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作者: 月ノ瀬 静流
残酷な描写あり
6.障壁に穿たれた穴-2
 出掛けると決まってから十数分後には、車で屋敷を発っていた。

 そこに至るまでの間、エルファンは、いち早く運転席で待機しながら、無表情に腕時計の針の動きを目で追っていた。

 寝起きだったルイフォンは今更のように顔を洗い、これから行く〈スコリピウス〉の研究所で必要になりそうな荷物をまとめた。その途中で、ミンウェイがいい匂いのする包みを持って現れた。料理長特製の朝食だという。

「話は、エルファン伯父様から聞いたわ」

 彼女もまた、一緒に行く気で満々らしい。小脇に医療用鞄を抱えている。まだ本調子でないルイフォンに、万一のことがあったらとの備えだろう。

「……」

 ミンウェイの出で立ちに、ルイフォンは言葉を詰まらせた。

 昨日行ったヘイシャオの研究室は、そこが昔、彼女の住んでいた家なのだから、案内として同行するのは当然といえた。しかし、今回は違う。

「私も行くわよ?」

「あ、ああ……」

 ルイフォンの表情に何かを察したのだろう。ミンウェイのほうから強気に言われてしまい、彼は歯切れ悪く相槌を打つ。

 ……目の前で、『秘密』が解き明かされるのは、ミンウェイにとって残酷なことではないのだろうか?

 そんなことを考えてしまう。

 勿論、彼女の立ち会いの有無に関わらず、事実は変わらない。

 けれど……。

「ほら、伯父様が待っているわよ」

 素っ気ない言葉の中に含まれた、迷いのない意志。

 彼女はルイフォンの頭をこつんと小突き、外に向かうべく身を翻した。緋色の衣服が光沢を放ち、波打つ黒髪から漂う優しい草の香りが彼を包む。

 背中を押してくれる力強い手を感じた。

 ミンウェイは微笑みながら、未来へと進んでいる……。

 ルイフォンは、ぐっと拳を握りしめた。

「行くぞ……!」

 彼は誰に言うともなく呟き、覇気に満ちた足取りで彼女のあとに続いた。





 車の後部座席で、ルイフォンは朝食として渡された料理長特製の小籠包ショウロンポウを口に入れた。猫舌の彼でも火傷しないよう程よく冷ました肉汁が口の中で広がり、全身にしみ渡る。一晩中、空調のよく効いた仕事部屋にいたためか、知らぬうちに体が冷え切っていたようだった。

「ミンウェイ」

 不意に、運転席のエルファンが声を上げた。

 ルイフォンの隣に座っていたミンウェイが、引き締まった表情で「はい」と応じる。どうやら重要な指示だと思ったらしい。

 たまたまバックミラーが目に入っていたルイフォンは、エルファンがほんの少し困惑に眉を寄せたのに気づいた。

「……そんなに、かしこまるな」

 氷のおもてを前に向けたまま、エルファンが低い声を落とす。どことなく危うげな、ためらうような響きだったが、ハンドルを握る手は安全運転を心がけているようで、その点だけは心配なさそうだった。

 ミンウェイは、きょとんと首をかしげた。ルイフォンもまた、不審げに目をすがめる。

「お前も知っての通り、二十数年前、私はキリファを迎えるために〈スコリピウス〉の研究所に赴いた」

 ほんの少し、エルファンが下を向く。バックミラーに写る角度がわずかにずれ、彼の顔はルイフォンからは死角になる。

「〈スコリピウス〉は、ヘイシャオと面識があったらしい。私を見て『〈ムスカ〉とそっくりだ』と言った」

 単調なようでいて、どこか深く沈んだエルファンの声。

 ミンウェイは、切れ長の目をぱちぱちと瞬かせた。エルファンの意図を読みかねてるらしい。それは、ルイフォンも同じだった。

 そんなふたりの様子は、後ろを振り向かなくとも、エルファンなら気配で察していただろう。けれど、彼はそのままの調子で続けた。

「もしも、あのとき、『ヘイシャオは、どうしているのか』と〈スコリピウス〉に問うていれば、ヘイシャオが道を誤り、お前に身代わりの人生を強いるよりも前に、私は『お前たち、ふたり』を鷹刀に連れてこられたのかもしれない。……すまなかった」

「伯父様……」

 ミンウェイの声が、かすれた。

 彼女の年齢から推測すると、エルファンが〈スコリピウス〉の研究所を訪れたのは、ヘイシャオが妻を亡くし、『娘』を育て始めてから少し経ったころになる。エルファンが悔やむのも無理はなかった。

