……夢」
彼の心臓が早鐘を打った。
それは、死の淵にいる彼が、より『死』に近づいているからか、それとも、彼の『生』の真実へと近づいているからか――。
「創造主は、言っていた……」
俺は、夢物語の願いを叶える。
君と共に、歳を取りたい。
君のそばで、永遠に在りたい。
君と刹那を積み上げ、刹那を繋ぎ合わせ、刹那を連ね続け……。
刹那を重ねていけば、それは、いつかきっと、永遠になる。
「――!」
彼の瞳が、いっぱいに見開かれた。
やっと、理解できた。
オリジナルが何故、『成長する体』の『ふたり』をこの世に遺したのか――。
「そうだ……。私は……ミンウェイと共に生きたかった……、ただ、それだけだ……」
彼は、呆然と呟く。
ささやかな願いだった。
共に時を過ごし、共に歳を重ねて……、それは尊く、儚い願いだった。
だから、オリジナルは夢見たのだ。
刹那の時を止めて永遠にするのではなく、刹那を続けて永遠になりたいと――。
「……そう。……創造主は、妻と共に生きて……」
彼女の口元が愛しげにほころび、彼を見つめる目元が切なげに細められた。
「共に死にたかった……」
「……え……?」
ぞわりと、悪寒が走る。
無意識の内に、彼は強く彼女を抱きしめていた。――その手が、小刻みに震えている。
「……顕界でも、幽界でも……、片時も離れることなく……共に在る。……それが、創造主の理想……夢」
「っ!」
ひくりと胸が跳ね、鋭い音を立てて息を吸い込む。それを吐き出しながら、彼は、かすれた声で呟く。
「それは……どういう……」
尋ねながらも、悟っていた。だから、その問いは、決定的な事実を突きつけられるための前段階に過ぎなかった。
決して目覚めないはずの彼女が、苦しさのあまりに培養液の中で目を開けた。
それは、すなわち――。
「創造主は……、私たちが、決して離れたりしないように……、私たち『ふたり』の命を、『ひとつ』にした……魔法……みたいな……技術で。……どちらかが、置き去りに、ならないように……。自分と妻のように……、『死』によって、分かたれたり……しないように」
「……つまり……、私が……死ねば……、君も……」
「うん」
全身を慄かせる彼に、彼女は無邪気な笑顔で頷いた。
「私たちは……どこまでも一緒。……決して離れない。……私たちは……〈悪魔〉の創造主が作った……『比翼連理の夢』……だから」
「……『悪魔』……め……!」
彼は、唇を噛みしめる。
彼の選択は、決して間違っていなかったはずだ。
最高の終幕だったはずだ。
けれど、彼女の命が懸かっていたのなら――……。
「……あなた。……あなたは、きっと……、今の状況に……憤ると、思っていた。……その通り、だった。……でも、私は……今、この刹那を……奇跡だと、思っている……」
不可思議な顔で、彼女は笑う。
培養液で濡れた髪が、艶めく色香を漂わせる。なのに、彼女の瞳は幼子のようで……、どこまでも純粋に、澄み渡っていて――。
「何を……言っているんだ!? 私が、君を……殺してしまう……! 私は……誰よりも、……君の『生』を願っていたはずなのに……!」
彼の悲痛な叫びに、彼女は、ふわりと微笑んだ。
「……ねぇ、あなた。……安全な培養液の中で、眠り続けることは……本当に『生きている』……と思う?」
「!?」
「創造主の願いは……老いるまで、共に生き……共に死ぬ、ことだった。……でも、私の願いは……違う」
あどけない口調であるにも関わらず、大人びた魅惑の響きで彼女は告げる。
「私は……眠りの中で……、一生を終えたくは……ない……! たとえ刹那でも……、あなたと、ちゃんと……『生きたい』!」
彼を叱咤するような美声は、魔性を帯びていた。彼女の言葉に抗うことを忘れ、彼は声を失う。
「培養液の中で漂いながら……、時々、肌が触れるだけ、は……違う……! こうして……あなたと、言葉を交わし……、意思を持って……抱きしめたかった……ずっと!」
苦しげでありながらも、懸命な声。知れず、彼の魂は震え、魅入られる。
「だから、今……この刹那! ……私は……『生きている』……!」
「……っ」
「やっと、言える……。やっと、伝えられる……。やっと、私の願い……叶う!」
土気色の彼女の唇が、艶やかに咲き誇った。大輪の花のように、この上もなく美しく。
「愛している……あなたを……!」
涙をたたえた彼女の瞳が、彼を捕らえた。
その瞬間、まるで見えない糸に導かれたかのように、彼は彼女に口づけた。
彼女と過ごした記憶はなくとも、彼もまた、ずっと彼女を愛していたのだと魂が識っていた。
体温を失いつつある、ふたつの冷たい唇が重なり、熱い吐息が生まれる。
『生きている』と、感じる。
創造主たる〈悪魔〉が遺した眠りの魔法は、本来なら解けないはずの呪術だった。
だから――。
この刹那は、奇跡。
「愛している」
彼は、彼女に囁く。
この『生』が良いものであったとは思わない。――自分にとっても、他者にとっても。
けれども……。
「ありがとう」
この『生』で出会った、すべての人々に感謝を――。
そして――。
「ミンウェイ……」
不意に、〈蝿〉が娘へと振り返った。
彼は、満ち足りたような、穏やかな顔をしていた。
真っ赤な目をしていたミンウェイは、うまく返事ができず、しゃくりあげる。
「幸せにおなり……」
〈蝿〉が微笑む。
その隣で、『彼女』も微笑む。
ふたりで――とても、幸せそうに。
「――、――っ!」
ミンウェイは奥歯を噛み締め、叫びだしそうになるのを必死にこらえた。
『はい』と答えるべきなのに、言葉が出なかった。代わりに、涙があふれてきた。
ふたりの姿に、両親の墓標が重なる。
仲睦まじく寄り添う、あの海を臨む丘の潮騒が聞こえる……。
『ミンウェイ、幸せにおなり……』
耳の中で反響する、〈蝿〉の優しい低音。
寄せて返す波のような。揺り籠のような……。
そして、ふたりは――。
すうっと潮が引いていくように、静かに息を引き取った。