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作者: 月ノ瀬 静流
残酷な描写あり
3.硝子の華の希求
 屋敷の温室にて、ミンウェイはひとり、ガーデンチェアーに腰掛けていた。

 硝子張りの空間は、初夏の陽射しを集めて離さず、決して快適とはいえない密室だった。波打つ長い黒髪をひとつにまとめ、首筋を外気に晒していても、額にはうっすらと汗が浮かんでくる。

 風が、そよとも吹かぬのだから当然だろう。外界の音はここには届かず、緑が放つ、かすかな息吹だけが聞こえている。

「……」

 彼女はテーブルに頬杖を付いた。鋳物の天板に広がる蔦の装飾模様を眺めながら、大きな溜め息を吐く。切れ長の目には深いくまができており、絶世の美貌には濃い影が落ちていた。

 ――昨晩は大変だった。

 リュイセンがメイシアを襲い、〈ムスカ〉のもとへ連れ去るという、まさかの裏切り。その際に、弟分であるルイフォンを斬りつけるという凶行にまで及んだ。そしてルイフォンは、何針も縫う大怪我を負った。

 それだけでも大事件なのに、安静を言い渡しておいたルイフォンが、夜中に動き回ったのだ。しかも、その片棒を担いだのが、常に冷静なはずの次期総帥エルファン。ふたりで、地下にある『真の〈ベロ〉』に会いにいったという。

 にわかには信じられなかったが、ルイフォンの容態の悪化は現実のもので、彼女は寝ていたところを叩き起こされた。

『忘れないうちに、親父に報告書を書いておきたい』などと、ふざけたことを言うルイフォンを叱り飛ばし、彼女は処置にあたった。報告書はエルファンが引き受けることで落ち着かせたが、あれから半日ほど経った今も、ルイフォンは熱を出して寝込んでいる。

 無茶をしたのだから、自業自得だ。

 けれど――。

 ルイフォンは、メイシアのために必死だったのだ。

 そして、彼に無茶をさせたエルファンもまた、メイシアが手遅れに――〈影〉にされてしまうことを恐れ、焦っていたのだと報告書から知った。

「……っ」

 ミンウェイは唇を噛んだ。申し訳程度に塗ったべにが、ぐにゃりと歪む。

 リュイセンは何故、一族を、ルイフォンとメイシアを裏切ったのだろう?

 失敗してしまった〈ムスカ〉捕獲作戦の報告の中に『斑目タオロンの娘のファンルゥは、ルイフォンやリュイセンにとっても人質として有効だと、〈ムスカ〉に看破されてしまった』とあった。しかし、ファンルゥの命をちらつかされて脅されたなら、リュイセンは皆に相談したはずだ。黙ってメイシアを差し出すなんてあり得ない。

 それに、もと一族である父の記憶を受け継いだ〈ムスカ〉なら、鷹刀の人間が、顔見知り程度の縁故のために一族を裏切るとは考えないだろう。

 囚われてしまったリュイセンは、てっきり人質として使われるものと考えられていた。けれど〈ムスカ〉は、リュイセンを手駒にして、『一度、解放した』。『リュイセンは、絶対にメイシアを連れて戻ってくる』という自信がなければできないことだ。

 ――〈ムスカ〉に囚われていた間に、リュイセンに何があったのだろう……?