「妹は病で死に、ヘイシャオはあとを追ったものと私は考えていた。だから、そんな話は聞きたくなかった。……臆病だったのだな」

「伯父様!? そんな、臆病だなんて……!」

 ミンウェイが慌てて否定を口走る。その声を掻き消すように、エルファンは言葉をかぶせた。

「いや。私はどうしようもなく、愚かな人間だよ」

 静かな低音が、吐き出されるように漏れてくる。

「あいつとはたもとを分かったのだ。別の道を選んだあいつの意志を尊重してやろう。――そんな考えは、おごった思い違いだった。……そうだろう? ルイフォン」

「!?」

 唐突に名を呼ばれ、それまで、ふたりの会話――主にエルファンの謝罪の邪魔をしてはならぬと聞き流しつつ、食事に専念していたルイフォンは、思わず小籠包ショウロンポウを喉に詰まらせそうになった。

 気づけば、エルファンの氷の瞳が、バックミラー越しにルイフォンの猫の目を捕らえている。

「エルファン……?」

 口の中のものをなんとか飲み込み、ルイフォンは呟く。

「ルイフォン。私は、お前に余計なことを言った。すまない」

「『余計なこと』って、なんだよ?」

 ルイフォンは、探るように尋ねる。

「メイシアをさらっていったリュイセンに対して、私は『あいつは『裏切った』のではない。『たもとを分かった』のだ』と言った」

「え……? それが何か……?」

 その言葉によって、ルイフォンは、リュイセンがミンウェイのために凶行に及んだのだと気づかされた。大事なひとことだったように思う。

「どんなに言い方を飾ろうと、私の言葉は『リュイセンを見捨てろ』という意味にしかならんだろう? ――私が、ヘイシャオを見捨てたのと同じように」

 ミラーに映るエルファンの顔は、彼らしくあるのなら、相変わらずの無表情であるべきだった。しかし、斜め上からの角度のせいか、ルイフォンには切なげに自嘲しているように見えた。

 ルイフォンが戸惑いに声を失っている間にも、抑揚に欠けた声が重ねられる。

「お前は今、リュイセンに手を差し伸べようとしている。私にはできなかったことをそうとしている。……だから、私の言葉は余計だった」

「エルファン、それは違う!」

 ルイフォンは、ぐっと身を乗り出した。その勢いに、彼の背中で金の鈴が跳ねる。

「俺は、エルファンにああ言われたから、リュイセンにはリュイセンの想いがあると納得できた。あのときの俺は、メイシアを奪われた怒りで頭がいっぱいで、だから、エルファンと話すことで冷静になれた。あのひとことは必要だった」

 彼は一気に言い抜け、そして、ひと呼吸だけ置いて……吐き出す。

「――それに、俺だって、一度はリュイセンを切り捨てた……!」

 ルイフォンは、そんなに褒められた人間ではない。

 ここまで、ひとりで来たわけではないのだ。

「リュイセンを救いたいと言い出したのは、ミンウェイだ。それから、メイシアやハオリュウ、ファンルゥも……」

 皆がリュイセンを求めた。

 リュイセンと共にりたいと願った。

 声を震わせるルイフォンに、ミンウェイも口を挟む。

「最初に働きかけてくれたのは、緋扇さんです」

「――緋扇シュアンも、なのか……」

 仲が悪いはずの相手の名前まで出てきて、さすがのエルファンも驚きを隠せなかったようだ。

 シュアンが動いたのには、多分にミンウェイの存在が大きいと思われるが、それでも心底、嫌っていたのなら放っておいただろう。エルファンは言葉の途中で絶句し……やがて、普段の彼からは信じられないような柔和な笑みをふわりと浮かべた。