 ミンウェイは、頭を抱えるようにして目を伏せる。

 リュイセンが戻ってきてすぐの、昨日の午前中、彼とふたりきりになったときがあった。

 言葉は、ほとんど交わさなかった。『健康状態を確認する』という名目で部屋を訪れたのがよくなかったのかもしれない。

 はらりと落とされた上着と、むき出しの上半身に声を出せなくなった。

 死線をさまよったのが、はっきりと分かる傷痕と、それを診たのが父だと分かる丁寧な縫合――。

 心が痛くて、自分がどんな診察をしたのかさえ、よく覚えていない。リュイセンもまた無口で、そして、切なげにこちらを見つめていたのは……知っている。

 あのとき既に、リュイセンは裏切りを決意していたのだ。だから言葉少なだったのだろう。

 けれど、彼女が部屋を去るときだけは、優しい低音を鮮やかに響かせた。

『ミンウェイ、ありがとう』

 力強い腕が彼女を包み、一瞬だけ唇が触れた。

 何が起きたのか。彼女が理解するよりも先に、軽く肩を押された。彼女の体が廊下へと、よろめいた。その隙に素早く扉が閉められ、鍵の掛かる音が聞こえた。

「……リュイセン」

 あれは、どういう意味だったのだろう。

 彼女の思考はそこで止まっている。

 分からない。……たぶん、考えたくない。

 自分だけが取り残されているのを感じる。周りにいる誰もが、どんどんと前に進む。けれども、彼女は動けない。動きたくない。

 置き去りのミンウェイは、こうしてひとり、無音の世界に留まっている……。





 どのくらいの時が過ぎたのだろうか。

 ほぼ真上にあった太陽が、斜めに角度を変えてきた。

 不意に、背後で緑の揺れる気配がした。この空間にはないはずの風がそよぎ、ミンウェイは振り返る。

「……緋扇さん!?」

 そこに、警察隊の緋扇シュアンの姿があった。

 いつ櫛を入れたのか分からないような、ぼさぼさ頭に、特徴的な三白眼。そして、血色の悪い凶相。ただし、顔色の悪さに限っては、今日はお互い様だろう。

 彼は、左右から張り出した枝を邪魔そうに掻き分けながら、こちらにやってきた。

「やっぱり、あんたはここだったな」

 溜め息と共に呟き、シュアンは当然のように向かいのガーデンチェアーに腰を下ろす。

 どうして彼がここに? と、疑問が浮かんだが、すぐに思い出した。メイシアの異母弟ハオリュウの代理として、今回の件の詳細を聞きに来る約束をしていた。その帰りなのだろう。

 前にも、シュアンは屋敷への用事のついでに、温室に立ち寄ったことがある。だから、この場所を知っている。けれど同時に、ミンウェイがひとりになりたくて、ここにいることもまた彼なら分かるはずだ。

 勝手に入り込んでくるのは無神経だ。彼女の気持ちなど、お構いなし。図々しくて、ふてぶてしい。

 それが、シュアンだ。

 ……彼の、無愛想な優しさだ。

 けれど、今は、本気で放っておいてほしい。

 ミンウェイは顔には出さず、内心で眉を寄せる。

 ……自分は、どうにも彼に余計なことを漏らしてしまうきらいがある。

 前にこの温室で話したときには、かつて自殺しようとしたことを告白してしまったし、別のときには、リュイセンに『死んだ父を男として愛していた』などと言われたことを伝えてしまった。

 どちらも、言う必要のない話だった。むしろ、言うべきではなかった。

 なのに、ぽろりとこぼしてしまうのは、彼が以前、『負い目に思うことは何もない』と言ってくれたからだろう。

 だから、つい気を許してしまう。口を滑らせてしまう。そうすれば、少しだけ楽になれるから……。

 ――でも今は、本当に、誰にも会いたくない。何も話したくないのだ。

 なんとかして、追い返したい。

 ミンウェイは当たり障りのない言葉を探し求めるが、それを待ってくれるようなシュアンではなかった。

「あんた、また引き籠もっているんだな」

 開口一番、容赦ないひとことだった。できるだけ穏便に、と思っていたミンウェイも、さすがに声を荒らげる。

「そんな、私は……!」

「ほう? 違うのか? リュイセンの裏切りは自分のせいだと、うじうじ悩んでいたんじゃねぇのか?」

「えっ!?」

 シュアンの口調は軽かった。決して責めるような様子はなく、むしろ、からかうような、笑い飛ばすような、そんな声色だった。

 しかし、彼の言葉は、まるで斬りつけるかのようにミンウェイの耳朶を打った。痛みを感じる。耳にも、心にも。それなのに、まったく意味を理解できなかった。

「どうして、リュイセンの裏切りが……私のせいになるんですか……?」

 ミンウェイは、シュアンの顔を穴があくほど凝視する。

「は?」

 シュアンの目が点になった。彼の代名詞ともいえる三白眼を放棄して、ミンウェイを見つめ返す。

「おい、嘘だろ!? あんた、まさか気づいていなかったのか!?」

 愕然とした顔で、素っ頓狂な声を上げた。

 やがて彼は、がくりと肩を落とし、テーブルに肘を付いた。ぼさぼさ頭をがりがりと掻きむしる。私服のため、制帽のない頭は乱れ放題だ。

「鷹刀の連中も、あんたに何も言わなかったのかよ。過保護にも程があるだろ……」

「緋扇さん? いったい、なんですか?」

 言っていることが分からない。だが、失礼な態度であることは明白だ。ミンウェイは切れ長の目に険を載せ、テーブルに突っ伏したシュアンを睨む。

 殺気にも近い気配に、シュアンは顔を上げた。そして、ふっと口元を緩める。

「……怒った顔も美人だな」

「緋扇さん!」

 ミンウェイは柳眉を逆立てた。シュアンの掴みどころのなさは、いつものことだが、今日はまた格別だ。

「悪い。あまりの事態に、つい現実逃避しかけた」

 シュアンは大きく息を吐く。それから、すっと目を細めると、普段通りの三白眼に戻った。

「ミンウェイ」

 彼女の名を呼び、真剣に考えるような素振りをした。彼にしては珍しい。状況の不可解さと併せ、彼女の心に不安がよぎる。

「……なんでしょうか」

「いいか? リュイセンのしたことは、ルイフォンの逆鱗に触れるものだ。あのふたりの仲が元通りになることは、二度とないだろう」

「……っ!」

 背筋が、ぞくりとした。

 シュアンの言う通りだ。

「どうして、リュイセンは……」

 子供が駄々をこねるように身をよじると、ひとつにまとめた髪が揺れ、草の香が漂う。

『どうして』は、昨晩から何度も、心の中で繰り返してきた問いだった。しかし、投げかけても投げかけても、自分の中からは何も返ってこなかった。

 そんな疑問をシュアンはこともなげに受け止め、明確な答えを彼女に示す。

「決まっている。『弟分のルイフォンよりも、大切な人間のため』だ」

「え……?」

「それ以外の理由で、あの堅物がルイフォンを裏切るわけがないだろう? ――つまり、ミンウェイ。『あんたのため』だ」

 凶相から紡がれた響きは、あくまでも柔らかかった。けれど、突きつけられた言葉がミンウェイの心を鋭くえぐる。

「あいつが、あんたに惚れているのは、さすがに分かっているんだろう?」

 ミンウェイは……小さく頷いた。

 分かっている。

 結局、撤回されたが、リュイセンにはプロポーズまでされたのだから。

「……でも、緋扇さん。裏切りが、どうして私のためになるんですか? 私は、こんな事態なんか望んでいません! なんで、なんで、こんな……っ!」

 喉が詰まった。嗚咽のような声が漏れ、ミンウェイは慌てて口元を押さえる。しかし、先を読んでいたのか、シュアンは表情を変えることもなく、諭すように答えた。

「別に、裏切ることが直接、あんたのためになるわけじゃないさ。それどころか、あんたを深く傷つけることくらい、リュイセンには分かりきっていたはずだ。それでも、あいつは裏切らざるを得なかったんだろう」

「どういう……ことですか?」

 ミンウェイは、ごくりと唾を呑んだ。身を乗り出してきた彼女に、シュアンは「状況を整理するぞ」と静かに告げる。

「〈ムスカ〉は、メイシア嬢の身柄を欲しがっていた。だが、鷹刀のガードが固く、手を出せないでいた。そんなとき、リュイセンを囚えた。彼なら、誰にも疑われることなくメイシア嬢に近づき、さらうことができる。――〈ムスカ〉はそう考え、リュイセンを手駒にしたんだ」

 淡々とした説明に、ミンウェイは、ひとつひとつ頷いていく。

「〈ムスカ〉は、斑目タオロンに対しては、娘を人質に取った。それと同じことで、リュイセンに対しては、あんたを使ったのさ。おそらく、あんたをネタに脅したんだろう」

「私をネタに脅す……?」

 ミンウェイは首をかしげ、問い返す。

「ああ。例えば、そうだな。『〈ムスカ〉が持っている薬を投与しなければ、ミンウェイは母親と同じ病で死ぬ』と脅されたら、リュイセンは薬を手に入れるためになんでもするだろう」