「リュイセンは『人』に恵まれたな。……いや、あいつが『人』にあついからか」

 誰に語るわけでもなく、エルファンは独りちる。

「エルファン?」

 ひとりで納得したようなエルファンに、ルイフォンは遠慮がちに説明を促す。

「いや、なんでもない。ただ……」

「ただ?」

「リュイセンは案外、いい総帥になるかもしれんと思っただけだ」

 そう言うと、エルファンは話を打ち切った。あとは黙々と、正確無比に運転を続ける。

 だから、彼の心の内の呟きにルイフォンが気づくことはなかった。

 それは、決して届かない懺悔であり、睦言であり――。

『私が、もう少しだけ他人ひとに優しくできたなら……。…………なぁ、キリファ?』





「この近くだ」

 エルファンがそう言ってから、数分後のことだった。

 それまで安全運転だった彼が、突然、急ブレーキを掛けた。

「なっ!?」

 道路との摩擦にタイヤがきしみ、甲高い悲鳴を上げた。

 強烈な負の加速度が押し寄せ、慣性に乗っていたルイフォンの体が浮き立つ。

「お、おい! エルファン!?」

 車の停止と同時にルイフォンは叫んだが、エルファンは何も言わずにシートベルトを外し、神速の勢いで車外へと飛び出した。

 ただならぬ様子に、ルイフォンも慌てて、あとを追う。

 荷物の中の機械類の破損が気になるが、確認している場合ではないだろう。小籠包ショウロンポウを食べ終えていたことは幸いだった。

 エルファンは、来た道を一心不乱に戻っていた。腰にいた双刀は、それなりの重量があるだろうに、まったく重さを感じさせない走りである。

 このあたりは貴族シャトーアの別荘地になっているらしく、家はまばらで、人の気配もなかった。そんな閑静な地の真ん中に、ぽつんと取り残されたような一軒の家の前で彼は立ち止まった。そして、生け垣の外から庭を覗く。

 その瞬間、エルファンは呆けたように口を開き、氷の瞳もまた見開いた。

 いつもは無表情な美貌を驚愕で染め上げ、その家を見つめたまま、彼は彫像のように微動だにしない。南風に舞い上げられた髪だけが自由気ままで、漆黒の中に紛れた白いものが陽光を浴びてきらりと光った。

「キリファ……?」

 唇の動きが、その名をかたどる。

 音未満のそれは、誰の耳にも届かず、だから、やっとのことでエルファンに追いついたルイフォンは、ただ家を指して「ここなのか?」と尋ねた。

「ああ……」

 肯定の返事に、ルイフォンも並んで、その場所を見る。

 廃墟となった研究所跡のはずだった。熱波で崩れ落ちたとの話なので、瓦礫の中から地下への階段を探すことになると思っていた。

 しかし、目の前にあるのは、広い庭を持つ、こぢんまりとした屋敷。長いこと手入れをされていないようで、荒れ放題ではあるのだが、それでも二十年以上、放置されたものとは思えない。せいぜい数年といったところである。

「建て替えたのか……。……知らなかった。だから、通り過ぎてしまった」

 エルファンが呟く。そして彼は、迷うことなく門扉があるであろう表側に回ろうとした。

「待てよ、エルファン! 建て替えられているのなら、〈スコリピウス〉が死んだあと、〈七つの大罪〉の関係者がここを管理――監視している可能性がある。迂闊な行動は危険だ」

 道をふさぐように、ルイフォンは立ちふさがる。

 だが、エルファンが足を止めたのは、ルイフォンに行く手を阻まれたからではなく、彼の発言を論破するためだった。

「この家はキリファが建てたものだ」

 そんなことも分からないのかと、氷の微笑が冷酷に見下す。しかし、わずかに緩んだ頬が、どこか得意げでもあった。

「俺も、その可能性は高いと考えている。だが、確証がないうちは……」

「庭の桜。――彼女が好きだった花だ。そして、その根本にあるベンチに杖を立て掛ける用のフックが付いている。義足と杖と、彼女は両方、使っていたからな」

「……あ」

 言われて見てみれば、エルファンの言う通りだった。

「そもそも、この家は〈ケル〉のある家に酷似している。お前が生まれ育った、あの家だ」

「!」

 ベンチもフックも、あの家にあるものとそっくりだった。荒れていたために、すぐには気づかなかった。――なんとも情けない。

「〈ケル〉の家は、私がキリファの好みに合わせて設計した家だ。私が間違えるはずないだろう?」

 エルファンがそう言い残して門に向かおうとしたとき、背後から車のクラクションが響いた。振り返ると運転席の窓がすっと開き、中からミンウェイが声を張り上げる。

「ちょっと、ふたりとも! そのまま行くなら、行くと言ってよ! 私はひとりで待ちぼうけだったのよ!」





 そして、改めて三人で門へと向かう。

 門扉には、ルイフォンにとってお馴染みの認証システムが仕掛けられていたが、難なく通り抜けることができた。

 それは当然のことといえた。

 何故なら、〈ケル〉と〈ベロ〉が、〈スコリピウス〉の研究所跡に行くようにと勧めていたのだから――。

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