「え? 私は、お母様とは違って健康体だと、お父様は……」

「だから、『例えば』と言っただろう? ネタはなんだっていい、嘘でもいいのさ。リュイセンの馬鹿が信じさえすればな」

「そんな……!」

「『〈ムスカ〉に従わなければ、あんたに良くないことが起きる』――そう臭わせるだけで、リュイセンには充分なのさ。あいつなら、簡単に〈ムスカ〉の手に堕ちるだろう」

 息を呑んだミンウェイに、シュアンは畳み掛ける。

「〈ムスカ〉は、あんたの父親の記憶を持っている。それをちらつかせ、『自分だけが知っている、重大な事実だ』とでも言われれば、あの単細胞には逆らうことはできないさ」

「――!」

 シュアンの言っていることは、あくまでも彼の推測だ。けれど、もし真実なら、リュイセンの言動に説明がつく……。

 ミンウェイの目線が力なく落ちていった。長い睫毛まつげが綺麗に下を向き、テーブルの装飾模様をなぞっているかのように揺れ動く。

「ミンウェイ。――リュイセンの裏切りには、必ず納得できる理由がある」

 シュアンの声が、そっと肩を抱くように優しく彼女を包んだ。けれど、その声色はそこまでだった。

「まぁ、俺は奴には毛嫌いされていたから、いなくなって清々せいせいしているけどな」

 不意に、がらりと、シュアンの雰囲気が変わった。

 ミンウェイが驚いて顔を上げれば、にやりと口角を上げた凶相が、立派な悪人面を作っていた。

「――けど、あんたはそうじゃねぇな?」

 三白眼が意味ありげに歪み、彼女に問いかける。

 シュアンは、ふんぞり返るように足を組んだ。ガーデンチェアーの背にのけぞれば、ミンウェイとの距離が少し離れる。

『俺は、あんたとは違って、リュイセンなんてどうでもいいのさ』――そう主張するかのような距離感。そして彼は、世間話のような口調で言う。

「イーレオさんは、リュイセンを追放処分にしたそうだな。奴がしたことを考えれば、抹殺命令が出されてもおかしくなさそうなのにさ。思わず、理由を訊いちまったよ」

 何が可笑おかしいのか、シュアンは低く喉を鳴らした。

「『もし、リュイセンが一族の者を傷つけたなら、問答無用で抹殺命令を出した』だそうだ。けど、ルイフォンとメイシア嬢は『対等な協力者』であって、『一族』ではないから、追放処分にとどめたんだとよ。――あんた、この屁理屈を信じるか?」

 おどけたように肩をすくめ、軽薄な口調で彼女に尋ねる。

「え……? 屁理屈……なんですか?」

「屁理屈さ。イーレオさんの甘さが透けて見える。この様子なら、メイシア嬢を無事に取り戻した上で、リュイセンに納得のいく説明をさせる。そんでもって、あんたやルイフォンとメイシアが口添えをすれば、リュイセンの追放処分の取り消しも可能じゃねぇか?」

「でも、ルイフォンは……!」

 ルイフォンは、メイシアに危害を加えたリュイセンを決して許すことはないだろう。それは先ほど、シュアンも口にしていたはずだ。

 悲壮な顔をするミンウェイに、シュアンが告げる。

「あんた、さっき言ったよな。『こんな事態なんか望んでいない』って。それは、誰もが同じはずだ。――ルイフォンだって、イーレオさんだってな」

「……」

「望んでいない事態なら、変えればいい。――ルイフォンはメイシア嬢のために、早速、無茶な行動を起こして寝込んでいるんだろう? 今回は、エルファンさんまで一枚、噛んだんだってな?」

 テーブルの向こうのシュアンは、面白そうに三白眼を細め、癖のある笑みを作った。腕まで組んで、対岸を楽しげに眺めるかのような態度だ。

 けれど、突き放したようでありながら、そっとミンウェイの背中を押している。



『それで? あんたは?』

『いつまで引き籠もっているつもりだ?』



 無言の声が聞こえる。

 刹那、ミンウェイは立ち上がった。

 彼女の背で、波打つ黒髪が宙を舞う。

 無風の温室に、草の香りの風が広がっていく。

「……ぁ」

 いきなり席を立ったりして、どうするというのだろう。シュアンも変に思ったに違いない。

 羞恥と狼狽で彼を見やれば、ぼさぼさ頭がゆっくりと動き出した。

「さて、俺はこれから、ハオリュウのところに状況説明に行かなきゃな」

 がたがたと、ガーデンチェアーの脚を地面にこすらせながら、シュアンが腰を上げる。

「ミンウェイ。ハオリュウが、ルイフォンの怪我をだいぶ心配していた。まずは、あいつを頼む。メイシア嬢を取り戻すのも、あいつが中心になるだろうからな」

 できるところから進めていけ。

 シュアンが、そう道を示す。

「はい!」

 ミンウェイは、あでやかに微笑んだ。顔色の悪さが即時に払拭されることはないが、彼女の象徴ともいえる緋色の衣服が華やぎを添える。

「緋扇さん、門までお送りします」

「ほお。美女に別れを惜しまれるとは、光栄なことで」

 シュアンの眉がわざとらしく驚きを表し、三白眼が嬉しげに細まる。

「いえ。私はこれからルイフォンのところに行くので、そのついでです」

「……相変わらず、あんたはつれないねぇ」

 予想通りの台詞で苦笑するシュアンに、ミンウェイはくすりと笑みをこぼした。

「緋扇さんは、また来てくださるのでしょう? だったら、別れなど惜しくありません」

「!?」

 思わぬ反撃に面食らったのか、シュアンが声を詰まらせた。それから、これは一本とられたと破顔する。

「……ああ、そうだな。当分の間、慌ただしくなるからな」

 ふたりは肩を並べ、緑の中を抜けていく……。

 温室の出口の手前で、ミンウェイはシュアンに向き合った。扉の隙間から漏れてくる風が、彼女の髪をなびかせ、彼のぼさぼさ頭を揺らしていく。

「緋扇さん。ありがとうございました」

 晴れやかな声に、シュアンは口元をほころばせ、彼女に応える。

「はて? なんのことやら」





 そして、ミンウェイはシュアンと共に温室を出た。

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